吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波新書、1992年)を読んだ。
この本も、寺崎英成記『昭和天皇の独白録』(文春文庫、1995年、下の写真)の成立の経緯や内容を検討した本であり、アジア太平洋戦争史を専門とする著者による『独白録』の厳密で批判的な読み方が示されている。
これに比べると、前に読んだ保阪正康『昭和天皇(上・下)』(朝日新聞出版)の『独白録』の読み方はいかにもワキが甘いと感じる。『独白録』が昭和天皇の戦犯指名回避のための弁明書として作成された経緯を軽視して、対米戦争開戦の際の天皇の言動に対する評価が昭和天皇に好意的すぎると思われるのである(上177、192頁など)。
あるいは、戦時の天皇は作戦行動に口出しして具体的に作戦を変えさせたりしたという学説に対して、典拠を示すことなく否定しているのだが(上216~7頁)、この点も、具体的な事件をあげながら、天皇が政策に関する自己の意見をかなり明確に表明して影響を与えたとする吉田の指摘のほうが説得的だった(134頁など)。
全体を通して、保阪は、戦前の天皇は「立憲君主」という立場を保持したため軍部の行動に反対できなかったという『独白録』の弁明をそのまま肯定する立場で書かれているが(上214頁ほか多数)、この点についても、明治憲法下の昭和天皇は「立憲君主」とは言えないとする吉田のほうが説得的である。
「天皇は立憲君主であるがゆえに、内閣や陸海軍が一致して決定した事項に対しては、たとえ異論があったとしても従うことを原則としていた」という論理は、天皇の戦争責任を否定する際の中核的論理であった(52頁)。『独白録』で天皇は、「閣議決定に対し、意見は云うが、ベトー(拒否権)は云わぬことにした」と述べているが、吉田は、戦時中の昭和天皇の「立憲君主」とは言えない言動をいくつも指摘する。
例えば吉田は、張作霖爆殺事件に際して、天皇が田中義一首相を厳しく叱責し、これがために田中内閣は総辞職に追い込まれたという事例をあげている(132~3頁)。
また、阿部信行内閣発足に際して、天皇は、「陸軍大臣には梅津(美治郎)または畑(俊六)を据えることを(阿部に)命じた」と『独白録』の中で自ら述べているが(146~7頁)、これなども「立憲君主」的とは言えないだろう。
明治憲法下の大臣は議会の信任にもとづくものではなく、次期首相の選定も公式には枢密院、衆議院、貴族院議長の意見を徴して行われたが、現実には、天皇の意見を参考に重臣らが決定していた(59、142~3頁)。
統帥事項(統帥権)に関しては、陸、海軍各大臣に「輔弼」の権限はなく、部下である幕僚長の補佐によって天皇が決定していたのであり、そのような天皇は「立憲君主」ではなく、「大元帥」、絶対君主であった(143~4頁)。
さらには、「御下問」や「内奏」によって自分の意見を政策決定に反映させることも可能であり、実際にそのような例があったことが『木戸幸一日記』にも書かれている(134頁)という。
天皇が立憲君主とは言えなかったことは、近衛文麿が自殺前に遺した「近衛手記」の指摘するところでもある。
手記の中で、近衛は、明治憲法は天皇親政であって、君主(天皇)の地位は英国憲法とは異なるものであった、聖断があれば対中国戦争の不拡大も可能であった、政府、統帥権の両方を抑えることができるのは「陛下ただ御一人」であった、「平時」においては(立憲君主的でもよいが)国家生死にかかわる場面ではそうではないと書き残している(58~62頁)。
ぼくには吉田の論述や近衛の手記のほうが大いに腑に落ちる発言である。ただし、吉田は、近衛にも対米英戦争回避の可能性はあったとする(64頁)。
天皇は立憲君主にすぎなかったという原則に基づく天皇の戦争責任回避論の隘路は、対米開戦は天皇の責任ではなく、ポツダム宣言は天皇の「聖断」によるという矛盾を説明できない点にあった。しかし、諸々の政治的判断によってマッカーサーは、天皇は輔弼者の進言に機械的に応じるだけの存在であったと本国に打電し、天皇の戦犯指名は回避された(81頁)。
このように、天皇の戦争責任が完全に免責され、天皇が自己の責任についてまったく言及しなかったことは、木戸が憂慮したように、国民の間に「何か割り切れぬ空気を残す」ことになった(237頁)。
以下はエピソード的に。
1 『独白録』の筆記者である寺崎英成は、たんなる親米派の外交官ではなく、戦時中は近衛首相直属の駐米諜報員であり、玄洋社の影響を受けた国粋主義者でもあった(103頁~)。
2 『独白録』からは、昭和天皇が周囲の人物に対する好悪の感情が激しかったことが読み取れる。もっとも嫌ったのは、天皇の戦争責任を示唆して退位を提案した近衛文麿だが、松岡洋右、宇垣一成、平沼騏一郎、広田弘毅、高松宮(彼も退位を示唆していた)らも天皇に嫌われた。
逆に東條英機に好意的だったことが(16~7、139頁)、すべての責任を陸軍なかんずく東條に負わせることによって天皇の免責を図ろうとした木戸や『独白録』作成グループを困惑させた(111~2頁)。
3 天皇は北朝の末裔として「血統」では正統性を主張できないため、三種の神器の継承による自らの「皇統」の正統性を重視していた。そのため、三種の神器が納められている伊勢神宮、熱田神宮を上陸した米軍に占領され三種の神器が奪われることを恐れてポツダム宣言の受諾を急いだことが『独白録』に述べられている(222頁)。また「皇祖皇宗」に対して強い「責任」を感じていたという(223頁)。
吉田は、これらから、天皇の国体至上主義、神権主義的傾向を読み取っている(219頁~)。
4 天皇の対米開戦の責任を回避することだけが『独白録』作成の目的だったため、対中国ひいてはアジアに対する責任の欠如が顕著である。昭和天皇自身が「満州は田舎であるから、事件が起こっても大した事はないが・・・」などと発言しているという(153頁)。
いずれにしろ、『独白録』の作成その他の日本側のGHQ工作と、日本および天皇制を反共の防壁にしようとするアメリカ側の意向が合致したことによって、天皇は東京裁判の戦犯に指名されることはなく、戦後の日本には、吉田茂に代表される対米協調派(穏健派)の政権が成立することになった。「象徴」になったはずの昭和天皇までもが米軍の沖縄駐留を支持するメッセージを発するなど、この流れに積極的にかかわるのであった(166~7頁)。
しかし、著者は、粗野な軍人の横暴を憂慮する良心的でリベラルで合理的なシビリアンといった「穏健派史観」に寄りかかって自己の戦争責任や加害責任を覆い隠す態度も批判する(240頁)。
ぼくが最初に読んだ太平洋戦争に関する本は高木惣吉の岩波新書だったと思うが(書名は忘れてしまった)、あれも「穏健派史観」だったのだろうか。ぼくは、まさに、阿川弘之『山本五十六』『米内光政』あたりから始まって、城山三郎『落日燃ゆ』や柳田邦男『マリコ』などの「穏健派史観」に毒されてきた一人である。保阪『昭和天皇』も、これらと同列の「昭和天皇物語」として読んだ方がよいのだろう。
昭和天皇論は本書で打ち止めにするが、東京裁判が気になってきたので、こんどは、東京裁判研究の第一人者である粟屋健太郎の『東京裁判への道』(講談社学術文庫)を読んでみることにした。
いよいよぼくの「昭和のラビリンス」は “病膏肓に入る” 状態に陥った。
2022年7月26日 記