豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

吉田裕『昭和天皇の終戦史』

2022年07月26日 | 本と雑誌
 
 吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波新書、1992年)を読んだ。

 この本も、寺崎英成記『昭和天皇の独白録』(文春文庫、1995年、下の写真)の成立の経緯や内容を検討した本であり、アジア太平洋戦争史を専門とする著者による『独白録』の厳密で批判的な読み方が示されている。 

 これに比べると、前に読んだ保阪正康『昭和天皇(上・下)』(朝日新聞出版)の『独白録』の読み方はいかにもワキが甘いと感じる。『独白録』が昭和天皇の戦犯指名回避のための弁明書として作成された経緯を軽視して、対米戦争開戦の際の天皇の言動に対する評価が昭和天皇に好意的すぎると思われるのである(上177、192頁など)。
 あるいは、戦時の天皇は作戦行動に口出しして具体的に作戦を変えさせたりしたという学説に対して、典拠を示すことなく否定しているのだが(上216~7頁)、この点も、具体的な事件をあげながら、天皇が政策に関する自己の意見をかなり明確に表明して影響を与えたとする吉田の指摘のほうが説得的だった(134頁など)。

     

 全体を通して、保阪は、戦前の天皇は「立憲君主」という立場を保持したため軍部の行動に反対できなかったという『独白録』の弁明をそのまま肯定する立場で書かれているが(上214頁ほか多数)、この点についても、明治憲法下の昭和天皇は「立憲君主」とは言えないとする吉田のほうが説得的である。
 「天皇は立憲君主であるがゆえに、内閣や陸海軍が一致して決定した事項に対しては、たとえ異論があったとしても従うことを原則としていた」という論理は、天皇の戦争責任を否定する際の中核的論理であった(52頁)。『独白録』で天皇は、「閣議決定に対し、意見は云うが、ベトー(拒否権)は云わぬことにした」と述べているが、吉田は、戦時中の昭和天皇の「立憲君主」とは言えない言動をいくつも指摘する。
 例えば吉田は、張作霖爆殺事件に際して、天皇が田中義一首相を厳しく叱責し、これがために田中内閣は総辞職に追い込まれたという事例をあげている(132~3頁)。
 また、阿部信行内閣発足に際して、天皇は、「陸軍大臣には梅津(美治郎)または畑(俊六)を据えることを(阿部に)命じた」と『独白録』の中で自ら述べているが(146~7頁)、これなども「立憲君主」的とは言えないだろう。
 明治憲法下の大臣は議会の信任にもとづくものではなく、次期首相の選定も公式には枢密院、衆議院、貴族院議長の意見を徴して行われたが、現実には、天皇の意見を参考に重臣らが決定していた(59、142~3頁)。 
 統帥事項(統帥権)に関しては、陸、海軍各大臣に「輔弼」の権限はなく、部下である幕僚長の補佐によって天皇が決定していたのであり、そのような天皇は「立憲君主」ではなく、「大元帥」、絶対君主であった(143~4頁)。
 さらには、「御下問」や「内奏」によって自分の意見を政策決定に反映させることも可能であり、実際にそのような例があったことが『木戸幸一日記』にも書かれている(134頁)という。 

 天皇が立憲君主とは言えなかったことは、近衛文麿が自殺前に遺した「近衛手記」の指摘するところでもある。
 手記の中で、近衛は、明治憲法は天皇親政であって、君主(天皇)の地位は英国憲法とは異なるものであった、聖断があれば対中国戦争の不拡大も可能であった、政府、統帥権の両方を抑えることができるのは「陛下ただ御一人」であった、「平時」においては(立憲君主的でもよいが)国家生死にかかわる場面ではそうではないと書き残している(58~62頁)。
 ぼくには吉田の論述や近衛の手記のほうが大いに腑に落ちる発言である。ただし、吉田は、近衛にも対米英戦争回避の可能性はあったとする(64頁)。

 天皇は立憲君主にすぎなかったという原則に基づく天皇の戦争責任回避論の隘路は、対米開戦は天皇の責任ではなく、ポツダム宣言は天皇の「聖断」によるという矛盾を説明できない点にあった。しかし、諸々の政治的判断によってマッカーサーは、天皇は輔弼者の進言に機械的に応じるだけの存在であったと本国に打電し、天皇の戦犯指名は回避された(81頁)。
 このように、天皇の戦争責任が完全に免責され、天皇が自己の責任についてまったく言及しなかったことは、木戸が憂慮したように、国民の間に「何か割り切れぬ空気を残す」ことになった(237頁)。

 以下はエピソード的に。
 1 『独白録』の筆記者である寺崎英成は、たんなる親米派の外交官ではなく、戦時中は近衛首相直属の駐米諜報員であり、玄洋社の影響を受けた国粋主義者でもあった(103頁~)。
 2 『独白録』からは、昭和天皇が周囲の人物に対する好悪の感情が激しかったことが読み取れる。もっとも嫌ったのは、天皇の戦争責任を示唆して退位を提案した近衛文麿だが、松岡洋右、宇垣一成、平沼騏一郎、広田弘毅、高松宮(彼も退位を示唆していた)らも天皇に嫌われた。
 逆に東條英機に好意的だったことが(16~7、139頁)、すべての責任を陸軍なかんずく東條に負わせることによって天皇の免責を図ろうとした木戸や『独白録』作成グループを困惑させた(111~2頁)。
 3 天皇は北朝の末裔として「血統」では正統性を主張できないため、三種の神器の継承による自らの「皇統」の正統性を重視していた。そのため、三種の神器が納められている伊勢神宮、熱田神宮を上陸した米軍に占領され三種の神器が奪われることを恐れてポツダム宣言の受諾を急いだことが『独白録』に述べられている(222頁)。また「皇祖皇宗」に対して強い「責任」を感じていたという(223頁)。
 吉田は、これらから、天皇の国体至上主義、神権主義的傾向を読み取っている(219頁~)。
 4 天皇の対米開戦の責任を回避することだけが『独白録』作成の目的だったため、対中国ひいてはアジアに対する責任の欠如が顕著である。昭和天皇自身が「満州は田舎であるから、事件が起こっても大した事はないが・・・」などと発言しているという(153頁)。

 いずれにしろ、『独白録』の作成その他の日本側のGHQ工作と、日本および天皇制を反共の防壁にしようとするアメリカ側の意向が合致したことによって、天皇は東京裁判の戦犯に指名されることはなく、戦後の日本には、吉田茂に代表される対米協調派(穏健派)の政権が成立することになった。「象徴」になったはずの昭和天皇までもが米軍の沖縄駐留を支持するメッセージを発するなど、この流れに積極的にかかわるのであった(166~7頁)。
 しかし、著者は、粗野な軍人の横暴を憂慮する良心的でリベラルで合理的なシビリアンといった「穏健派史観」に寄りかかって自己の戦争責任や加害責任を覆い隠す態度も批判する(240頁)。
 ぼくが最初に読んだ太平洋戦争に関する本は高木惣吉の岩波新書だったと思うが(書名は忘れてしまった)、あれも「穏健派史観」だったのだろうか。ぼくは、まさに、阿川弘之『山本五十六』『米内光政』あたりから始まって、城山三郎『落日燃ゆ』や柳田邦男『マリコ』などの「穏健派史観」に毒されてきた一人である。保阪『昭和天皇』も、これらと同列の「昭和天皇物語」として読んだ方がよいのだろう。

 昭和天皇論は本書で打ち止めにするが、東京裁判が気になってきたので、こんどは、東京裁判研究の第一人者である粟屋健太郎の『東京裁判への道』(講談社学術文庫)を読んでみることにした。
 いよいよぼくの「昭和のラビリンス」は “病膏肓に入る” 状態に陥った。

 2022年7月26日 記

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『豆豆先生の研究室』開設6000日!

2022年07月23日 | あれこれ
 
 きょう2022年7月23日は、ぼくがこの『豆豆先生の研究室』を goo ブログに開設してから6000日目にあたると、「編集」欄に表示された。
 2006年2月26日に、息子に作業を全部やってもらって開設して以来(「豆豆先生の研究室」というブログの名前も息子による命名である)、時に中断もあったが日記代わりに書き続けてきた。

 あれから16年余り。飽きっぽい性格のぼくとしてはよくぞ続いたと思う。
 若い頃には『深代惇郎の天声人語』シリーズ(朝日文庫だったか?)を愛読して、将来は「コラムニスト」という職業になりたいと思った時期もあった。職業にはならなかったが、雑文を書くことは嫌いでなかったのだろう。
 “Nostalgic Journey ” というサブタイトル通り、最初の頃は思い出話を書いていたのだが、いま読み返してみると、そんなこともあったかな、と現在では忘れてしまったエピソードや、忘れてしまった映画や本の内容や、TV番組の主題歌、CMソングの歌詞などもある。
 覚えているうちに書いておいて良かったと思うけれど、忘れてしまったからといって何か不都合があるわけでもない。
 「人間の老いを苦しめるのは、肉体の衰えではなく、過去の記憶の重さである」とはモームだったかジンネマンの言葉だったが、忘れてしまうような記憶など忘れてしまって身軽になったほうが良いのかもしれない。

 ちなみに、きのうの時点で閲覧数の累計が192万PVをこえていた。

 2022年7月23日 記

 ※ 冒頭の写真は、第1回目の書き込みに添付した軽井沢(軽井沢町大字長倉字獅子岩)の獅子岩がある小山の頂上にあった培風館山荘(と思われる建物)を遠望したもの(1965年の2月頃だったか)。その後若干並べ替えたので、現在では第1回目の投稿ではなくなっている。

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原武史『大正天皇』

2022年07月21日 | 本と雑誌
 
 原武史『大正天皇』(朝日文庫、2015年)を読んだ。

 期待しないで読み始めたのだが面白かった。
 図書館の返却期日がきょうなので、きちんと引用ページ数をメモする時間もなく通読したため、出典頁を明記したコメントは書くことができない。

 大正天皇の人物に関するぼくの唯一の知識は、親が語っていた「遠メガネ事件」だけである。
 本書によれば、この事件は、帝国議会に臨席した大正天皇が詔書を丸めて遠メガネ状にして議場を眺めたというエピソードで、当時議場にいた山川健次郎からの伝聞によればそんな事実があったようだ(17頁)。わが家では、学習院の卒業式のさいに卒業証書を遠メガネにして校長を眺めたと伝わっていた。
 大正天皇についてはこれ以上は何も知らなかったのだが、著者の筆にかかると、少なくとも皇太子時代の彼は、洒脱で剽軽で人間的な愛すべき人物に思えてきた。家族思いで子煩悩でありながら、さる皇族の美人の許婚者にアプローチを試みるなど、かなりの女好きでもあったようだ。 
 
 生まれてすぐに生死の境をさまよい、病弱だった幼少期、学習院、御学問所における学業不振、奔放な言動の時期を経て、皇太子時代には健康で元気に(地理の実地学習という名目で)全国を旅行して回ったという。
 相性が良かった原敬、有栖川宮、大隈重信らと親しく交流し、全国旅行の先々では一般国民とも交流し(地元生徒による寒中水泳を見て「寒かろう」といって中止させたという)、お召列車に地元知事を同乗、同席させて煙草やパイプを勧めた逸話など、明治天皇とも昭和天皇とも違った天皇像をうかがうことができる。
 山縣有朋を嫌ったというエピソードも紹介されていたが、それなりの嗅覚があったのだろう。

 明治天皇が人前に出ることを好まず、写真も公表しなかったのに対して(「御真影」は肖像画を写真に撮ったものだったという!)、大正天皇については写真だけでなく、ニュース映画の被写体になることさえ許され、その映画は全国で上映されて700万人以上が観たという。
 「可視化された帝国」というよりも、大正天皇の場合は、原のことばによれば「生身の身体」をもった天皇ということであろう。
 そのような天皇の緩い体制のもとで「大正デモクラシー」も開花できたのだろうか。ただし各地で米騒動が起きたのもこの時代であり、摂政になった後になると治安維持法も制定された。
 
 天皇に即位してからはストレスもあって病状が亢進し、歩行や発語も不自由になり、摂政を立てられ不遇のうちに最期を迎えるのだが、生前は会うこともままならなかった実母柳原愛子(明治天皇の側室)に看取られ手を握られて亡くなる崩御の場面の描写は、原らしくなく情緒的である。沈痛な面持ちで息子を見舞う彼女の写真も添えられていた。

 前に読んだ原『平成の終焉』(岩波新書)では、「学術書」であるという理由で明仁天皇や美智子妃を敬称なしで呼び捨てる記述に違和感を覚えたが(未読だが同じ岩波新書『昭和天皇』も同様らしい)、本書では「嘉仁皇太子」「節子妃」、あるいは「皇太子」「大正天皇」、「裕仁皇太子」などと呼んでいる(ごくまれに「嘉仁」という表記が残っている個所もあった。162頁など)。
 皇室用語の使用法については原則が明記してあるのに(37頁)、呼称については何も説明はない。この違いはいったい何によるのか。考えられるのは、岩波書店(編集者)は呼び捨てという著者の方針に同意したが、本書の発行元の朝日新聞出版(編集者)は呼び捨てに同意せず、肩書きをつけることを著者に要請したのではないかと憶測する。 
 岩波新書が「学術書」だとしたら、「朝日選書」はそれよりはるかに「学術書」といえると思うのだが(注のつけ方、注の質や量の多さに注目)。それでも本書のほうがぼくにとっては読んでいておさまりがよかった。

 2022年7月21日 記

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ドナルド・キーンの軽井沢

2022年07月20日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 東京新聞朝刊には、ドナルド・キーンの養子が養父(キーン氏)の思い出をつづったエッセイが定期的に掲載されている。
 けさ(7月18日)のこの連載は「軽井沢の日々」と題して、キーンが愛したという軽井沢の思い出が記されていた。
 キーンの軽井沢の思い出は、彼の養子よりもぼくのほうがはるかに古いと思う。

 昭和40年頃、ぼくと従弟たちは、千ヶ滝中区の通称「文化村」から沢沿いのけもの道をテクテクと上流に向かって歩いて登った。ぼくたちの「スタンド・バイ・ミー」である。途中の崖の上にはNHKの保養所や、東京女学館の夏季寮などが見えた。
 一時間以上歩いて、ぼくたちはグリーン・ホテルの道路を隔てた南側にあった展望台の真下の別荘地に至った。
 その中の一軒に、「D・キーン」という白い板の表札の立つ家があり(今日の記事を読むと10坪の建物で、キーンは「庵」と称していたという)、 平屋建てのその家のテラスで、キーン氏らしき人物がタイプライターを打っているのが見えた。
 「ドナルド・キーン」というと毛筆か万年筆で原稿を執筆しそうなイメージだが、彼(らしき人物)はタイプライターを打っていた。
 今朝の記事によると、彼はタイプライターで原稿を打っていたとあるから、おそらく昭和40年頃に中学生のぼくが見た「D・キーン」宅のテラスの人物はドナルド・キーンさんだったのだろう。

 この夏、軽井沢高原文庫で「ドナルド・キーン展」が開催されるというから、見に行ってキーン氏の昭和40年頃の別荘の所在地を確認してこようと思う。

 2022年7月18日 記

   
 今朝郵便受けを開けると、西武リアルティからの封書が届いていた。「重要」というハンコが押してある。
 締切り(7月10日)から日にちが経ったので落選したのだろうとあきらめていたが、ひょっとして! と思って開封すると、予想通り「千ヶ滝音楽祭」の当選案内だった。
 倍率がどのくらいだったのか分からないが、前にも書いたとおり、なぜか当選するという予感がしていたのである。
 10年ほど前に勤務先の労働組合の忘年会で一等賞(横浜ホテルニューグランドのペア宿泊券)が当たった際に、突然壇上で当選のスピーチを求められたので、つい「こんなことで “運” を使いたくない」などと言ってしまって顰蹙を買ったので、今回は素直に喜びたい。
 あの千ヶ滝プリンスホテルの中に入れるなど、昭和の時代には考えてもみなかったことである。しっかり見て来なくては。

 2022年7月20日 追記

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シトロエン2CV

2022年07月18日 | クルマ&ミニカー
 
 昨日、この<豆豆先生の研究室>の「アクセス解析」を見たら、「シトロエン2CV サファリ」について書いたコラムがアクセス数の上位にランクインしていた。

 ここ10年近くはミニカーに興味がなくなっていたが、久しぶりに google で「シトロエン2CV」を検索してみると、「シトロエン2CV」のミニカーが何と660円で売りに出ていた。
 「[増補版]週刊デル・プラド カーコレクションⅡ 世界の名車ガイド No.35 シトロエン2CV」(扶桑社、本体1600円+税、発行年月日は記載がないが、消費税が5%となっている)。
 これの中古(新品の売れ残りだろう)が660円で出ていたのである。送料が680円で、本体価格より高いが、即刻ワンクリックで購入した。そして今日の昼すぎに到着した。休日も発送をしていたようだ。

     

 よくあるパターンで、B5判、厚さ5センチくらいの箱型のケースに、シトロエン2CVの 1/43 のミニカーと26頁のブックレットが入っていた。

    

 ミニカーの質感は値段なりだったが、ひどく悪くはなかった。プラスチック・ケースがきゃしゃなのが難点か。
 色はランチアのミニカーと同じような草緑色(?)。フランス人はこんな色が好きなのだろうか。悪い色ではない。
 意外に細長いクルマだということは前に気づいたが、今回のブックレットを見ると、実物は 3830mm(全長)X 1500mm(全幅)X 1600mm(全高)となっている。 
 全長は最近のコンパクトカー(5ナンバー車)とほぼ同じで(ミラージュくらいか)、全高は最近のクルマより高く(シルクハットを脱がないで座れる高さだったという)、全幅は約20センチ狭い。

     

 2CVの実車を最後に見たのは、2014年の春にイギリス旅行をしたときだった。最終日に、ロンドン、キングス・クロス駅前を走っている黄緑色の2CVを見かけた(上の写真。2014年3月30日19時ころ)。 
 若い頃には欲しいクルマ、乗りたいクルマだったが、今ではまったく乗る気にはならない。ミニカーを見て楽しむだけで十分である。

 ところで、このクルマ「シトロエン2CV」は何と発音するのだろう? 1970年代にこのクルマを所有していた友人が「シトロエン ドゥー セ ヴォ―」と呼んでいたから、ぼくもそう呼んできたが、フランス語で「V」は「ヴォー」とは発音しない(「ヴェ[ve]」だろう)。フランス人は何と呼んでいるのだろう?

 2022年7月18日 記

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保阪正康『昭和天皇(上・下)』

2022年07月17日 | 本と雑誌
 
 保阪正康『昭和天皇(上・下)』(朝日新聞出版、2019年)を読んだ。

 前書、保阪『天皇』(講談社文庫)を読んで、日本国憲法を尊重し、憲法が規定した「象徴」という天皇の地位を忠実に履践した天皇という明仁天皇(上皇)に対する著者の評価には共感したが、昭和天皇に対する著者の評価には違和感を感じた。
 そこで今回、本書を読んでみたのだが、やはり昭和天皇に対する著者の見解には納得できなかったというか、理解できなかった。
 本書は、昭和天皇を顕彰する雑誌に掲載されたものだというから、もともと批判的、客観的な記述は期待できないが、とくに日中戦争、太平洋戦争期における昭和天皇の言動と、敗戦を契機とする時代の変化、とくに新憲法による天皇の地位の変更を昭和天皇は「本心」でどう受け止めたのかは、本書から読み取れなかった。

 著者は、戦前から戦後への天皇制の変化を「天皇制下の軍事主導体制」から「天皇制下の民主主義体制」への移行と捉えている(下293頁)。そして、天皇自身は「天皇主権下の軍事主導体制」から「天皇主権下の民主主義体制」に変化すべきであるとの信念を持っていたが(下280~1頁)、現実には「象徴天皇制下の民主主義体制」になったとする(下281頁)。
 明治憲法下で「統治権の総攬者」すなわち「主権者」(高橋和之ほか『憲法Ⅰ』有斐閣、1992年、90頁~)であり、「君主」であり、「大元帥」であった天皇が、いかにして国民主権の新憲法のもとで「象徴」になりうるのか、昭和天皇自身はこの地位の変化をどのように受け止めたのか。
 天皇は、戦前も戦後も「精神的には何らの変化もなかった・・・、私はつねに憲法を厳格に守るように行動してきた」と語ったようだが(上291頁)、明治憲法を守ることと新憲法を守ることは、はたして両立できたのだろうか。

 著者は、本書の記述は3本の柱に依拠するという。
 1つは昭和天皇の御製であり、2つは『木戸幸一日記』『西園寺公と政局』その他の側近や侍従らの記録や回想録であり、3つは記者会見での発言である。 
 著者は、この3つのアプローチから「天皇語」(昭和天皇の言語感覚)を分析することによって、「昭和天皇の真の胸中をさぐることが可能」であり、「なぜ天皇の胸中が現実の政治システムと相容れぬ形になったのかを」分析、解明し、「そのような解明によって、昭和天皇を歴史の中に位置づける必要があるし」、今はその時期に入っているという(下292頁)。そして、本書刊行後に公表された側近の記録などから「歴史の中に位置づけられる昭和天皇の素顔」が明らかになってくるという(下275頁)。

 これらは本書初版刊行後の加筆だが(下275頁以下の「補章」や「あとがき」)、ここから判断すると、本書執筆の段階では、いまだ昭和天皇に対する著者の評価は定まっていなかったのかもしれない。
 著者自身の言葉によれば、「特定の史観や同時代の感情的な反応」とは距離を置いて(下308頁。要するに左右両極は排すということだろう)、「天皇自身の率直な考え方をできるだけ多く書きこ」み(同頁)、「天皇の真の胸中」をさぐり、「昭和天皇の実像を正確に捉え」(292頁)ようと試みたのが本書なのだろう。
 著者は同時に、「史実の背景を流れる昭和の息吹きを正確に見つめること」も関心事であったというが(下285頁)、これほど昭和天皇に近づきすぎた視点からは、「昭和の息吹き」なるものを正確に見つめることは難しいのではないか。
   
 著者によれば、昭和天皇は、柳条湖事件、盧溝橋事件、ノモンハン事件、そして真珠湾攻撃など軍部が暴走するたびに懸念を表明したが、「立憲君主」としての立場を守って自分の意見を押しとおそうとはしなかったとして天皇を擁護する(上193、217、242頁など)。
 最大の責任を負うべきは、天皇の意向や憲法政治の運用を無視してこれらの暴挙に出た軍部であるが(上154、173、183頁)、だからと言って、明治憲法上の君主=主権者の地位にあった天皇の責任が免除されるわけではないだろう。
 あの時代に軍部の暴挙を阻止して国民の生命を守ることができたのは、唯一、天皇だけだった。アメリカとの開戦を最終的に裁可したのは天皇であり(上206頁~)、最後に「聖断」によってポツダム宣言受諾による無条件降伏を決定できたのも天皇であった(上234頁)。二・二六事件に際しても、天皇は毅然として反乱軍を処断している(上163頁、下151~2頁など)。  

 明治憲法下でも平時であれば、主権者である天皇の権限を立憲君主的に運用することは賢明な選択だったかもしれないが、軍部や政府の指導者に信を置くことができないことが明らかになり、軍部が暴走を始めてからは、それを阻止することこそ「統治権の総攬者」の務めであり、責任だったのではないか。
 昭和天皇自身が、戦後マッカーサーに対して「国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う」と述べているが(上244頁)、この「全責任」には、たんなる道義的責任だけでなく、政治的責任も含まれていただろう。
 「立憲君主」であったことを口実とする免責は、昭和天皇自身も望むところではなかったと思われる(下114頁など)。「立憲君主」などという口実によって弁解することなく、自己の全責任を認める発言をしたことが、かえってマッカーサーに好感され、天皇制の存続、天皇の不処罰につながったと思う。

 昭和天皇の善意は否定しないし、戦時中の天皇の「本心」が本書で著者が述べているようなものであったことも事実だろう。
 「責任」とか「謝罪」といった言葉は使わなくても、そのような心情であったことは御製から伺うことができると著者はいう。靖国神社がA級戦犯を合祀したことを不快に思い、「明治天皇の遺訓に反する」とまで批判し(下280頁)、それ以後靖国への参拝を拒否したという戦後の行動からも、戦時中の天皇の胸中をうかがうことができる。
 なお、天皇は、広島への原爆投下の事実や被害の実情を軍部から知らされていなかったことを本書で知って驚いた(下114頁)。戦争末期には、軍が不都合な戦況を知らせなかったために、天皇はアメリカ側の短波放送を傍受して戦況を把握していたという。そのような不忠の臣下を庇ってまで、戦争責任を「言葉のアヤ」として言及を避ける心情(下111~4頁、下291頁)は、ぼくには理解できなかった。
 
 君主としての政治的、道義的責任は免れえなかったとしても、戦前の昭和天皇が摂政宮時代も含めて(下277頁参照)不本意な人生を歩まざるをえなかったことには同情する。
 ぼくの知合いで、昭和天皇にご進講した経験をもつ人から話を聞いたことがある。彼によれば、昭和天皇は日本文化史上のある文物についてきわめて造詣が深いことが進講後の質問内容からうかがえたという。「凡百の歴史家など及ぶべくもないほどの博識だった」と彼は言っていた。
 本当なら軍服など着ることなく、御所内で皇室所蔵の美術品を鑑賞し、読書と研究の日々を過ごすほうがふさわしい文人だったのだろう。

 2022年7月15日 記

 敗戦後に天皇は各地を行幸して、そこで多くの歌を詠んでいる。
 満蒙開拓団の引揚者が開拓した浅間山麓の地を行幸した折に、「浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人たふとくもあるか」と詠んでいる(288頁)。これは軽井沢西郊の大日向村で詠んだ歌だろう。「かくのごと荒野が原に鋤をとる引揚びとをわれはわすれじ」という歌も同じ大日向の光景を詠んだものだろう(上304頁、下283頁)。
 ぼくは、大日向村の行幸記念碑を見に行ったことがある。本書によれば片道2キロを歩いてこの地を訪れたというから、借宿のあたりから歩いたのだろう。現在の国道18号の借宿交差点に「昭和天皇行幸記念碑 ここから2㎞」の標識が立っている。
     

 「千代田区千代田一番地」のラビリンスから始まったぼくの迷路の旅は、ぼく自身の「昭和」を求める迷路に迷いこんでしまったようだ。

 2022年7月17日 記
  

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千ヶ滝プリンスホテル

2022年07月13日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 6月28日付けの「きょうの軽井沢」で(旧)千ヶ滝プリンスホテルについて、以下のように書いた。

 「プリンス・ホテル」の本丸ともいうべき、本当の “プリンス” (皇太子)一家が毎年夏休みに滞在していた千ヶ滝プリンス・ホテルがなくなってしまったのは何年前のことだったか。秋篠宮が幼少の頃に、あのホテル前の道路を歩く姿を見かけたことがあったから、50年近く前のことになるのだろう。
 あの頃も道路から建物を見ることはできなかったが、建物は今でも残っているのだろうか。「千ヶ滝プリンスホテル」と手書きの書体で墨書(?)された門標、火山岩を積んだ低い門柱と木製の大きな門扉はしばらく残っていたが、それらも今はない。  

 と書き込んだ直後に、「千ヶ滝通信」45号(2022年夏号、西武リアルティソリュージョンズ発行)が送られてきたのだが、その中に「千ヶ滝音楽祭」というコンサートの案内が載っていた。
 8月1日に旧千ヶ滝プリンスホテルで「ロイヤルコンサート」というのが開催されるという。午前の部、午後の部それぞれ10組20名限定だという。なお、同日夕方には秋川雅史のリサイタルもあるらしいが、こちらは千ヶ滝プリンスホテルが会場ではないのでスルー。
 出演者は申し訳ないが全く知らない演奏家ばかりだが、千ヶ滝プリンスホテルに入場できるとあれば応募しない手はないので、さっそく申し込んだ。久しぶりにわが家のファックスで送ろうとしたが、ローラーがまわらないので送信できない。おそらくゴムが劣化してしまったのだろう。改めてメールで応募したが、メールの応募はどうやって抽選するのだろうか」?

 当たるかどうか楽しみである。
 ぼくは比較的くじ運は強い方だし、千ヶ滝プリンスホテルに対する思い入れの強さで行けば当選確実と自負するのだが、何せ当選者は10組(午前、午後合計で20組)なので、期待しないで結果を待とう。
 いずれにしても、こんど軽井沢に行ったときは、旧千ヶ滝プリンスホテルの前は徐行してじっくり観察してこよう。管理事務所に車をとめて歩いて見に行った方がよいかもしれない。

 ここまで 2022年7月8日 記

 この書き込みを見て応募する人が増えることを危惧して、締切り(7月10日午後4時)までは投稿を控えていた。抽選の結果は通常の連絡方法で通知すると書いてあるが、「通常の連絡方法」とはメールだったか、固定電話だったか、携帯だったか。固定は何時も留守電にしてあるので気をつけないと。
 今日あたり抽選ではないかと思うのだが。
 ※ 7月11日 追記

 さらに数日待ったが、今のところ連絡はない。「当選者には通常の連絡方法で連絡する」となっていたから、落選者には連絡は来ないのだろう。そして落選したのだろう。残念。
 ※ 7月13日 追々記

 実はその更に数日後にこのコンサートのペアチケットが郵送されてきて、夫婦で軽井沢プリンスホテルのコンサートを見物することができた。
 ※ 2024年4月28日 追々々記

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色川大吉『自由民権』

2022年07月08日 | 本と雑誌
 
 色川大吉『自由民権』(岩波新書、1981年)を再読。巻末に1981・5・2(土)pm11:00と書き込みがあった。40年も経ったのか。岩波新書黄版152である。

 前に、原武史『平成の終焉』のなかの「五日市憲法と皇后発言」について批判した際に、私擬憲法ないし自由民権家と天皇制について触れた。
 そこで「五日市憲法草案の天皇条項に言及しなかったとして皇后(現上皇后)を批判するのは的外れである、問われるべきは自由民権家さえもが天皇制を支持した背景や心情である」旨を書いた。
 そのときに、自由民権運動を総括した定番の書ともいうべき色川大吉『自由民権』を援用したいと思ったのだが、その時は見つからなかった。ところが昨日、別の本を探していたら偶然に出てきたので、自由民権と天皇制に関する部分を再読した。
 自由民権家の天皇観や私擬憲法の天皇条項についての色川の見解を知ることができた。この本によって、自由民権家たちが当時の情勢に配慮していたことは確認できたが、それ(私擬憲法案における神聖天皇条項)が情勢への配慮だけによるものとは、色川を再読してもなお思えなかった。

 色川によれば、英国流の立憲君主制の立場をとる嚶鳴社案、交詢社案も、さらには五日市憲法草案、小野梓案なども天皇の神聖性を規定して「天皇制の非合理的な国体論に屈服しているように見える」が、これは不敬罪を回避するための配慮でもあり、必ずしも起草者の本音ではなく多分に偽装であり、現実への妥協であることも明らかであるとされる(120~1頁。前段)。
 「天皇の誓詞(※五箇条の誓文か)を利用して「一君万民」的な法のもとでの平等、民主化を達成することの方が、社会契約論的な民主化の原理を前面におしだして運動することより、当面は有利であるとの判断が勝っていたのであろう」とも言う(122頁。後段)。
 後段はその通りだと思うが、前段(の不敬罪回避のための偽装)については、植木枝盛などはそうだったようだが、すべての民権家がそれだけの目的で、国体論に「屈服」して天皇神聖条項を私擬憲法草案に規定したとはぼくには思えない。五日市憲法草案などの文面を読んだだけの印象で、根拠があるわけではないのだが、自由民権家の中でも英国流立憲君主制論者や地方の素封家、豪農らにとっては、伝統的天皇観と自由、民権の主張は両立可能だったのかもしれない。
 色川は、下記の詔勅以降「不敬罪」による逮捕者が急増したことを指摘するが、「偽装説」の根拠を(ぼくの読み落としがなければ)具体的にはあげていない。「だろう」という文末の言葉(122頁)からは、前段は色川の感想のように読める。

 自由民権家の天皇観を考えるは、時代の変遷も考慮する必要があるという。とくに、井上毅、伊藤博文らがクーデターによって大隈重信を追放し、国会開設の詔勅を発出させた1890年(明治23年)が画期となったようだ。
 この詔勅は、国会開設を宣言すると同時に、国会や憲法の内容については天皇が親裁する、国安を害する者があれば処罰するという弾圧方針も宣言された。明治天皇こそが公議輿論政治を望んでいたはずなのに、この詔勅によって憲法についての自由な議論が禁止されたことは、天皇の伝統的な権威や神聖不可侵の地位を認めてきた民権陣営にとって致命的な打撃となったと色川は言う(119~120頁)。

 ちなみに色川は、自由民権家たちの私擬憲法が、鈴木安蔵らの憲法研究会「憲法草案要綱」などを経由して日本国憲法の制定に影響を与えたことなどから、日本国憲法はたんなるアメリカによる「押しつけ憲法」ではない、「押しつけられた」のはポツダム宣言の履行を怠った当時の日本政府(幣原内閣)であって、日本国民ではない、と言っている(139頁~)。
 色川が自由民権期の私擬憲法から憲法研究会草案への系譜を根拠の1つとして「押しつけ憲法」論を否定していることは間違いないが、前述の皇后発言に「押しつけ憲法」批判を読み込むことはやはり無理だと思う。

 2022年7月8日 記

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ローナン・ファロー『キャッチ・アンド・キル』

2022年07月06日 | 本と雑誌
 
 ローナン・ファロー『キャッチ・アンド・キル』(関美和訳、文藝春秋、2022年“。原題は “Catch and Kill --Lies, Spies, and a Conspiracy to Protect Predators”,2019)を読んだ。

 ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの女優や秘書らに対する性虐待(レイプ被害を含む)を番組に取り上げて糾弾しようと奮闘するNBCテレビ記者の記録。2018年のピュリツァー賞受賞のドキュメントである。

 ハリウッド映画に出演した子役たちが映画会社や親(親権者)から搾取されてきた実態を当事者(元子役)が暴いた『ハリウッドのピーターパンたち』(早川書房、1987年)のつながりで読みたいと思った。新聞に広告が載った直後の5月初旬に図書館に申し込んだのだが、18人待ちでようやく先週順番が回ってきた。
 しかし2ヶ月待っている間に森達也の『千代田区一番一号のラビリンス』をきっかけに天皇に興味が移ってしまい、ほかの本を優先しているうちに返却期限が明日に迫ったので、慌てて読んだ。

 偶然にも、テレビ番組を企画するテレビマンの行動を描いたという意味では『千代田・・・のラビリンス』と同工異曲だが、『千代田・・・』がフィクションなのに対して、『キャッチ・・・』は実話(ノンフィクション)である点で、迫力は圧倒的に『キャッチ・・・』のほうが勝っていた。
 しかも『千代田・・・』が最終的に天皇との対面が実現するのに対して、『キャッチ・・・』のほうは結局テレビ局上層部によって放映を差し止められてしまう。それでも(というか「それだからこそ」)『キャッチ・・・』のほうが迫真性に勝っている。

 『キャッチ・・・』の難点をあげるなら、告発されるハーヴェイ・ワインスタインなる「大物」プロデューサーをぼくはまったく知らなかったことである。
 加害者ワインスタインが「大物」であることは本書に示された諸事実から納得できた。ワインスタインなる人物は、「恋に落ちたシェークスピア」などで独立映画を興行的に成功させる手法を確立し、「英国王のスピーチ」などの製作者であるという。それなら「大物」だったのだろう。
 ところが彼は、映画祭の会場ホテルでも女優に性的関係を迫ったりする、業界でも有名ないわくつきの人物だった。被害者からクレームがつくと、顧問弁護士が登場して、高額の慰謝料と引きかえに「秘密保持契約」に署名させて口外を禁ずる。そして映画界から追放してしまう。

 自分に都合の悪いスキャンダルが発覚しそうになると、探偵会社を雇って被害者側のスキャンダルを探し出して、それをネタに被害者の口を封じてしまう。本書の題名の『キャッチ・アンド・キル』とは、相手方(被害者側)のスキャンダルや弱点を見つけて(catch)、相手の告発を揉み消してしまう(kill)ことを表す業界用語だそうだ(391頁)。
 本書に登場する被害者たちがどのような女優なのかも分からないので、著者が最初は信頼していたテレビ局の社長が「こんなことは番組で取り上げる価値があるか」といった疑問を呈したり、加害者が被害者を「売春婦」だと言ったりする場面で、「そうかもしれない」と思わされってしまうこともあった。被害者の中には10万ドルや100万ドル(!)の慰謝料で和解してしまった者もいたのである。しかし著者が丁寧に取材をつづけ、証言や証拠のテープを入手していくうちに、実名での報道に同意する被害者はどんどんと増えていく。

 2016年に取材が始まったが、十分に証拠も固まり、社内法務部の審査も通った段階で、上層部から放映どころか調査の中止までが言い渡される。ワインスタイン側の攻撃、懐柔が功を奏したようである。結局、著者は取材内容をニューヨーカー誌に発表することになる。著者と並行して事件を取材していたニューヨーク・タイムズ紙も同時期にこの事件を記事にした。
 この記事をきっかけに警察、検察当局の捜査が始まり、ワインスタインは「性的いやがらせ」「性暴力」「略奪的な性的暴行」の罪で起訴され(398~9頁)、懲役23年の刑を言い渡されウェンデ刑務所に収監される(401頁)。わざとらしく車椅子(歩行器)で裁判所に出廷する姿は日本のテレビでも放映された。
 この結論を知っていたので、読んでいるときのサスペンス性はそがれるが、「悪い奴ほどよく眠る」という苛立ちを感じないで安心して読むことはできた。

 なお、最後にオチがあって、ワインスタインの性虐待が報道された後に、著者のお膝元のNBCテレビの上層部らの性的嫌がらせの事案が多数発覚して、何人もが解雇や辞職に追い込まれることになったのである(414頁~)。著者の取材のもみ消しはワインスタインのためではなく、NBC上層部の自己保身のためだったのかもしれない。

 ちなみに著者のローナン・ファローは、女優ミア・ファーローとウッディ・アレンとの間の子で、姉は幼児期にウッディ・アレンから性虐待の被害を受けたとして父を訴えて勝訴している。
 そのため、ワインスタインは、ウッディ・アレンと映画製作で協力関係があったので、著者はウッディに対する意趣返しで父の友人ワインスタインを告発しようとしている、「利益相反」であると反論している(そんなクレームが通用するはずもないと思うが)。
 著者はイェール大学ロースクールを卒業して弁護士資格を持っており、オックスフォードにも留学経験があり、ユニセフや国務省に勤務した後にNBCに入社した異色の報道記者である。本書の出版後はテレビ界に復帰できたのだろうか。

 ワインスタインは民主党シンパで、クリントンやヒラリーとも親しかった。そのため彼らの本事件への関与はきわめて及び腰である。メリル・ストリープも褒められた対応ではない(ページ数は見つからなかった)。
 自分が関係した作品に賞を取らせたり、大物映画監督の名前だけ借用して自作を絶賛する映画評論を掲載させたりなどといったハリウッド映画界のエピソードを読むと、アカデミー賞にノミネートされたといって騒いでいる日本の映画関係者がむなしく見えてくる。

 2022年7月6日 記

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西田知己『血の日本思想史』

2022年07月01日 | 本と雑誌
 
 西田知己『血の日本思想史--穢れから生命力の象徴へ』(ちくま新書、2021年)を読んだ。

 法律の世界では、法律上の親子関係(父子関係)の存否の判断基準として、(父)親の意思を重視するか、父子間の生物的な血縁関係を重視するかの対立がある。意思重視派(の究極)は「結婚の意思には、妻の産んだ子を自分の子として引き受ける意思が含まれる」といい、血縁重視派は「生物的な親子間の血縁関係を証明する知見が確立した以上、法的親子関係もそれと合致すべきであり、それが子の利益にもかなう」という。
 この生物的(=遺伝的)親子関係を重視する立場は「血縁主義」といわれているが、この「血縁」とは何なのか。生物学的に言えば、親子の間には「血」のつながりなどないし、「縁」は生物的な親子関係の存否にかかわりなく赤の他人の間にも生じうる(「袖振れ合うも多生の縁」)。
 得体のしれないまま使ってきた「血縁」について、本書から何か知識を得られることを期待して読み始めた。

 古代の日本は血を忌み嫌う、血の穢れ思想が強かった(26頁~)。「血」という語が嫌忌されていたので「血筋」という言葉も「すじ」と訓読され、その意味も今日的な「血縁」関係を表すものではなかった。血縁関係を表すためにはむしろ「筋」という語が使われた(30~1頁)。
 「血筋」「血縁」「血統」など「血」が使われるようになるのは近世の江戸以降になってからであった。それほど「血」の不浄感が強かった(34頁)。近世に至るまでの間、近親の血縁関係を表すには、「骨肉同胞」(「義経記」)などが使われた(56頁)。
 他方で、「血縁」の「縁」は仏教用語で、こちらも「血縁」として「血」と結合するには長い年月を要した(66頁~)。

 近世になって、親子間のつながりを示すのに「血」という言葉が使われた最初は、中江藤樹の「父母の子における、一体分形、身体髪膚、血脈貫通して、(隔たるところなし)」だった。「骨肉」「身体髪膚」の類語として「血脈」が使われるようになった起点には「孝」の教えがあった(97~8頁)。
 山鹿素行にも「骨肉血脈の親」「人倫血脈相続の父子」「父子は一体にして・・・血脈の相通ずる」といった表現が見られる(103頁)。なお素行は「皇統」については「血脈」で説明していない。血脈で表すと子孫すべてをカバーすることになってしまい、一子相伝の皇位継承の正統性が抜け落ちることを懸念したのかもしれないという(105頁)。
 貝原益軒は、アマテラスと神功皇后の「御子孫」のうち「御嫡流」が代々皇位を継承し、「御庶流」は将軍家となったのであり、それぞれ「御血脈」を受け継いだ「神孫」だとした(135~6頁)。益軒の「御血脈」は天皇家の血統のことであり、一子相伝の天皇個人に限定されなかったので(189頁)、従来の一子相伝型の「血脈」との識別が必要になった(136頁)。
 その後、儒家神道に属する一派から、皇統の一子相伝を「血脈」で説明する者も現われ(189頁)、血脈は続いていても有能でない者、道理にかなわない者も「正統」か否かといった議論もなされたという(193頁)。

 「武家諸法度」や「公事方御定書」には、血筋を表す「血」は使われていないが、「律令要略」(1741年)は臨終遺言を禁止し、「血筋重き方」に相続させるとして「血」の語を用いている(176頁)。法令における「血」の初登場だけでなく、末期遺言の真意性を疑問視し、相続人を法令で指定した点にぼくは興味を覚えた。
 文学の世界で、近親関係を「血」で表した初めは近松門左衛門だった。彼には「血筋」「血脈」「血を分けた」(兄弟)といった言葉がふんだんに使われている(117頁)。歌舞伎の台本には「血筋の縁」が登場したが、「血」よりも「縁」が重視されていた(186頁)。これが次第に「血縁」となり、その場合の「縁」も前世の因果よりも現世寄りのものに変化していったという(188頁)。

 そして近代。大槻文彦「言海」(1891年)の「血筋」には、1.チノミチ。脈、2.ウカラ、ヤカラ。身内、血縁。血脈。3. 祖、父、子、孫ら代々相続する事。血統、血系。といった語義があてられている(244頁)。
 英語から「血は争えない」“Blood will tell” や、「血は水よりも濃い」“Blood is thicker than water ” などの成句が輸入され定着した(241頁)。「骨肉の争い」が肉親間の争いの意味に転化したのは昭和に入ってからというのは驚きである(240頁)。
 かなり現代的な「血」の語感、語義に近づいているが、近代に至ってなお(というか至ればこそ)ハンセン病などの疾患や人種と「血」との関係について誤った解釈が広がったこともあった(259頁ほか)
 
 大日本帝国憲法とともに制定された皇室典範(1889年)第1条は「大日本国皇位は、祖宗の皇統にして、男系の男子之を継承す」と規定した(原文は片仮名)。
 「皇統」の語を用いるが「血統」の語は使用しない(281頁)。ただし英吉利法学校が発行した典範「義解」はこれを「血統」の語で説明しており(283~4頁)、他の注釈書でも「神武天皇の血統」と説明し、また「皇統」とは「一系」の正統を承くる皇胤の意と説明した(284頁)。
 旧民法には「血属」の語が登場し(ほぼ血族と同義)、明治民法(1898年)には「6親等内の血族」を親族とするという規定が設けられて、「血族」は法令上の用語となった。
 なお明治民法は(現在の民法でも維持されているが)養子を血族とみなす旨の規定を設けた。これを講学上「法定血族」と呼んでいるが、血縁のない養子でも「血」が繋がっているものとして扱ってほしいという世人の願いに配慮した規定と教えられた。

 本書によって「血」をめぐる日本史を概観することができた。さて、現代の法的親子関係の存否の問題において「血縁」を重視するか、当事者の意思(かつては父の意思、最近では子の意思)を重視すべきかに直接答えてくれることはなかったが、「血縁」という用語、「血縁」が親族関係を表すという考え方がそれほど古い時代からわが国にあったわけではないことを確認できた。
 古来の様々な親子鑑定方法(滴骨法、鮮血滲り、合血法など)は出てきたが(109、168、202頁など)、20世紀以降(血液型の発見は1900年!)の血液型による親子鑑定の普及はぜひ扱ってほしいところだった。民法起草者は親子関係の存否は「造化の秘符」だと言ったが、血液型はこの「秘符」を暴くことを可能にした。これは親子関係と「血」との関係にとって革命的なことだったと思うのだが。
 「万世一系」という言葉は「日本書紀」にも出てくると知り合いの歴史家から聞いた。天皇が「万世一系」だから日本人は血縁、血統を重視するようになったのか、逆に、日本人の間に血縁、血統を重視する考え(血縁信仰)があったから「日本書紀」が天皇の正統性として「万世一系」を唱えるようになったのか、どちらが先かという疑問を抱いてきた。本書からは、「万世一系」は「日本書紀」から一気に「大日本帝国憲法」に導入されたように読めたのだが、どうだろうか。

 2022年7月1日 記

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