豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

我妻栄『家の制度』

2022年11月25日 | 本と雑誌
 
 我妻栄(わがつま・さかえ)『家の制度--その倫理と法理』(酣燈社、昭和23年)を読んでいる。

 相変わらず、明治民法制定(明治31年、1898年)前後の婚姻法の文献を読む一環として。
 今日は本の中身ではなく、漢字の問題を。
 去年の秋ころ、堀辰雄を旧字体(旧漢字)、旧仮名遣いの古い新潮文庫で読むのに苦労したことを書いた。あの時は、IMEパッドを使って、読めない漢字をマウスでなぞって読み方と意味(訓読)を調べたが、ぼくが読めない漢字はすべてIMEパッドで調べることができた。IMEパッド恐るべし、と思った。

 今回も、しばしば(堀は「屡々」という書き方をしていたが、IMEパッドや辞書では、「屡」1文字で「しばしば」と読むらしい)IMEパッドのお世話になっている。
 今までに調べた漢字は以下のごとし(他にもあるが)。
 籠る「こめる」、搦る「からめる」などは、堀を読む時にも調べた気がする。
 「娶す」は、「娶る」なら「めとる」と読めるのだが、「娶す」は何と読むのか分からず、調べると「しゅす」という読みがIMEパッドに載っていた。「めとる」は嫁取りする意味で、「しゅす」は「嫁ぐ」という意味か。 
 「羸弱」という漢字も分からなかった。近親の血族間で生まれた子には「羸弱」の者が多いという文脈からして「虚弱」くらいの意味だろうと推測できるが、読み方は分からない。四苦八苦しながらマウスを動かして「羸」という字をなぞってみると、候補の中にしっかりとこの文字が出てきた。音読みで「るい」と読むことが分かり、訓読みとして「つかれる、やせる」とあるから、意味も確認できた。
 
 なお、「羸弱」という文字が出てきたのは、奥田義人『親族法・上(親族法制)』(中央大学発行)という本の94頁である。発行年月日は記載されていない。毎年出版された講義録の1冊なのだろうが、堂々の講義録である。
 奥田は、明治民法を起草した法典調査会で民法整理委員を務めた人物で、中央大学の教授、学長も務めた。後に政界に進出してからは東京市長や文部大臣、法務大臣なども務めた人物である。
 大正時代の米騒動、労働運動などの社会的変動に危機感を抱いた支配層が、臨時法制審議会を設置して、民法を改正して「家」制度を強化しようと試みた際には、法相として「醇風美俗」を振りかざして家制度の強化を唱えた中心人物の1人でもある。法務大臣の仕事は、死刑執行のハンコを押すだけではないのである。
 それにしても、この当時の学生たちは「羸弱」などという漢字を読めたのだろうか。

 さて、今回は、IMEパッドを使っても分からない文字にはじめて出会った。それが「酣」という漢字である。
 標題にした我妻栄さんの『家の制度』という本の出版元が「酣燈社」となっていたのだが、読み方がわからない。つくりが「甘」だから、「かん」と読むのだろうと想像はつくが、確認はできない。そこでIMEパッドでなぞってみたのだが、「酉」偏(部首?)に「甘」という文字は候補の中に出てこない。
 そこで久しぶりに「漢和辞典」をひっぱり出してきて(といってもカシオの電子辞書EXワードなのだが)、音訓索引で「かん」を探すと、予想通り「酣」の字が出てきた。さっそくそのページを引くと、この漢字は「かん」と音読するが、訓読みは「たけなわ」で、意味は「酒を飲んでうっとりとするさま。また、酒宴が最も盛んなころおいにある。酒宴が佳境に入る」とあって、「酒酣ニシテ、上筑ヲ撃ツ」(漢書)という例文が出ていた(『漢字源』学研)。

 ワード文書で、「たけなわ」とキーボードを打つと、ちゃんと「酣」という文字が出てきた。何でIMEパッドには出てこなかったのか。
 「たけなわ」という言葉は使ったことがあるが、こんな漢字だったとは知らなかった。漢字検定だと何級くらいの難しさなのだろう。
 戦後間もない昭和23年に「酒酣」に至るほどの酒宴を張ることなどできたとは思えないが、「酣」の「燈」(酒宴の席のともし火)とは、ずいぶんお洒落で風雅な社名ではないか。所在地は東京都千代田区神田鎌倉町6番とあるが、神田鎌倉町とは今のどの辺なのだろう。
 なお、本書の装丁は長男の我妻洋さんの手になると栄さんの「まえがき」にあり、巻末に洋さんの「後記」が付いている。「男女の平等とか、子の人格の尊重」が言われるようになったが、われわれの家では何一つ変化はなかった、父にとってそれは理想ではなく既に実行された事実なのだと書いてある。
 戦争中に、空襲警報の出るなか、夜半まで鉄兜をかぶって本を読んでいたことなど、我妻さんの生活の一端がうかがえる後記である。

 でも、我妻栄さんといっても、若い人は知らないだろうな。この本の裏表紙に、彼の死亡記事の切り抜きが貼ってあったが、1973年10月21日に亡くなられている。76歳だった。
 もう、若い人どころか、60歳代の法学部出の人でさえ、知らない人がいるかもしれない。
 ぼくは、亡くなる年かその前年の5月3日に、岩波書店主催の憲法記念講演会で一度だけ講演を聞いたことがある。その時も声がやや嗄れていて、話し辛そうにされていた記憶がある。

 2022年11月25日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サクマ式ドロップス

2022年11月17日 | あれこれ
 
 “サクマ式ドロップス” のサクマ製菓が廃業することになったという記事が数日前のニューズで流れていた。
 
 驚いたことに、このニュースが流れるや、サクマのドロップが買い占められて、高値で転売されているというニュースが流れた。
 ネットで “サクマ式ドロップス” を調べると、なんと1万6900円などというとんでもない値段がついている。
 まさかこんな値段で買う人もいないとは思うが、妙な社会になったものである。

   

 幸いにぼくは、2015年の8月に、軽井沢から草津、白根、万座をドライブした折に、偶然草津の道の駅で(上の写真)、この缶を見つけて買った。
 中身のサクマのドロップよりも、ぼくの(ジブリでただ一つだけの)お気に入りの “火垂るの墓” のイラストの入った缶に魅せられて買ったのだった。
 写真の日付けを見ると、偶然にも8月15日、終戦記念日だったようだ。
 そしてこの年、これまたぼくが好きだった原作者の野坂昭如さんが亡くなったのだった。

 2022年11月17日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“ 迷宮グルメ 異郷の駅前食堂 ”

2022年11月16日 | テレビ&ポップス
 
 11月16日(水)午後8時~9時、地上波(10ch)J-テレで、ヒロシの “迷宮グルメ 異郷の駅前食堂” を見た。

 いよいよ見るべき番組がなくなってきてしまった地上波で、ぼくが定期的に見ている数少ない番組の1つである。
 1時間番組で、半分がヨーロッパの旅、半分がアジアの旅である。
 「ヒロシです」のヒロシが(苗字は何というのだろう?)、一人で鉄道旅をしながら、田舎の駅で下車して、駅前を歩きながら地元料理を出すレストラン(駅前食堂)を探して、地元料理を食べる。それだけの番組である。
 ヒロシの茫洋(ヌーボーか)とした雰囲気がいい。「せわしない番組増えたこの時代、それこそ大人に見てほしい・・・」というJ-テレのキャッチ・フレーズにぴったりの番組である。

 きょうは(2018年の再放送だったが)、スロベニアの何処だかの駅で下車して、歩きまわってようやく牛レバーの炒め料理にありついていた。
 テラス席で食べていたのだが、途中でにわか雨に降られ、しかし食べ終わるころにはもう雨はやんで、青空がのぞいていた。虹でも出そうな空模様だった。
 番組の終わる直前に、「これだから駅前食堂(迷宮グルメだったかも)はやめられない!」とヒロシが言っていたのだが、番組は打ち切りになってしまうらしい。
 残念なことである。また一つ見る番組がなくなってしまった。残るはBS-NHKでやってる六角精児の「呑み鉄本線 日本旅」くらいになってしまう。

 これからはどうやって時間を過ごせばよいのだろうか。

 2022年11月16日 記

      

 数日前の散歩で通りかかったときには黄葉をたたえていた銀杏が、2、3日前の夜の強風で、きょう通りかかると、ほぼ枯れ木になってしまっていた。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋の散歩道(2022年11月11日)

2022年11月11日 | 東京を歩く
 
 昼すぎ、石神井公園まで散歩に出かけた。

 最近の東京(というか日本)は四季が感じられず、夏から一気に冬になってしまうので、亜熱帯気候になりかかっているのではないかと思うことがあるけれど、きょうの青空は、まさに東京の秋の空だった。
 小学校の校舎の上空に広がっていた青空、東京オリンピック開会式のあの青空、予備校時代に迎賓館前の公園の芝生に寝そべって眺めた青空、あれやこれやの青空が思い浮かぶ。
   
   

 そして、銀杏の黄葉が午後の日ざしを浴びて輝いていた。プラタナスか何かの大きな枯葉が歩道を舞っている、紋切型だけど秋を感じながら小一時間歩いてきた。
 上野には銀杏が似あうなどと書いたが、うちの近所のほうがきれいだった。
 石神井公園近くの小公園のハナミズキも空を突き上げる力もなく、わびしく枯れていた。でも背景の青空を引き立ててはいた。   
        
     
 レンガのプロムナードには、自分の影が長く伸びていた。 
 ずいぶん日が低くなったのだ。

 2022年11月11日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京国立博物館のすべて

2022年11月10日 | 東京を歩く
 
 東京国立博物館創立150年記念特別展「国宝--東京国立博物館のすべて」を見に行ってきた。

 久しぶりの上野だが、駅の中や駅前が新しくなっていてビックリした。上野駅といえば、小津安二郎の「東京暮色」のラストシーンとほぼ変わらない風景しか記憶になかったので。
 前回訪れたのは、このブログの「東京を歩く」上野編の時だから、十何年か前のことである。

 さて、昨日の上野である。
 入場は抽選で、昨日の午後2時半からの回に当たったので、午後12時に家を出発。1時過ぎに上野駅に到着して、まずは駅の中のたいめいけんに並ぶ。4、5組で10人ほどが順番待ちをしていた。基本的には行列のできる店には並ばないことにしているのだが、時間があったのと、椅子が置いてあったので待つことにした。
 オムハヤシライスを食べる。味はまあまあ、もっと熱いものと思っていたのだが。

   

 ここで時間をつぶして、公園口改札を出て国立博物館へ。
 駅出口の真ん前がすでに上野公園で、ほどなく正面に博物館の建物が見えてくる。
 公園のあちらこちらで、銀杏が黄葉しつつあった。上野には銀杏が似合っている。中学校の教科書に載っていた与謝野晶子の「金色の 小さき鳥の形して 銀杏散るなり 夕日の丘に」は上野周辺を詠んだ歌ではないだろうか。

   

 10分ほど列に並んで、いよいよ入場。
 600円でガイドのイヤホンを借りる。予備知識がまったくないので解説なしでは展示品の価値がわからない。
 日本には国宝が900点近くあるとかで、そのうちの90点がこの博物館に収蔵されているそうだ。
 ぼくが知っていたのは、尾形光琳の風神雷神図、菱川師宣の見返り美人、それに埴輪など数点のみ。
 「お宝鑑定団」の影響か、評価額はいくらくらいなのかばかりが気になった。中には素人目には贋作としか思えないほど見事に輝いている器(茶碗?)もあった。
 キリンの剥製や、かつての帝室博物館の看板なども展示してあって、「国宝」展と銘うっているが、東京国立博物館150年記念展でもあるようだ。

 展示品の中に、もとは法隆寺の所蔵だったという文物がいくつかあり、法隆寺が何で国宝を手放したのかが気になった。廃仏毀釈か何かの影響か・・・。ぼくの父親は聖徳太子を日本歴史上最大の人物と崇め奉っていたのだが。
 皇室や宮内庁の旧蔵品もあり、昭和天皇が日本文化史上の文物に造詣が深かったというのも頷けることだと思った。
 写真撮影が許されているのは、金剛力士像のみ。来場者はマナーを守っていて、ここ以外では誰も撮影したり写生したりしていなかった。

       

 1時間半ほどで、見終えた。
 下の写真は、たしか大正天皇の成婚を記念して建てられた別館、さらに駅に近づくと西洋美術館の前庭にロダンの「考える人」が飾ってある。考える人はもっと横から撮った方が「考える人」らしかったと反省。

   

   

 あまり「芸術の秋」らしくない日記になってしまった。
 残念ながら、所詮は縁なき衆生なのである。

 2022年11月10日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『法典調査会議事速記録(親族相続編)筆記』

2022年11月02日 | 本と雑誌
 
 法典調査会編『法典調査会議事速記録・民法親族相続編筆記』を復刻版で読んでいる。復刻版は舟橋諄一(当時)九州大学教授の編集で、厳松堂書店古典部というところから、昭和7年(1932年)に刊行されたものである。法典調査会における民法親族編、相続編の原案審議の速記録原本から謄写版印刷で複製した貴重な資料である(広中俊雄「民法史研究余滴3」法律時報71巻7号110頁)。

 そのなかから近親婚の禁止に関する条文を審議した個所を読んでいるのだが、テープレコーダーもなかった時代に、かなり細かい条文の解釈をめぐる議論を速記にとって、それを原稿に起こした速記者の努力にまず感嘆する。復刻版は謄写版だが、速記録の原本もタイプ印刷ではなく、謄写版だったのだろうか。
 舟橋教授の指揮下で複製版の原稿を筆写した人たちにも頭が下がる。謄写版の文字からは往時の作成者たちの息遣いが感じられる。資料をコピーし、ワープロで原稿を書き、判例や先行研究もコピペで引用できるというのは、はたして進歩といえるのだろうか。必要なものはすべて図書館などで筆写していた父親たちの世代のほうが、ものを考えるのにふさわしい態度だったのではないかと思えてくる。
 加えて、この複製版には丁寧な索引が付いていて、これも条文を探すのに大変便利である。増渕俊一という九大法学部助手の手になるという舟橋教授の紹介とねぎらいの言葉がある。

 そして明治民法の草案の内容に関する委員たちの議論も興味深いのだが、起草者である梅謙次郎の原案説明や、それに対する委員たちの賛否の意見、その根拠だけでなく、各委員の間の人間関係をうかがわせる発言も記録されていて、読んでいて面白い。相手方を「君づけ」で呼んだり、「さんづけ」だったり、時には呼び捨てのこともある。議長の箕作麟祥が長谷川喬を「長谷川」と呼んでいたりするのだが、師弟関係でもあったのだろうか。

 内容面では、例えば、穂積陳重が「名義」を重んじ、「名義」を正すためには、(婿)養子をひとまず他家へ(再)養子に出し、その後実娘と結婚させるのでなければならない、そうしないと兄妹相婚になってしまうと意見したのに対して、横田國臣が、「名義」を正すなどという「支那流儀」に従う必要はない、彼の地では葬式の際の「泣き男」の泣き方まで流儀があるが詰らないことであると揶揄する。そうすると、高木豊三が、いま議論している傍系血族間の結婚の問題は中国の葬式の「泣き方」とは違うだろう、「名義」が重要なことはわかるけれど、婿養子と実娘とは直接結婚させて差し支えなかろうなどと発言して、両者をとりなしたりする。

   

 もう一つ感心したのは、審議会メンバーたちの議事進行の態度である。
 議長が開会を宣言し、起草委員が原案を提示して説明する。各委員が賛否の意見を述べる。修正意見に対して議長は、それは原案変更の動議ですかと尋ねる。然りと答えれば、動議に賛成する者があるかを確認する。動議を支持する者があれば、動議について議論し、最終的には起立で採決をする。賛成多数であれば修正案が採用され、少数であれば原案通りとなる。
 こうした議事運営の手続きについて、委員の間では共通の理解があるようで、不規則発言だとか、蒸し返しの議論などは見当たらない。ぼくは会議における議事運営のルールは民主主義の出発点だと思っている。とくに「動議」は重要で、動議こそ会議における少数意見の正当な抵抗手段であると考える。
 前にも書いたが、1964年ころ、ぼくの中学校の生徒会の役員会では、最初の会合の際に議長(生徒会長の女子生徒)が、本会はこの「手引き」に従って進行しますと宣言して、国会だったか衆議院だったかの事務局が発行した「議事運営の手引き」を示した。戦後民主主義は、東京の区立中学校でもこのような形で息づいていたのである。

 明治20年代の後半に、このような審議会運営が行われていたことに感動を覚える。イギリス議会あたりを参考にして、帝国議会や法典調査会などで試行されたのが始まりなのではないか。わが国における議事運営の歴史を研究した書物はあるのだろうか。
 それに引きかえ、最近のわが国の政府や議会は何と劣化してしまったのか。不祥事や疑惑が起きるたびに、「議事録はすでに廃棄した」、「もともと議事録は作成していない」、「議事運営規則など作っていない」、「発言者は匿名にする」などと平然と答える議員、大臣、官僚たちには、明治の先人たちの議事運営を今一度見直してもらいたいものである。
 箕作、梅、穂積、横田といった人たちの議事運営と、速記録を作成した速記者など裏方の努力によって、21世紀のぼくは120年以上前の民法起草の過程をそれこそ手に取るように知ることができるのである。土方寧が草案を誤読して発言したのに対して、起草委員の梅謙次郎が「それは誤解です」と訂正し、土方が「判りました」と答える場面なども残っていて、微笑ましさすら感じさせる。

 文化の日を前に。

 2022年11月2日 記

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする