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豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

トマス・ハーディ「テス」ほか

2025年05月18日 | 本と雑誌
 
 トマス・ハーディ「テス」「帰郷」「日陰のジュード」ほかを捨てる。

 「テス」は角川文庫版3分冊(山内義雄訳、あの「チボー家の人々」の !?)のうち、上・中の2巻は持っているが3分冊目の下巻がない。高田馬場駅から早稲田大学に向かう通りの左側の古本屋の店頭で見つけた。2冊100円だった。そのうち下巻も見つかるだろうと高をくくって不揃いのものを買ったのだが、その後角川文庫の「テス(下巻)」を見かけることはなかった。
 「テス」は河出書房の世界文学全集27巻(石川欣一訳)も持っている。こちらは相模大野ロビーシティー内の「古本 “旅の一座”」なる古本屋で100円で買ったと裏表紙の扉に書いてあった。1997年11月14日(金)とある。ただし、角川文庫版も河出全集版も読んでいない。ナターシャ・キンスキーの映画を見ただけである。河出版は取っておくか・・・。
 もうハーディを読むことはないと思うが、1891年に発表された「テス」ではどの程度の性表現(婚外交渉)が許されていたのか、どのように婉曲表現されているのかはちょっと興味がある。逃避行する二人が法的な婚姻関係にないというだけで宿にも泊れなかったのは「テス」だったか「日陰のジュード」だったか。
 「帰郷」(新潮文庫、平成 6年復刊版)には、「大泉学園桜並木通りポラン書房で、1997年11月、上下で550円」で買ったと書き込みがあった。ポラン書房がまだ関越道の下にあった頃に買ったのだ。30年近く前のことだ。ポラン書房は数年前に下屋敷通りからも撤退してしまった。懐かしいけれど、この本も結局読まなかった。
 訳者(大沢衛)によるハーディ礼賛を読むと(下330頁)、モームが「お菓子と麦酒」でドリッフィールドの細君(後妻)を茶化した気持ちが分かるような気がする。

       

 「日陰のジュード」は、岩波文庫版の「日陰者ヂュード」(大沢衛訳)の下巻だけを持っているが読んではない。Penguin Readers というrewrite 版の“Jude the Obscure” と、ケイト・ウィンスレットの映画「日陰のふたり」で済ませた。それでも、主人公の男(高校教師だったか)がオックスフォードの町はずれからカレッジの尖塔を仰ぎ見て絶望する場面や、両親が不遇なのは自分がいるからだと思い込んだ子どもが自殺する場面は強く印象に残った。
 あのような場面を描いたことでハーディが批判を浴びたという逸話も聞いていたから、モーム「お菓子と麦酒」を読んでドリッフィールドの「生命の盃」(だったか?)が世間から非難されたという個所では、「ああ、ハーディだな」と納得した。
 「キャスターブリッジの町長」も、女房を質に入れて(人質!)金に換えてしまう(※競売にかけて金に換えてしまったのだったかも)あの主人公の強烈な性格が印象に残っている。ただし文章の力によるものか、挿入されていた挿し絵か表紙を飾っていたBBC制作のテレビ番組のスチール写真の力によるものかは分からない。後者かもしれない。ぼくは磯野富士子さんの遺品の中から、“The Mayor of Casterbridge” の rewrite 版をいただいた。磯野先生も rewrite 版を手にされることがあるのか、と印象に残った。

 前にも書いたが、 rewrite 版でもよいから速読、多読せよという行方昭夫「英文快読術」(岩波現代文庫)のアドバイスに従って多読した時期に、トマス・ハーディも英文で数冊読んだ。
 “Tess of the d'Urbervilles” ,“Far from the Madding Crowd ”(Oxford Bookworms),
 “The Return of the Native ”(Heinemann Guided Readers),
 “Jude the Obscure ”,“Under the Greenwood Tree ”(Penguin Readers),
 “The Mayor of Casterbridge ”(Oxford Progressive English Readers)である(上の写真)。
 中にメモが挟んであって、「1000頁読破! 次の目標1000頁」と書いてある。助言に従ってハーディ、ディケンズ、オースティンなどの「名作」(有名作)を計 1000ページ以上読んだようだが、rewrite 版はどれを読んでも同じような平易すぎる英文で、あらすじは分かるけれど著者らしさ、ハーディならハーディらしさが感じられないので、やがて飽きてしまった。
 しかしこの程度でもハーディを「読んで」いたので、モームの「お菓子と麦酒」がより興味深く読めたのだろうと思う。何といっても「お菓子と麦酒」のロウジーは「テス」の乳しぼり娘なのだから。

 行方氏は、娯楽のための読み物は「分からぬ箇所は飛ばして、事件の筋を追うようにして読むとよい」とも書いていた(51頁)。彼はシドニー・シェルダンなどを想定しているようだが、ぼくはモームもこの助言通りに、大筋に関係しない箇所は読み飛ばしてきた。ーーと言っても、邦訳なしに読んだのは “A Marriage of Convenience” と “Mabel” だけだが。

 2025年5月18日 記

A・J・クローニン「城砦」

2025年05月15日 | 本と雑誌
 
 A. J. クローニン「城砦(上・下)」(新潮文庫、平成6年復刊)を捨てる(涙;;)。
 
 読んだ記憶もなかったが、上巻は1995年1月18日、下巻は同年1月27日(金)pm. 6 : 30 に読み終えたことが最終ページに書き込んであった。前任校時代に単身赴任していたアパートの部屋で読んだらしい。
 ぼくは出版社を脱サラして大学院に進学し、その後医療系大学の教員に採用された。医学部、看護学部など医療系学部の関連法規科目だけでなく、医学部1年生に対する「医療入門」的な科目も分担した。

 ぼくは患者として医師と接触した経験は結構あったが、医師や医療職、病院や診療所の実態はほとんど知らなかったので、勉強のために医師の書いた本や医療をテーマにした小説などをせっせと読んだ。
 それまでにも、大学受験時代の島崎敏樹、西丸四方から、なだ・いなだ、北杜夫(「どくとるマンボウ青春期」は「医者」が書いた本といえるか? それでも父茂吉の死に際して、注射の最後の1本は自分が打ちたかったなどと殊勝なことが書いてあったように記憶する)、その後も松田道雄(結核で自宅療養中の母の本箱に並んでいた松田「療養の設計」(岩波新書)の背表紙の記憶がある)、小此木啓吾(モラトリアム人間)、山田和夫(家という病巣)、加賀乙彦(小木貞孝の無期囚の研究)などを読んでいたが、医学部の教師になってから読んだ医師の本で一番影響を受けたのは徳永進の「隔離」「臨床に吹く風」(岩波現代文庫)などのエッセイだった。
 そのほかにも札幌医大の心臓移植事件を扱った吉村昭や渡辺淳一の本(題名は忘れてしまったが、どちらかが「白い宴」、他方が「消えた鼓動」だったか?)、黒岩重吾「背徳のメス」などといった医療ものも読んだ。

 そのころ読んだ本に中に、このクローニンの「城砦」もあった。クローニンは他にも三笠書房から出ていたクローニン選集を1冊持っていたが、定年のときに廃棄してしまい、題名も忘れてしまった。「城砦」も読んだ記憶はなかったが、捨てようと思って本棚から取り出してみたら、全部読んだらしく何か所かに傍線まで引いてあった。
 裏表紙の宣伝文句を読むと、南ウェールズの貧しい炭鉱町で医師としての第一歩を歩み始めた青年医師(クローニン自身らしい)が、いったんは世俗的成功を得るために腐心するものの、やがて改心して妻と一緒に理想の医師を目ざすという、「青年医師の魂の遍歴を描く」「感動の自伝的長編」ということになる。モーム「人間の絆」が完結した後のフィリップとサリーの後半生のようでもある。「城砦」というのは主人公が目指す理想の医療、すなわち、患者だけでなく、患者の家族環境、職場や地域環境の改善までを目ざす医療のことのようだ。
 訳者中村能三氏の解説によると、クローニンは人生の街角で出会う一つ一つの事件に感激し、そこにささやかなヒューマニズムを見出すが、根底に横たわる社会的矛盾を見逃してしまうと辛口の評価をしている。モームと対比して、モームが本格的な(シリアスとルビ)作家とされるのに対して、クローニンが大衆的(ポピュラーとルビ)作家といわれるのは、モームの中に存在する鉄壁のようなものがクローニンには不足しているからであるとも書いている(下300頁~)。

 しかし、ぼくが傍線を引いた箇所を再読しただけでも、炭鉱夫に医療を施すだけでなく、炭鉱夫の家族も含めた衛生政策の必要を唱えたり(上201頁)、助手や看護婦の待遇改善を訴え(上228頁)、徒弟制的な実地訓練ではなく最低でも5年間の医学教育の必要性を唱えるなど(上271頁~、289頁~)、たんなるヒューマニズムに終わっているわけではないように思う。 本書は1939年に出版されているが、イギリス医療の国営化(National Health Servise の創設)を提言したベバリッジ報告(1942年)にも影響した、あるいは同報告を反映したのではないかと思わせる記述もある。クローニンは決してたんなるヒューマニズムだけの小説家ではないように思うのだが。 
 物語は、主人公が医師免許を得て「代診」の職に就き、初めての往診で患者のチブスを見落とした苦い経験に始まり(上19頁~)、最後は無免許医業をほう助した疑いをかけられて審問会(刑事裁判の予備審問のようである)に出廷して疑惑と戦う場面で終わる(下267頁~)。
 なかなか熱い医師物語だが、現代の医学生の共感を得られたかは分からない。

 2025年5月15日 記

立花隆「アメリカ性革命報告」ほか

2025年05月14日 | 本と雑誌
 
 本を断捨離するという話は<本と雑誌>というカテゴリーがふさわしいのか、<あれこれ>のほうがふさわしいのか。「捨てる」という行為が重要なら<あれこれ>だろうが、捨てる「本の思い出」が重要なら<本と雑誌>でも許されるような気もする。いずれにしろ、以下の家族に関係する本を断捨離することにした。

 アメリカの「家族」というのは得体が知れないという印象がずっと拭えなかったし、アメリカ「家族法」というのも掴みどころがなくてずっと苦手で敬遠してきた。どうせ深みにはまるだけなので、Sanford N. Katz の “Family Law in America” (OUP)という定評の教科書を 1冊だけ読んで、以後アメリカ家族法には近寄らないことにした。
 アメリカに留学経験のある同業者は、「アメリカ家族法」などというものは存在しない、あるのは各州ごとの家族法であって、そのうちのニューヨーク家族法は実は「有色系ニューヨーカー」(という表記でよいのか)の家族法だと言っていた。
 確かに、アメリカの大学に就職し、その後日本人の妻と離婚した知人は、「アメリカ家族法」などのご厄介にならずに穏便に離婚し、再婚後も元妻との交流も続けている。

 アメリカの「性革命」や「家族革命」も一時期わが論壇をにぎわしたけれど、いつの間にか終息した。
 その頃に読んだ以下の本ももう読むことはないだろうから、断捨離する。本を「捨てることにした」とは書きにくいのだが、「古本宅配買取サービス」の罠(段ボール1箱110円!)に引っかかった不愉快な経験から、古本屋に売るくらいなら捨てたほうがましだという気持ちは変わらない。
 立花隆「アメリカ性革命報告」(文藝春秋)
 上前淳一郎「世界の性革命紀行」(講談社)
 我妻洋「性の実験」(文藝春秋)、同「家族の崩壊」( 同 )
 NHK取材班「アメリカの家族」(NHK出版)、増田光吉「アメリカの家族・日本の家族」( 同 )
 斎藤茂男「妻たちの思秋期」(共同通信)、など。
 
 そして、これらの著書の元になった
 シェア・ハイト「ハイト・レポート(上・下)」(パシフィカ)
 ゲイ・ターリス「汝の隣人の妻(上・下)」(二見書房)
も捨てることにした。いずれもセンセーショナルに喧伝され、話題になった本だが、40年以上も経ってみると一過性のブームに過ぎなかったようだ。当時から「エロ本」として読んだ人も多かったかもしれない。
 これらの著書や活動によって性に対する抑圧が緩和されるようになったのどうか分からないが、いまだにサリンジャー「ライ麦畑で捕まえて」がアメリカ図書館の禁書リストに載っていたり、モーム「人間の絆」が成人指定されるようなアメリカも存在するのである。

       

 ついでに、関連する家族関係の雑書も断捨離する(上の写真)。 
 松原淳子「クロワッサン症候群」、谷村志穂「結婚しないかもしれない症候群」(「症候群」ブームだったのか)、酒井順子「負け犬の遠吠え」、 同「少子」、松本侑子「愛と性の美学」
 小此木啓吾「家庭のない家族の時代」(小此木さんも一時期よく読んだ)、森永卓郎「<非婚>のすすめ」、筒井淳也「仕事と家族」、松永真理「なぜ仕事するの」、NHK取材班「無縁社会」、それに至文堂から出ていた「現代のエスプリ」などいわゆるムック本の家族関係のものなど。
 いずれも紐で縛ってしまったので、版元や出版年などは確認できない。

 当時を知らない人には興味がある内容かもしれないが、ぼくの周辺には思い当たる人物はいない。どの本もネット上の古本屋で買うことができる。これらの本が断捨離された後、資源再利用の循環サークルに乗って、どこかで興味を持つ人物に巡り合ってくれることを願って放流することにしよう。

 2025年5月14日 記

田村景子編著「文豪 東京文学案内」

2025年05月13日 | 本と雑誌
 
 田村景子編著「文豪 東京文学案内」(笠間書院、2022年)を図書館から借りてきて読んだ。
 近所の図書館の入り口を入ってすぐの新収蔵書コーナーに置いてあったので「新刊」かと思ったが、3年前に出た本だった。
 森鴎外から安部公房に至る30人の「文豪」の東京体験と作品中での東京への言及を紹介した本である。登場する作家の中には「文豪」と称するには違和感がある人物もある。そもそも「文豪」とそれ以外の「作家」「小説家」との区別の基準は何なのか? 詩人も「文豪」になりうるのか?  三島由紀夫、井上靖など(ノーベル賞候補作家)が入っていなくていいのか? 大岡昇平は・・・?
  
 川本三郎は「荷風と東京」の序文で、自分のこの本は「文学散歩」とは違うと強調していたように記憶するが、本書は表題通り「文学案内」ないし「文学散歩」に近い内容だった。ただし挿入された地図は作品に描かれた時代の古地図で、作品の舞台の位置を大雑把に理解するにはよいが、この地図を片手に現地を文学散歩するには不向きだろう。
 第1話の森鴎外の項で、わが国で最初に「方眼地図」を考案したのが鴎外の「東京方眼図」だとあった(11頁)。方眼地図とは、今でも「るるぶ」などに採用されている地図だが、例えば「荻窪」周辺地図の横軸には1~9 の番号が、縦軸には a~h のアルファベットが振られていて、荻外荘は<3 f>とあれば横軸 3 と縦軸 f の交わる所に「荻外荘」があるとあたりをつけることができるような地図である。

 ぼくに多少とも地理勘があったので、描かれた場所をイメージできたのは数か所だけだった。
 1つは、宇野浩二に出てくる雑司ヶ谷の自宅を案内した文章である。日本女子大の前を少し目白駅方面に歩き、右折すると欅並木になり、その道を半町ほど歩くと広い道に突き当たる、これを左折してまた半町ばかり歩くと草原の手前に茶畑があり(!)、その茶畑の奥の一軒家が宇野の借りた家だという(246頁)。この辺りは分かる。女子大付属の豊明小学校か幼稚園の退け時に校門前に高級外車が並んでいるあの道だろうか。ケヤキ並木は今でもあっただろうか。突き当たったの広い道は不忍通りか。あの辺りが草原で茶畑があったとは。
 2つは、井伏鱒二の荻窪である。流行作家は大森に住み、左翼作家は世田谷に、三流作家は中央線沿線に住むと言われた時代があったそうだ(330頁)。その中央線沿線の荻窪駅周辺に住んだのが井伏と太宰治だった。ぼくの中学校は隣りの西荻窪にあったし、子どもは荻窪病院で、孫は衛生病院で生まれた。「荻窪風土記」を読んで以来、四面道のあたり(清水町)を通るたびに、ぼくは中学校の教科書で読んだ太宰「富岳百景」の富士山で放屁された井伏先生を思い出す。
 3つは、宇野千代の世田谷である。彼女は東京のあちこちを転々としているが、その中に「世田谷町山崎」というのがあった(326頁)。ぼくは世田谷区世田谷2のxxx で生まれ、昭和31年に赤堤小学校に入学した。赤小(あかしょう)の同級生の多くは松沢中学校に進学したが、学区域の外れに住んでいたぼくは山崎中学校に入る予定だった(途中で転校してしまった)。その山中(やまちゅう)の近くに宇野は住んでいたのだろう。豪徳寺の商店街ですれ違った可能性などはないだろうか。

 地理勘のある町の話ではないが、共感した文章が谷崎潤一郎の項にあった。
 東京生まれの谷崎は東京を嫌って京都に移り住んだ。谷崎は、近頃の東京は面白くない、今の東京をこんな浅ましい乱脈な都会にしてしまったのは、みんな田舎者のポット出、百姓上がりの政治家と称する人間どもの仕業だと書いている(217頁)。
 そうだろうと思う。ぼくの 4人の祖父母は佐賀と滋賀、新潟と石川の出身で、明治末期から昭和初期にかけて東京に出てきた。そんなポット出を祖父母にもつ昭和25年生まれのぼくでさえ、その後の東京の変貌には耐えがたさを感じているのだから、ポット出の末裔として申し訳ないと言うしかない。きっと谷崎のような明治以前からの東京(東亰?)人にとっては耐えがたいことだっただろう。
 ぼくにとっての懐かしい「東京」は、もはや現在の東京の中から見つけることはできない。10年ほど前に韓国のソウルで地下鉄の駅に降りたった時と(あの何とも言えないほの暗さ)、台湾の台北の寧夏夜市近くの古びた2,3階建ての低層ビルが建ち並ぶ街並みを歩いた時(あの建物のくすんだ風合いと広い空)によみがえってきた。「これは昭和30年ころの東京だ!」と思った。
 ※と書いたが、玉電山下駅で下車して小田急の豪徳寺駅に向かう狭い商店街の路地などは昭和30年代の面影を残している数少ない場所である。歩けばまだそういう場所が東京の片隅に残っているかもしれない。
 本書のあとがきで、同じ著者らによる「文豪たちの住宅事情」という先行書があることを知った。こちらにも興味が湧く。

       

 昨日(5月12日)は眼科の定期検査の日。
 診察の待ち時間用に持っていくには本書はボリュームがあったので、似たような新潮社編「江戸東京物語(山の手編)」(新潮文庫、1994年)を持って行った(上の写真)。
 「週刊新潮」に連載されたコラムをまとめたものらしい。1話ごとに、かなり限られた地域を取り上げてその地域にまつわるエッセイと水彩画のイラスト 1枚が添えられている。活字も大きく行間も広くとってあって、眼科の診察前の読書にはちょうど良い(しかし眼圧は前回より 2 上がっていた)。
 「江戸名所図会」の現代版といった趣向か。こちらは文学作品にあらわれた東京を描いたものではないが、芭蕉、馬琴から、石井研堂、黒岩涙香、中江兆民 坪内逍遥、島崎藤村、永井荷風その他を経て、池波正太郎ら最近の文人に至るまでの作家の土地にかかわるエピソードが随所に登場する。
 須賀町の路地裏に向かい合って並ぶ「お岩稲荷」など、かつての職場の近くも出てきて懐かしい。久しく行ってないが、かつて文化放送があったあの辺にも昭和の面影を残す場所はあるだろうか。

       

 昨日は午後2時から受付開始だったので、昼食を済ませて 1時15分に行ったらすでに29人待ちだった。いったい何時から来ているのか。結局検査、診察、会計が終わったのは4時30分近くで、小雨が降り始めていた。
 上の写真は病院の待合室の窓から眺めた駿河台の街並み。一番手前に駿台予備校の校舎が見えている。模試の最中でも正午になると鳴り響いていたニコライ堂の鐘の音が忘れられない。1968年のことである。

 2025年5月13日 記

原武史「レッドアローとスターハウス」ほか1冊

2025年05月04日 | 本と雑誌
 
 原武史「レッドアローとスターハウス もうひとつの戦後思想史」(新潮社、2012年)を捨てることにした。読んだのは2012年11月4日(日)夕方18:23と書き込みがあった。

 断捨離をすると言いながら蔵書をなかなか捨てられないどころか、新たに買ってしまうこともあるので、本を買った場合には同じ冊数の蔵書を捨てるというルールを自分に課すことにした。
 先日も「現代史を支配する病人たち」を断腸の思いで捨てた。ただし同時に10冊近くの本を捨てたのだが(資源ゴミの日に道端のごみ回収場に出した)、残りは何を捨てたのかすら覚えていない。目の前にある時は名残惜しかったのに、いざなくなってみればそんなものだったのだ。  
 ここ最近は、モーム「人間の絆」の翻訳本3冊と英語版を2冊買ってしまったので、同じ冊数だけ蔵書を捨てなければならない。その第一弾が「レッドアロー」である。
 「レッドアロー」は西武線を走っている秩父行きの特急である。ぼくは西武沿線に住んでいて、見たことはあるが乗った記憶はない。「スターハウス」というのは同じく西武沿線のひばりが丘団地だったか滝山団地の建物が上空から見ると星型だったので(パノプティコン?)つけられた愛称らしい。
 本書は、著者が提唱する「空間政治学」なる領域のケース・スタディである。

 西武線沿線の[空間政治学]の事例は、1960年(昭和35年)の安保反対闘争の時代に、久野収さんが西武池袋線沿線で立ち上げた「武蔵野沿線市民会議」である。石神井公園に住んでいた久野が、坂本義和、篠原一、白井健三郎、家永三郎、暉峻淑子らを結集した運動だったという。そういえば編集者時代に、石神井の久野さんのお宅に原稿を頂戴に伺ったことがあった。
 保守的だった西武資本の「西武線沿線」と名乗りたくなかったので、あえて「武蔵野沿線」と命名したらしい。西武池袋線は戦時中は武蔵野線と称していて、戦中か戦後に買い出しのために武蔵野線に乗ったことがある亡母によれば、当時は屋根のないただの貨物車(無蓋車?)だったと言っていた。
 西武は組合が弱くて(なくて?)決してストライキをやらなかった。そのため、鉄道労組がゼネストをやった時も西武線西武バスは走っていたので、ぼくは上石神井駅までバスに乗り、西武新宿線で西武新宿に出て、そこから新宿通りをテクテク歩いて四谷3丁目交差点を曲がって信濃町の会社まで出社したことがあった。
 ぼくは60年安保の頃の記憶はあまりないが、1970年代のベトナム反戦運動の頃は、大泉反戦市民の会だったかという団体が、当時朝霞にあった米軍基地から脱走した反戦米兵をスウェーデンに出国させる運動をやっていたことを新聞記事で読んだ記憶がある。近所の電柱に同会のビラが貼ってあった。
 
 大泉学園は、昭和初期に一橋大学(当時は東京商科大学)を誘致する運動を繰り広げたが、国立に敗れて沙汰やみになったと聞いた。ぼくが通っている近所の開業医の待合室の壁には、なぜか昭和戦前期の大泉学園周辺の古地図が貼ってある。それを見ると、大泉学園駅から北に向かうバス通り沿いには「聖心女子学院建設予定地」と書いてある一帯がある。聖心女子学院も大泉学園に移転する計画があったのだろうか。このことは原の本には書いてなかったと思う。
 個人的な思い出としては、雅樹ちゃん誘拐事件で犯人が身代金受渡し場所に指定したのが大泉学園の北にあった「都民農園」(今でもあるのだろうか?)だった。沿道に警備の警官を配置していたところ、バスで現場に向かった犯人が、車窓から配備の警官に気づいたため取り逃がしたという。捕まった犯人は杉並の歯科医だったが、当時としては珍しい日野ルノーだったかヒルマン・ミンクスだったかに乗っていたと記憶する。
 当時は都民農園に向かうバス通りの沿道は畑ばかりで住宅や商店などはほとんどなかったので、夕方薄暗くなってから風致地区に住む友人の家から自転車で帰るときなどは怖かった。

 一緒に、福間良明「『働く青年』と教養の戦後史」(筑摩書房、2017年)も捨てる。「2017年4月9日(日)pm. 10:20」と書き込みがあった。
 勤労青年の教養という問題も、一時期ぼくが関心を持ったテーマだった。
 ぼくは戦後の新制大学は名称は「大学」となったものの、実質は(戦前の)高等小学校以上旧制中学校未満の学校であると思っている。戦前の小学校卒業生のうち旧制中学に進学した者の進学率は10%から15%程度だったのに対して(大正時代は10%未満だった)、戦後の新制大学の進学率は18歳人口の50~60%を超えるまでになった。進学率だけでいえば戦前の旧制中学のほうが新制大学よりエリート度は圧倒的に高かったのである。新制大学は、戦前でいえば「実業学校」、各種の「技術学校」にほぼ相当する。
 ※「旧制中学入試問題集」(武藤康史著、ちくま文庫、2007年)という本を読んだが、戦前の旧制中学の入試問題は結構難しい。応募者が少なかったせいか、歴史など論述式の出題も多い。
 このように言うのは、「旧制中学」が偉くて「新制大学」が劣っているという意味ではない。社会が新制大学に求めるものが旧制大学や旧制高校、旧制中学に求めたものとは変わったということである。新制大学に求められるのは、旧制中学、旧制高校のような「教養」ではなく、実業学校に求められていた「教養」と、実業学校に求められた職業能力の養成であるとぼくは考える。

 戦後の新制大学に進学した者の多くは、戦前であれば本書の著者が紹介するような教養雑誌、人生雑誌などを購読して勉強した人たちであろう。ぼくは以前から新渡戸稲造が編集主幹(?)を務めた「実業の日本」に自ら執筆した論説に興味をもっていた。とくに彼が “democracy” を「平民道」と訳して、民主主義における「徳」“virtue” を説いたことに感銘を受けた。民主主義社会に生きる人間に求められる “virtue” のことは阿部斉さんの「政治」(UP選書、東大出版会)で知ったのだが、モンテスキュー「法の精神」が説き、バーク「フランス革命の省察」が説いていたことを後に知った。
 「実業の日本」は(福間のいう教養雑誌ではないが)、文字通り実業学校を卒えて社会人になった勤労青年を読者対象とした雑誌ではないかと思う。そのような青年に対して新渡戸が「平民道」として民主主義を説いたように、ぼくもそのような心構えで新制大学の学生たちに語りかけなければならないと自戒していた。
 福間の本にはそんな趣旨のことは書いてなかったが、店頭で本書の題名を目にして斜め読みしたとき、問題意識の持ち方にぼくと共通するところがあると思った。
 この本も捨てがたい。鶴見俊輔以上に捨てがたいが、捨てねばならぬ。新渡戸稲造全集も捨てるか・・・。

 2025年5月4日 記

鶴見俊輔対話集「戦争体験 戦後の意味するもの」

2025年04月15日 | 本と雑誌
 
 鶴見俊輔対話集「戦争体験 戦後の意味するもの」(ミネルヴァ書房、1980年)を読んだ。
 1、2か月前にも再読したが、今回こそいよいよ断捨離する。最初に読んだのは「1980年7月20日(日)pm 3:35。暑い、湿気を帯びて空は曇り始めた。30℃」と書き込みがあった。

 鶴見は1920年の生まれ、対話の相手は司馬遼太郎、鮎川信夫、吉田満、橋川文三、安丸良夫、山中恒、原広司、井上ひさしで、いずれも鶴見と同世代か、10歳前後若い世代。粕谷一希が編集者から見た鶴見の印象を語った短文が添えてある。今回は、司馬、鮎川、橋川、井上を再読し、後はスルーした。
 若いころのぼくは鮎川、司馬などにはまったく関心がなかったと思っていたが、30歳の頃に読んだ形跡があった。鶴見がどういう意図で彼らと対談し、どのような内容の対話になっているのか興味があったので今回読んでみたが、鶴見の真意は理解できなかった。どちらにせよ、みんな遠くへ行ってしまった。 
 毎年8月15日に山田宗睦、安田武と交代で丸刈りにしていたエピソード(7頁)は前回も書き込んだ。そのほか今回印象に残った発言を摘録しておく。

 司馬との対談で鶴見は、「日本がやさしいファシスト国家としてのアメリカとヒューマニスティックな共産主義国家としての中国に挟まれているのは、やはり幸運だと思うのです」と言う(15頁)。ベトナム戦争を起こしたアメリカが軍事国家だということは当時多くの日本人が感じていたことだが、鶴見のように「ファシスト国家」とまで言った人はそう多くはなかったのではないか。トランプの出現によってアメリカの「ファシスト国家」性は一層可視化されたが、それにしてもべトナム戦争のアメリカを「やさしい」とは・・・。
 若いころのぼくは鶴見には関心を持ちつつも、そのアメリカびいきにはずっと違和感を感じていたが、この本の発言の中でもしばしば引っかかった。中国を「ヒューマニスティックな」国家というのも今では疑問だが、80年ころには中国に自由化、民主化の可能性があったのだったか。あるいは80年代にはまだ「借りた食器は洗って返せ」式の八路軍的精神が中国国家に残っていたのだろうか。香港民主化運動の弾圧という後知恵から回顧すると「ヒューマニスティック」というのも「?」がつく。
 司馬の、「ソ連の軍事思想の基本にあるのは、自分の国土が一寸一尺でも侵されるかもしれないという恐怖感覚なんだから、われわれはソ連に対して無害である」という姿勢を保っておけばよい、「たとえ核を持ったにせよ、ソ連には勝てっこない」「ソ連に攻撃されないことが防衛の第一」であるという発言も印象的である。あの頃は「ソ連脅威論」を唱える評論家、国際政治学者(?)が結構いた。最近の「台湾有事論」と同じようである。

 「ベトナム戦争は黒白はっきりしている戦争だし、あれでアメリカを助けたくない」、「アメリカに対する共感は強くいまも私のなかに残っているので、やっぱり非常に嫌ですね」と鶴見は言う(62頁)。ベトナム戦争下でもなお残っている鶴見の「アメリカへの共感」というのはどんな「共感」だったのだろう。
 イギリスは知恵のある人間によって(誰のこと?)大帝国主義から「収縮」へと向かったと鶴見は言う(64頁)。日本でも大正時代に収縮できる機会があった。吉野作造は貴族院を廃止し、統帥権を廃止し軍部を総理大臣のコントロール下に置くことを提案していた。清瀬一郎も星島二郎もその方向だった、そこが「決断のヤマ場」だったと鶴見は言う(64頁)。いま日本は人口減少、高齢化に始まって「収縮」の道を突き進んでいるが、その現実を受け入れて(「子どもが減って何が悪いか」)日本の「収縮」の道筋を提示する政治指導者はいないのか。
 鮎川から、「自分じゃ大して力を尽くしていないけれども、わりあい戦後民主主義を信用しているんですよ」などという意外な発言を引き出したりするあたりが鶴見の対話の強みか(66頁)。

 鶴見は機動隊が導入され学生が殴られるのは好きではない、そういうことをした教室で教えるのが嫌で大学を辞めたという(80頁)。さらに「学生はなるほど甘やかされている、だけれども大学教授ってのは、さらに甘やかされている存在なんだから。あんな甘やかされている職業なんてないですよ、大人の社会に」とも言う(同頁)。
 耳が痛いが、1992年に大学教師になったぼくの感覚では、鶴見が言うほど「大学教授が甘やかされている」とは思えなかった。本を読んだり物を書くのが好きで、人に語りかけ、人と話し合うのが好きな者にとって大学教師は楽しい職業ではあったが。「xx 大学特任教授」「特任准教授」などの肩書で年中、毎日のようにテレビに出て能天気な発言をしているのを見ると、今でも「甘やかされている」大学教授はいるのかもしれない。

 井上ひさしは、岩手県の5分の1くらいを買い占めている大企業から土地をもらって、同志を集めて花巻あたりで「医学立国」をしたい、「キャバレー立国」でもいいと語っている(304頁)。井上は現実を考えない「夢想」だというが、メディカル・ツーリズムだとか、インバウンド客に対する「夜の観光」対策を、などという昨今の風潮や言説にかんがみると「夢想」とは言えない。少なくとも「カジノ立国」などよりははるかに健全だろう。

 鶴見俊輔さんともお別れである。

 2025年4月15日 記
 

五木寛之対談集「白夜の季節の思想と行動」

2025年04月14日 | 本と雑誌
 
 五木寛之対談集「白夜の季節の思想と行動」(冬樹社、1971年)を読んだ。「断捨離」しなければと思いつつ、最近また本を買ってしまっているので、少なくとも買った本の冊数分だけは断捨離することにした。その第1弾が本書。
 裏扉に “Dim. le 21 Novembre '71” と読んだ日付けが書き込んであった。Dim. は日曜日だったか(「シベールの日曜日」、原題は「ヴィル・ダブレイの日曜日のシベール」だった)。
 先日、NHKラジオ深夜便で久しぶりに五木寛之を聞いたのだが、「五木寛之、老いたり」の感を深くした。こちらも老いてきたので、五木の本も2、3冊だけ記念に取っておいてあとは捨てることにした。捨てる決断はするのだが、実際に本をゴミ(資源ゴミだが)に出すという行為に抵抗が強い。かと言って古本屋は引き取らないか買い取るにしても超低価格だろうし(「鶴見俊俊輔著作集」全4巻、「講座コミュニケーション」全6巻を含む段ボール1箱の買取価格が長野の古本屋でわずか110円だった)、ネットのフリマも面倒くさい。
 何らかの流通ルートに乗って誰か必要とする人の手に渡ることを祈って、資源ゴミ回収に出そう。

 さて、本書には、長田弘、中井英夫、開高健、野坂昭如、李恢成、大島渚、内村剛介、井伏鱒二との対話が収められている。全体としては、昭和7年(1930年)生まれの五木が、平壌師範の教師(だったか校長)の息子としての朝鮮体験と敗戦後の引揚者という「原体験」を立脚点として、ほぼ同世代の対話者と語りあっている。
 五木は、1970年ころの空気を(太陽の季節に対比して)「白夜の季節」と呼んでいる。あまり定着しなかったのは「白夜」が日本人にとって馴染みがなかったからだけではなく、「白夜」があの「しらけ」時代を象徴していなかったからだろう。

 長田弘との対談は、フォークソング(「友よ」)が嫌いだという発言があったりしたのでスルーしようと思ったが、ぼくにとってはキングストン・トリオ、ブラザース・フォーが歌うフォークソングのつもりでいた「花はどこへ行った」の話題が出ていたところが目にとまった。五木によれば「花はどこへ行った」には「ピート・シーガー、ショーロホフの「静かなるドン」を読んで」というサブタイトルがついているという。もともとはロシア革命時の内戦で死んでいった人たちの悲哀を歌った歌だという(25頁)。最初に歌ったのはマレーネ・ディートリッヒで、ジョーン・バエズも彼女への敬意を示すために最初はドイツ語で歌ったという。ぼくはあれはベトナム戦争への反戦歌だとばかり思っていた。

 中井英夫との対談で、1970年ころに雑誌「新青年」復刊など夢野久作、久生十蘭、牧逸馬らの復活がブームになり(確かにそんなことがあった)、五木は中井の復活もその一環と位置づける。中井は全面的には納得していない様子だが、昭和10年ころにはまだ文壇では「非国民」の言論が放置されていたという認識では一致する(36頁~)。戦後25年で嶋中事件が起き日本人は敗戦の教訓が本当にあったのだろうかと中井は問う。中井は五木の「朱鷺の墓」に対する失望を表明しているが、ぼくも「朱鷺の墓」や「青春の門」の頃にはすでに「五木離れ」が終わっていた。「朱鷺の墓」は何年ころだったか。
 開高健がべ平連にかかわていたことは忘れていた。彼は朝日新聞の特派員としてベトナム戦争を取材したそうだが、これも忘れていた。ベトナムに取材したジャーナリストでぼくの記憶にあるのは田英夫「ハノイの微笑」(三省堂新書)である。高校時代に彼のようなジャーナリストになりたいと思った時期があった。
 野坂昭如との対談では、五木が講演会終了後に学生服姿の(右翼)学生に取り囲まれたり、家族を脅迫された経験を語っていることが印象的だった。野坂も「平凡パンチ」にここまで書こうと思いながら7分のところで止めたり、テーマを変えたり自己規制していたという(94頁)。野坂は安田講堂事件あたりから「学生は暴徒なり」という空気に変わったという。1970年にはもうそんな時代になっていたのか。

 李恢成との対談が本書の中で一番興味深かった。
 テーマは日本人の朝鮮観が中心だが、サハリンから戦後日本に帰還した李と、戦後2年経ってようやく平壌から引き揚げてきた五木という特異な体験を持った二人の経験が新鮮だった。五木の思想、作家論などよりも、敗戦前後の「原体験」のほうがはるかに興味深い。李の朝鮮に対する「祖国愛」と、五木の「デラシネ」(根なし草)とが好対照である。五木は「ふるさと」というと筑豊ではなく朝鮮の風景が浮かぶという(113頁)。そして朝鮮に対する「原罪意識」を語る(116~7頁)。
 大島渚との対話でも、朝鮮問題が印象に残る。五木は大島には朝鮮人に対するあこがれがあるのでは、と言い、大島は自分には朝鮮人に対する日本人の罪を告発したい気持ちと、自分自身が疎外されていて「朝鮮人みたいなものだ」という気分があると応える(146頁)。大島の先祖は対馬藩の家老で、自分(大島)には「朝鮮人の血がまっているんじゃないか」と言ってみたりすると語る。
 内村剛介は、五木の「蒼ざめた馬を見よ」を読まなかったという(159頁)。ぼくは五木の「蒼ざめた馬を見よ」が出たとき、左翼学生から、この題名は「蒼ざめた馬」のパクリだ!と教えられ、「蒼ざめた馬」を手に取ったことがあった。たしか黒っぽい箱に入った本だった。おそらく現代思潮社から出ていたロープシン/川崎浹訳「蒼ざめた馬」ではないかと思うが、面白くなかったのでやめた記憶がある。ぼくは書き出しの数ページが「面白くない」と放り出してしまう癖がある。
 ぼくは「エンタメ」小説としての「蒼ざめた馬を見よ」が面白いと思ったので、その背景に「青銅の騎士」の引用などロシア文学の蘊蓄があったことなどは知らなかった(160頁)。ゴーゴリはウクライナ人だという指摘があるが(163頁)、当時のぼくはソ連邦に含まれる諸国の住民はすべて「ロシア人」だと思っていたから、気にもとめていなかった。

 実は今回、井伏鱒二との対談を真っ先に読んだ。五木と井伏という取り合わせに興味が湧いたのである。他の対談相手は何となくわかるが、井伏が対談相手に選ばれたのはどんな理由からだろう。
 井伏はどちらかというと聞き手に回っている。話題は五木の平壌からの引揚げと、井伏のマレーへの徴用や甲府・広島での疎開生活という二人の戦争体験から始まる。五木は、敗戦時のロシア兵による残虐行為や引揚げをあっせんする日本人ブローカーの暗躍など、引揚者としての自身の体験を語っている。敗戦時に満州から朝鮮に逃れてきた「満州引揚者」と戦時中からの朝鮮在住者との軋轢、NHKが市民は平壌から移動するなと放送したために日本への引揚げが遅れて辛酸をなめさせられたとNHKへの怒りなどを語る(192頁)。でもNHKラジオ深夜便に80回以上出演しているということは「引揚者」五木の怒りもいつしか収まったのだろう。
 一方井伏は、お金を出せば徴用が免除になったこと、疎開先の甲府では葡萄酒が潤沢にあって太宰治と一緒に飲んだこと、(甲府の空襲による)罹災証明書で無料で広島まで汽車に乗れたことなどを語っていて、戦時中でも飄々とした井伏流の生活の一端を伺うことができる(191~196頁)。
 五木は李との対談で、「引揚げ文学」を書くことはできないでいると語っているが(107頁)、その後五木は自身の引揚体験に基づいた「引揚げ小説」を書いたのだろうか。

 この対談集を一読して、ぼくはリアルタイムで体験した1970年代初頭というある一時代の雰囲気を思い起こすことができた。
 2025年4月14日は、ぼくがかつて憧れた「五木寛之」とお別れする日となった。ちょっと後ろ髪を引かれる思いはあるけれど、五木さん、お元気で。

 2025年4月14日 記

五木寛之「青年は荒野をめざす」

2025年04月02日 | 本と雑誌
 
 NHKラジオ深夜便で、今朝(4月2日)午前4時から「五木寛之のラジオ千夜一話」をやっていた。最近しばらく耳にしなかったが、第80回(夜)だという。
 「対談は楽し」(?)というテーマで、五木が過去に対談したペギー葉山、浅川マキ、井上陽水、山崎ハコ、都はるみなどの芸能人との会話の思い出を語っていた。もともとは饒舌な人だったけれど(最後に聞いたのはいつ頃だったか?)以前のような饒舌さはなく、インタビュアーに促されるように訥々とした語り口だった。

 最後に、五木の同名小説に基づいて五木が作詞して、フォーク・クルセダーズが歌った「青年は荒野をめざす」がかかった。作曲は加藤和彦だった。フォークルは「悲しくてやりきれない」や「イムジン河」などは時おり聞くことがあったが、「青年は荒野をめざす」を聞くのは何十年かぶりだった。五木は北山修とは会ったことがあると言っていたが、フォークルとはそれほど親しかったようではなかった。
 「青年は荒野をめざす」(文藝春秋、昭和42年、手元にあったのは昭和45年の第22刷!)は、平凡パンチに連載された小説だが、ジャズが好きではなかったのであまり印象は残っていない。この小説に影響されて北欧を目ざした若者がたくさんいたらしく、立松和平が「五木さん、責任を取って下さい」と言ったというエピソードをインタビュアーが紹介していた。一般人の海外自由渡航が認められたのは1965年のこととかで、当時は北欧が青年の目ざす「荒野」だったらしい。
 その頃のぼくは「荒野」を目ざすことはなかったが、「蒼ざめた馬を見よ」(文藝春秋、昭和42年、手元にあるのは昭和43年の第7刷だった)を読んで、上智大学の外国語学部ロシア語科を受験してロシア文学をやろうかと思ったことがあった。そして、「蒼ざめた馬を見よ」の口絵写真をみて、五木寛之のような作家になりたいと思った(上の写真、金沢市小立野刑務所横でとある。「青年は~」の裏表紙にも同じ写真が載っている)。彼が新人賞を受賞した「小説現代」を不定期で購読した時期もあった。「サン・ジュヌヴィエーヴの丘で」(?)という小説現代新人賞受賞作を読んで、これくらいならぼくにも書けるのではないかと思ったが、書けなかった。

 五木との対談が終わって、アルフレッド・ハウゼの「愛の喜び」がかかった。この曲が流れているうちに眠ってしまったらしい。

 2025年4月2日 記

スタインベック「怒りの葡萄」

2025年02月27日 | 本と雑誌
 
 東京新聞2025年2月26日夕刊の「下山静香のおんがく ♫ X ブンガク ✑ 」欄で、スタインベックの「怒りの葡萄」を取り上げていた。
 執筆者は「ピアニスト、執筆家」という肩書で紹介されているが、以前にもサマセット・モームの「クリスマスの休暇」について、作品中に登場するイギリス人ピアニストがロシア系女性から「あなたにはロシアの曲は弾けない」と難詰される場面を中心に紹介していた。
 今回の「怒りの葡萄」も、オクラホマからカリフォルニアに移住してきた主人公ジョード一家が、わずかな安息を求めてハーモニカやフィドル(どんな楽器?)、ギターを弾きながら「チキン・リール」という曲に合わせて踊る場面を紹介している。「チキン・リール」はアメリカ人作曲家デイリーによるラグタイム調のピアノ曲だそうだ。

 ぼくは1964年10月11日に「怒りの葡萄」全3巻(大久保康雄訳、新潮文庫、昭和38年4月第14刷)を読み終えた。下巻のカバー裏にその旨の書き込みがある。1964年10月11日といえば、東京オリンピック開会式の翌日ではないか。開会式が土曜日だったから11日は日曜日、前日とはうって変わって東京は雨が降っていたはずである。
 日付に続けて「I think “East of Eden” is better than “The Grapes of Wrath” 」などと書き込んである。中学3年生の英作文であるが「エデンの東」への思い入れが最高潮だった時期がしのばれる。
 残念ながら、下山氏が書いている「チキン・リール」(どんな曲か?)を主人公のジョード一家が踊る場面の記憶はない。あの頃のぼくたち中学高校生にとっては、文化祭で踊る「オクラホマ・ミキサー」や「マイム・マイム」が女の子と手をつなぐ唯一の機会だったから、「怒りの葡萄」にそんな場面が登場したら記憶に残ったと思うのだが。ぼくの印象に強く残ったのは、シャロンのバラ(大久保訳ではそう呼んでいたが、最近の新訳ではローザンシャロンとか訳していた)が飢えで死期の迫った老人に乳を含ませる場面だった。
 というより、「怒りの葡萄」で一番印象に残っているのは実は内容ではなく、向井潤吉が描いたカバーの絵である。アメリカ西部の砂塵に煙ったルート66沿いの風景や、ジョード一家と家財一式を乗せた壊れかけのフォードのトラック、夢見てやって来たカリフォルニアの現実に失望するジョード一家の表情など、今でも瞼に浮かんでくる。主人公は明らかに映画「怒りの葡萄」で主人公を演じたヘンリー・フォンダの顔である(上の写真)。たしか新潮文庫版ヘミングウェイ「武器よさらば」の表紙カバーも向井潤吉だったと思う。あの頃以来、ぼくは向井潤吉の描く田舎の風景画が好きである。

 最近の小説をちっとも面白いと思えない(読んでもいないので面白いかどうかも分からないのだが、食指を動かされる題名や推薦文、内容を紹介する宣伝コピーにさえ出会えない)ぼくとしては、モームとスタインベックを登場させた下山さんに、この二人を取り上げただけでも共感を感じてしまうのである。

 2025年2月27日 記

 追記 書いていて思い出したのだが、ぼくが初めてスタインベックの名前を知ったのは、中学校の国語教科書(石森延男編だったと思う)に載っていた石森の随筆の中に、「赤い子馬」を読んでいる少女が登場して、「赤い子馬」は「スタインベックという人の作品よ」と語っている場面だった。

直井明「87分署のキャレラ エド・マクベインの世界」

2025年02月12日 | 本と雑誌
 
 きのう(2月11日)の東京新聞朝刊の死亡欄に直井明氏が2日に亡くなったという記事が出ていた。
 福島重雄弁護士(元札幌地裁判事)の死亡記事(享年94歳)と並んで載っていた。福島氏は、長沼ナイキ基地訴訟の裁判長として自衛隊を違憲とした判決内容だけでなく、裁判の過程で地裁所長が判決に介入したいわゆる「司法の危機」の当事者として有名である。

 ぼくは一時期エド・マクベインの「87分署」シリーズにはまっていた。「はまった」といっても、飽きっぽいぼくの場合はそのシリーズなり著者なりを10冊も読めば「はまった」ことになる。「87分署」シリーズも早川ポケットミステリとハヤカワ文庫で合計15冊くらい読んだだけである。その後、直井明「87分署のキャレラーーエド・マクベインの世界」(六興出版、1984年)という本を古本屋で見つけて買った。ただし、この著者ほどにはマクベインやキャレラ(主人公の刑事)自体には興味が湧かなかった。「87分署」の小説それ自体を読んで、ストーリーとその背景になったアイソラ(ニューヨーク)の雰囲気を味わうだけで十分だった。
 同書の表紙裏に、同じ直井氏の「87分署インタビュー エド・マクベインに聞く」、「87分署グラフィティ」「87分署シティー・クルーズ」(すべて六興出版)の新聞広告が挟んであった。本書の著者紹介によると、氏は1931年東京麻布の生まれ、東京外語大インド語学科卒業の商社マンで、本書執筆当時は商社(会社名はない)のヒューストン支店長、南達夫のペンネームでミステリ小説の受賞歴もあるとのこと。昨日の死亡記事によると、享年93歳、肩書は「海外ミステリー研究家」で、「本名非公表」となっている。記事によると、「87分署グラフィティ エド・マクベインの世界」で1989年に日本推理作家協会賞評論その他部門賞を受賞したとある。
 シャーロック・ホームズの「原典」を「研究」する「シャーロキアン」に倣うなら、氏はさながら「キャレリアン」とでも言えようか。  

 この本も断捨離候補の山積みにした本の中に積んであったが、もうしばらく置いておこうか。

 2025年2月12日 記

P・アコス他「現代史を支配する病人たち」

2025年02月01日 | 本と雑誌
 
 P・アコス、P・レンシュニック著/須加葉子訳「現代史を支配する病人たち」(新潮社、1978年)を読んだ。これも断捨離する前のお別れの読書。

 1950年生まれのぼくにとって、物心がついて最初に知った国際政治上の人物の名前は、マクミラン(イギリス)、アデナウアー(西ドイツ)、ドゴール(フランス)、フルシチョフ(ソ連)、アイゼンハワー(アメリカ)、毛沢東(中国)、ネール(インド)、ナセル(アラブ連邦)などなどだった。これらの人物が同時代の舞台に立った政治家だったのかどうかは自信がないが、ぼくの国際政治に関する記憶のデフォルトはこのような人物の名前とともにある。
 小学生の頃に、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、ナセルはアラブの大統領!」などという笑いがはやったこともあった。「山からころころコロンブス、それを取ろうとトルーマン」などというのもあったが、トルーマンが大統領だった時代の記憶はない。ネタ元は当時ぼくのご贔屓だった柳亭痴楽の「話し方教室」だったかもしれない。

 本書は1976年にフランスで出版されたものだが、著者の一人はジャーナリスト、もう一人は内科医師で、第2次大戦期から1970年代までの大物政治家たち27人の言動を病理学的というか病跡学的に分析したものである。
 登場人物は、ルーズベルトから始まって、アイゼンハワー、ケネディ、ニクソンらアメリカ大統領、ヒトラー、ムッソリーニ(サラザール、フランコも)らナチスト・ファシスト、彼らと対峙させられたチェンバレン、ダラディエ、チャーチルらヨーロッパの政治家、さらにアデナウアー、ド・ゴール、ポンピドーとつづき、東側のレーニン、スターリン、フルシチョフ、(間にイーデン・ナセルを挟んで)周恩来、毛沢東で結ばれる。
 懐かしい名前が続き、その表舞台での活動とその背後に潜んでいた病気の影響を暴いてゆくのだが、一番多かったのは高齢化、老衰による判断力や行動力の低下であって、高血圧だったとか軽い脳梗塞を起こしていたとう場合もあるが、必ずしも「病気」というほどではないものあるし、あえて「病気」というよりは本人の気質とか性格(のゆがみ)のような事例も少なくない。

 その一方で、やはり本人の病気が国際政治に大きな影響を及ぼしたと言わざるを得ない例も少なからず見受けられた。
 本書の冒頭の話題であるヤルタ会談当時のルーズベルトはアルヴァレス病を病んでおり、腹心のホプキンスは胃がんを患っており、ともに会談後相次いで亡くなっている。会談当時すでにスターリンを相手に、後に紛争地帯となる東ヨーロッパの帰属をめぐって外交交渉を展開する体力、気力は二人にはなかった。ルーズベルトの血圧が300/170だったこともあったという驚くべき記録も紹介されている(25頁)。
 若くて精悍な美青年というイメージで登場したケネディが、実は学生時代のフットボールの試合中に負った椎間板骨折による痛みに生涯悩まされつづけていたというエピソード、さらにアジソン病という腎疾患を患っており、常にコーチゾン(ステロイド剤?)を服用しなければならなかったという事実も知らなかった(55頁~)。著者によれば、ニクソンは強迫神経症で、ウォーターゲイト事件の特別検察官ハーヴァード大学コックス教授の追及によってニクソンは溶解した(74頁)。

 ヒトラーの書き出しは、1976年の驚くべき世論調査の数字の紹介から始まる。
 1976年当時アメリカの18~21歳の青年の92%は第1次大戦の認識を欠き、82%は1929年の経済恐慌に関心がなく、62%が真珠湾攻撃を、56%が朝鮮戦争を知らず、40%がケネディ暗殺を知らないというのだ(77頁)。ヒトラー主義の恐怖はもう人の心に浸透しないと著者は書いている(78頁)。そんなアメリカ社会であってみれば、マスクが極右政党を支持しハイル・ヒットラーのポーズをとったことに驚く我々はアメリカへの認識が欠如していたのかもしれない。
 そのヒトラーはヒステリー症で、潜在的同性愛を示す受動的、マゾヒスト的性格であり、近眼であることを隠すために一切眼鏡をかけず、特製の大きな文字のタイプライターを使っていた(80頁~)、さらに停留睾丸で、パーキンソン病の症状も現れていたという(92頁~)。ただし彼はイギリス、フランス政府が週末に休暇を取ることを知っていて、必ず土曜日に奇襲攻撃をかけたという。そのヒトラーと戦うフランス軍元帥のガムランは誇大妄想と矛盾が張り合う神経梅毒の患者であった(90頁~)。

 チャーチルの晩年は、まさに引き際を誤った老政治家の哀れな末路を象徴している。80歳にもなれば高齢化に伴う様々な不都合が生じるのは当然で、高血圧や高コレステロールの影響による「病気」の指摘よりも、高齢化による政治外交遂行能力の減退を考えるべきだろう。毛沢東の最晩年の記述などまさにその好例である。他方、周恩来のがん発症ように、外交遂行能力も十分な時期に政治生命とともに彼の生命を奪った病気は惜しんでも余りある。
 アデナウアー、ド・ゴール、フルシチョフ、ブレジネフその他の面々の「病気」エピソードは省略するが、忘れかけていた1970年代に至る国際政治の様々な事件や会議と、その舞台に登場した政治家たちのあれこれを思い出させる懐かしい読書になった。 
 本書は、公開された各政治家の自伝・伝記や医学雑誌の記事、報道等に依拠して記述されているが、著者は「結論」において、政治家の病気についてはヒポクラテスの誓い(医師は患者の病気を暴いてはならない)は適用されるべきではない、肉体的、精神的病人が最高権力を握るのを防止する点で民主的諸制度は極めて不十分であり、元首の心身の状況を調査することは全市民の正当防衛の権利であると主張する。
 今日から見ると病気や病人に関して適切を欠く記述も見受けられるが、著者の問題意識と指摘は現代でも重要なテーマである。
 
 巻末に訳者のあとがきがあり、翻訳をする者にとって有用な指摘が書いてある。
 訳者によれば、原文に正確という美名のもとに逐語的な正確さばかりを狙ったのでは日本語として読みにくい文章になってしまう。そこで訳者は、(1)原文の一語一語をその文脈の中で正確に把握する、正確な把握には一文全体、一段落全体、一章全体に及ぶ、言葉はフランス語自体、文章はフランス文自体として理解され、ニュアンス・リズム・感覚もフランス文化圏内でとらえる。(2)(1)で理解された文章からできるだけ忠実な日本文を想定する。(3)(2)の日本文を修正し、意味とニュアンスが最も原文に近くなるように一語一語を選択し直し、素直な日本文になるように再構成する、という。さらに、欧文に頻出する主格代名詞や所有形容詞は意味が通る限り省略する、逆に欧文の代名詞は固有名詞で言いかえて説明しないと意味が分からなくなる(ことが多いので固有名詞で言いかえる)などである。
 さすがに本書の訳文は意味の取れない箇所もなく、大変に読みやすい訳文であった。

 なお、裏表紙に1982年2月10日付朝日新聞の「政治家と病気」という記事が挟んであった。戦後日本の歴代首相の病歴を扱っているが、最大の謎は石橋湛山の病気(風邪!?)による首相辞任、その後の回復だろう。ぼくには毒を盛られたとしか思えない。石橋が病気、退陣していなければその後の日米関係は今とは違った形になっていただろうと思う。
 病気になっても辞めない政治家も迷惑だが、あまりに潔い(潔よすぎる)石橋も残念である。

 2025年2月1日 記

「民法(家族法)改正のポイントⅠ」

2025年01月31日 | 本と雑誌
 
 大村敦志・窪田充見編「「民法(家族法)改正のポイントⅠーー2018~2022年民法改正編」(有斐閣、2024年)を読んだ。 
 今年最初にして、しかも久しぶりの法律の専門書である。専門領域だからきちんと応対しなければならないのだが、ひとまず読んだことだけ書き込んでおく。

 本書は、近年の家族法領域における民法改正について解説する本であり、分担執筆の各論稿は基本的に今次の立法の経過と、改正内容の客観的な紹介が中心である。
 近時の改正のうちとくに関心のある実親子法および生殖医療関連法の箇所を中心に読んだ。ぼくは今次の実親子法改正の基本方向や改正の具体的な内容に賛同できない部分が少なくないので、本書の記述にも納得できない部分がある。
 ーーと書き始めてはみたものの、やはり論文を書くべきだろうと思いとどまった。
 
 以下では誤植(ではないかと思われる)箇所を指摘しておく。
 はしがきⅸページ、9行目 「法性」⇒「法制」(これは誤植)
 本文119ページ、6行目 「子C」⇒「C」(だろう)
  〃149ページ、下から9行目 「子と認知した者」⇒「子を認知した者」(ではないか)
  〃188ページ、6行目 「出産した子により生まれた子」⇒「出産した子」または「出産により生まれた子」(だろう。そうでないと意味不明だが)
 ※なぜか9行目と6行目が多い。96(苦労)が多い?

 2025年1月22日 記

ぼくの探偵小説遍歴・その8ーー余滴

2025年01月28日 | 本と雑誌
 
 (承前)ぼくが探偵小説や小説一般に飽きた原因の一つははっきりしている。

 勉強で家族法の判例を読むうちに、実際に起きた事件を扱った判例を読むほうが、下手な小説などよりはるかに面白いことを発見してしまったのだ。
 そもそもぼくは、大学時代の家族法の講義で先生が紹介した、田村五郎「家庭の裁判--親子」(日本評論社)を読んだのがきっかけで家族法に興味を持つようになった。しかも最初に読んだのが「水商売の女の貞操」という認知の訴えに関する章だった。

       

 その後、ぼくは平成5年頃から令和に至るまで、毎年家族法関係の判例のうち、公刊された判例集に登載されたものを全件読んで、判決の要旨を執筆して、関係条文の該当項目に配列し、検索の便宜のためのキーワードを抽出するという仕事をしてきた。毎年20件から60件程度の判例を2人で分担して執筆するのである。中には読み物としてはあまり面白くない事例もあるが、時には事実関係がきわめて興味深い事案に出会うことがある。
 事件の当事者には申し訳ないが、第三者として読むと(不謹慎と言われそうだが)やはり「面白い」事案が結構ある。あまり文才があるとは言えない裁判官の手によるものであっても、事実自体が大変に興味深く、下手な小説よりもよほど読ませるのである。
 おそらく、ぼくが小説をほとんど読まなくなってしまったのは、これが原因だと思う。

 ぼくは教師になって、1コマあたり90分の授業を年に25回、1週当たり5~11コマを担当(1週当たり5~7コマが普通だったが、一番負担が多かった学期には1週で11コマも持ったことがあった)するようになった際に、講義の組み立てや話し方を考えるうえで一番役に立ったのは、中川善之助先生の講義や講演を活字化した本だった。中川さんは大正時代に東大を出て、戦後の民法家族法改正にも寄与された家族法の大家だが、座談の名手でもあった。学問のことだけでなく、家族に関する各地の風習・習俗から、日本各地の民謡や民話などについても造詣が深い方で、「民法風土記」(日本評論社、後に講談社学術文庫)という著書もある。
 私は一度だけ中川先生と酒席をご一緒させていただいたことがあった。九段坂上の「あや」という料亭だった。先生は仲居さんをつかまえて、「あなたはどこの出身か」「あの辺りでは今でも末っ子が相続しているのかね」などと、話の相手に合わせてご当地の話題を語って、座を和ませるのである。民謡を歌われたこともあったと聞いた。
 その中川先生の「家族法判例講義(上・下)」(日本評論社)や、「民法 活きている判例」(同)、「民法講話 夫婦・親子」(同)、「家族法読本」(有信堂)、などは、講義のテーマにまつわる様々な話題を提供してくれる。ある年の授業評価で、受講生が「先生(ぼく)の講義はどこまでが本論で、どこからが余談か分からない」とコメントを書いたことがあった。これはぼくにとって、ある意味で褒め言葉であった。ぼくは「余談」はするけれど、授業とまったく関係のない無駄話は(まったくしないわけではないが)ほとんどしない。講義のテーマを理解するうえで、本筋を離れる場合も、学生たちの印象に残るような「サイド・ストーリー」を語ってきたつもりである。中川先生や田村先生の種本が面白かったこともあって、サイド・ストーリーのほうばかりが記憶に残ってしまったかもしれない。
 
 2024年5月25日 記

 ※ 書くことがないので、ほったらかしてあった古い草稿をそのまま載せた。

志賀直哉「小僧の神様 ほか」(集英社文庫)

2025年01月23日 | 本と雑誌
 
 志賀直哉は「小僧の神様」なども含めて、偕成社版「少年少女現代日本文学全集」の「志賀直哉名作集」(1963年)で読んだはずだが、冒頭の写真は、息子が子どもだった頃に買い与えた志賀直哉「清兵衛と瓢箪 小僧の神様」(集英社文庫、1992年)の表紙カバーである。
 2000年頃までは新潮、角川、小学館、集英社など各社が、毎年夏休み前になるとこぞって若者をターゲットに自社の文庫本から古典的な名作をピックアップした小冊子を配布するなど販売促進活動をしていたものだった。本書の表紙カバー見返しにも、「青春必読の1冊 集英社文庫ヤング・スタンダード」と称して、芥川「河童」「地獄変」から、漱石、鴎外、鏡花、宮沢賢治、川端、太宰、堀辰雄、梶井基次郎、中島敦らを経て、山川方夫「夏の葬列」、吉行淳之介「子供の領分」に至る40冊近い目録が載っている。しかし、いつの間にか若者は文庫本の販売対象ではなくなってしまったようだ。「笛吹けど踊らず」だったのだろう。
 この集英社文庫も、表紙カバーのイラストが若者向けなだけでなく、本文も活字が大きく行間も広くとってあり読みやすい印象を与えている。もちろん新仮名遣い、新字体で、ルビ、語注までついている。巻頭には著者の若いころの写真などを納めた口絵ページがあり、巻末には解説の他にも著者の経歴や作品を網羅した年譜などをつけて若い読者に配慮しているのだが。
 
 「小僧の神様」は、短編小説の名手として「小説の神様」といわれた志賀直哉中期の代表作だと解説はいう。
 話の最後に作者(志賀)自身が登場して、小僧が立て替えてもらった握り寿司の代金を払いに行ったら、そこにはお稲荷さんの祠があったとかいう結末にしようと思ったが、小僧が気の毒なのでやめたと書いていたことが、中学生の頃に偕成社版で読んだときには強く印象に残った。こんな風に作者自身が小説の中に顔を出す小説を読んだのは初めての経験だったのだろう。その後柴田錬三郎「うろつき夜太」や、最近になって読んだ永井荷風「濹東綺譚」、高見順「故旧忘れ得べき」などにも作者自身が登場する場面があったから、小説作法として特別なことではなかったのだ。
 集英社文庫版のもう一つの表題作である「清兵衛と瓢箪」は、かつて読んだときはあまり好い印象を残す小説ではなかった。幼い少年が骨董屋の店頭に置かれた一見何でもない瓢箪(ひょうたん)を気に入って購入するのだが、周囲の大人たちからは馬鹿にされる、しかしのちにその瓢箪に高値がつくといった内容だったと思う。そもそも瓢箪に価値があるなどという世界がぼくには当時も今も理解不能なので、そんな瓢箪に目利きかどうかなど主人公の少年の価値に何の関係もないではないか、という思いをぬぐえなかった。少年の審美眼を信じるというのも白樺派作家の「善意」なのだろうか。

      

 今回、「網走まで」「母の死と新しい母」「正義派」「范の犯罪」「城の崎にて」などを読んだ。ついでに旺文社文庫版「網走まで 他16編」(昭和43年、手元にあったのは昭和52年13刷。上の写真)で「沓掛にて」を読んだ。
 「沓掛」は現在の中軽井沢駅周辺の昭和30年ころまでの呼称である(沓掛時次郎!)。あのあたりの何が書いてあるのだろうと期待して読んだが、中身は芥川龍之介との思い出話で、彼の自殺を篠ノ井から沓掛に向かう信越線の車中で知ったという以外に「沓掛」はまったく登場しなかった。ぼくは志賀が「沓掛」で芥川と出会ったことがあり、そのときの思い出を回想するのだろうと期待したのだったが、期待外れだった。ただ、志賀の芥川に対する突き放したような見方が印象的だった。志賀が芥川を都会人、自分を田舎者と見ていたことも意外だった。
 「城の崎にて」も城の崎のことはほとんど描かれていないし、「網走まで」も青森行きの列車で同席した母子が(どんな理由があってか)網走に向かっているというだけだった。小説の題名に地名をつけた志賀の真意が分からないが、「沓掛」「城の崎」「網走」に何か含意があったのだろうか。「沓掛にて」のテーマは芥川の死だが、彼の死に「沓掛」が係わりがあったと志賀は考えたのか。「城の崎にて」もテーマは「死」それ自体だが、誰かの死が城の崎に係わりでもあったのだろうか。「網走まで」は、ひょっとすると母親の夫は受刑者で母子は刑務所に面会にでも行く途中だったのだろうか。
 
 今回読んだ志賀の小説の中で一番ぼくの印象に残ったのは「范の犯罪」である。偕成社版に入っていたかは覚えていないが、旺文社文庫には入っていた。編集者時代に、誰だったか法律家の随筆で「范の犯罪」に触れたものを読んだことがあった。
 主人公は中国人の奇術師夫婦である。夫(范)が戸板の前に直立させた妻に向かってナイフを投げるという芸当を見せるのだが(ウィリアム・テル!)、ある時夫の投げたナイフが妻の喉にあたって妻は死んでしまう。裁判になり、夫に殺意があったか否かが争点になる。実は結婚直後に、妻が結婚前に交際のあった男との間の子を産んだため(死産だったが)、夫婦は結婚直後から不仲となり、夫はその事実を受け入れようとキリスト教の洗礼まで受けるが、心の安らぎを得られないでいたということを夫自身が告白する。殺意があったのかどうか、夫は自分自身でも分からないと告白する。
 最後に裁判官が「無罪」と心証を得るところで話は終わるが、たとえ殺人で無罪だとしても、(重)過失致死罪の責任は免れないだろう。
 その結論の当否よりも、「范の犯罪」では妻の不貞(この小説では結婚前のことだが)に対する主人公(=志賀)のこだわりが印象的である。「暗夜行路」はもっと直截に妻の不貞による出産という自分の出生の秘密(への疑惑)がテーマになっていた。
 小津安二郎の映画に対する志賀直哉「暗夜行路」の影響は何人も指摘しているが(浜野保樹「小津安二郎」岩波新書ほか)、小津「風の中の牝鶏」の夫(佐野周二)の煩悶などは、「暗夜行路」というよりむしろ「范の犯罪」の影響の方が強いのではないか。最近読んだ佐古純一郎「家からの解放」(春秋社)では、そもそも「暗夜行路」の主人公時任健作が抱いた父子関係への疑念の脆弱さが厳しく批判されていたが。

 集英社文庫版の最後のページには、「2002年8月27日(火)」という日付と下の息子のサインがあった。日付からして、夏休みの宿題の読書感想文を書かせるために読ませたのかもしれないが、小学校6年、12歳の息子には「范の犯罪」や「正義派」は無理だろう。「『小僧の神様』を読んでごらん」とちゃんと読書指導をしたうえで読ませただろうか。太宰治「新樹の言葉」のような感想は書いてなかった。

 2025年1月23日 記
 

丹羽文雄「小説作法」(角川文庫版)

2025年01月11日 | 本と雑誌
 
 持っているはずなのに見つからなかった丹羽文雄「小説作法」(角川文庫、昭和40年、手元にあるのは昭和52年第12版)を本棚で見つけた。
 志賀直哉の「小僧の神様」なら小学生が読んでも面白いかもしれないと思って、志賀「網走まで 他16編」(旺文社文庫、昭和52年)を本棚から取り出そうとしたら、その数冊隣りに、何と!探していた時には見つからなかった丹羽「小説作法」が並んでいるではないか。
 ぼくの記憶通りにカバーのかかった角川文庫版であった(上の写真)。しかも、図書館で借りてきた講談社文芸文庫版には入っていなかった「小説作法・実践編」という続編も合本となって収められていた。

 さらに驚いたことに、途中で投げ出したと思っていたのだが、「正編」だけでなく「続編」=「実践編」までちゃんと読み通したようで、青インクのペンで傍線まで随所に引いてある。読まなかったのは「正編」の実作例として掲載された「女靴」と「媒体」という小説だけだった。しかも、読んだ時期と動機も記憶違いだった。
 ぼくは、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」やサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」のような青春小説を書きたいと思って、20歳前後の頃にこの本を読んだように記憶していたが、「1977年11月9日に読了」とメモがある。27歳の時に読んだのだった。さらに、最終ページには「日経・経済小説懸賞募集」の広告が切り抜いて挟んであった。「経済・ビジネスに題材を求めた長編で、400字詰め原稿用紙350枚~500枚、選考委員は江藤淳、尾崎秀樹、城山三郎、新田次郎、山田智彦の各氏、当選賞金300万円、佳作2作各50万円」とある。
 27歳といえば社会人3年目で、サラリーマン生活最初の危機の渦中にあったころである。世間知らずだったぼくが大学を出て初めて経験した「サラリーマン生活」の日々を書こうと思ったのだった。自分を松山中学校の「坊っちゃん」に見立てて、悪戦苦闘の末に最後は赤シャツ連合に敗北して会社を辞めて故郷に帰るというストーリーを考えていたのだった。当時のぼくは笹川巌「怠け者の思想」(PHP)に表れたサラリーマン像に共感していて、それが主人公の造形にも影響したように思っていたが、調べると笹川の本は1980年発行だったからここでも記憶の捏造があったようだ。あるいは1980年代に入ってからも未完の小説を書きつづけていたのかもしれない。
 丹羽「小説作法」(角川文庫版)で、傍線を引いてあったのは以下のような箇所である(要約して引用した個所もある)。

 「私は説明という形式を極端なくらいに避ける。説明の部分が多いととかく低調になりやすい」(25頁)、「作者はつねに、どんな人間に対しても貪婪なくらいの好奇心と愛情をもっていなければならない」(28頁、嫌な奴でも愛情をもって観察するなどということは当時の(今でも)ぼくには無理だった)、「誰からもどこからも非難されないような立派な主人公は嘘である。そんな主人公に出会えば、読者は退屈をしてしまう」(35頁)、「作中人物が正義感にあふれて言動するのはいいのだが、作者までがそれと一緒になって正義感をふりまわすのは間違いであ(る)、たとえ主人公が作者であろうと、小説である以上は、別の存在でなければならない」(86頁)などの助言は、出版社で正義漢のつもりで暴れる主人公を想定していた当時のぼくにはきわめて適切な助言だっただろう。小説は書けなかったけれど、当時の現実社会(会社)で自分の行動を客観視する指針として役に立ったはずである。
 「作者には自ずと限界がある、大切なことは、作者は己のよく知っている範囲内で小説を書くということである」(42頁)、「テーマはしっかりしたもの、自分の身についたものを探したほうがよい」(54頁)、「小説を書きはじめる人が、筋をどの程度に決めてかかるかと迷うのは当然である。いくつかの章に大別してかかれば安心出来る。この章には何枚ぐらい、という風に計画を立てる。書出し、発展の過程、結びと大別してかかれば、便利であろう」(67頁)、「事件または行為、人物、背景の三つが小説の三要素である。人物(には)自分のよく知っている人間をモデルに借りる」(88~9頁)、自然描写も自分の知っている場所を選ぶべきであり、丹羽は三鷹(武蔵野市西窪?)に住んでいたので熟知している三鷹駅周辺や(国木田独歩のではない)昭和戦後期の武蔵野の風景をよく登場させたという。
 小説における「時間の経過」についての助言や(131頁)、小説の中の「会話」は日常生活の会話とは異なることの注意もあった。「正編」の最後では、「自分のことを書き給え、自伝を書き給え、この素材はどんな素材よりも秀れている、先ず自分のことから書くべきである。自分のことが書けないような作家は、一人まえの小説家とは言えない」と助言し、しかし「自分のことを書くのには勇気がいる」と忠告する(180頁)。

 当時のぼくが自分のサラリーマン生活を書こうとしたのは、丹羽の指南に従えばテーマ設定として正解だったけれど、主人公と作者自身を分離して、正義感を振りかざす主人公を客観的に観察して叙述するといった芸当は当時のぼくにはできなかった。
 結局ぼくは構想した小説を書きあげることはできず、その後転職の決断もできないまま 9年間も編集者稼業をつづけた挙句に、在職10年目の4月末に出版社を退職し、紆余曲折を経た後に教師になった。今では、教師こそぼくにとっての天職だったと思っている。もし本気で小説家などを目ざしていたら、その後の自分はどうなっていただろうと考えただけでも恐ろしい(昔の人なら「くわばら、くわばら」と胸をなでおろすだろう)。
 ちなみに、丹羽「小説作法」の中には、「井伏鱒二の初期の自然描写は心にくいほど巧みであった。自然描写の名手は、その後あらわれていない」(90頁)という指摘もあった。初期の井伏とは「ジョン万次郎」あたりだろうか、今度読む時にはその自然描写にも気をつけて読んでみよう。「作者は読者の参加という問題に敏感でなくてはならない、読者は小説を補充してくれるものである」という忠告もあった。モームの小説でさえ、もっと読者を信じて、こんな描写や説明は省略すればよかったのにと思ったことがある(「凧」や「魔術師」などだったか)。

 2025年1月10日 記