五木寛之対談集「白夜の季節の思想と行動」(冬樹社、1971年)を読んだ。「断捨離」しなければと思いつつ、最近また本を買ってしまっているので、少なくとも買った本の冊数分だけは断捨離することにした。その第1弾が本書。
裏扉に “Dim. le 21 Novembre '71” と読んだ日付けが書き込んであった。Dim. は日曜日だったか(「シベールの日曜日」、原題は「ヴィル・ダブレイの日曜日のシベール」だった)。
先日、NHKラジオ深夜便で久しぶりに五木寛之を聞いたのだが、「五木寛之、老いたり」の感を深くした。こちらも老いてきたので、五木の本も2、3冊だけ記念に取っておいてあとは捨てることにした。捨てる決断はするのだが、実際に本をゴミ(資源ゴミだが)に出すという行為に抵抗が強い。かと言って古本屋は引き取らないか買い取るにしても超低価格だろうし(「鶴見俊俊輔著作集」全4巻、「講座コミュニケーション」全6巻を含む段ボール1箱の買取価格が長野の古本屋でわずか110円だった)、ネットのフリマも面倒くさい。
何らかの流通ルートに乗って誰か必要とする人の手に渡ることを祈って、資源ゴミ回収に出そう。
さて、本書には、長田弘、中井英夫、開高健、野坂昭如、李恢成、大島渚、内村剛介、井伏鱒二との対話が収められている。全体としては、昭和7年(1930年)生まれの五木が、平壌師範の教師(だったか校長)の息子としての朝鮮体験と敗戦後の引揚者という「原体験」を立脚点として、ほぼ同世代の対話者と語りあっている。
五木は、1970年ころの空気を(太陽の季節に対比して)「白夜の季節」と呼んでいる。あまり定着しなかったのは「白夜」が日本人にとって馴染みがなかったからだけではなく、「白夜」があの「しらけ」時代を象徴していなかったからだろう。
長田弘との対談は、フォークソングは嫌いだという発言があったりしたのでスルーしようと思ったが、ぼくにとってはキングストン・トリオ、ブラザース・フォーが歌うフォークソングのつもりでいた「花はどこへ行った」の話題が出ていたところが目にとまった。五木によれば「花はどこへ行った」には「ピート・シーガー、ショーロホフの「静かなるドン」を読んで」というサブタイトルがついているという。もともとはロシア革命時の内戦で死んでいった人たちの悲哀を歌った歌だという(25頁)。最初に歌ったのはマレーネ・ディートリッヒで、ジョーン・バエズも彼女への敬意を示すために最初はドイツ語で歌ったという。ぼくはあれはベトナム戦争への反戦歌だとばかり思っていた。
中井英夫との対談で、1970年ころに雑誌「新青年」復刊など夢野久作、久生十蘭、牧逸馬らの復活がブームになり(確かにそんなことがあった)、五木は中井の復活もその一環と位置づける。中井は全面的には納得していない様子だが、昭和10年ころにはまだ文壇では「非国民」の言論が放置されていたという認識では一致する(36頁~)。戦後25年で嶋中事件が起き日本人は敗戦の教訓が本当にあったのだろうかと中井は問う。中井は五木の「朱鷺の墓」に対する失望を表明しているが、ぼくも「朱鷺の墓」や「青春の門」の頃にはすでに「五木離れ」が終わっていた。「朱鷺の墓」は何年ころだったか。
開高健がべ平連にかかわていたことは忘れていた。彼は朝日新聞の特派員としてベトナム戦争を取材したそうだが、これも忘れていた。ベトナムに取材したジャーナリストでぼくの記憶にあるのは田英夫「ハノイの微笑」(三省堂新書)である。高校時代に彼のようなジャーナリストになりたいと思った時期があった。
野坂昭如との対談では、五木が講演会終了後に学生服姿の(右翼)学生に取り囲まれたり、家族を脅迫された経験を語っていることが印象的だった。野坂も「平凡パンチ」にここまで書こうと思いながら7分のところで止めたり、テーマを変えたり自己規制していたという(94頁)。野坂は安田講堂事件あたりから「学生は暴徒なり」という空気に変わったという。1970年にはもうそんな時代になっていたのか。
李恢成との対談が本書の中で一番興味深かった。
テーマは日本人の朝鮮観が中心だが、サハリンから戦後日本に帰還した李と、戦後2年経ってようやく平壌から引き揚げてきた五木という特異な体験を持った二人の経験が新鮮だった。五木の思想、作家論などよりも、敗戦前後の「原体験」のほうがはるかに興味深い。李の朝鮮に対する「祖国愛」と、五木の「デラシネ」(根なし草)とが好対照である。五木は「ふるさと」というと筑豊ではなく朝鮮の風景が浮かぶという(113頁)。そして朝鮮に対する「原罪意識」を語る(116~7頁)。
大島渚との対話でも、朝鮮問題が印象に残る。五木は大島には朝鮮人に対するあこがれがあるのでは、と言い、大島は自分には朝鮮人に対する日本人の罪を告発したい気持ちと、自分自身が疎外されていて「朝鮮人みたいなものだ」という気分があると応える(146頁)。大島の先祖は対馬藩の家老で、自分(大島)には「朝鮮人の血がまっているんじゃないか」と言ってみたりすると語る。
内村剛介は、五木の「蒼ざめた馬を見よ」を読まなかったという(159頁)。ぼくは五木の「蒼ざめた馬を見よ」が出たとき、左翼学生から、この題名は「蒼ざめた馬」のパクリだ!と教えられ、「蒼ざめた馬」を手に取ったことがあった。たしか黒っぽい箱に入った本だった。おそらく現代思潮社から出ていたロープシン/川崎浹訳「蒼ざめた馬」ではないかと思うが、面白くなかったのでやめた記憶がある。ぼくは書き出しの数ページが「面白くない」と放り出してしまう癖がある。
ぼくは「エンタメ」小説としての「蒼ざめた馬を見よ」が面白いと思っただけで、その背景に「青銅の騎士」の引用などロシア文学の蘊蓄があったことなどには関心がなかった(160頁)。ゴーゴリはウクライナ人だという指摘があるが(163頁)、ぼくなどの認識ではソ連邦に含まれる諸国の住民はすべて「ロシア人」だと思っていたから、当時は気にもとめていなかった。
実は今回、井伏鱒二との対談を真っ先に読んだ。五木と井伏という取り合わせに興味が湧いたのである。他の対談相手は何となくわかるが、井伏が対談相手に選ばれたのはどんな理由からだろう。
話題は五木の平壌からの引揚げと、井伏のマレーへの徴用や甲府・広島での疎開生活という二人の戦争体験から始まる。五木は、敗戦時のロシア兵による残虐行為や引揚げをあっせんする日本人ブローカーの暗躍など、引揚者としての自身の体験を語っている。敗戦時に満州から朝鮮に逃れてきた「満州引揚者」と戦時中からの朝鮮在住者との軋轢、NHKが市民は平壌から移動するなと放送したために日本への引揚げが遅れて辛酸をなめさせられたとNHKへの怒りなどを語る(192頁)。でもラジオ深夜便に80回以上出演しているということは「引揚者」五木の怒りもいつしか収まったのだろう。
一方井伏は、お金を出せば徴用が免除になったこと、疎開先の甲府では葡萄酒が潤沢にあって太宰治と一緒に飲んだこと、(甲府の空襲による)罹災証明書で無料で広島まで汽車に乗れたことなど、戦時中でも井伏流の飄々とした生活の一端を伺うことができる(191~196頁)。
五木は李との対談で、「引揚げ文学」を書くことはできないでいると語っているが(107頁)、その後五木は自身の引揚体験に基づいた「引揚げ小説」を書いたのだろうか。
この対談を一読して、ぼくは1970年代初頭というある一時代の雰囲気を思い起こすことができた。
2025年4月14日は、ぼくが憧れの「五木寛之」とお別れする日となった。ちょっと後ろ髪を引かれる思いはあるけれど、五木さん、お元気で。
2025年4月14日 記