豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

京マチ子からの葉書(昭和24年2月25日)

2024年05月07日 | 映画
 
 2、3日前のNHKラジオ深夜便だったか、その後の早朝の番組だったかで、誰か映画評論家が、黒澤明「羅生門」のことを話していた。
 途中からだったこともあり、詳しくは覚えていないが、当時東宝が労働争議で映画が撮れなかったので、黒澤は永田雅一に誘われて大映で「羅生門」(1950年)を撮ったと言っていた。これに続いて京が出演した「雨月物語」「地獄門」(1953年)が相ついでベネチア、カンヌ映画祭やアメリカのアカデミー賞を受賞したため、京マチ子は一気に国際女優となり、日本でもスターになったという。
 黒澤は「羅生門」を原節子で撮りたかったが叶わなかったので、京マチ子で撮ることになったのだという。同年に木下恵介の「カルメン故郷に帰る」も公開されたが(1951年)、高峰秀子と京マチ子はともに1925年生まれだと言っていた(ネットでは1924年、大正13年となっている。大正13年生まれの亡母が高峰と同い年といっていたから1924年が正しいだろう)。ちなみに、マーロン・ブランドとマルチェロ・マストロヤンニも同じ1925年生まれだと言っていた。
 
 などという話を半分夢うつつで聴いてから(聞き間違いがあったらお許しください)、きょうの昼間、古い蔵書を何気なく開いてみたところ、中に京マチ子から祖父にあてた葉書が挟んであった。こういうことは偶然なのか、誰か(神?)の作為によるものなのか・・・。
 といっても、意味深長な内容ではなく、彼女が松竹歌劇団を退団し、大映京都に入社することになった旨が印刷された宣伝の挨拶状である。ただし、宛て名と宛て先は万年筆で手書きである。日付けは2月25日とだけ書いてあるが、切手の消印は「24.3.1」となっているから、昭和24年(1949年)だろう。切手は清水寺の舞台を描いた薄紅色の粗末な印刷の2円切手である。
 表面はレビュー姿の京で、「レビュウの女王 京マチ子 大映入社」「第1回出演映画 『最後に笑う男』」という宣伝文が入っている(上の写真)。
 祖父が何かに応募でもしたのか、ファンクラブにでも入っていたのか。ぼくも桜田淳子から来た葉書を1枚持っているが、この祖父にしてこの孫あり、である。

 なお、この本の中には、京マチ子からの葉書に他に、その頃祖父が住んでいた仙台の映画館のパンフが2枚挟んであった。
 1枚は、日乃出映画劇場の「舞踏会の手帖」のパンフである。「ギャラ・プレヴュ GALA PREVUE (拡張会館・豪華なご披露 8月3日 1日限り)」という青い判が押してある4つ折りのパンフである(下の写真)。「ギャラ・プレビュ」とか「拡張会館」とはどういう意味か。1日だけ上映したということなのか。1937年制作というが、日本公開は何年だったのだろうか。
 映画好きだった祖父は、当時母が通っていた宮城第一高女では生徒が映画館に入ることを禁止していたのに、「親がついていれば大丈夫だ」と言って、心配する娘(私の母)を平気で映画に連れて行ったという。
 「舞踏会の手帖」は、結婚生活20年の後に夫に先立たれた妻が、16歳の時に舞踏会で出会った10人の男たちを、当時の「手帖」を頼りに訪ね歩くという筋立てらしい。ぼくも、60年近く前の中学、高校生だった頃に出会った女性たちを訪ねて歩く映画を作ってみたい。

   

 もう1枚は、仙台日活館のビラである(下の写真)。
 こちらには、当時の旧制中学受験を描いたらしい「試験地獄」、ゲーリー・クーパー主演「砲煙と薔薇」、ジームス・ギャグニ―主演「シスコ・キッド」などの宣伝が載っている。「試験地獄」は1936年公開らしいから、「舞踏会の手帖」もその頃のものだろう。

       

 1936、7年というと大昔のようだが、ぼくが生まれるわずか12、3年前である。この13年の間に女学生だった母は学校を終え、結婚しぼくを産んだ。一方、祖父が亡くなって今年8月でちょうど40年になる。自分が生まれる12、3年前のことは大昔のように思えるが、祖父が亡くなってからの40年はあっという間に過ぎていったような気がする。
 歴史の遠近法はどのようにして形づくられるのだろうか。

 2024年5月7日 記

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小津安二郎『秋刀魚の味』--2023年最後の映画

2023年12月27日 | 映画
 
 きのう12月26日(火)午後1時から、“ NHK-BS シネマ ”で、小津安二郎の『秋刀魚の味』を見た。
 先週の同じ時間帯に「お早よう」を見た時に次週予告があったので、忘れないで見た。
 「デジタル修復版 <スタンダード・サイズ>」と画面表示にあった。画面のタテ・ヨコ比を修正する方法が分からないので、そのまま見たが、少しタテ長で、笠智衆や佐田啓二の顔や足が長すぎるような気がするのだが(下の写真)。
 「秋刀魚の味」はこれまでに4、5回見ただろうか。ぼくは同じ映画を2度見ることはほとんどないのだが、「秋刀魚の味」は何度見ても悪くない。

   

 若い頃(といっても50歳頃まで)は小津映画の中では「父ありき」が一番好きだったが、最近では「秋刀魚の味」がいい。小津の最後の映画である。誰かが「小津の最後の作品が『秋刀魚の味』では・・・」と嘆いていたが、ぼくは小津の最後の作品としても悪くないと思う。いい余韻が残る。
 「東京物語」を小津の最高傑作とする見方が一般的らしいが、ぼくは「東京物語」はあまり好きでない。テーマが重すぎるのだ。「孤老」がテーマなのだが、妻に先立たれた笠を末娘の香川京子がずっと見守ってくれるような気がする。あのラストシーンからは、そう見えてしまった。

 「秋刀魚の味」もテーマは「老い」だと思う。「東京物語」の笠智衆よりは多少は若い年齢に設定された笠智衆、中村伸郎、北竜二(それに東野英治郎)たちが主役だが、定年をまじかに控え、末娘を嫁に出す笠にも「老い」は迫っている。
 以前にも書いたが、ぼくは予備校に通っていた18歳の頃に、奥井潔先生の英語の授業でモーム(の抜粋)を読んだ。後に出版された奥井先生の「英文解釈のナビゲーター」(研究社)を見ると、先生はモームを読みながら、若さとか友情とか嫉妬とか老いとか、要するに「人生」について若かったぼくたちに問いかけていたのだったが、18歳のぼくにはそのような感情を受け入れるレセプターがまったくなかった。
 自分も60歳を過ぎたころから、ようやく老いを感じることができるようになったのだろうか、「秋刀魚の味」が身に染みるのだ。   
 
 今回も「いつもながらの」(“Mixture as Before” )小津の風景が随所に見られた。
 会社の重役を務める笠の重役室には応接室が付属していて、そのドア際には来客が帽子とコートを掛けるコート掛けが置かれていた。ぼくが大学を出て就職した出版社の会議室もそんなつくりで、ドアの脇にコート掛けが置いてあった(下の写真)。
             

 定年も近い裕福なサラリーマン中村伸郎の家の和室はそれなりに立派な風情で、他方、若いサラリーマン佐田が住むアパートの一室はまだ冷蔵庫も掃除機もテレビもなく、休日には佐田が座布団を枕に寝そべって手持無沙汰に煙草をふかしている。
 佐田の勤める会社の屋上にはゴルフ練習場があるようだ。ぼくの会社にはゴルフ練習場はなかったが、木造3階建ての3階は壁際の書棚に資料が積んであり、部屋の真ん中には卓球台が1台置いてあった。
 マダム(岸田今日子)が亡くなった妻に似ていると言って笠が通うトリスバーのようなバーは今でもあるのだろうか。
 
 冒頭の写真は「秋刀魚の味」のなかでも、ぼくが好きな場面の一つである、石川台駅のホームの岩下志麻と吉田輝雄のツーショットのシーン。小津映画に定番のこのシーンでは、いつも二人は離れて立っている。「麦秋」の原と二本柳、「お早よう」の佐田と久我、そして岩下と佐田、みんな離れて立っている。
 50年以上前のこと、下校時刻の吉祥寺駅北口の改札口で、高校生だったぼくを待っていた武蔵野女子学院の女の子がいた。声をかける勇気がなかったけれど、岩下志麻くらい色の白い子だったーーなどと思い出しながら見た。 
 先日の岩下志麻が「最終講義」(NHK、Eテレ)で語っていた、失恋して部屋に戻って一人泣く場面はしっかりと見たが(前の書込み「お早よう」を参照)、その前の場面で、思いを寄せる吉田にはフィアンセがいることを父(笠)と兄(佐田)から聞かされた場面の岩下の表情がよかった。  
 
 今年最後の映画が「秋刀魚の味」でよかった。

 2023年12月27日 記

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小津安二郎『お早よう』(NHK-BS)

2023年12月20日 | 映画
 
 12月19日(火)午後1時から、NHK-BSで小津安二郎『お早よう』(松竹、1959年、デジタルリマスター版)をやっていた。
 「お早よう」は、小津作品の中では好きな作品ではないのだが、暇だったので見た。
 基本的にはいつもながらの小津映画である。佐田啓二と久我美子が私鉄の駅のホームで立ち話をする場面は(上の写真)、「麦秋」の原節子と二本柳覚の北鎌倉駅、岩下志麻と吉田輝雄の石川台駅と同じである
 荒川(?)沿いの土手と、その下で繰り広げられる昭和の東京郊外の家庭生活風景、とくに杉村春子ら昭和の主婦たちの「世間」がこの映画のテーマの(1つの)ように思った。
 阿部謹也さんの「世間」論の中に、専業主婦の女性には「世間」はないと書いてあったが、昼下がりの団地公園の砂場の周りなどは「世間」そのものである。阿部さんもこの小津映画を見ていれば考えを改めたのではないか。

 「お早よう」では、いつもは脇役の子役が(準)主役級で登場する。しかし、小津には子どもを主役(級)にした映画は無理だったように思った。その子役たちがオナラの出し合いを競うというのも品がないし、ユーモラスとも思えない。あんな遊びが当時はやっていたのだろうか。昭和30年代の世田谷では聞いたことがない。
 小津映画はやっぱりサラリーマンだろう。しかし、そのサラリーマンを演じる笠智衆、東野英治郎があまり精彩がない。杉村たち主婦陣も、沢村貞子、三宅邦子、賀原夏子、高橋とよとたくさん出てくるのだが、散漫な印象である。「秋刀魚の味」では彼らの演技がよかっただけに、残念である。
 
 舞台となった土手沿いの新興住宅街に、「助産婦」の看板を掲げた家があった。あんな噂話好きのおばさん連中がたむろしている町で、助産師の営業は困難だったのではないか。「東京暮色」で産科医を演じていた女優がこの町に住んでいて怪演していた。
 
   

 子どもたちが父親の笠に買ってもらったテレビが届く場面があった(上の写真)。子どもたちが近所のアパートに住んでいる水商売の女性の部屋に入りびたってテレビを見ているので、仕方なく買うことにしたのである。東野が電機屋の営業に転職して売り込みに来たせいもあるが。
 わが家でも1959年にテレビを買った。9歳だったぼくが近所のテレビのある家(その家のお父さんはNHKに勤めていた)に入りびたりで、時には夕飯までご馳走になって帰ってくるので、親が根負けしたらしい。
 わが家にテレビが届いたのは水曜日の夜8時すぎで、最初に見た番組はNHKの「事件記者」だったと記憶する。それまでは経堂の駅前にあった南風座に「月光仮面」などを見に行っていたのだが、テレビを買ってからは映画館には行かなくなった。記憶にあるのは、太田博之主演の「路傍の石」を学校から下高井戸の映画館に見に行ったことくらいしかない。
 小津の晩年の映画に、テレビが家庭に入ってくるシーンが残っているのも皮肉である。そういえば、「秋刀魚の秋」にも、阪神・大洋戦(ピッチャーがバッキーで打者が桑田武だった)を中継するテレビを中村伸郎たち見ている場面が出てきた。 

   

 それはそれとして、番組の最後に来週のこの時間(12月26日午後1時から)に、「秋刀魚の味」が放映されるという予告があった(上の写真)。
 覚えていたら、そして時間があいていたら見ることにしよう。
 そう言えば、2、3日前にNHKのEテレで、岩下志麻の「最終講義」というのをやっていた。あの「秋刀魚の味」の彼女も82歳だという。
 小津映画の話ばかりではなかったが、「秋刀魚の味」に出演した際に、岩下が(兄の佐田啓二の友人の)吉田輝雄に失恋した際の演技で100回もNGが出たと話していた。撮影現場では小津はどこが悪いか一言も言わなかったが、撮影後に小津に食事に誘われた時に、「人は悲しい時に悲しい表情をするんじゃない、人の感情はそんな単純なものではない」といった趣旨を諭されたという。
 来週見るときには、このシーンを気をつけて見ることにしよう。

 2023年12月20日 記

 追記
 そう言えば、数日前のNHKラジオ深夜便「NHKアーカイブス」で、杉村春子の聞き語りの再放送をやっていた。杉村81歳の時のインタビューで、聞き手は杉浦圭子アナだった。広島の女学校を出て、(当初の希望だった声楽家を断念して)築地小劇場の面接を受けて合格したが、広島弁を直すのに2、3年かかったと言っていたように思う(半分眠りながら聞いていたので)。「お早よう」では、沢村貞子の東京弁と遜色ない東京のおばさんの喋り口になっていた。
 もう一つ、そう言えば、さる12月12日は、たしか小津の没後60年にして、生誕120年の日だった。小津は12月12日に生まれて、12月12日に60歳で亡くなっている。

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映画『返校--言葉が消えた日』

2023年12月05日 | 映画
 
 映画『返校--言葉が消えた日』(2019年、台湾。ツイン、DVD)を見た。

 蔣介石の国民党政権が台湾で恐怖政治を行っていた1962年(民国51年)、戒厳令下の台湾の高校を舞台にした映画である。ホラー映画の範疇に入るらしい。

 最初のシーンは古びた赤レンガの塀沿いに生徒たちが登校する風景から始まる。生徒たちに活気はない。むしろ陰欝な印象である。
 壁には「厳禁集党結社」という標語が大書されている。
 字幕では「共産党スパイの告発は国民の責務」「共産党の手先を隠せば同罪となる」「扇動する者を取り締り」「国家転覆を図る者は死刑に処す」というナレーションが流れる。

 この高校でタゴールの詩集を読む読書会グループの教師と生徒が、密告者の内通によって国家反逆の廉で憲兵の捜査を受け、逮捕され拷問されて、殺される。
 誰が密告者なのかは分からない。ホラー映画というものをほとんど見たことがないので(「エクソシスト」と「シャイニング」くらいしか記憶にない)、その「映画文法」がよく分からない。過去と現在の時空を行き来しているのか、そうではなく主人公たちの妄想の世界、心象風景を描いているのかも分からないのだが、恐怖感は十分に伝わってくる。ゲーム的な動きが感じられるシーンもあった。
 タゴールはインド出身の作家だが、植民地支配を批判した作家だったという。そんなタゴールすら読むことが許されない、読んだ高校生が死刑に処される時代だったのだ。
 ※下の写真は碓氷峠の見晴台に向かう山道の途中に建つタゴール座像の石標。日本女子大学の招きで軽井沢で講演を行ったという(三泉寮だろう。本女もミッションスクールだった)。生誕120年を記念して建立されたとある。
   

 この映画は、もともと「返校」というゲームが原作だという。
 ゲームが映画の原作になるというのも古い世代のぼくには理解しがたいが、メイキング・ビデオによると、ゲームの原作者(製作者?)3人も、この映画のジョン・スー監督も、1962年台湾の蒋介石政権の恐怖政治を実体験したことのない若い世代の人たちのようである。監督は、戒厳令下に弾圧を受けた人たちやその遺族に自ら面会して体験談を取材して映画製作に際して参考にしたという。
 その世代の人たちが、蔣介石国民党時代の戒厳令下の恐怖政治の体験を共有しようとしていることに感銘を受ける。
 わが国の若い世代に、戦後の「日本の黒い霧」や「真昼の暗黒」の記憶を共有する人たちがどれほどいるのだろうか。

 時あたかも、香港の民主化運動で逮捕された周庭さんが、カナダのトロントから声明を発したニュースが流れた。
 周庭さんはその後どうしているのだろうと思っていたが、香港国家安全法違反で有罪判決を受けて服役し、釈放された後も当局の監視を受けていたようだ。どのような経緯か分からないが、今年の9月からカナダに滞在しており、この度カナダへの「亡命」を宣言したという。
 香港には二度と戻ることはないと言っていた。香港が彼女が帰還できる自由な社会になることは、彼女の生涯のうちに訪れることはないと判断したのだろう。
 習近平政権の支配が及ぶ香港政府に対して周庭さんが抱いた恐怖こそ、映画「返校」に描かれた国民党戒厳令時代の台湾の人々が権力側の人間(憲兵や密告者)に抱いた恐怖、そして、その過去を共有する現在の台湾の人びとが、国家安全法の名の下に政権批判の言論が封じられている大陸に併合されることへの反発につながるのだろう。
 
 2023年12月4日 記

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「風と共に去りぬ」「会議は踊る」ほか

2023年09月06日 | 映画
 
 『ある陪審員の四日間』を読みながら、久しぶりにレコードを聴いた。

 映画音楽の主題歌を集めたアルバムで、1枚は「想い出の映画音楽のすべて--Immortal Movie Themes」(CBS SONY SOPV-71~72 )発売年は不明(上の写真)。
 「禁じられた遊び」「マルセリーノの歌」「鉄道員」「ムーランルージュの歌」「第三の男」「太陽がいっぱい」「テリーのテーマ」(「ライムライト」の主題歌だった)「真夜中のブルース」「タラのテーマ」「エデンの東」「夏の日の恋」「ムーンリバー」「慕情」「魅惑のワルツ」など、懐かしい曲ばかりが、2枚組LPに24曲収録されている。
 1曲2~3分なので、10分ちょっとおきにレコードを裏返さなければならないのがつらいけど、久しぶりに聞いたのでどの曲も懐かしい。「禁じられた遊び」など何年ぶりで聞いたのだろうか。今ウクライナで起こっていることと同じではないか!

   

 見開きのジャケットには、収録された映画の解説と、スチール写真が何枚か載っている(上の写真)。ぼくがホセ・ファーラーをロートレックだと思い込んだ「赤い風車」のショットもある。


     

 もう1枚は、「想い出の亜米利加・欧羅巴映画音楽ベスト20」(TEITIKU BL-1166~7)。こちらも製作、発売年は不明(上の写真)。
 「想い出」も「亜米利加」「欧羅巴」もわざとらしい印象だが、収録された映画の年代からして、許すことにしよう。
 「巴里の空の下」「ただ一度の」(「会議は踊る」の主題歌)「巴里祭」「自由を我等に」など1920~30年代に公開された映画ばかりで、ぼくが見た映画はほとんどない。
 ただ、リリアン・ハーヴェイが歌う「ただ一度の」にだけは思い出がある。

 このレコードだったか、ラジオからこの曲が流れるのを聞いた今は亡き叔父が、旧制高校時代に「ドイツ語の勉強」と称して「会議は踊る」を見に行ったという思い出を語っていたのである。
 叔父の通った高校は7年制の旧制東京府立高校で、ぼくの学んだ東京都立大学の前身の学校である。叔父はこの学校のぼくの先輩ということになるが、ぼくが入学した1969年当時も、学校は旧制時代と同じ目黒の柿の木坂にあり、A棟と呼ばれた3階建ての校舎は旧制高校当時のままだった。
 ぼくが大学1年の時に、英語を担当した笠井先生という老先生がおられたが、この先生は叔父が旧制高校に入学した年に新しく着任したばかりの先生だったという。

 笠井先生の授業は1時間目だったが、始業時間ぎりぎりの朝9時近くに都立大学駅を降りたぼくは、遅刻の名人だったが、柿の木坂で前をゆっくりとした歩調で登って行く笠井先生を見つけて追い越すと、安心して速度を落として教室へ向かったものだった。
 笠井先生は、ぼくが1年か2年の時に定年で退職された。
 このレコードのジャケット裏には、リリアン・ハーヴェイの写真も載っていた。
 映画「会議は踊る」の解説には、1931年の製作だが、日本公開は3年後の昭和9年1月、帝劇ほかで上映とある。大正9年生まれの叔父が7年制旧制高校に在籍したのは、12歳の昭和7年か8年から7年間だから、年代はあっている。
 ※ 叔父と笠井先生の思い出を書きながら、この話は前にもこのコラムに書きこんだ気がしてきた。2006年以来15年以上書いてきたので、過去に何を書き、何は書いてないのかの記憶も怪しくなってきた。

 そして「亜米利加・欧羅巴映画音楽・・・」の解説には、この「ただ一度の」は、「ポルカ風リズムの軽快な魅力あるメロディーは世界のすみずみまで歌われました」とある(南葉二解説)。
 その「世界のすみずみ」の1つが、昭和12~3年頃の柿の木坂の旧制東京府立高校だったのだろう。
 ぼくが大学に入学したのは昭和44年(1969年)だから、叔父が学んでいた頃から30年しか経っていなかったのだ。それに対して、ぼくが大学を卒業してから来年でもう50年になる。ぼくの歴史の遠近法では、前者の30年のほうがよっぽど長く、その後の50年はあっという間だった気がする。

 そう言えば、小津安二郎の「秋刀魚の味」や「秋日和」などの挿入歌も、「ただ一度の」を思わせる陽気なポルカ風の曲が多かったように思う。
 小津も洋画ファンだったから、リリアン・ハーヴェイも聞いただろう。

 2023年9月6日 記

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小津安二郎 “秋日和” を見た

2023年05月13日 | 映画
 
 久しぶりに、小津安二郎「秋日和」を見た。
 数日前の夜9時ころに、偶然つけたBS260ch (BS松竹東急)でやっていた。
 BSは104ch(BS-NHK)か、300ch(BS-TBS)から560ch(ミステリー・チャンネル)あたりを見ることが多く、200番台はほとんど見ない。ところが、この夜はなぜか260chに行き当たった。「秋日和」がぼくを読んでいたのだろう。
 母一人(原節子)、娘一人(司葉子)の母子家庭の娘を嫁がせるために、亡くなった父親の学生時代の旧友たち(佐分利信、中村伸郎、北竜二)が一計を案じ、原と北の再婚話をねつ造して、自分が結婚したら一人になってしまう母親のことを心配して、結婚を躊躇する娘に決断させようというストーリー。
 「晩春」の笠智衆、原節子、父娘の逆バージョンで、「秋刀魚の味」の笠智衆、岩下志麻、父娘とも同工異曲、「豆腐屋の豆腐」である。
 それでも構わないのである。2時間ちょっとの時間つぶしにはもってこいである。岡田茉莉子の唇を尖がらせたおきゃんな演技がいつみてもいい。
 「デジタル・リマスター版」とか称していて、画面もきれいだった。

     

 上の写真は、「小津安二郎名作映画集10+10」の第5巻「秋日和+母を恋はずや」(小学館、2011年)の表紙。
 2011年というのは、小津の没後50年を控えての出版だったのだろう。アッという間に10年が経って、今年2023年12月12日は、没後60年(かつ生誕120年)になる。
 しかし、全然そんなに時間が経った気がしない。小津映画はぼくが昭和に帰る「タイムマシン」なのである。

 この本の中に内田樹の映画評が載っていて、「秋日和」の中で、小津が登場人物の学歴にこだわっていることを指摘している。
 そう言われてみれば、級友たちは東大卒らしいし、司の相手(佐田啓二)は早稲田の政経出という台詞がある。戦前の小津映画には早稲田がしょっちゅう出てくるが、登場人物の学歴など、ぼくは気にしたこともなかった。
 本書には出演俳優たちの学歴も載っている。
 笠は東洋大学文学部中退(実家のお寺を継ぐ予定だったのだろう)、佐分利は日本映画俳優学校!、中村は開成高校、北は早稲田の文学部、佐田も早稲田(学部は書いてない)、司は共立女子短大、沢村貞子は日本女子大(小劇場時代に治安維持法で捕まった経歴があったらしい!)、桑野みゆきは法政女子高中退、三上真一郎は立教高校などなど、多様である。
 渡辺文雄の東大卒は知っていたが(ちなみに彼と湘南高校で同級生だった男が昔の職場にいた)、電通社員を経て俳優になっていたとは初耳だった。

 この映画に出てくるような、おっさんたちのお節介があったからこそ、当時の日本の婚姻率、出生率は保たれていたのだろう。
 実はぼくも今、友人の娘さんに誰かいないかと頼まれている。そしてかつての同僚の中に、年齢と趣味が合っていそうなのが一人いるのだが、彼に打診してみる勇気がおきない。
 40近くまで独身でいるその彼に結婚する気があるかどうかを聞くことは、どうも彼の私生活というか「婚姻の自由」に対して土足で踏み込んでしまうような気がしてしまうのである。
 もし彼にその気があったらと思うと、ダメもとで聞いてみるだけ聞いてみてもいいのではないか、とも思うのだが・・・。
 チャットGTPだか何だかに質問してみたいところである。

 2023年5月13日 記 

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映画『R R R』

2023年02月26日 | 映画
 
 インド映画『R R R』を見てきた。
 何人かの知人が面白かったというので期待して見に行ったのだが、T - Joy では、入口から会場まで、ポスターの一枚すら貼られていなかった。
 上映も一日2回だけ。平日の昼だったので、観客の入りは3分くらいか。
 チケットに「字幕」と明記してあったのにも驚いた。劇場公開の外国映画が字幕なのは当たり前のことで、吹き替えの映画を映画館で見たことなど一度もなかった。最近では吹き替え版で劇場公開され\る外国映画もあるのだろうか。

 内容は、シルベスター・スタローン『ランボー』のインド版といったところ。
 インド映画を見たのは、『踊るマハラジャ』『クイズ・ミリオネア』(だったか)につづいて、3本目である。前2本は面白かったので、期待して見に行った。歌あり、踊りありで、いかにも「インド映画」という風ではあったが、3時間は長すぎる。2時間以内に編集できる内容だろう。
 ちなみに、題名の “R R R” とは、“water”、“fire”、“interval” の3つの単語の中の “R” ということらしい。

 1920年代、イギリスの植民地時代のインドが舞台で、残虐、凶暴なイギリス人総督とその妻が登場する。こんな白人優越主義者で、残虐な性格のとんでもない総督夫婦を演ずるイギリス人俳優がよくいたものだと感心した。しかし帰宅後にネットで俳優の素性を調べてみて納得した。2人ともアイルランド系のイギリス人だったのである。

       

 17世紀のアイルランドは、イングランド国王が任命したダブリン総督(王代官)によって支配されていた。アイルランド人はカトリック教徒が多かったために弾圧を受け、1649年にはクロムウェルが指揮するイングランド軍によるカトリック教徒大量虐殺事件もおきている。
 このようなアイルランドの歴史をふり返れば、アイルランド系の「イギリス人」が、イングランド・ウェールズ人とインド人のどちらに共感をおぼえるかは、簡単には断言できないだろう。イングランドから派遣された悪代官(総督)に対する抵抗という点では、むしろインド人に共鳴するアイルランド人もいるのではないか。

 映画は期待したほどではなかったが、帰宅後に、堀越智『アイルランドの反乱--白いニグロは叫ぶ』(三省堂新書、1970年)を復習し(アイルランド人は「白いニグロ」と呼ばれていたのか!)、近藤和彦『イギリス史10講』(岩波新書、2013年)の該当箇所を読み直すきっかけになったのだから、良しとしよう。

 2023年2月26日 記

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映画 「モリコーネ--映画が恋した音楽家」”

2023年01月20日 | 映画
 
 ジョゼッペ・トルナトーレ監督の「“モリコーネ--映画が恋した音楽家」 を見てきた。
 吉祥寺駅南口(東口?)駅前の吉祥寺オデオンで。中学、高校時代の6年間通学で吉祥寺駅を通っていたのだが、こんなところに映画館があった記憶はない。
 あのころは中央線は地上を走っており、あの辺りには踏切があったはずだ。
   

 さて映画だが、何かのラジオ番組で紹介しているのを聞いて、面白そうだなと思った。久しぶりに見たい映画に出会った。
 エンリオ・モリコーネは好きな作曲家の1人である。字幕では「エンニオ」となっていた。
 上映館を調べると、吉祥寺でやっている。これなら場所も悪くない。しかし上映時間が2時間40分(!)というので躊躇した。いくら何でも長すぎないか。「ニュー・シネマ・パラダイス」 みたいに、モリコーネの音楽が流れる古い映画の部分部分をモンタージュのようにつなぎ合わせたようなものだと、とても2時間40分は耐えられない。
 しかし、結局行くことにした。

    

 午前11時25分から2時間40分なので、昼飯がわりにおにぎり4個と、近くのコンビニで買ったお茶とお菓子(どら焼き)を持参した。
 映画は90歳をすぎたモリコーネが自室で作曲したり、柔軟体操をするシーンから始まる。
 そして、彼の生い立ち、というよりは音楽家としてのキャリアの出発点から彼の音楽家人生をたどっていく。
 トランペット吹きだった父親の命令で音楽学校に入り、トランペット奏者を目ざすが、やがて作曲に目覚めていく。そして映画音楽の世界で頭角をあらわすようになる・・・。
 この辺から、もう2時間40分という時間のことはまったく忘れていた。

 懐かしいメロディー、懐かしいシーン、懐かしい俳優や歌手が次々に登場する。
 彼の出世作になった「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」 などの発想から完成に至るプロセスをモリコーネ自身が語り、監督や製作者らの回想を交えながら、モリコーネの曲が流れるシーンが映る。
 申し訳ないことに、「荒野の用心棒」を聞きながら、ぼくはこの曲が挿入歌として流れる「迷宮グルメ 異郷の駅前食堂」を思い出してしまった。あの番組は、挿入歌で流れる「荒野の用心棒」と「ライム・ライト」が番組の雰囲気に似合っている。

 ぼくの知らない映画や俳優や歌手も大勢登場する。トルナトーレ自身も何度か登場する。
 懐かしかったのは、ジャン・ギャバン、リノ・バンチュラ、アラン・ドロン、ジャン・ポール・ベルモント、マルチェロ・マストロヤンニ、それに現在のジョーン・バエズまで登場した。
 “ワンス・アポンナ・タイム イン アメリカ” のジェニファ・コネリーも初々しい。あの映画の撮影時にはモリコーネの音楽をスタジオで流しながら撮影したという。
 映画俳優だけでなく、歌手のジャンニ・モランディやミーナも登場した。彼の曲を歌っていたのだ。残念ながらミーナが歌っていたのは “砂に消えた涙” ではなかったが。
 しかし、何といっても印象的だったのはモリコーネご本人である。
 時にはメロディを口ずさみながら、時には指先で机を叩いてリズムを刻みながら、時には目を閉じて指揮棒を振るしぐさをしながら、自作を語る語り口が魅力的だった。

 驚いたのは、高校時代に見た「アルジェの戦い」 が、何とイタリア映画で、作曲がモリコーネだったこと! 
 あれはフランス映画だとばかり思っていた。フランス人がアルジェリアの独立運動を弾圧する怖い映画だった。人権宣言以来のフランスの「自由」や「人権」が、「フランス人の」自由、人権にすぎないことを思い知らされた映画だった。
 ただし、今回聴いてもあれが「モリコーネ」の音楽とは思えなかった。“荒野の用心棒” 以降の彼の曲風とは違う世界だった。

 アカデミー賞に6回もノミネートされながら、受賞に至らなかったなど、信じられないエピソードである。クラシック出身のモリコーネが「映画」音楽家であることに「罪悪感」をもっていたというのも驚きであった。
 彼は新人監督だったトルナトーレ監督の依頼に応じて、「ニュー・シネマ・パラダイス」 の音楽を引き受けてくれたという。いかにもモリコーネ風で、ペーソスがあってノスタルジックないい曲だった。

 今回の “モリコーネ” は、「ニュー・シネマ・パラダイス」より編集が数段洗練された印象だった。いい映画を見た。
 モリコーネは2020年に亡くなったようだが、ラッシュででもこの映画を見ることはできたのだろうか。

 2023年1月21日 記

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映画「二十四の瞳」 (NHK-BSプレミアム)

2023年01月04日 | 映画
 
 2023年、最初の映画は「二十四の瞳」になった。
 きょう(1月3日)の夕方、NHK-BSプレミアム(BS104ch)でやっているのを偶然に見つけた。NHKのBSプレミアムで去年の夏に放映されたテレビ・ドラマの再放送らしいが、知らなかった(NHKエンタープライズ制作、NHK 松竹制作・著作、2022年)。
 2022年に最後に見た映画が “ひまわり” で、2023年に最初に見た映画が “二十四の瞳” と、どちらも一種の「戦争映画」だったのは偶然ではないだろう。

 主人公の大石先生を演じている女優さんが清楚で、好感をもった。
 土村芳というらしい。知らなかった(下の写真)。高校生だった頃、同じNHKの連続テレビ番組「姉妹」で岡崎由紀を見初めた時を思い出した。
 大石先生は、原作者の壷井栄の妹さんだったかお姉さんがモデルだと聞いたことがある。小豆島の分教場の先生にしては、土村芳は少しきれいすぎる気がするけど。
 
     

 「二十四の瞳」は、何度も映画化、テレビ・ドラマ化されたが、小豆島がまだ俗化していなかった昭和20年代に、地元の子どもたちを使って、ほとんどロケで撮影された木下恵介のがいちばんよかった(昭和29年公開)。
 最近の小豆島は都市化、俗化してしまったので、「二十四の瞳」の昭和の雰囲気を小豆島ロケで再現するのは、もはや困難だろう。今回の作品もすべてを小豆島でロケしたのではなさそうである。ぼくの知らない風景が出てきただけかもしれないが。
 今日見たドラマに登場する岬の分教場は、田中裕子主演の映画を撮影した時に作られたオープン・セットをそのまま観光施設として保存した映画村(?)で撮影されたようだ(最初の写真)。       

 ぼくが初めて小豆島を訪ねた昭和50年頃は、土庄港から安田に向かう旧街道など、まだ戦前、戦後直後の小豆島の面影が多少は残っていたが、その後の40年の間に小豆島はまったく変わってしまった。

 2023年1月3日 記

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2022年最後の映画は「ひまわり」

2022年12月31日 | 映画
 
 夕食を食べながらテレビのスイッチを入れると、NHKのBSプレミアムでヴィットリオ・デ・シーカ監督、ソフィア・ローレン主演の「ひまわり」をやっていた。

 ロシアのウクライナ侵略のあった今年は、あちらこちらで “ひまわり” が上映されたようだ。“ひまわり” を見たからといってウクライナへの連帯の意志を示すことができるわけでもない。所詮はウクライナのひまわり畑が背景に登場するメロドラマなのだが、それでも、今年の1本にあげることはできるだろう。
 久しぶりなので、最後まで見た。

 今日の午前中には、同じくNHK-BSで「世界ふれあい街歩き」のキエフ編(まだキーウではなかった)をやっていた。
 2019年に放送されたものの再放送だった。穏やかで美しい街並みだったが、すでに2019年当時から、ロシアのクリミア侵略に対抗して出征した帰還兵士が何人か登場していた。
 ソ連時代に造られたというウクライナとロシアの友好を記念する巨大な虹のようなモニュメントには、しかし、その後の両国関係の悪化を象徴するように、黒く塗られた亀裂が描かれていた。
 そして2019年にはキエフの公園で民族楽器を奏でていた53歳の男性が、現在は志願兵として軍事訓練中であると紹介されていた。
 この番組を見て、ウクライナ人の反ロシア感情、ふたたび旧ソ連時代のような全体主義国家に後戻りさせられることは真っ平だという強い信念を感じた。そう簡単に和平は到来しないだろう。

 21世紀にこんな戦争が起こるとは、こんな戦争を起こす人間がいるなどとは、思ってもいなかったぼくは何と愚かだったのか。
 
 2022年12月31日 記

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小津安二郎「秋刀魚の味」、幾たびか

2022年12月22日 | 映画
 
 おととい(12月19日)の夜、テレビのチャンネルを回していたら、偶然BS松竹東急(BS260ch)で小津安二郎の「秋刀魚の味」をやっていた。12月12日が小津の誕生日にして、命日だから、その日に放映されものの再放送だったのかも。

 見つけた時にはもう終わりに近かったけれど、久しぶりだったので最後まで見た。
 ちょうど娘(岩下志麻)が結婚式場に出かけるあたりからで、次のシーンは式が終わって笠智衆が友人の中村伸郎の家で、北竜二と3人で酒を飲み、帰りがけに岸田今日子がマダムのスナックに立ち寄って軍艦マーチを聞きながらまた酒を飲み、そして娘のいない家に帰るという、あのラストシーンである(上の写真はエンド・マーク。小津の映画監督人生最後の画面でもある。わが家の照明が映りこんでしまったのはご愛敬)。
 ぼくの持っているDVD(小学館+松竹)よりも画像がきれいだった(今年テレビを買い替えたからかも)。きれいすぎて、昭和の雰囲気をそいでいるようにも思ったが、あのような強い色彩のほうが昭和的かもしれない。

 中学校の同級生たちが60歳近くなって、集まって酒を飲み、娘の縁談を語り合う、などという映画は20、30歳代の時に見たら絶対に共感できなかっただろう。しかし自分が笠や中村たちよりも上の年代になって見ると(役の上で彼らは50歳代半ばである)、なかなか悪くない映画だと思える。「秋刀魚の味」という題名はいまだに意味が分からないが。
 ぼくには、笠、中村、北たちのような交流はないが、今年の初めに、今春限りで医師をやめ開業医を廃業して福岡に移住するという高校時代の級友を送る4人だけの送別会があり、一期一会のつもりで出かけてきた。12月に入ってその友人が上京するというので、また4人で会ってきた。
 何のしがらみ(“Human Bondage”!)もない集まりで、楽しいというか気楽な時間を過ごした。年寄りはこういう風に時間を過ごすのだというマナーを小津の「秋刀魚の味」から学んでいたのかもしれない。

   

 今月初めには吉田喜重の死亡が報じられた。
 吉田の『小津安二郎の反映画』(岩波現代文庫)は、ぼくが読んだ小津論の中で一番難しかったが、舩橋淳という人が朝日新聞に書いた追悼文を読んで(2022年12月19日付、上の写真)、吉田の小津に対する評価が多少は理解できた。
 「反映画」というのが、「青春を賛美する青春映画」や「男女の愛憎劇を強調するメロドラマ映画」を否定する「反青春映画」、「反メロドラマ」のことで、それが吉田のいう「反映画」の意味らしい。実はぼくは吉田の映画を一本も見たことがないのだが、大島渚の「青春残酷物語」を思い出した。

 吉田によれば、小津の映画も「反映画」ということなのか。論者は「無時間性」こそ吉田と小津とが「肌を接し合う点であった」と結んでいる。残念ながらぼくには「無時間性」の本当の意味は分からないけれど、「時間を超えた」とか「時代を超えた」という意味なら、2022年のぼくは「秋刀魚の味」を見ながら、1960年の笠たちと気分を共有することはできる。
 「秋刀魚の味」は、「青春映画」でも「メロドラマ」でもない。岩下と吉田輝雄の交情などあっさりしすぎている。あえて言えば「老人映画」だが、若いだけが青春ではないという意味では、「反青春映画」といえるだろうか。「秋刀魚の味」は老人が主人公の青春映画、すなわち「反青春映画」といえよう。

 吉田に言わせれば、「遠く過ぎ去った中学時代のことをさほど覚えてもいないにもかかわらず、それを懐かしく感じるのは、すでに死に絶えて停止している時間であるからにすぎない。いま生きている現在といった時間が刻々と移ろいゆくあまり、それがなんであるか知りえず、そうした不確定であることの不安より逃げようとして、すでに死に絶えて動かぬ過去の時間に身を寄せて、心地よく懐かしむ」のが同窓会に期待される夢であり、終わってみればしらじらしい気持になるのが同窓会の宿命である、ということになるらしい(302頁)。
 ずいぶん辛辣な言葉である。「同窓会」一般はそういうものかもしれないが、「秋刀魚の味」の元教師、東野英治郎を招いての笠たちの酒宴や、ぼくたち4人のミニ・クラス会には当てはまらない言葉である。r少なくともぼくは「すでに死に絶えて動かぬ過去の時間に身を寄せて」いるつもりはない。
 そもそも笠たちの酒宴や、ぼくらの集まりは「同窓会」ではない。吉田にはよほど不愉快な同窓会体験があったのだろう。

 数十年来、年中行事のように続けてきた年賀状の交換をやめると宣言するはがきやメールがこのところ相ついだ。何のために出しているかを考えて見ると、年賀状のあて名を書き、一言だけ添え書きをしつつ過去を回顧するというノスタルジックな気持ちもあるけれど、最近では、「今年も何とか生きています」という安否確認の通知の意味合いのほうが強くなっているように思う。
 ぼくはもうしばらくは出したいと思っている。

 2022年12月21日 記

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映画『エデンの東』

2022年08月24日 | 映画
 
 映画『エデンの東』を見た。「1954年製作、Renewed 1982 。エリア・カザン監督、ワーナー・ブラザース」となっているが、DVD(ワーナー・ホーム・ビデオ)の製作年はケースにもディスクにも記載がなかった。

 ディスクが2枚入っていて、1時間近くある特典映像のほうも、面白かった。
 ジェームス・ディーンのプロフィールや、衣装合せ(ワードローブ・リハーサルとかいっていた)、未公開シーン、さらにニューヨークでのプレミアム試写会を訪れた面々が映画館に入っていく映像(テレビ番組で放映されたらしい)も入っていた。原作者のスタインベックまでもがインタビューに答えていたが、微妙な顔つきだったようにぼくには思えた。見終わったらもっと微妙な顔つきになったのではないか。
 特典映像によると、キャル役のジェームス・ディーンと父親役のレイモンド・マッセイは本当に仲が悪く、撮影中も険悪な雰囲気だったという。
 本当にウマが合わなかったのか、それとも父子間の葛藤を演技するために、ジェームス・ディーンが意図的に父親役の俳優と険悪な雰囲気を作ったのか? 特典映像を見てから本編を見たのだが、このことを知って映画を見ると、父子間の葛藤がいっそう真に迫って見えた。

 さて本編のほうだが、久しぶりに見たのだが、やはり良かった。
 中学3年生の秋に原作を読んでから相当の時間が経ったので、原作との違いも気にならなかった。何年か前に見たときには、原作との違い、とくにラストシーンの違いが気になったが、今回はそんなこともなかった。
 『エデンの東』のテーマは父に対する子の反抗である。父親は厳格なキリスト者で、子どもたちにもキリスト者らしい生活を要求する。兄は従順に父に従うが、ジェームス・ディーン演ずる弟キャルは反抗する。キャルも本当は父に愛されたいと思っているのだが、父はキャルを受け入れない。
 兄弟の母は、この父を嫌って家を出て近隣の町で売春宿を経営している。その事実をキャルから知らされた兄は自暴自棄になって志願して戦地に赴いてしまう。ショックを受けた父は脳溢血に倒れ、死期が迫っている。

 原作のラストシーンは、「ティムシェル、アダム・トラスクは目を閉じ、そして眠った」(野崎孝訳、早川書房)だったと思う。
 「ティムシェル」とは古代ヘブライ語で、「人は道を選ぶことができる」という意味だそうだ。聖書原理主義者の父アダムは聖書の意義を探るために古代ヘブライ語を勉強するような謹厳な男だった(ただし、映画では熱心なキリスト者としての父親という部分はカットされている)。
 弟のキャルはそんな父親(レイモンド・マッセイ)の価値観の押しつけに反抗するのだが、そのキャルに対して臨終のベッドで父は「ティムシェル」と語りかけるのだった(ただし、ティモシー・ボトムズがキャルを演じたテレビドラマの『エデンの東』のラストシーンでは「ティムシェル」ではなく「ティムショール」と発音していた)。「人は道を選ぶことができる」、これこそ原作の『エデンの東』が伝えたかったメインテーマだと、当時のぼくは読んだ。
 映画のラストシーンはかなり違っていた印象だったのだが、今回改めて見てみると、ラストシーンで父親はキャルに向かって、ちゃんと「人間は道を選ぶことができる」と語りかけているではないか!
 さらに前半のどこかのシーンでも、「ほかの動物と違って人間は道を選ぶことができる」という台詞があった。エリア・カザンはスタインベックの意図を忠実に再現していたのだ。
 
 「人は道を選ぶことができる」という自己決定の原則は、中学3年生の時以来ぼくの核心的な価値観だと思って生きてきた。しかし、ぼくは本当に「自分で道を選んで生きてきたのだろうか」と最近では思うことがある。むしろ抗いがたい何かの力によって生かされてきたのではないか。

 2022年8月24日 記

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映画『自転車泥棒』『アメリカン・グラフィティ』『ペーパー・ムーン』

2022年08月10日 | 映画
 
 8月1日(月)映画『自転車泥棒』(1948年、イタリア、ヴィットリオ・デ・シーカ監督)を見た。
 御茶ノ水駅前の丸善の店頭で買ったDVDだが、ケースにもDVDにも発売元の記載がない(ように思う)。“MANUFACTURED BY FINE DISC CORPORATION”とあるのがそれだろうか? 
 映像の冒頭に「著作権保護期間が切れた」云々とあった。イタリア語音声、日本語字幕版で見たのだが、時おり日本語字幕が省略されていた。ストーリーを追う分には困らなかったが。
 『自転車泥棒』もかなり昔(ひょっとしたら小学生の頃)に見た映画である。
 敗戦直後のイタリアが舞台。ローマだろうか。失業中の父親は、ようやく職安で映画のポスター貼りの仕事にありつく。家財道具を質に入れて仕事に必要な自転車を買うのだが、作業中にその自転車を盗まれてしまう。
 必死で探しまわってようやく犯人の自宅を見つけ出すのだが、証拠がないため警官は取り合ってくれない。思い余った父親はデモで混乱する街中で、止めてあった自転車を盗んでしまう。群衆に捕まえられてしまうのだが、子どもが哀願したため放免される。

 同じ敗戦国、日本でも起こったかもしれない事件である。1940年代のイタリアの町の風景と人情がふんだんに出てきて、イタリア・ファンには嬉しい映画だろう。
 ぼくが一番印象に残っているシーンは、主人公の貧しい父子がなけなしの金でレストランに入るのだが、隣席の金持ちの子どもがチーズたっぷりのピザを見せびらかしながら、とろけたチーズを30センチくらい伸ばしてから口に入れる場面だった。主人公父子はチーズの乗っていない粉をこねたパイ生地だけのピザを食べるのだが、父が「あんなピザは月に100万リラ稼がなくては食べられない」と言うのだった・・・。
 ところが今回見ると、主人公父子も金持ちと同じピザを食べているではないか。大事な商売道具の自転車を盗まれながら、何でそんな贅沢ができるのか。こんなあたりがイタリア人気質なのだろうか。ぼくの記憶のほうが戦後イタリア・リアリズムに忠実なように思うのだが。

     

 8月3日(水)には『アメリカン・グラフィティ』(1973年、ジョージ・ルーカス監督、フランシス・フォード・コッポラ製作)を見た。こちらはユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン発売(2005年)の正規版。
 この映画は日本公開時に見て、その後も何回か見た。今回印象的だったのが、『自転車泥棒』の1950年代のイタリアでは自転車が貴重品だったのに、ジョージ・ルーカスが描く1962年のアメリカの片田舎では自動車が、それもかなり高級車らしいアメ車が高校生の足になっていることだった。ただし、主人公のリチャード・ドレイファスは中古のシトロエン2CVの乗っていたが。高校生仲間の一人(テリー?)が友人から借りた高級車を盗まれてしまうエピソードがサイド・ストーリーになっている。
 特典映像の撮影秘話が面白い。ルーカス監督は素人俳優たちの「演技」が嫌いで、彼らが「演技」しそこなうまでNGを出しつづけたという。逆に冒頭で、テリーがスクーターで歩道に乗り上げるシーンでは、止まりそこなって建物わきの物置に激突してしまうのだが、このハプニング場面が採用されたという。
 今ではキューバでしか見られないようなアメ車のオンパレードで、これまたアメ車ファンにも嬉しい映画だろう。

    

 8月4日(木)には『ペーパー・ムーン』(1973年、ピーター・ボグダノヴィッチ監督)を見た。これもパラマウント・ホームエンタテインメント・ジャパン(2004年)の正規版。
 ライアン・オニール、テイタム・オニール親子が、劇中でも父子にふんして、1930年代のアメリカの田舎町(カンザス州だったか)を詐欺を繰り返しながらドライブする物語。娘アンディ役の9歳のテイタム・オニールが、周囲の役者を完全に食ってしまう名演技である。この演技でアカデミー助演女優賞をもらっているのも納得できる。
 このDVDも特典映像の撮影秘話が面白い。5分近くワンカットのシーンが多く、父親がワッフルを食べるシーンでは娘が台詞を間違えたり、ワッフルが切れなかったりして、ライアンは50枚近くのワッフルを食べるハメになったという。
 ただし、DVDのカバーの、巡業サーカスの写真屋で撮った紙の三日月(ペーパー・ムーン)に父子で座ったシーンは映画には出てこない。父親が行きずりの女をあさっている間に、娘が一人ぽっちで三日月に座って取ってもらうのである。テイタムは、大事なものを入れておくためにいつも持ち歩いている古びた菓子箱(?)に、現像されたこの写真をしまっておくのだが、このエピソードがエンディングにつながっていく。映画の題名にもなった。

 8月9日(火)からは、『エデンの東』を見はじめた。
 午前中は判例集の編集作業をし、午後は原武史『「昭和天皇実録」を読む』(岩波新書)を読み、夜はDVDで映画を見る日々である。
 『エデンの東』は後ほど。

 2022年8月10日 記

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映画『汚れなき悪戯』

2022年04月29日 | 映画
 映画の子役シリーズ、その3は、スペイン映画『汚れなき悪戯』(原題 “Marcelino Pan y Vino”(マルセリーノ、パンとブドウ酒)、1955年製作、東和提供)のパブリート・カルボ。ハリウッド映画に限定しなければ、ぼくの子役ナンバー1である。
 『汚れなき悪戯』(けがれなき いたずら)は、小さい頃に見た思い出深い映画の1つである。主人公の子どもがサソリにかまれたシーンを覚えている。
 1955年といえば、戦後スペインがまだフランコ独裁政権の下にあった時代。この映画を親フランコ的な映画とする評価もあるようだが、ぼくにはそうは思えなかった。幼なかったからかもしれないが。

 いつの時代かは明らかでないが、舞台はスペインの片田舎の修道院。ある朝、その門の前に幼い男の子(パブリート・カルボ)が棄てられていた。12人の修道士たちは彼をマルセリーノと名づけて大事に育てる。マルセリーノは悪戯(いたずら)好きの可愛い少年に育つのだが、ある日ちょっとした悪戯から事件が起きてしまい、かねてから修道院を快く思っていなかった村長は修道院に対して立ち退きを要求する。
 立ち退きの日(だったか?)に、マルセリーノは修道士から絶対に開けてはいけないと言われていた修道院の塔の屋上の扉を開けてしまう。中にはキリストの像が立っていて、「こちらにおいで」と彼を招いているようにマルセリーノには思えた。光り輝くキリストのほうに歩み寄ったマルセリーノは、そのまま天に召される。
 気がついた修道士たちが駆け寄ったときには、マルセリーノの亡骸はキリスト像の足元で冷たくなっていた・・・。

 このラストシーンで流れる主題歌が「マルセリーノの歌」である。おそらくこの曲も、ラジオ番組「ユア・ヒットパレード」(東京田辺提供)でトップを続けたはずである。上の写真がそのレコードと、ジャケット(セブン・シーズ・レコード、HIT=1333、©表示は1966年、この年にリバイバル上映されたらしい。370円)。
 映っている少年がマルセリーノ役のパブリート・カルボである。ジャケットの解説によると、彼は5000人を超える応募者の中から選ばれたという。小森和子(小森のおばちゃま)がパブリート・カルボとジェームス・ディーンの大ファンであると公言していたことは以前に書き込んだ。
   

 ぼくは彼が主演した『広場の天使』という映画も見た記憶がある。もく拾い(禁煙社会の今日、意味が分かるだろうか?)のお爺さんと二人だけで生活する貧しい少年を演じていた。この話も泣けた。
 実際のパブリート・カルボは(マルセリーノほどではないが)わりと若くして亡くなった。調べると彼は1948年生まれで、2000年に亡くなっている。ぼくとほぼ同じ年齢だったのだ! 
 朝日新聞に彼の死亡記事が載ったので、ぼくだけの思い出かと思っていた『汚れなき悪戯』のパブリート・カルボが意外と有名だったことに驚いた。

 『汚れなき悪戯』はDVDも持っているのだが、ヨーロッパのカトリック国における捨て子の問題に関心をもっている研究仲間に貸してあって今は手元にない。
 彼女によれば、ヨーロッパの修道院は捨て子の受け皿になってきたが、捨て子は修道院で酷使され、その死亡率も高かったということである。
 映画『汚れなき悪戯』のラストシーンは、そのような歴史を象徴していたのかもしれない。

 2022年4月29日 記
 

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映画『ペーパー・ムーン』

2022年04月26日 | 映画
 
 ハリウッド映画の子役といっても、「シェーン」の子役くらいしか思い浮かばないと書いたが、大変な子役を忘れていた。
 『ペーパー・ムーン』の子役、ティタム・オニールである。
 『オズの魔法使』のジュディ―・ガーランドは子役というにはやや成長しすぎの感があったが、『ペーパー・ムーン』のテイタム・オニールは当時9歳、まさに子役そのものである。

 『ペーパー・ムーン』は、ピーター・ボグダノヴィッチ監督、ディレクターズ・カンパニー製作なので(原題 “Paper Moon”,1973年)、「ハリウッド映画」の子役といえるか分からないが、パラマウント配給なので、一応はハリウッド映画ということにしておこう。
 詐欺師の父(ライアン・オニール)と娘(テイタム)が、ローカル新聞の死亡記事を見ては、遺族のお爺さん、お婆さんをだまして聖書を売りつけながら、車でアメリカの田舎を旅をするという単純なストーリー。
 舞台は偶然にも、『オズ・・・』と同じカンサス州だった。カンサス州の風景はモノクロが似合っている。

 聖書を売るお父さんに連れられた幼い少女として被害者の同情を買う共犯者なのだが、優しいところもあって、父親が騙した気の毒なお婆さんには父親に無断で代金をまけてしまったりもする。煙草までふかす生意気ぶりなのだが、子役にありがちな “こましゃくれ” 感がまったくなくて好感がもてた。「子ども」であることを要求されない役柄がよかったのだろう。
 いま思い浮かぶアメリカ映画の中で、ぼくの一番お気に入りの子役はテイタム・オニールということにしておこう。この映画以降も映画に出ていたようだが、ぼくは『ペーパー・ムーン』1作しか見ていない。もう60歳近くになっているはずである。

 主題歌も映画の内容にマッチしていた。というより、挿入曲の “It's Only a Paper Moon” というジャズのスタンダード・ナンバーから映画の題名が決まったそうだ。
 「ボール紙に書かれた紙の月でも、あなたが信じるならば、それは本当の月である、・・・あなたが愛を信じるように・・・」といった歌詞だった。
 ※ きょう『ペーパー・ムーン』のメイキング・ビデオを見ていたら、『ペーパー・ムーン』を作曲したハロルド・アレンという人は『虹の彼方に』の作曲者でもあるそうだ。舞台がカンサス州でモノクロ撮影というだけでなく、この点でも『オズの魔法使』と共通だった。なお、P・ボグダノヴィッチ監督は「カンザス」と発音していた。(2022年4月28日 追記)

 2022年4月26日 記

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