豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

2013年の軽井沢

2013年08月21日 | 軽井沢・千ヶ滝

  ↑ 上の写真は旧軽井沢スケートセンターから眺めた浅間山

 8月8日の法科大学院の期末試験でようやく前期の仕事が終わり、翌9日から軽井沢に来ている。

  ↓ 中軽井沢駅隣りの“沓掛テラス”

        

 軽井沢での仕事として予定していた8月23日締切りの原稿を書いていたら、突如8月末締切りの原稿の依頼(というより命令)が入った。一昨年亡くなった恩師の随想集を出すのでそのうちの何篇かの「解説」を書くようにという、兄弟子からの指示である。
 これが結構厄介で、中軽井沢駅の隣に新設された“沓掛テラス”内の中軽井沢図書館に通って、新藤兼人の「愛妻記」(「午後の遺言状」も必要なのだがなかった)などを読んでいる。
 “沓掛テラス”はなかなか良い。まず名前がいい。「軽井沢」にこだわらず、「沓掛」にしたことが最大の美点。ぼくが初めて(中)軽井沢に来たのは昭和32年だが、当時は「中軽井沢駅」はまだ「沓掛駅」だった。それでよかったのだ。
 駅前交差点の角に「沓掛時次郎饅頭」の看板を掲げた土産物屋があるが、これが店じまいしてしまっているのが残念・・。

  ↓ 玉村豊男の“ヴィラ・デスト”

        
 
 午前中は原稿書き。午後は図書館に行って調べ物やメール等のチェック。夕方1時間程度の散歩が日課。夜も勉強の後、ビデオを見て風呂に入って寝る、という毎日。
 8月11日は、ツルヤで偶然出会った従弟と叔母に誘われて、東御市(「とうみ」と呼ぶらしい)にある玉村豊男経営の“ヴィラ・デスト”というところに出かけてランチ。イングランド・ガーデン風の庭に女房も気に入った様子。
 子羊のステーキを頼んだが、叔母の選んだ若鶏のほうが美味しそうだった。

 8月12日は大賀ホールで中村紘子のピアノ。
 早めについたので、矢ヶ崎公園の木陰で時間をつぶす。午後4時半開場。8分の入りか。中村紘子は初めてだが、演奏の合間のトークが結構辛口のユーモアがあって面白かった。
 昔、晩年のホロヴィッツが来日した時の演奏を酷評しているのをテレビで見たが、そのままだった。話しぶりと演奏の兼ね合いは、教師としても参考になった。

  ↓ 久しぶりの千ケ滝

          

 8月15日は、セゾン美術館前の空き地にクルマを駐め、そこから歩いて千ケ滝に登った。
 千ケ滝に出かけるのは50年ぶりに近い。その頃はセゾン美術館などなく、鬼押し出しに向かう途中の観翠楼のあたりから左折して山道を延々と登った記憶がある。帰り道で夕立に降られ、そのままスケートセンターの温泉に駆け込んだ。
 小学生だったせいか、もっと雄大な滝のように思っていたが、意外と小ぶりだった。高さは20メートルと書いてある。

  ↓ 浅間テラスから眺める浅間山

        

 今年の散歩の収穫は“浅間テラス”という場所を見つけたこと。
 1000メートル林道を直進して、千ケ滝西区分譲地(?)の西北の外れあたりまで来ると、「軽井沢インターナショナル・スクール工事現場 xx組」とかいう看板が立っていた。どんなことになっているのかと見に行くと、学校は見つからなかったが、レタス畑が広がる向こうに浅間山がすそ野をきれいに伸ばしていた。
 軽井沢で浅間山がきれいに見える場所はどんどん少なくなってしまったが、ここはいい。こんな場所があるとは今まで知らなかった。旧国土計画が開発した千ケ滝(西区)分譲地だが、その外れにはこんなレタス畑が残っていたとは・・・。

 千ヶ滝西区のあたりは、かつては入会地だったのだろう。秋に行くと、地元の人が大勢で敷地内に入って栗を拾ったりしていた。川島武宜さんの「日本人の法意識」にも軽井沢の別荘に立ち入る地元の人の話が出てくる(川島さんの別荘が軽井沢のどこにあったかは知らないが)。
 堤義明は、どのようにして大日向村と千ヶ滝分譲地の境界を決めたのだろうか。いずれにせよ、原生林を伐採して別荘地にされてしまった千ヶ滝のむこうに、あんな自然が残っていたとは感動である。

  ↓ 中軽井沢駅から眺めた浅間山。手前にある白樺は、あの旧駅舎の前に立っていた白樺だろうか。

                    

 8月16日は女房の誕生日。
 旧軽井沢の三笠会館でランチ。後で、音羽の森のディナーのチラシがクルマの中に置いてあったことに気づいた。本当はこっちが希望だったのかも・・・。

 この間、夜のビデオ鑑賞は小津安二郎で行くことにした。
 8月10日 「お早よう」
 8月11日 「秋刀魚の味」
 8月13日 「一人息子」
 8月14日 「晩春」
 8月16日 「お茶漬の味」
 8月18日 「麦秋」
 8月19日 「戸田家の兄妹」
 8月20日は「三人の妻への手紙」を見た。脚本はアーサー・ミラーとあった。小津の「秋刀魚の味」を戦後間もないころのアメリカの小都市に舞台を移すと、こんな映画になるのだろう。

 2013/8/21 記

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高知に行ってきた

2013年08月06日 | あれこれ

 仕事で高知に行ってきた。

 出発の8月3日の天気予報では高知は35度。覚悟はして行ったが、やはり西日本の気温は東日本より1、2度高く感じられる。

 到着の夜、帯屋町通り(?)の“柳憲”で定番の皿鉢料理。
 ここの店主はかつて伊野商業が甲子園で優勝した時に、渡辺智男とバッテリーを組んだキャッチャーと聞いた。
 わが家は西武線沿線にあり、うちの子も毎年西武ライオンズ友の会に入り、せっせと野球見物に行った。秋山、平野、バークレオ、清原、辻、石毛、田辺、ピッチャーは東尾、渡辺久信、工藤、潮崎たちの時代、渡辺智男も懐かしい名前である。

 大きな伊勢えびの活作りが出て、最後にその殻を出汁にとって作った味噌汁が出た。さっぱりしていて美味しかった。
 高知は今週末からよさこい祭り。店を出ると、商店街の一角でよさこい踊りの練習中だった。ひとつふたつ間違えば広末涼子風の女の子もちらほら・・・。
 負けると、その連の指導者がクビになる厳しい世界だという。

 8月4日は仕事の最中に激しい雷雨があり、夕方仕事を終えた頃には、少しだけ気温が下がっていた。とても「涼しくなった」とは言えないけれど。
 せっかくなので、高知城周辺を歩くことにした。

 10年前に姪が高知で結婚式を挙げ、その折に高知城、龍河洞などは回ったので、今回は桂浜に行こうと思っていたのだが、地元の知人から「坂本龍馬の銅像以外は見るべきものもない、この暑い中をわざわざ見に行くことはない。龍馬像なら高知駅前のもので十分」と言われた。
 坂本龍馬に強い関心があるわけでもないので、桂浜は即刻中止。

  ↓ 高知駅前の龍馬像。右は中岡慎太郎、左は武市半平太と書いてあった。

        

 その代わり、夕立の後とはいえ、まだ暑いなかを高知城に向かう。
 
 高知城に来て、最初に目に付いた銅像は、近づいてみると板垣退助の立像だった。北海道大学のクラーク像のようなフロック・コート姿で、右手を大きく差し伸べている。
 少し離れた場所には山内一豊の馬に乗った像が立っている。なぜ板垣の像が高知城内に建っているのだろうか?

  ↓ 高知城内の板垣退助像。

            

 高知城を背にして、土佐女子高校、高知追手前高校を左に見ながら、追手筋を歩く。
 追手前高校の正面玄関は、高知城の天守閣を模したような時計台がそびえている。かつては土佐藩の藩校だったのだろう。その矜持を感じる。
 歩道には、よさこい踊りのためなのだろう、3段の観客席が準備してある。

 10分ほど歩いて、ようやく、はりまや通りにぶつかる。右手がはりまや橋。
 大きくて古い石の橋桁と、赤く塗られた小さな木橋(最初の写真)が並んでいる。どちらも「はりまや橋」と書いてある。どちらが本当の「はりまや橋」なのか。

 高知は今でも路面電車が走っている。土佐電鉄を略して「とでん」と呼ばれているらしい。そのゆっくりと走る車両がレトロな感じでとても良い。いつまでもなくならないでほしい。

  ↓ 石のはりまや橋と路面電車

        

 簡単な高知市内観光マップに、中江兆民の生誕地が乗っていた。少なくとも私にとっては坂本龍馬よりはるかに重要な人物である。
 大学2年生の時、中村雄二郎の『近代日本における制度と思想』に入っている「日本におけるルソー受容」に関する論文をゼミで読んだ。ルソー『社会契約論』はもちろん翻訳に頼ったのだが、対比される中江兆民の「民約訳解」も原文では理解できず、中央公論社版・日本の名著の現代語訳を横に置いて読んだ。
 それでも十分に理解できた気はしなかった。
 
 はりまや通りを東に渡って、なおしばらく東へ歩くと、小さな路地裏のシャッターの降りた倉庫風の建物の前に、「中江兆民先生誕生之地」という石碑が立っていた。寂しい風景である。

  ↓ 中江兆民先生誕生の地の石碑

        

 ふたたび、はりまや通りに戻り、壱番街のアーケドを歩く。
 大丸高知店の5階に入っている宮脇書店で、帰りの飛行機で読む本を物色する。やたらと池上彰の本が並んでいた。
 あれこれ手にとった挙句、浜矩子の『超入門・グローバル経済』(NHK出版新書)を選んだ。これは正解だった。経済の苦手な私にちょうどよいレベルで、しかも面白かったので、待合室、機内、東京に戻ってからの山手線、西武線の車中でほぼ読み終えた。
 ただし、結論というか、今後への提言(の実現可能性)はちょっと“?”である。

  ↓ 大丸高知店の南側に建つ立志社跡の石碑

        

 その大丸の南側を少し行ったあたり、公園の脇に立志社跡の石碑がある。
 自由民権運動の拠点の近くにデパートが建っている。100年後はどうなっているだろうか。

 あとから調べると、土佐電鉄桟橋線の桟橋倉庫駅まえに高知市立自由民権資料館があり、その敷地内に植木枝盛の旧宅の一部が保存してあるらしい。
 あらかじめ知っていたら是非訪ねるところだったのだが、残念なことをした。次に高知に行く機会はあるだろうか。

 疲れたので、帰りは土佐電の路面電車に乗って宿に戻る。
 最後は、ホテルの窓から眺めた高知城。ライトアップされていた。

  ↓ ライトアップされた高知城。写真の真ん中に小さく光っているのだが。

        

 2013/8/6 記

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