豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

伊藤純・伊藤真『宋姉妹』

2023年09月29日 | 本と雑誌
 
 伊藤純・伊藤真『宋姉妹--中国を支配した華麗なる一族』(角川文庫、1995年)を読んだ。

 著者が「NHKスペシャル番組部チーフ・プロデューサー」という肩書であとがきを書いているところを見ると、NHKスペシャルか何かで放映された番組の制作過程での副産物なのだろうか。
 たまたま、昨夜(9月27日(水)深夜)のNHKテレビ「映像の20世紀」(?)で、中国政治を動かした中国人女性をテーマにした番組を放映していた。文革前後から以降は、ぼくの同時代史を反芻することができて面白かった。それをきっかけに、本書をひっぱり出してきて、斜めに読んで断捨離することにした。

 「映像の20世紀」は清朝末期の西太后から始まって、宋靄齢(あいれい)、宋慶齢、宋美齢の3姉妹、江青(毛沢東の妻)、王光美(劉少奇の夫人)、紅衛兵だった何とか彬彬という女性、そして蔡英文(宋美齢の設立した基金によって若き日に英国留学したそうだ)らの数奇な運命をたどる面白い内容だった。
 上海の資産家一家に生まれた宋姉妹、長女の靄齢は財界人に嫁ぎ、次女の慶齢は孫文に嫁ぎ、三女の美齢は蔣介石に嫁いだ。
 宋慶齢は孫文の中国革命(辛亥革命)の遺志を継いで最後まで中国の民主化(三民主義)を志向し、共産党に近い位置をとったが、文革時代には冷遇されたものの周恩来の庇護を受け、最終的には中国国家名誉主席の称号を与えられて亡くなる。
 一方蔣介石に嫁いだ宋美齢は、抗日戦争時代には国民党総裁である夫を支え、堪能な英語力と社交性をもってアメリカからの支援を得るために奔走し、成果も挙げた。
 昨夜のテレビによると、戦勝後のアジアのあり方を討議するために、連合国側のチャーチル、ルーズベルト、蔣介石が集ったカイロ会議では、宋美齢も蔣介石の通訳として陪席したが、後にチャーチルは、「印象に残ったのは宋美齢だけで、蔣介石は何をしゃべったのかまったく記憶にない」と語ったそうである。
 カイロ会議で3人の首脳が並んで座った写真は有名だが、実はチャーチルの右隣りには宋美齢がちゃんと座っていたのである! 彼女がトリミングされてない映像も出てきた。
 国共内戦に敗れ、蔣介石とともに台湾に敗走した宋美齢は、後にアメリカに永住し、中国大陸に戻ることはなく、台湾から英米への留学生を支援する基金の運営などに当たった。本書出版の時点では健在だったようだ。その後100歳を超えて亡くなったように記憶するが、晩年は、国民党政府による(中国)本土回復に非協力的になったアメリカ政府に不満を抱いていたようだ。
 宋慶齢の死去に際して中国政府は靄齢、美齢姉妹にも招待状を送ったが2人が列席することはなかった。

 毛沢東の後妻に収まった江青が、夫の威をかって文革時代に暴虐行為を繰り返したことは有名な話だが、昨夜の番組によると、江青の感情を突き動かしたのは、劉少奇夫人王光美に対する嫉妬心だったようだ。王光美は英語、フランス語など5か国語を操る華麗なファースト・レディだったらしい。それが江青の嫉妬心に火をつけ、残虐な仕打ちに出たようだ。
 江青は死刑判決を受けながら、執行されることなく獄中で病死したように記憶していたが、昨夜の番組によると獄中で自殺したのだった。

 本書の読後感だか、昨夜のテレビ番組の感想だか分からくなってしまったが、中国近代史に宋姉妹をはじめとする何人かの女性の活躍があったことは確かであり、宋慶齢、宋美齢、王光美、蔡英文らが優秀な女性だったことも確かだろうが、中国人女性が一般に政治的に有能といえるかは疑問である(江青や紅衛兵だった何某を考えよ!)。
 宋姉妹の活躍は、実家の莫大な資金力と、結婚した配偶者(孫文、蔣介石)の政治的、カリスマ的力量によるところが大きかったように思う。純粋に個人的な実力によって地位を築き上げたのは(昨夜の番組に登場した女性のなかでは)蔡英文だけではなかったか。

 2023年9月29日 記

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この夏の軽井沢(2023年7月29日)

2023年09月28日 | 軽井沢・千ヶ滝
  
 7月29日(土)も夏晴れ。前日より、日中でも多少凌ぎやすい体感。

 午前中に、時間つぶしのDVDを借りるために沓掛テラス(旧中軽井沢駅舎)の中軽井沢図書館に出かける。
 上の写真は、中軽井沢図書館2階から眺めた浅間山(7月29日)。
 下の写真は、中軽井沢駅前(沓掛テラス)から眺めた浅間山。
     

 夜になってから、図書館で借りてきた新海誠の「君の名は。 Your Name ・・・」を見た。
 「時をかける少女」と「転校生」を合わせて3で割ったようなストーリー。
 観客1900万人を動員したとパッケージに書いてあったが、ぼくはダメだった。ストーリーの展開が分かりにくく、時空の移動についてくことができなかった。唾液のシーンも気持ちが悪い。

 せめてもの慰めだったのは、ぼくが予備校時代とサラリーマン時代を過ごした四谷界隈が出てきたことである。残念ながら、時代は予備校生だった1968~9年、サラリーマンだった1974~83年の四谷ではないが、迎賓館前の若葉町公園らしき公園、文化放送(旧社屋)の近くにあった石段、上智大学沿いの土手らしき風景も出てきた。
 ※(9月28日追記)数日前のテレビで、訪日外国人観光客が好きな東京の風景の一つとして、四谷須賀神社の石段が出てきた。この石段の上の方に立って、坂下とその遠方の住宅街を背景に自撮りする外国人カップルがいた。なかなか目が高い!と言いたいところだが、おそらくアニメ「君の名は」で知ったのだろう。あそこは東京のモンマルトルである。
 この石段こそ、まさに、文化放送近くの石段である。ぼくの会社は須賀町にあったが、あの界隈は「四谷怪談」の舞台だったらしく、お岩さんを祀る於岩稲荷というのと須賀神社があって、この題目を演ずる歌舞伎役者や落語家が奉納したお札(?)が並んでいた。
 須賀神社のあの階段も、たまに昼飯に遠征した際に上り下りした。ぼくたちが昼飯を食べに行った「来夢来人」(ライムライト!)というスナックは、確かあの坂下の近くにあったはずである。

 「君の名は」では、四谷のマンション屋上からの眺めを細密画で描いた画面があったが、1968年の夏に、駿台予備校四谷校舎の屋上のベンチに寝そべって、高層ビルが地平線を切り苛んでいる新宿や都心方面の風景をぼんやり眺めていたころの気持ちがよみがえってきた。
 あの頃は、高層ビルといっても、浜松町の貿易センタービル(だったか?)と、新宿の京王プラザホテル、四谷のホテルニューオータニくらいしかなかった(はずである)。
 あの頃から55年も経ってしまった。

 7月30日(日)。この日も朝から暑い。

 2023年7月30日 記(9月28日追記)

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猿谷要『アメリカ南部の旅』

2023年09月26日 | 本と雑誌
 
 猿谷要『アメリカ南部の旅』(岩波新書、1979年)を読んだ。
 すでに読んだ形跡があったが、断捨離(といえば体は良いが、要するに捨てることである)前のお別れの儀式のようなものである。
 1976年がアメリカ独立200年に当たっていたので、その前後にアメリカものが沢山出版された。猿谷にも「アメリカ独立200年」といった書名の本があったように思う。
 ※調べてみると、「イエスタデイ&トゥデイ--星条旗200年物語」((朝日新聞社、1977年)という本だった。

 本書は猿谷が得意としていた「アメリカ南部」ものの1冊だが、久しぶりにパラパラと目を通すと、印象的な文章にいくつか出会った。中でも一番印象的だったのは、極右の人種差別主義者だった(と思っていた)アラバマ州知事、ジョージ・ウォーレスについての記述である。
 ウォーレスは根っからの人種差別主義者で、その心情に従った政治家だと思っていたのだが、本書によると、そうではなく、ウォーレスは実は計算づくのポピュリスト(大衆迎合政治家)で、人種差別を唱えたほうが州民にアピールし当選につながると見込んで人種差別主義を唱えたのであって、1970年代になると、もはや人種差別では選挙に勝てないことを悟って変節したのだという。

 1960年代に黒人学生の入学をめぐって大騒動になったアラバマ大学だが(確か入学式に州兵まで動員された)、1970年代になって、黒人女子学生がミス・キャンパスに選ばれた際には、豹変したウォーレス(当時も州知事だった)がわざわざ同大学を訪れて、みずから彼女に女王の王冠を与えた(!)という仰天エピソードが紹介されている(110頁)。
 「国民は自分の頭の大きさに見合った帽子(=政治家)しか戴くことができない」という有名な政治家か政治学者の言葉があったが、まさに至言である。わが国会議員や地方議員の愚行や犯罪のニュース報道に接するたびに、この言葉を思い出す。

 アメリカ合衆国は、先住民のアメリカ・インディアンから土地を収奪してできた国家である。
 ジョン・ロック『市民政府論』が、入植した白人による先住民からの土地収奪を “property” の権利の名のもとに正当化したことは後世に残るロックの汚点である(26、36、41節ほか、鵜飼訳、岩波文庫32頁以下)。今になって見れば、実はアメリカ先住民であるインディアンの生活こそ地球と共生する持続可能な生活方法だったのである。ロックは、悪しき「近代」の先駆者でもあった。
 本書では、白人入植者による先住民の土地収奪の歴史も説明してある。
 1823年には連邦最高裁長官のジョン・マーシャルがインディアンたちの土地所有権の正当性を認めていたのに、1830年に大統領アンドリュー・ジャクソンがインディアンに対する強制移住法を制定して、彼らをミシシッピー以西の荒廃地に強制的に移住させたのである(42頁~)。
 白人と闘って矢折れた部族が多かった中で、チェロキーは白人との共存の道を探り、1838年まで「チェロキー国家」を存続させたが、最終的には白人政府によって潰されてしまった。アメリカの白人政府の非情さは、当時アメリカを訪問したトクヴィルによっても糾弾されていいる(45、54頁)。

 ぼくは1974年に出版社に入社したが、入社直後に「インディアン憲法崩壊史」という本がわが社から出版された。「インディアンに憲法があった?どんな内容だろう?」と興味を覚えて購入した。自腹で買った最初の自社の本はおそらくこの本ではなかっただろうか。
 定年退職した3年前に、アメリカ憲法を専攻する後輩研究者にあげてしまった。違憲審査基準論議が全盛の憲法学界において、アメリカ憲法の正統性を疑うこの本を彼が読むことはあるだろうか・・・。

 本書の最終ページには、「1979・11・7(水)pm 9:41」と書き込みがある。
 この本も断捨離される運命なのだが、巻末の文献目録などは誰かの役に立つのではないかと思うと、躊躇する。

 2023年9月26日 記

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「帰って来たヨッパライ」異聞

2023年09月24日 | テレビ&ポップス
 
 もう1ヶ月くらい前のことになるだろうか、NHKラジオ深夜便に元ニッポン放送アナウンサーの斉藤安弘が出演していた。聞き手のNHKアナは徳田章だったと記憶する。

 その中で、最初は関西のラジオでヒットしていたフォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」を関東のラジオ局で初めて流したのはニッポン放送の「オールナイト・ニッポン」だったと斉藤が語っていた。
 そのヒットに気を良くして、その後もザリガニ―ズの「海は恋してる」や、自分たち(カメ&アンコ―)の「ケメ子の歌」などコミカル・ソング路線がつづいたという。そんなことがあったか・・・。
 ぼくは、「オールナイト・ニッポン」のDJでは、今仁哲夫(春日部のテッちゃん!)の語り口としょうもない内容が好きだった。
 斉藤の話では、他局の深夜放送は自動車会社がスポンサーだったので、ヨッパライ運転で死んでしまった男の歌を流すことができなかったと言っていた。

       
 それで思い出したが、TBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」のスポンサーは、確かに日産自動車だった。
 誰のコピーか知らないが、「最果ての駅 乗り遅れた最終列車を追って 隣りの駅まで送ってくれた 見知らぬ彼 サファリ・ブラウンに輝くスカイライン」というCMを今でも覚えている。
 スカイラインは、ケンとメリーもそうだったが、なぜか北海道のイメージで売っていた。稚内あたりの駅で、そんな男女のドラマがあったかもしれない。
 上の写真は家族旅行で北海道の美瑛を訪ねた際に撮ったケンとメリーの木。映っている息子の小ささからみて1995年前後と思う。

 文化放送の深夜放送「セイ・ヤング」のスポンサーに自動車会社が入っていたかどうかは、記憶にない。
 「セイ・ヤング」で覚えていることは、みのもんたが本名の御法川(みのりかわ)何某という本名でDJをやっていたこと、DJの落合恵子が「レモンちゃん」とかいう愛称で呼ばれていたこと(ぼくは呼ばなかった。ぼくのご贔屓は午前3時からの第2部の馬場こずえと滝良子だった)、同番組の田名網(たなあみ)ディレクターという人が、「日本史の傾向と対策」(旺文社)の筆者として当時の受験界で有名だった田名網宏先生(都立大教授!)の息子だったこと(落合が番組でそう言っているのを聞いた)くらいか。

 そう言えば、ゆうべ(9月23日午前0時すぎ)のNHKラジオ深夜便の落合恵子のコーナーで、「白い渚のブルース」がアッカ―・ビルクのクラリネットで流れていた。落合は、自分の番組をもてたら、この曲をオープニング曲にすると言っていた。
 「白い渚のブルース」はぼくも好きだな曲だが、ぼくはビリー・ボーンのLP盤できいた。その昔、ビリー・ボーンの「真珠貝の歌」がオープニングに流れるリクエスト番組が、たしか土曜日か日曜日の夕方に、NHKかラジオ関東でやっていた。長崎節か高崎一郎がDJだった(と思う)。

 2023年9月24日 記

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小谷野敦『江戸幻想批判』

2023年09月22日 | 本と雑誌
 
 小谷野敦『江戸幻想批判--「江戸の性愛」礼賛論を撃つ』(新曜社、1999年)を読んだ。
 どのような経路で入手したのか覚えていないが、なぜかぼくの蔵書のなかに残っていた。
 最近になって近親婚への関心から、氏家幹人『不義密通』(講談社選書メチエ、1996年)などを読んだついでに、氏家の著書にも言及があった本書を読んだ。
 本書の腰巻(表紙カバーについている帯)の宣伝文句によれば、「江戸は明るかったか? 江戸の性はおおらかだった? トンデモない!」と大書されていて、江戸の性の自由は強姦やセクハラの自由であり、遊郭文化は悲惨な女性の人身売買の上に築かれたものであると続き、「江戸幻想」を木っ端みじんに粉砕するという。

 近世(江戸?)文学という不案内な世界のことなのでコメントする能力もないのだが(それなら書込みなどするな!といわれそうだが)、1990年代のバブル時代に、わが国の文学界というか国文学界に「江戸の性愛」礼賛論、著者がいう「江戸幻想」があったらしい。
 江戸時代は封建的、男尊女卑の暗黒時代だったという戦後の主流的論調(著者は「暗黒史観」と呼ぶ)は批判するが、そうかといって、江戸の性は自由だった、女性は逞しかった式の議論(著者は「江戸幻想」論と呼ぶ)も批判する。
 「江戸幻想」論者として批判されるのは、主として佐伯順子と田中優子である。上野千鶴子も批判されているようだが、筆者の舌鋒はよわい。この辺のニュアンスはぼくには分からないが、佐伯がサントリー学芸賞を受賞したことへのやっかみのように読める個所もあった。授賞に影響力をもつ「大物」とは誰だろう?

 遊女がすべて聖女ということはないだろうが、遊女の中には聖女のような女性もいただろうと個人的には思う。男が永遠の女性として憧れるのは母性と処女性と娼婦性を兼ね備えた女性であると島崎敏樹が書いていた。
 島崎はぼくが大学受験の頃に現代国語の出典ベスト3に入っていたので、岩波新書や中公新書を数冊読んだ。ほかのすべては忘れてしまったが、島崎のこの一文だけは記憶に残った。
 売春と性的自己決定権については、かつて代理母契約の効力を考える際に、けっこう真剣に考えた。もし、ぼくが女で(当時は妊娠は女でなければできないとされていたが、最近では男でもホルモン療法を行なえば子宮移植によって妊娠・出産が可能らしい)、貧しくて、しかし大学院に進学したいという状況で、学費を捻出するために肉体労働か売春か代理母のどれかを選べと言われたら、ぼくは代理母を選ぶような気がした。
 しかし、家内から「あんたのような痛がりには陣痛の痛みはとても耐えられないよ」と宣告されたので、代理母を選択することは断念(?)した。ちなみに「陣痛」は英語で “labor” (労働)というが、この語義の変遷も不思議である。妊娠、出産が「肉体労働」であることは間違いなさそうだが。

 なお、本書には氏家の著書への言及があり、氏家の資料に基づいた論述には敬意が示されていたが(ただし氏家も「江戸幻想」に傾いたことがあったらしい)、残念ながら江戸期の近親相姦への言及はなかった。
 橋本治の「江戸にフランス革命を!」を名著と書いてあった。何が書いてあるのか、読んでみようと思う。柴田錬三郎の「うろつき夜太」くらい面白いといいが。

 2023年9月22日 記

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R・ポストゲート『十二人の評決』

2023年09月18日 | 本と雑誌
 
 レイモンド・ポストゲート/黒沼健訳『十二人の評決』(早川書房、1954年、1993年再版)を読んだ。

 ハヤカワ・ポケット・ミステリ1600番突破記念復刊(1953年~1993年)!と銘うってあり、表紙扉のタイトルには「世界探偵小説全集」というシリーズ名がついている。巻末の解説を書いているのは江戸川乱歩で、(昭和)29.11の日付けがある。
 このシリーズには、他にポアロ=ナルスジャック「悪魔のような女」、カー「蝋人形館の殺人」、ストーリー「ハリーの災難」など20冊が復刊されたらしい。ニコラス・ブレイク「証拠の問題」、ジュリアン・シモンズ「犯罪の進行」など、題名からして読んでみたいものも何冊かある。
 ハヤカワ・ポケット・ミステリは1953年の刊行開始ということは、ぼくが「87分署」シリーズや、ウィリアム・アイリッシュなどを読んでいた1970年代初めは、まだ刊行から20年経っていなかったのだ。シリーズ番号も3ケタだった。

 この復刊本は、いつものビニールカバーではなく、箱入りである。
 シンプルだけどお洒落な箱で、裏面には、「お手許に綺麗なままの本をお届けしたく、こんな簡単な函を作ってみました。いわば包装紙がわりです。お買い上げ後には、お捨て下さって結構です」と書いてあるが(下の写真)、この言葉に従ってこの函を捨ててしまった人はいただろうか。
 ぼくは、本のカバーどころか、いわゆる「腰巻」も捨てることができない。
 復刊からも20年以上が経っているが、読まないままでいた。『陪審員の四日間』を読んだついでに、陪審ものというつながりで読んだ。

   

 内容だが、最初の数章で12人の陪審員の人物像が紹介され、次に事件の記述があり、そしていよいよ陪審員の評議が始まり、評決、判決があり、最後に判決後に被告人が弁護士に向かって「真実」を語るという構成である。
 著者のポストゲートは経済評論家を本職とするというので、余技で書かれた小説にありがちな頭でっかちのあまり面白くない小説ではないかと心配したが、杞憂であった。著者は純粋な学究肌というよりは、オックスフォード左派というか労働党右派といった立場の文筆家のようである。
 陪審員の人物の描き方も通り一遍の紋切型ではなく、労働者階級、下層階級の人物に対する見下したような描写も見られるが、それなりに書き分けている。いかにもイギリスの小説という味がある。
 資産家の息子と結婚した庶民階級出身の品性やや下劣な女が、夫と義父(舅)が急死したため財産と地位を相続し、女中と庭師、継子と一緒にマナーのような旧宅で田園生活を送るうちに、継子の不審な死亡事件が突発し、この女が被告人となる。
 事件それ自体はアクションもほとんどなく、面白いとは言えない。主人公やかかりつけの田舎医師、子どもの家庭教師、被告人を弁護することになる弁護士など登場人物の会話や日常生活の描写から垣間見られる彼らの人間関係に向けられた著者の冷ややかな観察眼に興味がわかなければ読み進めることはできないだろう。

 著者はおそらく陪審員になった経験があるのだと思う。陪審員の評議の記述にはかなりリアリティが感じられる。陪審員が、けっして証拠と証人の証言のみに基いて判断するのではなく、有罪を主張する陪審員に対する個人的な悪感情から無罪を主張する場面など、さもありなんと思わせる。
 しかし、検察側が合理的な疑いを差し挟む余地のないまでに有罪を立証したと確信できないかぎり「無罪」(not guilty)を評決するという大原則は揺らぐことはない。ここがイギリス陪審ものの真骨頂である。
 ただし、評決の後で、被告人が弁護人に向かって「真実」を語るという結末は、読者サービスとはいえ、蛇足ではないか。まあ「真実」を語っている元被告人のしゃべった内容が本当に「真実」かどうかは読者の判断にゆだねられている。ぼくには「真実」とは思えなかった。

 表紙の装画はいつもの勝呂忠で、彼らしいデザインだが、いつもよりやや具象的か。

 2023年9月19日 記

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小豆島に行ってきた・1(2023年9月10日)

2023年09月14日 | あれこれ
 
 9月10日から11日の2日間、香川の小豆島に行ってきた。

 9月10日(日曜)8時48分東京駅発のぞみ63号広島行きに乗車。
 丸の内口の券売所で、乗車券は東京ー高松、新幹線は東京ー岡山という場合はどのように買うのか券売機前に立っていた案内係のお兄さん(どういう身分かは不明)に尋ねると、全部ボタンを押してやってくれた。さらに、岡山ー高松間のマリンライナーは在来線のため普通席では座れないことがあるというので、指定券も購入した。
 8時30分頃に17番ホーム(?)に登ると、すでに車両はホームに入っていて、乗車を待つ列も並び始めていた。3号車の自由席の行列に並ぶ。前から10人目くらい。10分ほど待つとドアが開いて乗車が始まる。同行の息子と並んで、日の当たらない進行方向右側に座る。座席は発車前にけっこう埋まって、2人並んで座れる座席はなくなった。
 昔、阿川弘之のエッセイに、東京駅で新幹線に乗り込むと広島県人と岡山県人は顔を見ただけで区別がつく、という趣旨のものがあった。阿川は広島県人でそう言うのだが、ぼくには区別はつかない。
 下の写真は、有楽町駅を通過する新幹線の車窓から。

     

 新幹線に乗るのは久しぶり。2020年に定年になって以降は初めてである。
 右側の座席は富士山が見えるはずだが、気がつかないうちに通過してしまったらしく、気がつくと三島駅を通過していた。どこかで「常葉大学」の看板が見え、それからしばらく行った所に「菊川」駅があった。甲子園に出てくる「常葉菊川」というのはこの辺りの高校なのだろう。
 名古屋からインバウンドの外国人が山のように乗ってくる。半袖からのぞいた太い腕に刺青がしてある屈強で不気味なのもいた。

     

 12時05分に岡山駅着。孫のために、発車したのぞみ号の後ろ姿を撮ったり(上の写真)、在来線への乗換口がすぐに見つからなかったりで、12時13分ぎりぎりでマリンライナー29号高松行きに乗ることができた。
 マリンライナーの自由席は座れなくはなかったが、2人並んでは座れなかったかもしれない。指定席は一番先頭の1号車だったが、座席は2階建て車両の下の階だった。途中駅に停車すると、ホームが目の高さにあった。
     

 岡山側の水島を出て、しまなみ街道(?)の鉄橋を渡ると(上の写真)、四国香川の坂出に到着。それから程なく13時05分に終点高松駅に到着。下の写真はわれわれが乗ってきたマリンライナー。

     

 その昔雑誌の編集者をやっている頃に、高松に出張したことがあったが、高松のホテルがどこもいっぱいだったので、仕方なく玉島(玉野だったかも?)の旅館に投宿して、翌日宇野から宇高連絡船で高松入りしたことがあった。
 大学時代の同級生で三井造船(確か?)の社員だったのが玉島にいたので、呼び出して寂れたバーで飲んだ。12時近くに宿に戻ると玄関が閉まっていたので、呼び鈴を押すと寝間着姿の女将が出てきて「寝られやしない!」と怒鳴られた。日本旅館というのはそういうものだったのか。
 現在の高松駅にはもはや宇高連絡船の到着桟橋はないが、広い改札口に向かうと、なぜか宇高連絡船で高松に到着した40年以上前のその時の記憶がよみがえってきた。どこかに面影が残っているのだろうか。

     

 上の写真は高松駅ビル。
 小豆島に向かう高速艇の出発まで30分あるので、高松駅前のうどん屋でうどんを食べることにする。駅を出たすぐの道を渡ったところに「うどん」の看板が見えたので、そこに入る。10人以上は並んでいたが、流れ作業であっという間に注文、配膳(?お盆のうえに乗っける作業)、支払いが終わるシステム。
 ぶっかけやまかけうどん、冷やし、小を注文、刻みネギと天かすは無料。美味しそうだったのでかぼちゃの天ぷらをプラスする。あわせて500円ちょっとだったか。
 香川でうどんを食べて外れということはない。その昔フェリーの船内で食べた200円(今は何円か知らないが)のうどんでさえ美味しかった。
     

 13時40分高松港発の高速艇で小豆島に向かう。
     

 若い頃はJR岡山駅からバスで岡山港に行き、そこからフェリーで小豆島に行っていたが、岡山港が改修されて小豆島行きの乗り場が不便になってからは、飛行機かマリンライナーで高松経由で行くようになった。
 高速艇は45分の所要時間で、14時15分に小豆島の土庄港(とのしょう)に到着。
 高速艇の車窓(?)から、懐かしい「かどやごま油」の工場と看板が見えた(下の写真)。土庄港のランドマークである。そして今日の宿になるオーキドホテルも見えていた。このホテルの建物も土庄港のランドマーク的存在だが、宿泊するのは今回が初めてである(冒頭の写真)。

     
     
 以前は、どのホテルでもフロントは24時間あいていたが、今回はフロントの営業は24時までと書いてあった。数十年前の玉島の日本旅館と同じである。ホテルマン(パーソン)の働き方改革も進んでいるのだろう。当然の趨勢である。

     

 最後に、翌日11日にマイクロバスの車窓から偶然見かけた小豆島大観音の姿を。突然現れたので、小豆島にこんな巨像があったのかと驚いた。 

 2023年9月14日 記

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小豆島に行ってきた・2(2023年9月10~11日)

2023年09月13日 | あれこれ
 9月10日、11日の2日間、香川県の小豆島に行ってきた。
 小豆島は家内の生れたところだが、縁戚の葬儀に出席のための旅行である。  

 2日目の9月11日(月)は午前中に告別式を終え、火葬も済ませて、午後3時すぎには早や帰途に就く。寒霞渓への観光道路沿いにある火葬場へ向かう送迎バスの窓から、小豆島大観音なる巨像が見えた。下の写真。
 3歳の孫は、いま大仏にはまっていて、地球の歩き方「世界の巨像」が愛読書なのだが、さぞ見たかっただろうと思う。

 

 午後3時(15時45分)土庄港(とのしょう)発のフェリーに乗って高松へ。下の写真の真ん中が高松へ向かうフェリー。向うの方が高松行きの高速艇(45分で高松に着く)、手前は豊島経由宇野行きのフェリーだった(と思う)。

      

 高松港までのフェリーの所要時間はジャスト1時間。高速艇より15分時間がかかるが、時間に余裕があるならフェリーのほうがはるかに旅情がある。下の写真はフェリーの甲板から眺めた高松方面の遠景。

     

 16時45分すぎに高松港に到着。
 高松空港行きの高速バスは、飛行機の発着に連動しているので、われわれが乗る飛行機に間に合わせるバスは17時45分まで来ない。
 1時間を待合所で過ごすのも退屈である。

     

 ぼくはすでに2回か3回行ったことがあるが、同道の息子は行ったことがないと言うので、駅前から徒歩3分くらい、道を挟んだ東側にある旧玉藻城跡の玉藻(たまも)公園を散歩することにする。上の写真は入口に立つ石碑。
 喪服や荷物はバスターミナルの手荷物預かり所に預ける。6時(18時)で閉まるけれど大丈夫ですかと確認されたが、玉藻公園を歩くだけなので大丈夫です、と答える。

     

 公園内に入って、まず天守閣跡に登る。
 天守閣は消失していて、石垣だけが残っている。石段や頂上の周囲には鉄パイプの手すりが施されていて興ざめと思ったが、いざ登ってみると石段は段差が不ぞろい、天辺は(高所恐怖症気味のぼくには)目がくらむ高さで、手すりがなかったらめまいで落下してしまったかもしれない。
 上の写真は天守閣跡から眺めた高松港方面。左遠方に琴電の駅舎と車両が見える。ランドマークの高松クレメントホテルも見えている。

 天守閣跡の石段を下って、今度は瀬戸内海に面した櫓(名前は忘れてしまった)に向かう。
 玉藻城は「水城」というらしく、海からも船で出入りすることができる構造になっている。昔「ブラタモリ」でやっていた。
 下の写真は右側が天守閣の石垣。

     

     

 案内板を見ると、櫓の向うには小豆島が見えるらしいが、残念ながら、木々が邪魔をして小豆島は見えなかった。フェリーに乗っている間は曇っていたのだが、この頃には日がさして、夕日を浴びた櫓の白壁がきれいに輝いていた。冒頭の写真も玉藻城の櫓。
 下の写真の櫓の後方に小豆島はあるらしい。

     

 約40分の見学でバス停に戻り、荷物を受け取って、17時45分発の高松空港行きリムジンバスの乗りこむ。途中のバス停で満席になり、数人は補助席に座る。
 進行右手、西日に讃岐富士のシルエットが映えていた。「赤富士」風である。ただしあの山が本当に「讃岐富士」なのかどうかは不明。わが家のなかで勝手にそう見えるので、そう呼んでいるだけである。

     

 19時40分発ANA540便に搭乗、ほぼ定刻の21時ちょっと過ぎに羽田着。折よく石神井公園行きリムジンバスに乗ることができ(このバスも満席だった)、23時すぎに無事帰宅した。

 2023年9月13日 記

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「風と共に去りぬ」「会議は踊る」ほか

2023年09月06日 | 映画
 
 『ある陪審員の四日間』を読みながら、久しぶりにレコードを聴いた。

 映画音楽の主題歌を集めたアルバムで、1枚は「想い出の映画音楽のすべて--Immortal Movie Themes」(CBS SONY SOPV-71~72 )発売年は不明(上の写真)。
 「禁じられた遊び」「マルセリーノの歌」「鉄道員」「ムーランルージュの歌」「第三の男」「太陽がいっぱい」「テリーのテーマ」(「ライムライト」の主題歌だった)「真夜中のブルース」「タラのテーマ」「エデンの東」「夏の日の恋」「ムーンリバー」「慕情」「魅惑のワルツ」など、懐かしい曲ばかりが、2枚組LPに24曲収録されている。
 1曲2~3分なので、10分ちょっとおきにレコードを裏返さなければならないのがつらいけど、久しぶりに聞いたのでどの曲も懐かしい。「禁じられた遊び」など何年ぶりで聞いたのだろうか。今ウクライナで起こっていることと同じではないか!

   

 見開きのジャケットには、収録された映画の解説と、スチール写真が何枚か載っている(上の写真)。ぼくがホセ・ファーラーをロートレックだと思い込んだ「赤い風車」のショットもある。


     

 もう1枚は、「想い出の亜米利加・欧羅巴映画音楽ベスト20」(TEITIKU BL-1166~7)。こちらも製作、発売年は不明(上の写真)。
 「想い出」も「亜米利加」「欧羅巴」もわざとらしい印象だが、収録された映画の年代からして、許すことにしよう。
 「巴里の空の下」「ただ一度の」(「会議は踊る」の主題歌)「巴里祭」「自由を我等に」など1920~30年代に公開された映画ばかりで、ぼくが見た映画はほとんどない。
 ただ、リリアン・ハーヴェイが歌う「ただ一度の」にだけは思い出がある。

 このレコードだったか、ラジオからこの曲が流れるのを聞いた今は亡き叔父が、旧制高校時代に「ドイツ語の勉強」と称して「会議は踊る」を見に行ったという思い出を語っていたのである。
 叔父の通った高校は7年制の旧制東京府立高校で、ぼくの学んだ東京都立大学の前身の学校である。叔父はこの学校のぼくの先輩ということになるが、ぼくが入学した1969年当時も、学校は旧制時代と同じ目黒の柿の木坂にあり、A棟と呼ばれた3階建ての校舎は旧制高校当時のままだった。
 ぼくが大学1年の時に、英語を担当した笠井先生という老先生がおられたが、この先生は叔父が旧制高校に入学した年に新しく着任したばかりの先生だったという。

 笠井先生の授業は1時間目だったが、始業時間ぎりぎりの朝9時近くに都立大学駅を降りたぼくは、遅刻の名人だったが、柿の木坂で前をゆっくりとした歩調で登って行く笠井先生を見つけて追い越すと、安心して速度を落として教室へ向かったものだった。
 笠井先生は、ぼくが1年か2年の時に定年で退職された。
 このレコードのジャケット裏には、リリアン・ハーヴェイの写真も載っていた。
 映画「会議は踊る」の解説には、1931年の製作だが、日本公開は3年後の昭和9年1月、帝劇ほかで上映とある。大正9年生まれの叔父が7年制旧制高校に在籍したのは、12歳の昭和7年か8年から7年間だから、年代はあっている。
 ※ 叔父と笠井先生の思い出を書きながら、この話は前にもこのコラムに書きこんだ気がしてきた。2006年以来15年以上書いてきたので、過去に何を書き、何は書いてないのかの記憶も怪しくなってきた。

 そして「亜米利加・欧羅巴映画音楽・・・」の解説には、この「ただ一度の」は、「ポルカ風リズムの軽快な魅力あるメロディーは世界のすみずみまで歌われました」とある(南葉二解説)。
 その「世界のすみずみ」の1つが、昭和12~3年頃の柿の木坂の旧制東京府立高校だったのだろう。
 ぼくが大学に入学したのは昭和44年(1969年)だから、叔父が学んでいた頃から30年しか経っていなかったのだ。それに対して、ぼくが大学を卒業してから来年でもう50年になる。ぼくの歴史の遠近法では、前者の30年のほうがよっぽど長く、その後の50年はあっという間だった気がする。

 そう言えば、小津安二郎の「秋刀魚の味」や「秋日和」などの挿入歌も、「ただ一度の」を思わせる陽気なポルカ風の曲が多かったように思う。
 小津も洋画ファンだったから、リリアン・ハーヴェイも聞いただろう。

 2023年9月6日 記

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D・G・バーネット『ある陪審員の四日間』

2023年09月05日 | 本と雑誌
 
 D・グラハム・バーネット/高田朔訳『ある陪審員の四日間』(河出書房新社、2006年)を読んだ。

 実際にニューヨーク州の裁判所で、ある致死事件の裁判の陪審員に、しかも陪審員長に選任された著者が、陪審員室での12人の陪審員による評議の過程をドキュメント風に描いた作品。どこまでが事実で、どこからがフィクションなのかは分からないが、陪審員には守秘義務があるから完全なドキュメント、ノンフィクションではないだろう。「ドキュメント小説」というあたりか。

 事案は、密室内で起きた男性どうしの性関係をめぐる致死事件である。被告が被害者をナイフで刺したことは争いがないが、そこに至る経過をめぐっては、検察官の主張と被告の主張は大きく食い違っている。
 陪審員は、法廷に現われた証拠、証言のみに基づいて評議し、検察側が「合理的な疑い」がない程度にまで被告人が有罪であることを立証できたと陪審員全員一致で判断しないかぎり、「無罪」(not guilty)の評決をしなければならない。
 1人だけ一貫して被告人の無罪を主張する以外は、全員が被告人は何か悪いことをした、処罰を受けるべきだと考えていたが、しかし、過半数をこえる陪審員は、検察官が被告人の有罪を「合理的な疑い」を差し挟まない程度に立証できたとは考えなかった。
 正義を優先して被告人を有罪とすべきか、法律を優先して合理的な疑いが残るとして無罪を評決すべきか、陪審員たちは悩む。
 
 こんな状態で、4日間に及ぶ評議が続けられる。
 ヘンリー・フォンダの映画「十二人の怒れる男」のようにはストーリーは展開せず、決定的証拠が見つかるといううまい話も起こらない。陪審員たちが対立し、感情的になり、「怒る」姿は、リメイク版の「十二人の怒れる男」に近い。ただしこの本の陪審員は半数が女性である。
 「怒り」方も「十二人の・・・」とは異なる(ように思う)。怒りながらも、自説を展開する多くの陪審員にはさすが、と思う。自分の意見をもたず、指名されても裁判官から叱られるくらいに小さい声であいまいな答えしかしない陪審員もいたけれど。こんな人はアメリカ社会では生きにくいだろう。
 陪審員の中に、陪審員の仕事をきわめて軽視して、軽薄な言動をくりかえす男がいて、さっさと有罪の評決をして帰りたいという。著者は、はじめのうちは、被告人は何らかの法的制裁を受けるべきであり、このまま無罪釈放されるべきではないと考えていたのだが、こんな軽薄な陪審員によって、被告人に有罪を言い渡して自由を剥奪するのは許せないと思うようになる。まったく同感である。
 
 陪審員の評議から評決に至るプロセスが、陪審員たちの事実や証拠の評価をめぐる対立だけでなく、感情的な対立も含めてリアルで面白かった。
 評議は1日8時間に制限されていて、時間が来ると廷吏が「(本日の)評議終了」と宣言して、マイクロバスでレストランに連れて行かれて夕食、そしてホテルでの缶詰め、家族との連絡も遮断、ただし着替えをとりに監視つきで自宅に帰ることもできる。マンハッタン界隈を1台のマイクロバスで5時間かけて、各陪審員の家をまわるのである。
 陪審員から質問が出されると公判が再開され傍聴人もいるなど、これが4日間も続くとは陪審員だけでなく、裁判官、検察官、弁護人、被告人、傍聴人、廷吏、警護の警察官など大変な作業だと思った。
 そんな陪審制を、陪審員の数を12人から9人、6人に減らしたり、評決を全員一致ではなく多数決にしたりと負担軽減策は講じているようだが、それでも維持しつづけるアメリカは、やっぱり「腐っても鯛」の一面はあると思う。ただし、本書は2006年の刊行で、その後の20年弱でアメリカの陪審制がどうなったかは知らない。

 個人的には、大学の非常勤講師で科学史を教え、菜食主義者(?)でほかの陪審員とは一緒に食事をとらず、詩人を自称し、空き時間にはギリシャ人か誰かの詩を読んでいているという著者のような陪審員長のもとで評議するのは御免こうむりたいが、評決の結論はぼくの個人的意見と同じだった。
 著者が、最終的結論に至るように、事実関係、とくに被告人を描写しているのだから、評決の結論に共感するのは当然かもしれない。被告人の人柄などは評決の材料にしてはいけないと裁判官から説示されているが、法廷で目の前に座っている被告人から事実上の心証を得てしまうことを禁止することはできないだろう。
 「陪審員は法を無視して評決をしても罰せられない」、いわゆる “jury nullification” のことも出てきた。このルールのアメリカにおける淵源を、(妻が法律家で、法史学の素養のある)著者が説明する場面があった。

 断捨離するが、なぜこの本を20年近く放っておいたのか? 陪審に興味がなくなってしまったからだろうけど、よく今日まで捨てたり後輩にあげないでとっておいたものだ。

 2023年9月5日 記
 

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この夏の軽井沢・余滴(2023年8月22日)

2023年09月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 旧聞ながら、8月22日の朝のテレビで、上皇ご夫妻が4年ぶりに軽井沢を訪問されたニュースが流れた。
 29日まで滞在の予定と報じられていた。

 満蒙開拓団の帰村地である大日向村(おびなた)を訪問される様子が映っていたので、あわててカメラをオンにしてテレビの画面を撮ろうとしたが、シャッターを押したときには、すでに別画面に切り替わってしまっていた。

 何年か前の晩夏の夕方、浅間台公園方面に散歩に出かけたところ、途中のT字路に制服の警官が二人立っていて、この先の通行は遠慮してほしいと言われたことがあった。 
 夜のニュースで、この日の午後、上皇ご夫妻が浅間山の裾野の丘陵地帯に広がる大日向村を訪問されたことを知った。そのための交通規制だったのだろう。
 それ以前にも、大日向村のレタス畑の近くを散歩していたら、遠くに人だかりがあって、中にはテレビカメラを肩に担いだ人もいた。その時もなんのロケだろうと思っていたら、やはり上皇ご夫妻が訪問されたことを夜のニュースで知った。

 あれから4年以上経ったのだった。
 終わってみれば、あっという間のコロナ禍だったようにも思うが、コロナのために入学式が中止になった孫が、今では小学校4年生である。

     

 大日向開拓記念館を訪問された時の映像は、左肩には2008年、画面中のキャプションには2003年とあって、どちらが正しいのかわからないが、今年ではないようだ。
 あそこには昭和天皇巡幸(行啓、行幸の違いは何だったか?)記念の歌碑もあるから、旧軽井沢のテニスコートだけではなく、大日向村にも深い思い入れがおありなのだろう。

 2023年9月3日 記

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