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豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

「お菓子とシャ-ト」

2025年03月22日 | あれこれ
 
 2025年3月20日はぼくの75歳の誕生日だった。
 お祝いにお菓子と、妙にぼくに縁のありそうなロゴの入ったTシャツをプレゼントされた。
 Tシャツには “Legends Were Born in March 1950.All Original Parts Aged Perfectly” というロゴが入っている。誰がどういう文脈で言った言葉なのか、出典が何なのかぼくにはわからないが、1950年3月生まれのぼくもその “Legends” の一人でありたいものである。すべてのパーツがパーフェクトに年齢を重ねているとは言いかねる昨今ではあるが。

      

 サマセット・モーム「お菓子とビール」にあやかって、「お菓子とシャート」というタイトルをつけることにした。
 モームの「お菓子とビール」の原題は “Cakes and Ale”、イギリスではビールとエールとラガーは区別されるから上田勤訳の新潮文庫版のタイトルは「お菓子と麦酒」となっているのだろう。「お菓子とビール」とは妙な取り合わせで、どんな含意があるのかぼくにとっては謎だった。その昔12月24日に新宿歌舞伎町の居酒屋でゼミの忘年会をやったら、飲み放題にイチゴのショートケーキが一人一切れついてきたことがあった。まさに「お菓子とビール」だった。
 いま読んでいる本によれば、「お菓子とビール」という言葉はシェークスピア「十二夜」や「ヘンリー8世」に出てくる言葉で、甘い物から辛い物までご馳走を並べて歓待するという意味で、モームでは主人公ロウジーを甘いもの、モーム自身の警句や皮肉を辛いものに見立てているのだろうという(日高八郎「お菓子とビール」朱牟田夏雄編「サマセット・モーム」研究社、90頁)。

 2025年3月22日 記

東京の桜、開花(3月17日)

2025年03月18日 | あれこれ
 
 昨日3月17日(月)の午後、陽ざしは春めいているが、北風がびゅんびゅんとうなり声をあげる中を散歩に出た。
 一昨日3月16日(日)がそれまでの春の陽気から一転して寒い雨が降る一日だったので、昨日の晴れはひときわ光り輝いて感じられた。

 花粉症に悩まされているので、風の中を歩くのは正直きついのだが、陽ざしに誘われるままに出かけた。
 いつもの散歩コースの道沿いにある小さな公園で、高さ2メートルくらいの木が鮮やかなピンクの花をたくさんつけていた(上の写真)。昨年の春にはこの公園のその辺りには桜はなかったはずである。梅だろうかと思って近づいてみると、やっぱり桜だった。ソメイヨシノの薄いピンク色とは明らかに違う鮮やかさである。
 石神井公園に植わっている河津桜(名札がかかっていたので「河津桜」と分かった)のような鮮やかな」ピンクである。ぼくは淡いピンクのソメイヨシノよりもこの鮮やかな河津桜(?)の花のほうが、春の青空にも映えていて好きである(下の写真)。
 今朝のNHKラジオ番組で、樹木医という人が最近の東京などでは寿命の来たソメイヨシノを伐採して、80種類以上の桜に植え替えていると語っていた。この公園の桜もそのような植え替え作戦の一環としてこの1年の間に植えられたのだろうか。わが家の近所の桜並木のソメイヨシノも、ぼくが小学生だった70年近く昔のようなピンクの容色はすでになく、白茶けていて寂しい限りである。
 今から数十年もすると、東京の桜もソメイヨシノ一色ではなく、様々な種類の桜が、様々な時期に、様々な色合いの花を咲かせるようになることだろう。

      
           

 さらにしばらく歩いたところにある別の公園では、地上すれすれから天辺までコブシの白い花が咲いていた(上の写真)。
 コブシかどうかは自信がないのだが、この手の白くてこのくらいの大きさの花で、この時期の東京で咲きほこっているのは「コブシ」だろうと勝手に決めつけているのだが、間違っているかもしれない。
 同じくこの時期に近所の家の庭先できれいな黄色い花を咲かせている木が「ミモザ」ということを今年になって初めて知った。花の名前はチューリップとひまわりくらいしか識別できないままに70年以上生きてきて、この年になって散歩の道すがらの木々や花にも興味を覚えるようになったのである。

 2025年3月18日 記

      
       
       

 追記 
 今日3月22日の午後、この18日と同じコースを散歩した。そしてとんでもない間違いに気づいた。18日に「コブシ」と書いた花は何と「桜」だった。なんで分かったかというと、その木に「桜の枝を折らないでください」という立札が立っていたのである(上の写真)。「この白い花がサクラ!?」と驚いたが、そう書いてあるのだから桜なのだろう。花に関する無知識ぶりに我ながらあきれるばかりである。
 ついでに3枚目は18日の河津桜の今日の姿、地上にちらほらと花が散り始めていた。こっちは「河津桜」で大丈夫だろうか・・・。

 2025年3月22日

箱根に行ってきた・2(2025年2月23日)

2025年02月28日 | あれこれ
 
 箱根の旅、第2日は朝10時過ぎに旅館をチェックアウト。天気はほぼ快晴。緑の山肌が青空に映えている。
 旅館の裏口(6階にも出口があった!)から2、3分坂を登った先にある「奥湯本」バス停から、10時16分発の箱根登山バス、畑宿経由、元箱根港行きに乗る。湯本駅始発のバスは満員でやってきたので、座ることができない。元箱根港まで40分間も立ったままはキツイなと思っていたら、途中のホテルや旅館前で停車するたびに乗客が下車するので、10分足らずで家族4人が着席することができた。

       

 終点の元箱根港バス停周辺は3連休の2日目ということもあって、午前11時なのに結構混んでいる。とくに、芦ノ湖めぐりの遊覧船乗り場などは長蛇の列で、「次に出港予定の便も満席のため乗船できません」というアナウンスが流れていた。
 ぼくが最後に箱根に来たのは10年近く前の8月下旬(か9月上旬)、夏休みのゼミ合宿だった。2つの台風が同時に関東地方を襲ったとんでもない時で、遊覧船もロープウェーもすべて欠航、土砂降りの雨のなか激しい波に揺れる遊覧船を空しく眺めて帰るしかなかった。
 今回は天候にも恵まれ、陽ざしがあって風もなく、最強寒波が到来しているという割にはそれほど寒く感じなかった。  
       
       
       
 元箱根港の周辺が混んでいるので、1キロ先にある箱根関所まで歩く。関所に向かう途中で、芦ノ湖の向こう雲の合間に雪を頂いた富士山を見ることができた(冒頭の写真)。
 関所とはどんな難攻不落の遺跡が残っているのかと期待したが、ここがどうして難所だったのか分からないくらい、あっさりと通過することができる場所である。小山の上に砦のような遺構があったから、地理的に難攻不落というより監視が厳しくて通り抜けるのが難しかったのだろう。
       
       

 箱根関所の宿場のような通りを抜けたすぐの所に、小田原駅始発で箱根湯本駅に向かう路線バスの「箱根関所」停留所があって、12時16分発だったかのバスに乗って湯本駅に向かう。こちらはガラガラで到着して、元箱根港で満席になった。来る時のバスとは違って、芦ノ湯や小涌園、大平台、塔ノ沢など箱根駅伝のコースを通る路線だった。懐かしいわが大学のセミナーハウスの前も通過した。
 塔の沢を過ぎるあたりから渋滞が始まり、バスは一寸刻みのノロノロ運転になる。後で分かったことだが、渋滞の原因は箱根湯本駅周辺の道路を観光客が頻繁に横断するためだった。湯本に近づいた車窓からは、小津安二郎の戦争前の映画に出てきそうなレトロな外観が雰囲気のある旅館が見えた。「環翠楼」とあった。尾崎一雄の「あの日この日」という回想録のなかに、軽井沢の「環翠楼」で志賀直哉と面会する場面があったが、箱根の「環翠楼」と関係があるのだろうか。ぼくの知っている軽井沢の宿は「観翠楼」だったが。
 1時間20分以上乗っているのに函嶺洞門を過ぎても渋滞が続いていたので、バスを降りて湯本方面に歩くことにした。
       
       

 湯本の商店街にある食べ物屋は軒並み長い列ができていたが、「花さがみ」という料理屋をのぞいたら4人掛けのテーブルが一つだけ空いていたのでそこに入って昼食。2時を回っていた。ミニ海鮮丼を注文したが食べきれず、息子たちに助けてもらう。
       

 予約した小田急ロマンスカーの出発まで時間があったので、駅前を流れる早川の川原に降りて、家族写真を撮る。何年か経ったら「あの頃は親父も元気だったな」と思い出してくれるだろうか。あと十何年かは元気でいたいものだ。
       

 3時50分発だったかのロマンスカーで新宿に戻る。途中、車窓から豪徳寺駅を撮ったが写っていなかった。梅ヶ丘駅を通過する際には線路の北側に懐かしい根津山の木立も見えたがこれも写っていなかった。
 午後5時半頃、新宿駅に到着。われわれは南口改札で解散し、それぞれの家路についた。
 ゆったりした楽しい1泊2日の箱根の旅であった。

 2025年2月27日 記        
    

箱根に行ってきた(2025年2月22日~23日)

2025年02月26日 | あれこれ
 
 家内の古稀と私の75歳を記念して息子たちが箱根旅行をプレゼントしてくれた。
 ぼくが古稀を迎えたのは2020年3月だったが、コロナ自粛の真っ最中、しかも定年退職の年で、研究室の荷物片づけ、自宅への運搬で天手古舞のため、旅行どころではなかった。荷物運びの手伝いに来てくれた息子たちと大学近くの行きつけの中華料理店で夕食を一緒にしただけで済ませた。
 前回箱根に家族旅行したのは30年以上前の2月10日から11日のことだった。
 箱根ハーベストクラブに泊まったのだが、夜中から大雪になり、2日目はどこにも行くことができず、車は宿の駐車場に置いてタクシーで湯本駅に帰るしかなかった。予約でとってあったロマンスカーにも乗り遅れ、在来線(?)の小田急線の急行で帰ることになった。
 今回の箱根も、前日の天気予報では雪の可能性があるということだったので、約30年前の雪の思い出がよぎったが、幸い2日間とも粉雪すら舞うこともなく、しかも寒波到来といっていた割には(暖かいとまでは言わないが)風もなく穏やかな日々を過ごすことができた。

       

 2月22日(土)午後12時30分、新宿駅南口に集合して、久し振りに親子4人だけの旅が始まった。
 昼食は買ってきたサンドイッチを車中で食べて済ます。子どもの頃に遊んだ根津山のある梅ヶ丘駅、ぼくの生誕の場所がある豪徳寺駅、小学校のあった経堂駅を通過し、最も長く奉職した大学の一般教養の授業で通った向ヶ丘遊園駅、非常勤講師で通った女子大のある西生田駅、教師に転職して最初に就職した大学の最寄り駅の相模大野駅、父親の教え子の地元高校教師に誘われて父親、祖母と一緒に鮎釣りに訪ねたことのある酒匂川など、思い出の場所を渡って、ロマンスカーは1時間20分ほどで箱根湯本駅に到着。

       

 この日は湯本駅から箱根登山鉄道に乗りついで強羅に向かい、ケーブルカーで早雲山に登る。幸い登山鉄道は4人並んで座ることができた。3連休の2日目とあって車内はかなり混んでいて、車窓の風景をゆっくりと眺めることはできなかった。40分ほどで終点の強羅に到着。ケーブルカーに乗り換えるが、こちらは着席することができなかった。早雲山までは14分なので我慢。
 早雲山は曇っていたが、時おり薄日が差して青空がのぞいた。

       
       
             

 早雲山から大涌谷に向かうロープウエーに乗る予定だったが混雑しているうえ、戻る時間が押していたので、早雲山までで下ることにする。ケーブルカーで強羅に戻り、登山鉄道で湯本に戻り、送迎バスで宿の「南風荘」に5時半頃に到着。
 風呂を浴び、夕食の後。久し振りに12時過ぎまで四方山話に花が咲いた。

 2025年2月25日 記

バレンタイン・チョコレート

2025年02月14日 | あれこれ
 
 きょうはバレンタイン・デー。小3の孫娘がぼくに向かって「ハッピー・バレンタイン!」などと声をかけて登校していった。
 今年はバレンタイン・チョコレートがふたりの女性から届いた。
 1人からはモロゾフ(Morozoff)の “Fancy Chocolate” とグリュースゴット(彼女の住むご当地高松の有名な菓子店らしい)のショコラ―デ缶、もう1人からは小樽洋菓子舗ルタオなる店のチョコの3種詰め合わせである(上と下の写真)。

 ぼくの若いころにはバレンタイン・デーにチョコレートを贈って女性側から愛を告白するなどという風習は(少なくともぼくの周囲には)なかった。一体だれがいつ頃からはやらせたのだろう?「ゴールデン・ウィーク」という言葉は五月の連休に映画館に足を運んでもらうために映画会社が作った造語(キャッチ・コピー)だと何かで読んだが、バレンタイン・デーも定めしチョコレート会社が考えたのだろう。
 ※ 日曜日のテレビ番組「シューイチ」(だったか?)で、バレンタイン・デーは昭和10年に洋菓子会社のモロゾフが始めたと紹介していた。なるほど、納得。今回ぼくがもらったモロゾフのチョコ箱には「モロゾフは1931年に神戸のトアロードで創業した」とあったから(下の写真はモロゾフの箱と中味)、モロゾフの創業間もなくからバレンタイン・チョコは始まっていたのだ。昭和10年(1935年)の発祥なら、ぼくが青春時代を過ごした1960~70年代にはすでにあったはずだがまったく記憶がない。その頃のぼくがバレンタイン・チョコに縁がなかっただけだったのかもしれない。

       

 バレンタイン・チョコには「本命チョコ」と「義理チョコ」があるという。ぼくが現役の教師時代にゼミ生からもらった手作りのチョコなどは間違いなく「義理チョコ」だろう。2月14日のバレンタイン・デーは学年度末の成績発表(4年生にとっては卒業判定)の時期だから「義理」というより「賄賂」性の強い贈り物かもしれない。最高裁判例によれば、贈答も「社交儀礼の範囲内」であれば「賄賂」性はないとされている(和歌山大学附属中学校事件)。もちろんチョコレートで成績判定や卒業判定の結果を左右したことなどなかったし、せっかく作ってくれたものだから有難く頂戴した。

       

 さて今年もらった2人からのバレンタイン・チョコはどう解釈すればよいのだろうか。高校生や中学生だったら、「義理」か「本命」かで悩むかもしれないが、いまさら「本命」を貰ったところで如何ともしがたい。
 贈ってくれたひとりはぼくと同じ年代。相続などをめぐって法律問題の相談相手になったりしたので、そのお礼の意味だろうと考えるのが普通だろうが、せっかく陽ざしが春めいてきたこの時期に、わざわざ他でもないチョコレートを贈ってくれたのだから、そこには何がしか社交儀礼以上の意味が込められているのだと思うことにした。もう一人はもう少し若いけれど妙齢の既婚女性である。彼女とは40年以上むかし松田聖子主演の「野菊の墓」を吉祥寺の映画館に見に行ったことがあった。三つ子の魂百まで、思春期青年期の魂も百まで、である。
 今朝がた(夜中?)の午前 3時近くNHKラジオ深夜便で、カーペンターズの「イエスタデー・ワンス・モア」がかかっていた。

 2025年2月14日 記

幽冥録(2025年1月22日)

2025年01月22日 | あれこれ
 
 今朝の東京新聞スポーツ面の下段に、スポーツ関係者の死亡記事が 2件ならんでいた(上の写真)。
 亡くなられたお二人とも面識のある方だった。

 お一人は金子明友さん。1952年のヘルシンキ五輪の体操日本代表と紹介されているが、ぼくの高校の体育の先生だった。本業は東京教育大学体育学部の(当時は)助教授だったが、当時上級生にメキシコ五輪の体操代表候補がいて、彼の指導のために非常勤講師としてぼくたちの高校に教えに来ていて、ついでに一般生徒の体育の授業も担当されたのだと思う。元体操選手らしく小柄だが精悍そうな先生だった。体操が苦手なぼくなどはまったくの「縁なき衆生」だった。97歳とあるから大変なご長寿である。

 もうお一人は鈴木恵一さん。82歳。スピードスケート 500mの世界記録保持者(1970年38秒71)だったが、オリンピックでは1964年インスブルック五輪の5位が最高だったと紹介されている。あの「白い恋人たち」が流れた記録映画が作られたのがインスブルック五輪だったか(※1968年のグルノーブル五輪だった)。鈴木さんは直接お話しなどしたことはないのだが、1969年夏に軽井沢スケートセンターでアイスホッケー部の夏合宿をした際に、国土計画所属だった鈴木さんの練習風景をしばしばお見かけした。軽井沢スケートセンターのスピードスケート用リンク(1周333メートルだったか、インドアリンクの南側にあった)は夏の間は氷を張ってなかったので、もっぱら陸上練習をしていた。後にボーリング場になったあたりのコンクリ(アスファルト?)の地面でローラーブレードをやっていたような記憶があるが。鈴木さんの世界記録は1969年と1970年に樹立したというから、まさに絶頂期の彼の練習を眺めたのだった。

 ご冥福をお祈りしたい。

 2025年1月25日 記

ラジオ放送開始100周年・その4

2025年01月06日 | あれこれ
 
 今年の3月で日本のラジオ放送が開始から100年を迎えるというので、2023年からNHKラジオで、「放送開始100周年記念 100人へのインタビュー」という連続番組をやっている(正式な番組名は少し違うようだ)。
 ラジオ放送に関わった100人に、自身のラジオ放送の思い出やラジオの役割、今後のラジオのあり方などを語ってもらうオムニバス形式の番組である。不定期のようだが、ぼくが不定期で聞いているだけかもしれない。一昨年(2023年)の年末に大沢悠里(TBS)、亀淵昭信(ニッポン放送)、斉藤安弘(同)が喋っているのを偶然聞いた(2023年12月29日)。民放のアナウンサーも起用するとは寛大な人選であると思った。“オールナイト・ニッポン” はよく聞いた深夜放送だったが、どちらかと言えばカメ&アンコーよりは今仁哲夫 のキャラとお喋りが好きだった。
 その後、みのもんた(文化放送)、吉田照美(TBS?)、荒川強啓(文化放送?)なども出ていた。みのもんたの「セイ・ヤング」は聞いていたが、吉田、荒川の思い出はあまりない(荒川は夕方のラジオ番組を覚えているが)。一昨年の年末には中村メイコが出ていたし(その放送当日に亡くなったのではなかったか)、落合恵子や、最近では湯川れい子も出ていた。

 その「100人インタビュー」の昨日1月5日(日曜)朝の放送に吉永小百合が出演して、ラジオの思い出を語っていた。
 4歳の時に親戚が応募してNHKのラジオに初出演し、「からす」(なぜ鳴くの ♫)を合唱したのだが、吉永だけソロを歌ったと言っていた。その後7歳の時に再び応募して、2万人の応募者の中から選ばれたという。選ばれたのは男女各2人で、吉永の他に選ばれたもう一人の女子が藤田弓子だったという! 番組では初見の詩に自分でメロディーをつけて即興で歌うという内容で、吉永は審査員の高木東六に褒められたという。
 その後「赤胴鈴之助」(これは当時の東京放送だったか)に主演したという。吉永が赤胴鈴之助だったことは有名な話だが、ぼくにはまったく記憶がない。子供のころからチャンバラは嫌いだった。今でも池波正太郎、忠臣蔵、大岡越前守、NHK大河ドラマなどの時代劇は一切見ない。
 子役時代の吉永で覚えているのは、テレビの「まぼろし探偵」が最初で最後、その次は「キューポラのある街」だった。昭和時代を回顧する年末のテレビ番組でも吉永の映像が流れていたが、隣りにすわっていた川端康成にはキャプションが入ったのに、共演の浜田光夫の名前はなぜか入らなかった。
 この日は吉永に続いて小林克也も登場したが、ぼくは彼のラジオ番組にはまったく記憶がない。テレビに出るようになってから何度か見ただけである。

 ぼくの思い出に一番強く残っているラジオ番組は(前にも書いたが)昭和30年代の前半ごろ、夕方の民放(東京放送か?)でやっていた竹脇昌作がDJを務める番組である。日本信販の提供で、番組の合間に「ニッポン しんぱんの クーポン ♬」というCMソングがかかった。「クーポン」というものの意味が分からず、謎めいていて美味しそうだった。竹脇の番組の中でかかった曲では美空ひばり「花笠道中」(「鼻が作動中」と出た!)、三橋美智也「夕焼けトンビ」(?)、ベルト・ケンプフェルト「真夜中のブルース」が懐かしい。世田谷の玉電山下商店街のスピーカーから流れていたのを聞いていたので、これらの曲を聴くとぼくは昭和30年頃の世田谷にワープすることができる。広瀬正によると、昭和30年ごろの梅が丘にはタイムマシンがあった!
 NHKの「放送開始100周年」では、ラジオ放送にまつわるエピソードや資料の提供を呼びかけているが、だれか竹脇昌作のあの番組を録音していた人はいないだろうか。音源が残っているなら聞いてみたいものである。
 なお、この「放送開始100年」では、番組開始前と終了後に入る女性アナウンサーの声と語り方の調子がノスタルジックで好い。そのナレーションのバックに流れるスタンダードの曲も好い。何という曲なのか。

 2025年1月6日 記

 追記 
 土井まさる、野沢那智なども懐かしいが、音源だけでも残っていないものか。久米宏(「土曜ワイドラジオ東京」)も懐かしいが、久米は「100人インタビュー」に登場していないのでは。「桂三枝の深夜営業」なんて深夜放送も聞いていたか・・・。「エデンの東」が1年以上ベスト1に君臨したという伝説の「ユア・ヒットパレード」(同種の洋盤紹介番組「9500万人のリクエストコーナー」「S盤アワー」なども)、深夜放送第1部が終わった午前3時から始まる「走れ(走る?)歌謡曲」なども個人的には懐かしいラジオ番組だった。

謹賀新年(2025年 元旦)ver.2

2025年01月04日 | あれこれ
 
 1月4日になって、ようやくこのGoo Blog を開くことができるようになったので、改めて新年のご挨拶を申し上げます。

 冒頭の見出し画像を例年通り「東急ニューイヤー・コンサート」(テレビ東京)の新年の幕開け、2025年1月1日午前0時00分の画像に改めたいというだけの理由で “ver.2” を書き込んでいる。

 もう年なので、新年を起きて迎えなくてもよいだろうと思い、テレ東「ニューイヤー・コンサート」を見るのをやめて、午後11時半すぎに床に就いたのだが、毎日夜12時すぎに寝るのが習慣になっているため体内時計が睡眠モードにならない。結局11時50分すぎに再び起き出して、「ニューイヤー・コンサート」を見ながら新年を迎え、あらためて眠りについた。

   

 2024年最後の写真も上にアップしておく。同番組の一場面である。

 2025年1月4日 記

謹賀新年 2025年元旦

2025年01月03日 | あれこれ
 
 2025年(令和7年) 明けましておめでとうございます。

 本年も宜しくお願い致します。
 今年は新年早々からパソコンでこのブログを開くことができなくなっているので、スマホから書き込んでいます。
 写真をアップすることもできません。適当なものですが、あしからず。散歩の折に近所の公園で見上げた松の緑の葉と青く澄みわたった冬空のコントラストが新年にふさわしいと思ったので。

 2025年1月3日 記


訃報、川田順造さん(2024年12月20日)

2024年12月27日 | あれこれ
 
 東京新聞2024年12月24日朝刊に川田順造氏の訃報が載っていた。文化人類学者で文化勲章受章者の川田氏が20日に誤嚥性肺炎のために90歳で亡くなったとある。
 川田順造編「近親性交とそのタブー 文化人類学と自然人類学のあらたな地平」(藤原書店、2001年。2018年に「新版」が出たが本文は初版と同じ内容)は、ぼくが民法の近親婚禁止規定(734条1項)を検討する際に、インセスト・タブーに関する基礎知識を得るうえできわめて有用な本だった(豆豆先生2022年10月28、29日)。
 まず特筆すべきは、インセスト(近親相姦)は、われわれが思っているよりも多く実際に行なわれていると本書の中で数名の共著者が指摘していることであった。
 この本の編者である川田氏も、「現代日本でも実際に多く行われている母と息子の相姦の多くが」、亡くなった夫の姿を、母が成長した息子に感じ取るところに動機をもっている」のに対して、兄妹、姉弟間の相姦は、孤立ないし雑居的居住環境の中である種の強要によって生じるようだと序文に書き(ⅲ頁)、近親者間の性交は実際には行われているにもかかわらずタブーとされている社会が多いことなどを指摘している(10頁)。わが国には「タブー」といえるほどの強いインセスト禁忌はなかったという指摘もあった。「目から鱗」の指摘にたくさん出会い、学ぶことの多い本だった。

 今年の文化の日を控えた頃の新聞で、詩人の高橋睦郎氏が文化勲章を受章することになったという記事を読んだ。高橋睦郎監修の「禁じられた性ーー近親相姦100人の証言」(潮出版社)も、わが国における近親相姦の実情を窺うことができる数少ない文献の一つとして論文を執筆する際に役立ったのだが、高橋氏の業績は必ずしも近親相姦を中心とするものではなかった。
 川田氏にとって近親相姦(彼は人類学者らしく「近親性交」と没主観的というかザハリッヒな表現をしている)は、まさに中心的なテーマの一つだっただろう。その川田氏も文化勲章受章者だったとは知らなかった。ぼくの論文は期せずして二人の文化勲章受章者の先行文献を参照していたのだ。

 牽強付会の感もあるが、近親相姦に関して文化勲章レベルの業績を持つお二方を今年の新聞紙面で見かけたので、今年の締めくくりとして書き込んでおこう。

 2024年12月27日 記

クリスマスのランチ(12月23日)

2024年12月24日 | あれこれ
 
 12月23日(月)の昼下がり、池袋にクリスマスプレゼントを買いに行き、(旧)西武百貨店池袋店 8階のレストラン街にある銀座アスターでクリスマス・ランチを食べてきた。
 西武百貨店池袋店がヨドバシ・カメラに売却されてから初めて西武池袋店の店内に入った。1階から6階までは改装中でエレベーターも止まらず、降り立った8階もあちこちが改装工事を遮蔽するフェンスで遮られていて異様な雰囲気だったが、アスターも含めてレストラン街の一角は昔のまま店を開いていた。
 銀座アスターは亡母のお気に入りの中華で、吉祥寺の近鉄か東急百貨店に入っていた店に時おり食べに行っていたらしい。ぼくは相伴に預かったことがなかった。ぼくの記憶では、昭和30年代に渋谷の確か東急文化会館に入っていたアスターで炒飯を食べたことがあった。
 池袋の銀座アスターは2年ぶり。
 皿などは中華風ではなく、どちらかといえばフランス料理に近いか。料理はいずれも70歳代の夫婦にはちょうど良い分量で美味しかった。値段も年金生活者にとって程よい(しかも都民割とか何とかで10%還元されるらしい)。

 テーブルに置かれたメニュー表によると、料理内容は以下の通り。料理を運んできたウェイターの口頭の説明では覚えきれない。
 <前菜> 聖夜を彩る盛り合わせ
   

 <お料理>
  ふかひれとポルチーニのスープ、淡雪仕立て  
   

  海老と帆立貝のクリーム煮
   

  北京ダックと牛肉のやわらか煮衣揚げ、黒酢ソース
   

 <お食事>
  特製芽采(ヤーツァイ)炒飯
    

 <デザート>
  やわらか杏仁とライチシャーベットのミニパフェ(冒頭の写真)

 2024年12月24日 記

喪中欠礼の葉書(2024年)

2024年11月20日 | あれこれ
 
 今朝、ショッキングな葉書が届いた。
 大学のゼミで1年下級生だった女性のご主人から、彼女の死を知らせる喪中欠礼の葉書だった。
 卒業後50年間一度も会うことはなかったが、年に一度、正月の年賀状だけは(それこそ双方の親の喪中の年を除いて)欠かすことなく取り交わしてきた。毎年毛筆で一言添えられていた。達筆だった。
 それが今年の7月に彼女は亡くなっていたという。年齢も1歳下の元気で活動的な女性だったから、当然ぼくのほうが先だろうと思っていただけに、ショックだった。

 これまでにも何度か書いたが、学生時代、彼女の国際法のレポートを代筆したり、民事訴訟法の論点ノートを作ってあげたりした。下心ありありだったが、効果はなかった。
 卒業式当夜に開かれたゼミの謝恩会の帰りが遅くなって湘南電車の下り終電で彼女を家まで送っていたら、お父さんが泊っていきなさいと言って下さって、もう1人のゼミ生と一緒に彼女の家に泊めてもらった。
 卒業した年の五月の連休に、彼女から電話があって新宿駅東口のビルの1階か地階にあった「ビストロ アンアン」という店で二人で食事をした。期待して出かけたが、ただのお礼の飲み会だった。その日、彼女は恵比寿の友人の下宿に泊めてもらうというので、恵比寿駅を背にして夜の住宅街の坂道を並んで歩いた。沈丁花が匂っていた。それが彼女と会った最後だった。1974年の卒業だから、今年でちょうど50年になる。 
 その時のボトルキープカードを今でも持っている(写真)。有効期限はとっくに過ぎているし、あの店が今でもあるのかどうかすら分からない。

 卒業から4年後にぼくは結婚し、数年後れて彼女も結婚した。その後は年賀状の近況報告だけがつづいたが、毎年年末が近づくと彼女と年賀状を交換するのが楽しみだった。今年は何を書こうか、彼女の年賀状にはどんなことが書き添えてあるだろうか。
 今年の元旦に届いた彼女からの年賀状は印刷文字だけで、何も添え書きがなかった。そのころすでに体調がすぐれなかったのだろうか。昨年(令和5年)の年賀状も見ると、「元気にしてますか。ずいぶん年が経ちましたね。」とあった。これが彼女との最後の会話になってしまった。彼女こそ元気だったのだろうか。
 そして今朝の葉書である。
 日程メモを見ると、彼女が亡くなった日にぼくは家内と軽井沢に出かけていた。この夏の酷暑のさなか、もう彼女はいなかったのだ。
 一昨年に、高校大学と一緒で学生時代一番親しかった友人を失っている。この年齢になると、喪中欠礼の葉書は見るのが怖い。

 きょう書類の整理をしていたら、E・ルディネスコ「ジークムント・フロイト伝」を読んだときのメモが出てきて、そこにボルヘスの言葉が書き写してあった。
 「人が本当に亡くなるのは、その人を知っている最後のひとりが亡くなったときである。」(7頁)
 彼女との思い出はぼくひとりだけのものになってしまったけれど、ぼくは忘れないでおこう、あの学生時代の日々を。

 2024年11月20日 記

笹沢左保「死と挑戦」(春陽文庫)ほか

2024年11月01日 | あれこれ
 
 今回は「本」というよりは「断捨離」ないし「本の捨て方」がテーマなので、ジャンルはあえて<あれこれ>としておく。

 段ボールに2、3箱分の文庫本が物置にしまったままになっているが、この10年いや20年以上、ほとんど手にすることもないままに放置してある。「コンマリ」?流「断捨離」のルール、その本に「感動があるか?」(だったか・・・)に従って捨てることにした。

       
       
         
     
 断捨離の候補となった本は、いちいち書き写すのも面倒なので写真で済ませる(上の写真)。主なものをあげると、城山三郎の経済小説。城山の経済小説は出版社の社員だった頃にけっこうたくさん読んだ。城山のデビュー作「総会屋錦城」(新潮文庫)から(当時の)最新作まで、他の小説家の経済小説に比べれば「人間」が描けていたような記憶があるが、しかし凡作もあった。
 山口瞳の「サラリーマン諸君!」(角川文庫。ちょうどぼくが大学4年だった1973年の出版だった)は社会人になったばかりの頃のぼくのバイブルだった。家族にいわゆるサラリーマンが全然いなかったので、「サラリーマン」の生き方は山口のこの本から学んだといってもいい。しかし「人殺し(上・下)」(文春文庫)の最終ページには「つまらない」と書いてあった。
 その他の本はあえてコメントをするまでもなく、捨てることにした。
 
       
       
     
 後藤明生「挟み撃ち」(河出文庫)は買った当初は気になる本だったような記憶がある。しかし今回捨てる前にパラパラと最初の数ページを読んでみたが、まったく「感動」はなかった。御茶ノ水駅前(西口)の改札口前の広場に傾斜があって落ち着きが悪い云々とはじまるのだが、まどろっこしい。5、6ページでやめた。
 吉行理恵「記憶のなかに」(講談社文庫)は、母親が美容院を経営していた九段坂が舞台だというので、まず奥野健男の解説を読んでみた。しかし吉行淳之介が麻布中学で奥野の2年先輩の秀才だったというエピソードで始まるが、淳之介、吉行和子のことばかり書いてあって、なかなか理恵のことにならない。本文を読みはじめると、ウンコのついたパンツのことなどが「ですます」調で書いてあって、こっちは2ページでやめた。ただしこの本は家内の買った本だったかも知れないので、断捨離は一応保留する。民法762条2項によれば帰属不明の夫婦財産は夫婦の共有と推定されるので、夫婦の合意がないと処分できない。
 
 捨てようとして思いとどまったのは、沢木耕太郎「テロルの決算」(文春文庫)。今さら沢木耕太郎でもないだろうと思ったが、パラパラめくっているうちに、浅沼稲次郎というか日本社会党のことが気になりだした。ぼくは選挙権を得て以来ほとんどの選挙で神近市子から始まって社会党の候補に投票してきた。再軍備化方向への改憲を阻止できる議席数を確保すればそれでよいというのがほとんど唯一の理由であった。「社会新報」も定期購読していたが、配達していた党員の方が転居することになって、それ以降は配達する人がいなくなってしまった。
 ところが最近の総選挙では、社会党の後継らしい社民党は沖縄地方区の1議席しか獲得できなかった。少数与党に転落した自民党は国民民主党にすり寄ろうとしているが、立憲民主党も秋波を送っているという。野党第一党がなぜこんな体たらくになってしまったのか、浅沼時代にさかのぼって考えることにも意味があるかもしれないと思い、捨てないでおくことにした。
 志賀直哉「暗夜行路」(新潮文庫)も、小津との関係(というより與那覇さんの関係)で残すことにした。この本も父子間の葛藤というテーマにつられて読み始めたが、時代背景がよく理解できないうえに、知らない言葉が頻繁に出てくるし、なかなか本題に入らないので、最初の10ページくらいでやめてしまった。
 笹沢左保「死と挑戦」(春陽文庫)は読んだのかどうかも記憶にないが、あの永井荷風の春陽堂から出ていた文庫本ということで残しておくことにした。春陽文庫は今でもあるのだろうか。「江戸川乱歩名作集(4) D坂の殺人事件」(春陽文庫)も同じ理由で残しておく。ぼくが持っている春陽堂の本はおそらくこの2冊だけである。※気になってネットで調べると、なんと2022年に春陽文庫が復刊したという。坂口安吾「明治開化 安吾捕物帳」など、ちょっと読んでみたい。
 以前「新青年傑作選」全4巻(立風書房)や「夢野久作全集」(だったか)などを断捨離してしまったが、今になってちょっと惜しい気持になっている。

 残しておくのは簡単だが、残したまま死んだのでは息子たちが迷惑だろう。捨ててしまったとしても、読みたくなれば図書館に行く手間ひまさえかければ読むことはできる。捨てるのに躊躇、葛藤があるのは捨てた結果ではなく、本をゴミに出すというその行為のハードルが高いのである。かといって、「鶴見俊輔著作集全5巻」(函、帯つき、美本)を査定額ゼロ円などといういかがわしい「宅配買取サービス」詐欺まがいの古本屋にはもう引っかかりたくない。
 資源ゴミに出すのではなく、悪徳古本買取業者に買い取らせるのでもない、古本の正しくて心穏やかな「捨て方」は何かないものだろうか。

 2024年11月1日 記

ユージン・コスマン楽団「アニー・ローリー」

2024年06月12日 | あれこれ
 
 ユージン・コスマン楽団「別れの曲/アニー・ローリー」(コロンビア・レコード、1956年10月)を買った。
 断捨離のなか、これ以上本やレコードは買わないと決めたものの、Yahoo オークションに300円(+送料140円)で出ているのを見て、どうしても欲しくなり、クリックしてしまった。

 実は、つい最近になって、ネット情報で「ユージン・コスマン」というのは古関裕而の別名であることを知ったのである。
 古関裕而は、ぼくの人生とともにある作曲家である。
 ぼくの人生の最初の絶頂期が訪れた1964年、その10月10日(土)午後1時。前日まで降り続いた雨はその日の朝には奇跡のように上がって、晴れわたった青空のもとで、東京オリンピックの開会式が始まった。その入場行進曲が古関の「オリンピック行進曲」だった。
 あの青空、国立競技場の周囲にはためく万国旗、その旗がポールに当たる音、マラソンゲートから入場してくる選手団の色鮮やかなユニフォーム、そして古関裕而作曲(指揮も彼だったのでは?)のオリンピック行進曲。

 10月10日は土曜日だったが、当時は公立中学校では土曜日は登校日だった。ぼくたちの4時間目は体育の授業で、校庭の砂場で走り高跳びの測定をやっていた。4時間目が終わると、みんなすっ飛んで家に帰った。
 その頃、ぼくの中学校では、下校時刻になると校内各所のスピーカーから「アニ・ーローリー」が流れてきた。土曜日の下校時刻にも流れたと思うが、あの日はそんな時間まで学校に残っているものは1人もいなかっただろう。
 「アニー・ローリー」はYouTube で聴くことができるが、最初に出てくるNHK交響楽団による演奏は優雅すぎて、ぼくの思い出とは違っている。夕暮れ時の下高井戸商店街に流れる「アニー・ローリー」のほうがぼくの思い出に近いのだが、「ユージン・コスマン楽団」の「アニー・ローリー」が一番ぼくの記憶の中の「下校時刻のアニー・ローリー」に近いと感じていた。

 それが実は古関裕而の編曲、演奏だと知って合点がいった。ぼくが1964年前後の月曜から金曜の午後3時半か4時だったかに聞いていたのは、まさにこの古関の「アニー・ローリー」に違いない!
 ということで、「アニー・ローリー」を検索したところ、Yahoo オークションで何種類かのレコードが出ていた。一番安かったのは250円+送料180円のだったが、いかんせんジャケットが汚れていた。しかも1964年10月プレス(発売?)だったので、ぼくが1962年から1964年10月頃に学校で聴いた版(盤)ではない。
 そこで、2番目に安くて、1956年10月発売と書いてあったこのレコードを買ったのである。ジャケットは映画「哀愁」の一シーンで、左がヴィヴィアン・リー、右がロバート・テイラーという。A 面の「別れのワルツ」(蛍の光)はこの映画の挿入曲だったらしい。。

 ぼくは東京オリンピックの1964年(昭和39年)の夏に、リバイバル上映された「エデンの東」を見て以来、ヴィクター・ヤング楽団の「エデンの東」が気に入ってしまい、生徒会で下校時刻に流す音楽を「エデンの東」に代えることを提案したほどだった(圧倒的少数で否決されてしまったが、数票の賛同者がいた)。
 しかし中学を卒業した後になってからは、「アニー・ローリー」を聞くとぼくは必ず1964年頃の西荻窪の中学校の欅林の夕暮れ時を思い起こすようになった。やっぱり下校時刻には古関裕而の「アニー・ローリー」がよく似合う。
 週番で、下校時刻に教室内に残っている生徒に下校を促すために各教室を巡回していると、1年下のクラスで何度か一人だけで教室に残っている女の子がいた。今にして思うと、ぼくが回ってくるのを待っていたのではないかとも思うけれど(自惚れ?)、当時は恥ずかしさで声をかける勇気もなく、事務的に「下校時刻を過ぎたので、下校して下さい」としか言えなかった。

 これが、ぼくの「アニー・ローリー」にまつわる悲恋(!)である。彼女も73歳になっているはずだが、どこでどうしているのだろうか。実名を書きたい衝動に駆られるが、彼女に迷惑だろう。ユージン・コスマン楽団の「アニー・ローリー」を聞きながら思い出にとどめておこう。

 2024年6月12日 記

クラウン・コーラとミッション・コーラ

2024年06月01日 | あれこれ
 
 「豆豆先生の研究室」2007年2月27日の投稿で、「不二家 “トプシー”」という題名で、ボブ・マグラスが歌った「不二家トプシー」のCMソングと、ヴィレッジ・シンガーズが歌ったコカ・コーラのCMソングの思い出を書いた。
 1週間ほど前、この「不二家 “トプシー”」の項の閲覧数がなぜか急に増えた日があった。誰がどんな理由(経緯)で見てくれたのか分からないが、「トプシー」の書込みには気になっていることがあったので、この際補遺を書いておくことにした。
 ちなみに、不二家トプシーのCMソングは、ソノシートが出ていたらしく、Google で検索すると、ボブ・マグラスの甘い歌声を Youtube で聴くことができる。ぼくが書き込んだ歌詞は記憶で書いたものだったが、ほぼ正確だった。ヴィレッジ・シンガースのコカ・コーラのCMソングに関する情報は、今のところ発見できていない。

 補遺(というか訂正)は、不二家「トプシー」ではなく、森永の「クラウン・コーラ」に関するものである。
 ぼくは昭和30年代から40年代にかけて、「森永からクラウン・コーラというのが出ていた」と書いた。しかしこれは誤りで、「クラウン・コーラ」は寿屋(今のサントリー)から出たものだった。
 「クラウン・コーラ」は、正式には「ロイヤル・クラウン・コーラ」といい、1905年創業のアメリカ・ジョージア州の会社が出したコーラで、コカコーラ、ペプシコーラに次いで、第3位の売上げを誇る商品だった。英語では “Royal Crown Cola” と書き、“RC” と略称されたそうだが、ぼくの記憶では、わが国では「クラウン・コーラ」と呼ばれていた。
 クラウン・コーラは、日本では1962年に寿屋から発売されたが(1960年という記述も見られる)、業界1、2位のコカコーラ、ペプシコーラに大きく水をあけられたため、1974年に撤退したという。
 ということで、「クラウン・コーラが森永の発売」というのは誤りだった。トレードマークが森永とよく似た王冠(クラウン)形だったうえに、森永のチョコレートに「ハイクラウン」なんていうのがあったので、初めから誤解していたか、誤って記憶したらしい(負け惜しみ)。

 ネット情報によると、日本のコーラには苦難の歴史があったようだ。
 日本の文献における「コーラ」に関する記述は、大正3年(1914年)の高村光太郎「道程」のなかに「コカコオラ」が登場したのが初めてらしい。当時は庶民には縁のないハイカラな飲み物だった。大正8年には、あの明治屋 “MEIDI-YA” がコカコーラを輸入したそうだ。
 しかしアメリカとの戦争中は「敵性物資」として当然輸入などできなかっただろう。敗戦後の昭和20年になっても輸入申請が却下されている。外貨流出防止と国産飲み物(温州みかんジュースなど)保護のためだったという。
 昭和31年(1956年)に、在留外国人(ほとんどは米国人だろう)および外国人向けホテルやゴルフ場などでのみ販売が許されるようになり、昭和36年(1961年)にはコーラの輸入が完全に自由化され、コカコーラとペプシコーラの2社のコーラが輸入されるようになったという。昭和37年に中学生になったぼくが記憶しているのだから、クラウン・コーラもこの頃から輸入されるようになったのだろう。 

 「ミッション・コーラ」のほうは、驚くなかれ、国産のコーラだった! コカコーラなどの輸入に先駆けて昭和28年(1953年)に販売が開始されたという。
 わが国でコーラ飲料の生産が始まったのは、戦後の昭和27年(1952年)のウイン・コーラからで、ついで1953年にミッション・コーラが販売されはじめたという。
 ぼくはウィン・コーラというのはまったく記憶にないが、ミッション・コーラはなぜか記憶に残っている。ぼくが中学生だった1962~65年頃にはまだ販売されていたのだろうか。ひょっとしたら、いま現在でも、沖縄では販売されているのかもしれない。というのも、沖縄の洋品店で「ミッション・コーラ」(“Mission Cola”)というロゴとコーラ瓶のイラストの入ったTシャツを販売している店があるのをweb上で発見した。沖縄を旅行することがあったら訪ねてみたい。

 ぼくは、昭和30年代前半に軽井沢スケートセンターで開催された渡辺プロ主催の「真夏の夜の夢」というショーの第1回目で、来場者に無料で配布されたコーラを飲んだ(実は飲めなくて吐き出した)のが、コーラにまつわる最初の思い出なのだが、あの時飲んだのはコカコーラだったのかペプシコーラだったのか、ひょっとしてクラウンコーラかミッションコーラだったのか、分からない。
 もしあの「真夏の夜の夢」が始まったのが、コーラ輸入が自由化される1961年より以前だったとしても、渡辺プロは進駐軍に深く食い込んでいたから、コーラの入手は可能だったかもしれない。ぼくの記憶では、とても日本人好みの味つけにはなっていなかったから、アメリカ産のコカコーラかペプシコーラだったのではないかと思う(クラウンコーラだった可能性も?)。それくらいに、当時の日本の子どもにとっては苦くて不味い飲み物だった。
 
 2024年6月1日 記

 ※ 以上の記述は「日本清涼飲料検査協会」のHPその他によったところが多い。本文にふさわしいコーラ関連の写真を探したが、なかなか適当なものが見当たらなかった。ようやく10年前にイギリスを旅行した際に、オックスフォードのパブ “QUOD” で飲んだコーラの瓶が写っている写真を1枚見つけた。ブランド名ははっきりと読み取ることができないが、コカコーラやペプシコーラではなさそうである。イギリスにも地元産のコーラがあったのだろう。