豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

追分コロニー、“小津安二郎 生きる哀しみ”

2011年08月24日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 信濃追分の古書店“村の古本屋 追分コロニー”に今年も出かけた。

 軽井沢新聞(だったか)の記事によると、旧中山道、追分宿の脇本陣“油屋”(もう何年も前から営業をやめていた)が売りに出たため、建物と地域の景観を維持しようと、この古書店の主人がスポンサーを募って買い取り、各種催し物の会場として再出発させることになったという。
 なかなかやり手のご主人らしい。ぜひ頑張ってほしい。壊すのは簡単だが、再現させるのは難しい。草軽電鉄しかり、グリーンホテルしかり、晴山ホテルしかり、である。

 何か映画関係の珍しい本がありそうな予感がしていたのだが、残念ながらそういう本には巡り合えなかった。でも、せっかく訪ねたことだし、この本屋さんにはぜひ長続きしてほしいので、何冊か買って帰ることにした。

 その1冊が、中澤千磨夫『小津安二郎 生きる哀しみ』(PHP新書)である。

               

 小口がかなり黄ばんでいるうえに古本臭がきつかったのだが、しかも「生きる哀しみ」などという副題はぼくの最も苦手なことばなのだが、論ずる映画の選び方が気に入った。

 扱われた作品は、“淑女と髭”“一人息子”“長屋紳士録”“風の中の雌鶏”“東京暮色”“東京物語”そして“秋刀魚の味”の7本だけである。
 “淑女と髭”は余計で、“父ありき”にしてほしいところだが、一般的にはあまり評価が高くない“風の中の雌鶏”と“東京暮色”を取り上げているのがいい。とくに野田高悟はこの両作品が嫌いだったらしいが、ぼくはどちらも小津らしいと思う。

 ぼくは、神田神保町の書泉の店頭で、COSMO CONTENTS刊の“日本名作映画”シリーズの小津の作品が3本980円で売られているのを3セット(計9本)買ってきては、研究室で時間つぶしに見はじめたのが小津映画との出会いだった。

 順番は、“一人息子”“父ありき”“長屋紳士録”“風の中の雌鶏”・・・の順に見た。公開年度順で行くと“戸田家の兄妹”が2番目に入るのだが、題名が何となく嫌で後回しにした。(ちなみに“お茶漬の味”も題名への違和感から最後まで見なかった。偶然両方とも佐分利信が主役の映画だ。)
 その後も“晩春”“麦秋”“東京物語”と、COSMO“日本名作映画”シリーズを公開順に全部見て、それから同シリーズには入っていない“東京暮色”から“秋刀魚の味”までを、TUTAYAで借りたり、大学のAVセンターで借りたりして見た。

 それから戦前のものを大学のAVセンターにあるビデオ(“小津安二郎大全集”)でみた。

 こんな経歴のぼくとしては、中澤本の“一人息子”“長屋紳士録”“風の中の雌鶏”“東京暮色”“東京物語”“秋刀魚の味”という選択は大いに納得できる。
 さっきも言ったように“父ありき”(と欲を言えば“晩春”)が入っていれば文句のない選択なのだが。

 戦時中は、“父ありき”で佐野周二が兵役検査に甲種合格するシーンくらいしか戦争を描かず、敗戦直後には“長屋紳士録”で靖国神社や上野公園にたむろする戦災孤児を描き、“風の中の雌鶏”では夫の復員を待つ妻の不貞、生活のための売春婦(文谷千代子!)を描き、“東京暮色”では与えられた性的自由の代償に命を落とす娘を描き、“東京物語”“晩春”では戦死公報の届かない戦死者の家族を描く。“秋刀魚の味”ではようやく戦争の影は消えかかっているが、バーで軍艦マーチを聞きながら、「日本は戦争に負けてよかった」と語らせる。
 それらすべてが、結局は「父」の物語であり、その父を笠智衆が演じている。“長屋~”は飯田蝶子演じる「母」の物語のようでもあるし、“風~”の父(夫)は佐野周二だが。

 さて、中澤本だが、映画の選び方には共鳴したものの、中味は残念ながらあまり共感できなかった。
 頻繁に出てくる蘊蓄話しと、時たま出てくる妙に江戸ッ子ぶった様な物言いが鼻につくのである。
 “一人息子”の最初と最後に“Old Black Joe”が流れたからといって、“Old Black Joe”の全文が出てくる、“秋刀魚の味”という題名が佐藤春夫の「秋刀魚の歌」という詩から着想を得ているといってその詩が延々と引用される。
 それから1952年生まれという著者自身の札幌での子ども時代の思い出もたびたび語られる。

 ・・・などと書き込んでいるうちに、ぼくのこのページ自身も同じように自分のことばかり語っていることに気づいた。
 読んでいる人にはさぞかし不快なことだろう。唯一の違いは、ぼくのこのページはただで見られて、嫌ならクリックして他のページに移れることである。

 
 閑話休題。

               

 中澤本でよかったことは、山田五十鈴が“東京暮色”を「一生忘れられないいい映画だ」と言っていたことを知ったこと。ただし、川本三郎の本の引用だが(197頁)。
 ぼくも“東京暮色”は印象に残る映画であった。毎年ゼミの夏合宿では家族がテーマの映画を学生たちに見せているが、ちょうどこの8月26日に「小津安二郎名作映画集10+10」の第9巻“東京暮色”が発売になるので、今年の合宿ではこれを見せることにした。
 高橋治の本では、有馬稲子(明示してないが)は役柄を理解しない大根役者で、“早春”の岸恵子を名演技のように書いてあったが、ぼくには全然そうは見えなかった。
 そう言えば、有馬を捨てる恋人役だった田浦正巳の死亡記事が夏前に新聞に載っていた。

 それから“風の中の雌鶏”の田中絹代が階段を転げ落ちるシーンのこと。中澤が学生たちに見せると、学生が皆驚くという。
 小津映画の中で僕が好きな場面は“父ありき”で父子が食事をする温泉宿の二階の部屋のシーンだが、一番印象的(というか衝撃的なシーン)は、あの階段のシーンである。佐野周二に妻を階段下まで突き落とすほどの衝動を生む「不貞」を、小津はなぜあのように描いたのだろうか。
 ゼミで「不貞」にまつわる判例、それにつながる父子関係不存在確認に関する判例を読んでいると、ぼくは小津の「不貞」へのこだわりと、“東京暮色”の有馬稲子を思い浮かべてしまう。

 さ来週のゼミ合宿で学生たちがどのような反応を示すのか、楽しみである。

 * 写真は、「小津安二郎名作映画集10+10」第9巻“東京暮色”(小学館、2011年8月26日発売予定らしい。)

 2011/8/24 記

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旧軽井沢、メルシャン美術館

2011年08月22日 | 軽井沢・千ヶ滝

 旧軽井沢のテニスコート通りの諏訪神社に向かう小道の右手に、コロニアル風というのだろうか、横壁板が白ペンキに塗られ、傾斜の急な赤い三角屋根に3つの破風のあるおしゃれな建物を見つけた。屋根より高い木々に覆われて、緑の木陰にたたずんでいる。
 “BOUTIQUE SARA”という看板が店先にかかっていた。
  
 映画“アラバマ物語”の弁護士グレゴリー・ペックが娘と住んでいた家を思い起こさせる。
 建物の前のテラスには木製の椅子が2脚と商品陳列棚が置かれて、商品が並べられている。願わくばここにも木製の椅子とテーブルを置いて、白いコットンの夏服をまとったマネキンが足を組んで椅子に腰かけてでもいたらなおよかった。
 でも、いずれにしても、軽井沢に最も似つかわしい建物であった。

 旧道には、酒井化学、物産館、明治牛乳、明治屋、三笠書房、小松ストアー、デリカテッセンなどが並んでいた頃の面影はもはやなく、ただの観光客目当てのお土産屋通りになってしまった。
 軽井沢ショッピングモール(正式名は何というのかさえ知らない)は、どこでも同じような観光客と犬であふれるアウトレットにすぎない。
 そんな中で、いかにも軽井沢らしい建物である。

 まったく私的に、“THE BEST SHOP in KARUIZAWA”賞を贈呈したいと思う。

 気に入ったので、今はぼくのパソコンの壁紙にしている。
 写真を撮っているぼくを店内から女主人が怪訝そうな顔で見ていたが、ごめんなさい、そんなわけです。

 

 “軽井沢メルシャン美術館”

         

 御代田の“メルシャン軽井沢美術館”が今年の11月で閉鎖されてしまう。残念だが、買収(?)した味の素の方針らしい。現在の日本経済は、企業に文化を担う余裕を与えられないほど衰退してしまったのか。
 見納めに出かけてきた。展示は“薔薇と光のフランス人画家 アンリ・ル・シダネル 小さな幸せ”というもの。シダネルという画家はまったく知らなかった。正直にいうと、最後を飾るにしては寂しい企画だった。

         

 ショップも在庫一掃セールといった感じで、陳列された品数も少なく、これまた寂しい限りである。
 毎年卒業していくゼミ生たちへのちょっとした贈り物をこのショップで選んでいたのだが、いつものコースターはなく、栞もレターセットも、人気のある作品のものはすでに売り切れてしまっていた。

        
 
         

 来年はどうなっているのだろうか。せめて芝生と白樺の庭園だけでも残して、レストランとしてでも営業するのなら、思い出を探しにやってくるのだけれど。

 2011年もまた一つ、軽井沢のよき思い出が失われてしまった。

 2011/8/22 記

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長野県、上田まち歩き

2011年08月21日 | 軽井沢・千ヶ滝

 8月16日(火)。

 午後2時前に上田駅に着く。

 腹がへっていたが、昼食は柳町の“おお西”で蕎麦を食べる予定なので我慢して、駅前の竹風堂で栗ソフトクリームを買って、舐めながら歩くことにする。

 駅前のメインストリートを北へ歩く。暑い。道路脇の気温表示では36度となっていた。

 かつてのぼくの大好物だった“みすず飴”の本店を見つけた。「みすず飴本舗」という看板が掛けてあるが、地図では「飯島商店」とある。「みすず飴本舗」のほうが通りがよいだろう。
 正面の玄関には、妙齢の番頭さんと思しき人物が立って、客の出入りのたびに慇懃に頭を下げてドアの開け閉めをしている。
 本店で売っているみすず飴は、軽井沢のツルヤで売られている飴とは違うのだろうか。

         

 またしばらく行くと、“うさぎや”を見つけたので、立ち寄る。店内が涼しくて助かる。
 ここでは、クルミゆべしその他のお土産を買う。
 長野銀行上田支店もあった。初期の卒業生で上田出身の学生が長野銀行に就職している。仕事中に突然立ち寄るのも何かと思い、遠慮することにした。

 そして中央3丁目の交差点を左折し、程なくを右折すると、上田の観光スポット、旧北國街道、柳町の古い街並みに出る。
 その名の通り、入口には柳が枝を垂らしている。(↓)

         
         
 妻籠などには遠く及ばないが、俗化してしまった旧軽井沢の中山道旧道や、中山道の追分宿などよりははるかに昔の面影を残している。
 そして旅行案内本のすすめに従って、「おお西」で更科そばとてんぷらを食べる。
 店の外には、兵馬俑の陶器の兵隊のような像が立っていた。店の人に由来を聞こうと思って忘れてしまった。(↓)

         

 柳町通りをでて西へ向かい、北大手町を左折してしばらく歩くと、上田城の北端の木立が見えてくる。
 左手に、近代建築がある。現在は上田市教育委員会らしいが、もともとは何だったのだろうか(↓)。

         

 炎天下をようやく上田城にたどり着く。
 城の東側は全長300メートルのケヤキ並木。(↓)かつては二の丸堀があり、昭和47年までは電気軌道傍陽線(そえひ)の駅があったという。

         

 正面は「東虎口櫓門」というらしい。右手に上田城名物の真田石という巨石(というほどでもないが、大きいことは大きい)がある。(↓)

          

 入ってすぐ左手の「南櫓」にのぼる。

         

 小津安二郎“父ありき”で、金沢の中学校教師を辞めて故郷の上田に戻った笠智衆が、息子を連れて城の石垣にのぼり、二人で話すシーンがある。(↓)
 あまりの変わりようで、どこでロケをしたのか定かでないが、この南櫓が一番それらしい。

         

 上田城を出て、長野県立上田高校に向かう。
 ここは、かつては上田藩主の居館があったという。黒い門にかけられた看板には「長野県上田高等学校」とある。「長野県立」ではないところに、同校の矜持を感じる。
 夏休みの部活動か何かで出入りする生徒も、しなの鉄道や上田電鉄で見かけた高校生とどこか違っている印象を受けた。

          

 そう言えば、小津“父ありき”では、上田にやってきた父子が飯屋で飯を食べながら、父の笠智衆が息子に向かって、「お祖父さんは漢学の先生で、お城に漢学を教えに通っていた」といっていた。天井からはランプが下がっている。(↓)

         

 そして上田駅に戻り、20分ほどの時間待ちで小諸行きしなの鉄道に乗る。小諸駅でまた20分ほど待ち時間があったので、駅の北口を歩くが上田に比べて寂れている感じだった。
 午後5時過ぎに中軽井沢駅に到着。
 こうして、「軽井沢・別所温泉フリーきっぷ」の旅は終わった。

 * 最初の写真は、旧北國街道の街並み。

 2011/8/21 記

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別所温泉を歩く

2011年08月21日 | 軽井沢・千ヶ滝

 8月16日(火)、午前9時32分に中軽井沢駅を出発して、上田駅でしなの鉄道から上田電鉄に乗り換え、11時前に別所温泉駅に到着。

 旅行案内本に従って、街道を西に進み、常楽寺に向かう。途中に「常楽寺500メートル」の表示があるところを右に折れるが、ここからは緩やかな上り坂。
 お寺の境内に入るとさらに上り坂が急になり、最後に石段を登ると正面に本堂が、左手に樹齢350年という見事な松が見えてくる(↓)。

         

         

 参道沿いには、四国の霊場札所の仏像も祀ってある。
 お彼岸が終わったので、お墓参りの人がちらほら。重要文化財の多宝塔(↓)というのがが名物らしい。

         

 常楽寺に向けて出発しようとした時に、鐘楼の鐘が鳴り始めた。12時少し前から撞き始め、ほぼ12時に終わった。(↓安楽寺の鐘楼)

         

 「安楽寺350メートル」の表示に従って、小高い丘の中腹の順路を安楽寺に向かう。
 左手が開けていて、別所温泉の街並みが見下ろせる。

         

 左手に何やら石碑が建てられている。山本宣治の記念碑である。
 この鄙びた観光地に山本宣治の記念碑とは意外だが、碑文を読むと、上田出身のタカクラ・テルの招きに応じて、山本はこの地で農民運動支援の講演会を開き、その後右翼に暗殺されたという。
 記念碑は権力者の追及を逃れて、柏屋別荘主人斉藤房雄によって同別荘に隠し続けられ、戦後になってこの場所に建立されたとある。
 いかにも信州人らしいエピソードである。(↓山本宣治の記念碑)

         

 安楽寺も石段を登らなくてはならない。しかし高い木々が生い茂っていて陽が差し込まないので助かる。
 さらに本堂の裏山を登ったところに、国宝の八角三重塔というのがあるらしいが、現在は修理中でシートが掛っており、見ることはできない。下の写真は、そのシートに覆われた三重塔。
 森閑とした木々に覆われたお寺の中で、森林浴を堪能することができた。

         

 旅館七草の湯を通って、北向観音堂に向かう。といっても、今度は道を挟んだ向かい側に移動するだけ。
 ここの参道は、金毘羅宮の参道を小振りにしたような風情である。(↓)

         

 正面に(おそらく)北向観音堂がある。(↓) 
 長野の善光寺(南向観音)と両方を拝まなければご利益がないという。ぼくは去年の2月の地方入試の時に善光寺にはお参りしている。

         

 温泉街の通りに出て、柏屋別荘(臨泉楼)に至る。(↓)
 立ち寄り湯もあるというが、30度を超す暑さのなか、温泉に入る気分ではない。昼食をとることができないか聞いてみたが、予約がなければならないとのことだった。次回は予約してから出かけることにしよう。

         
 
 ふたたび別所温泉駅に戻り、13時40分発だったかの電車で上田に向かう。

 * 最初の写真は、今回の旅で一番のお気に入り、別所温泉、臨泉楼・柏屋別荘。有島武郎、西条八十らの文人も逗留し、作品を執筆したという。
 
 2011/8/21 記

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軽井沢・別所温泉フリーきっぷの旅

2011年08月20日 | 軽井沢・千ヶ滝

 8月16日(火)は、女房と二人で別所温泉に出かけた。

 当初は浅間サンラインを通ってクルマで行く予定だったが、町役場発行の“軽井沢だより”に「軽井沢・別所温泉フリーきっぷ」の広告が載っているのを見つけ、地方鉄道の旅をすることにした。
 軽井沢から小諸、上田経由で別所温泉まで、しなの鉄道と上田電鉄に1日乗り降り自由で1800円。その気になった時に乗っておかないと、草軽電鉄のように、乗りたいと思った時はすでに廃線という憂き目を見かねない。

             

 8時34分発の中軽井沢発上田行きに乗車するつもりで、8時20分頃に中軽井沢駅について、驚いた。
 あの懐かしい駅舎が壊されて、プレハブの仮駅舎になっている。浅間山を描いたタイルの壁ももちろんなくなっている。
 壊されることは分かっていたので、すでに去年写真は撮ってあったのだが・・・。

         

 さらに驚いたのは、中軽井沢駅は午前10時までは改札業務は行わない旨の掲示があって、切符売り場のカーテンは閉じられている。「軽井沢・別所温泉フリーきっぷ」は軽井沢駅でなければ買うことができないのだ。“軽井沢町たより”では、無人の信濃追分駅と平原駅(?)以外のしなの鉄道全駅で購入できると書いてあったのだが。
 しかたなく、慌ててクルマで軽井沢駅に行き、くだんの切符を買って中軽井沢駅にとんぼ返りする。もちろん8時34分発には間に合わず、次の9時32分発まで待たなければならなくなる。
 ところが腹立たしいことに、9時を過ぎた頃に切符売り場のカーテンがあいて、駅員が改札業務を始めたのである。そうと分かっていれば、わざわざ軽井沢駅まで切符を買いに走る必要はなかったのだが。

 しかし、とにかく9時32分発の小諸行きに乗り込んだ。下の写真は中軽井沢駅のホームに入ってくるしなの鉄道の電車(ただし、われわれが乗った下りではなく軽井沢行きの列車)。ちなみに最初の写真は、中軽井沢駅の下りホームから眺めた浅間山。
 
         

 信濃追分駅を過ぎたあたりの浅間山絶景ポイントは、前に書き込んだとおり。小諸で長野行きに乗り換えて、上田駅に到着。中軽井沢から1時間足らず。車内は6、7分方の座席が埋まる程度で、ずっと並んでゆったりと座ることができた。
 上田駅で上田鉄道、別所温泉行きに乗り換える。下の写真は上田電鉄、上田駅に停車中の別所温泉行き電車。

         

 20分ほどの待ち時間があって、出発。しなの鉄道に比べると、駅と駅の間が短く、路線バスの感覚で停車する。スピードもゆっくりしている。
 のどかな田園風景の中を走って、30~40分で別所温泉駅に到着。
 実はしなの鉄道も上田電鉄も、実際はどれくらいの所要時間だったのか、ほとんど記憶がない。それほど、時間を忘れさせてくれる乗り物だったのである。

 到着した別所温泉駅がまた鄙びている。

         
        
 駅名表示板がレトロである。

         

 駅舎も、上から見下ろすと、まるで鉄道模型の駅舎のようである。

         

 そして、駅舎の正面玄関も、洒落ている。

              

 歩き回った別所温泉の名所は、いつか改めて書き込むことにして、きょうは老舗の温泉旅館、臨泉楼・柏屋別荘だけをアップしておく。
  
           

 別所温泉案内の本で、この旅館の写真を見て、ぼくは小津安二郎の“父ありき”を思い出した。あの笠智衆と寄宿舎で暮らす息子が久しぶりに一緒に食事をする料理屋は、この旅館で撮影したのではないかと勝手に想像したのである。
 あのシーンは小津の映画の中でも特にぼくが好きな場面である。

         

 “父ありき”で、息子の幼少時代の舞台は信州、上田である。上田城の石垣の上で父子が会話するシーンもあるから、別所温泉でのロケがあってもおかしくはない。
 もちろん上田にも温泉はあるし、当時の温泉旅館の造りはどこも似たような物だったのかもしれないが。

 ぼくは、きょう帰京してから、“父ありき”のDVDを見た。
 あのシーンはセットのようにも見える。
 しかし、8月16日の昼下がり、ぼくは“父ありき”を思い浮かべながら、別所温泉の柏屋別館の前を歩いたのだった。

 2011/8/20
                

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きょうの軽井沢、浅間山

2011年08月19日 | 軽井沢・千ヶ滝

 8月12日(金)の午後3時すぎ、日本道路交通情報センターHPの高速道渋滞情報で、関越道、上信自動車道の渋滞がすべて解消したことを確認して、軽井沢に向かう。
 例年なら7月末で前期の試験などは終わり、この時期になれば大学の仕事はすでに一段落しているのだが、今年は震災の影響で新学期の開始が3週間遅くなったため、8月10日にようやく前期の最後の試験が終わり、答案を抱えての軽井沢行きとなった。
 道路は情報通り空いていて、上里SAでの休憩も入れて2時間ちょっとで軽井沢に到着した。

 追分へ向かうバイパスが、道中で一番混雑していた。いつも通り“ツルヤ”はごった返していて、駐車スペースを見つけるのも一苦労だったが、幸い入口にほど近いクルマがちょうど出て行くところだったので、その後に滑り込めた。
 当座の食料品を買い込んで家に向かう。
 
 それから今日8月19日の朝まで、1週間、東京が猛暑に見舞われた1週間を軽井沢で過ごした。

 その間の出来事はおいおい書き込むことにして、まずは定番の“きょうの浅間山”シリーズを。
 いずれの写真も、クルマのUVカットウインドウ越しに撮影したために、やや緑がかっている。
 
 最初の(上の)写真は、8月16日(火)の午前9時半ころに、軽井沢駅から中軽井沢駅に向かう国道18号から眺めた浅間山。
 軽井沢町役場の少し手前(軽井沢駅寄り)だろうか。湯川に架かる橋の手前あたりから眺める浅間山が、いちばん「軽井沢の浅間山」らしくて、ぼくは好きだ。いつも道が混んでいるのが難点だが。

          

 つぎは、同じ16日の午前に、しなの鉄道下り小諸行きの車窓から眺めた浅間山。
 信濃追分駅を過ぎた頃に、「間もなく浅間山の絶景ポイントを通過します」という車内放送があって、やがて進行方向右手にこの景色が広がる。
 御代田のメルシャン美術館の裏手の「浅間八景」から眺める浅間山に近い。確かに軽井沢からの眺めよりも裾野が左右に長く伸びている。しなの鉄道の車窓からの浅間山は、この辺を過ぎると、ギザギザの頂きが見えて来て、醜い。いかにも火山らしいともいえるけれど。

          

 その次は、17日(水)に、借宿先の浅間台の十字路から眺めた浅間山。
 ここからの浅間山もぼくの好きな風景なのだが、いかんせん電線が目障りである。

          

 その次は、18日(木)に追分バイパスの鳥井原交差点から眺めた浅間山。
 親戚から、軽井沢のゴミ出しはまとめて町の塵芥処理場に持ち込むのが便利だと教えられて、使わなくなった家電製品や料理道具、食器などを捨てに行った帰り道である。
 なぜかこの日は交通事故がやたらに多く、朝からパトカーや救急車のサイレンが鳴り響いていたのだが、道すがらで何人も事故処理中の警官や、交通整理の警官を見かけた。

           

 鳥井原交差点からは、事故処理帰り(?)のパトカー2台に先導されて走ることになった。

 2011/8/19 記

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小津安二郎 “秋刀魚の味”

2011年08月06日 | 映画

 去年の暮れ頃から、小学館で“小津安二郎名作映画集10+10”という本(DVD+Book)を出している。

 小津の戦後の代表作と戦前のサイレント時代の作品を各1作づつ抱き合わせにした全10巻を、毎月1巻ずつ発売している。1巻3300円(+税)。
 えげつない商売だとは思うけれど、いくら小津とはいえ、戦前のサイレント作品だけを収録してもそんなには売れないだろうから、致しかたないか。幸いぼくの大学図書館のAVセンターには小津の映画は戦前の物も含めてすべてビデオが置いてある。戦前作品はこれで見ることができるので、ほとんど見た。

 問題は戦後の作品である。
 ぼくは神田神保町の書泉で買った Cosmo Contents 社の“日本名作映画集”というやつで、小津の戦後の作品は9本見ている。“東京物語”“晩春”“麦秋”“お茶漬の味”はすでに持っているので、スルーした。
 問題は、残りの6巻である。
 “秋日和”“彼岸花”“秋刀魚の味”“お早よう”“東京暮色”“早春”は、“お早よう”以外はぜひ手元に持っていたい。
 現在、松竹から出ている“小津安二郎 名作セレクションⅡ”という5枚組のDVDで、『東京暮色』(1957年) 、『彼岸花』(1958年) 、『お早よう』(1959年) 、『秋日和』(1960年) 、『秋刀魚の味』(1962年)は揃えることができる。定価は1万2000円くらいだった。不要の“お早よう”を除くと、1巻あたり約3000円である。

 小学館版なら不要の“お早よう”はスルーして、“秋日和”“彼岸花”“秋刀魚の味”“東京暮色”“早春”を各3300円で購入できる。
 迷いながら、多忙にまぎれて第5巻“秋日和”、第6巻“彼岸花”はスルーしてしまったが、先日第7巻“秋刀魚の味”を買ってしまった。小学館版についている解説本に岩下志麻のインタビューが載っていたから。

 買ったまま放置してあったが、期末試験の採点の合間にちょっと時間があいて、勉強する気にもなれなかったので、きのうの夕方、見ることにした。
 “秋刀魚の味”は3回目である。

 今回は先日アマゾンでかった“小津安二郎監督作品サウンドトラックコレクション”を聞いていたので、とくにBGMに耳を傾けながら見た。
 なかなかよかった。あまり大したこともない場面で流れる“燕来軒のポルカ”や、池上線の石川台駅のホームで流れる“郊外の駅で”などもよかった。
 そして戦争も軍人も描かなかった小津が最後に選んだ“軍艦マーチ”と、あの心に滲みるエンディング曲。
 “晩春”のラストシーンの批評に懲りた笠智衆が、今回のラストでは彼らしくない妙な演技をしているようにも見えるのだが、音楽で救われた。

 基本的には、“ Mixture as Before ”なのだが、それがいい。
 笠智衆は笠智衆のまま、中村伸郎も変わらず皮肉っぽく、北竜二はどこか影が薄く、高橋豊子もそのまんま、菅原通済もいつもながらに目障り。 佐田啓二と笠智衆父子は、“父ありき”以来の小津が描きつづけた昭和の親子の姿の延長線上にある。今ではもう廃れてしまった父子像である。

 いつもと違うといえば、若くてきれいな岩下志麻が登場し、“秋日和”につづいて岡田茉莉子のおキャンさがいい。
 そして今回は生徒から軽侮される元中学校教師役の東野英治郎の演技がうまいのに気づいた。小津が東宝で作った映画に出てくる森繁久弥などと違って、ちゃんと小津映画の中に溶け込んでいて、それでいていかにも東野英治郎らしい。

 最初に見たときは、かつての教え子たち、とくに中村伸郎が東野英治郎を小馬鹿にする場面に不快感を覚えたが、誰かの映画評に、実は教え子たちにも「老い」が忍び寄っていることを彼ら自身も感じているのだという指摘があって、合点がいった。
 娘(岩下志麻)を急かして嫁がせた笠智衆だけでなく、頻繁に精力剤を話題にする中村や北にも老いは迫っている。設定からして彼らは50歳代半ばだと思うが、昭和30年代のあの頃は50代半ばのサラリーマンは、もう「上がり」の一歩手前だったのだ。

 ちなみに、同窓会の打ち合わせをする小料理屋のテレビで、大洋対阪神戦を中継していた。阪神のピッチャーがバッキーで、大洋は「4番 サード 桑田」というアナウンスが流れていた。桑田武である。
 その試合が行われている川崎球場のカクテル光線の柱には、でかでかと「サッポロビール」と書いてあり、ラストシーンの笠智衆の家の台所の棚の上にも「サッポロビール」の贈答箱が置いてある。
 笠智衆の行きつけのバーは「トリスバー」で、東野英治郎が大事そうに持ち帰る飲み残しのウィスキーは「サントリー・オールド」である。
 小津はしっかりとサッポロビール、サントリー両社から協賛金をせしめたのだろう。
 
 さて、以前は“秋刀魚の味”が小津の遺作でも悪くないと思ったが、できれば“秋刀魚の味”の翌年に予定されていた“大根と人参”も見たかった。

 * 小津安二郎“秋刀魚の味”(小学館刊“小津安二郎名作映画集10+10”第7巻、2011年)。
 
 2011/8/6 記

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