豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

亀井俊介他編『アメリカの大衆文化』

2023年01月31日 | 本と雑誌
 
 本間長世・亀井俊介編『アメリカの大衆文化』(研究社、1975年)を読んだ。
 これまた、断捨離前のお別れ読書。

 武市好古「トータル・エンターティンメントの夢」、日向あき子「アメリカン・グラフィック」、三井徹「新しいポピュラー・ソング」、後藤和彦「テレビの大衆文化」、白石かずこ「ソウル文化の来し方、ゆくえ」、木島始「地下の泉 フォークロア」、平野敬一「子供の世界」、小野耕世「イノセントであることの暴力」、R・リッシ―「ハードコア大衆文化の世界」などに、本間の「序論」と亀井の「ジープに乗って山こえて」と題する結びがついている。
 買った当初は、常盤新平「変わりゆく雑誌--マス・マガジンの崩壊と読者の変質」、J・M・ライリー「頭脳紳士からタフ・ガイへ」、中田耕治「性革命とポーノグラフィ--性意識の変化と表現」だけを読んだらしく、所々に傍線が引いてあった。
 懐かしい著者の名前が続くが、今回は武市、日向、後藤、常盤(再読)、ライリー(〃)、平野を読んで、お別れすることにした。

 常盤は、「サタデー・イブニング・ポスト」「ライフ」など最盛期には500万部の売り上げを誇った雑誌が相次いで廃刊に追い込まれた事情を、創刊時にまで遡って紹介する。煙草の発がん性を告発したのが「リーダーズ・ダイジェスト」であり、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」を連載して環境問題に目を向けさせた嚆矢が「ニューヨーカー」だったことなど(124頁)、知らなかったか忘れていた。サリンジャーの初期の短編を掲載した「サタデー・イブニング・ポスト」が新聞ではなく、毎週木曜日に配達される雑誌だったことも知らなかった。
 「タイム」はべトナム戦争を支持したことで斜陽化し、べトナム戦争反対の対場を明確にし、記者の署名入り記事などニュージャーナリズムの手法を取り入れた「ニューズ・ウィーク」に負けてしまう(といってもライフ400万部、ニューズ240万部だという!)。両誌とも定期購読者に対する格安販売にもかかわらず部数は減少しつづけたという(下の写真は1975年発行の「ライフ」誌のアメリカ独立200年記念号の表紙。それこそ定期購読者へのサービスとして配布された特別エディションだった。「ライフ」や「ニューズ・ウィーク」の定期購読を申し込むと特典として特製「時事英語辞典」などが貰えたが、どこかに失くしてしまった。)
       

 本間は、「ハイ・カルチャー」に対する「ポピュラー・カルチャー」のアメリカにおける生成、発展をたどり、背景としてマス・メディアの発達、公立学校の普及、都市間鉄道の開通をあげ、1920年代に「ポピュラー・カルチャーすなわちアメリカ文化」が認められるようになったが、その中心は映画であったという(8頁)。

 武市は、アメリカ大衆芸術(エンタテインメント)のコアは “spontaneity”(スポンタニティ),素人俳優の自然さ、のびのびした、素材としての魅力、計算以前の魅力こそ、大衆演劇や映画製作者と観客を繋ぐルール、「人間性(ヒューマニティ)」であるという(21~2頁)。プロのエンターテイナーは「偉大なる素人」であるが、「日常生活の玄人」でなければならなないとして、テネシー・ウィリアムズやサローヤンの戯曲を例に挙げる(23頁~)。エンターテイナーの語りかけによる観客との一体化というのが、最近のわが国テレビ漫才(コント)界には欠けているように思う。
 ボードビルの伝統が映画界に影響を与えジョン・フォード、ヒチコック、ビリー・ワイルダーの映画には、ボードビルの「笑い」の演出がみごとに発揮されている。フェアバンクス、バレンティノに始まり(1975年の刊行当時の)スティーブ・マックィーンに至るスターたちはいずれも「偉大な素人としての魅力」をもっており、ジェームス・ディーン、マリリン・モンロー以降は美男美女というよりは個性的なキャラクターをもつスターが登場する(30頁~)。
 ブロードウェーのミュージカルは「ロングラン」が主流で、(当時)20年以上上演されているものが3本もあり、上演回数6000回を超える作品(「ファンタスティックス」)もある一方で、カポーティ「ティファニーで朝食を」(劇場版)のように、納得のいく作品が完成しなかったために開演当日に中止になったものもある。1975年当時のエンターテインメントを象徴するのは、ラスベガスのMGMグランド・ホテルの「トータル・エンターテインメント」で、ショウとレジャーと宿泊がセットになったエンターテインメントが提供され、訪れる人たちには日常性から解放されて “nameless、aimless、timeless” の時間をエンターテイン(享受)した(38頁~)。わがディズニー・ランドのようなものか。 

       
 日向は、ノーマン・ロックウェルが描いたノスタルジックな、1970年代のアメリカ人の多くが郷愁を誘われるようなアメリカの原風景から、アンディ・ウォーホールに至るアメリカ絵画の変遷をたどる。
 上の写真は、『アメリカン・ノスタルジア--ノーマン・ロックウェルの世界』N・ロックウェル絵、T・S・ブッヒュナー文、東野芳明訳、パルコ出版局、1975年の表紙。1978年11月10日付東京新聞に載ったロックウェルの死亡記事が挟んであった。      
 下の写真は、アンディ・ウォーホールが描くモンローを表紙に飾った「芸術生活」1974年12月号「特集アンディ・ウォーホル」の表紙。同誌には日向の論稿も載っていた。
       

 後藤は、公共放送(BBC)中心のイギリスのテレビのほうが、商業主義のアメリカのテレビよりも性描写に寛容で、性描写のシーンも多いという。なぜなら、アメリカのテレビ局は広告主(スポンサー)の顔色をうかがって製作しなければならないからである。テレビ番組はコマーシャルの付属物のようなものであるとまで言っている(111頁)。わが国のテレビ界で、不倫を報道されたタレントが(番組だけでなくCMも含めて)テレビ画面から消えてしまうのと同じだろう。
 白石は、(メキシコ・オリンピック時の黒手袋事件など)「ブラック・パワー」や「ブラック・イズ・ビューティフル」の運動から、ブルース、R&B、ジャズなどの音楽や(途中でプレスリー、ビートルズのロックンロールが挟まる)、シドニー・ポワチエ以降の映画を回顧する。ぼくが持っている唯一のジャズ・レコードのマル・ウォルドロンのアメリカ・ソウル史における位置を知ることができた(192頁)。白石にとっては、歌手、演奏家、俳優だけでなく、黒人解放運動家、アスリートも「ソウル」なのだった。
 中田は、大衆文化論というよりはポルノグラフィー論。
 平野は、カナダで日系人の子どもとして育った著者が体験したアメリカ西海岸のコミックを回顧する。昭和30年代に日本で少年時代を過ごしたぼくには、まったくの別世界の話だった。風船ガムの包み紙のアメリカ漫画くらいしか思い浮かばない。

 残った小野耕世、、リッシ―、亀井俊介はいずれ改めて。

 2023年1月31日 記

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本間長世他編『生活のスタイルと価値観』

2023年01月27日 | 本と雑誌
 
 本間長世他編『日本とアメリカ・比較文化論(3) 生活のスタイルと価値観』(南雲堂、1973年)を読んだ。
 断捨離(要するに廃棄する)前のお別れの読書。この巻はまったく読んでなかった。

 本間長世「序論」、明石紀雄「生きがいのあり方」、荻昌弘「スクリーンにみる大衆文化」、神田順治「スポーツと国民性」、油井正一「音楽と生活文化」、三神正人「マス・メディアと大衆」を読んだ。
 面白いものもあったが、やはり1973年の発行という限界が感じられるものもあった。

 明石「生きがい・・・」は読まずに済まそうかとも思ったが、アメリカはその独立宣言の中で、「幸福追求権」を天賦の人権であると宣言していることを契機にして、「幸福」について言及していたので思い直して読んだ。
 アメリカ独立の父祖たちは、ジョン・ロック『統治論』が「property への権利」と書いたものを、あえて「幸福追求の権利」と言い換えたのである。これを継承した日本国憲法13条も同じ「幸福追求権」を保障しているが、ここでいう「幸福」とは何なのか、人はどのような状態にあれば「幸福」なのか。わが憲法13条の解釈からは人格権、自己決定権から環境権まで様々な新しい権利が導き出されるようになったが、そもそも「幸福」とは何なのかは置き去りにされている。「自己実現」と答える人もいるだろうが、今度は「自己」とは何か、どうすればそれが「実現」できるのか、という問いが残る。
 
 荻「スクリーン・・・」は、アメリカ映画が日本映画さらには生活に与えた影響を論じる。
 日本はアメリカから映画を輸入した。多くの日本人がアメリカ映画を見ただけでなく、日本の映画業界は、アメリカ映画を規範として、製作技術(撮影所から撮影・録音・映写機器、フィルム、メイク用品などまで)から、ストーリー、主題、文体、スターシステム、宣伝方法までを模倣した。しかし、「シェーン」や「ゴッド・ファーザー」ではそのその宗教性が、「真昼の決闘」ではその政治性(たった一人になってもマッカ―シズム=赤狩りと闘うというジンネマン監督の意図)がすっぽりと抜け落ちて受容されたという。
 カーク・ダグラス主演の「ガン・ヒルの決闘」を「浪曲調西部劇の標準作」と評した映画評を読んだことがあるが、まさにそのような受容の典型だろう。「ゴッド・ファーザー」がその題名からしてカトリシズム批判であったなど(130頁)、まったく気づかなかった。ぼくが影響をうけた「エデンの東」では、映画自体が原作のもっていた宗教性(キリスト教原理主義)を欠落させていたが。
 戦前の「駅馬車」をはじめとするアメリカ映画への親しみがあったから、敗戦後の日本はアメリカ軍による占領を受け入れることができたと筆者はいう(148頁)。ぼくの伯父は、戦争中に政府系の研究所で敵国アメリカの分析に従事していたが、そこで同僚たちと秘かに「風と共に去りぬ」(1939年制作)を見る機会があって、こんな超大作をカラー映画で作るほど物量に勝る国にはとても勝てないと確信したと語っていた。
 占領軍は、「民主主義の教科書」として意図的に占領下の日本で公開する映画を検閲のうえで配給した。「わが谷は緑なりき」や「我等の生涯の最良の年」などがその代表例だが、他方で「怒りの葡萄」「市民ケーン」「二十日鼠と人間」などアメリカの暗部を描いた作品は上映を許されなかったという(152頁~)。
 荻の論稿は「卒業」(1967年)などのニューシネマ、「ある愛の詩」などの娯楽作品のあたりで終わっている。数日前にNHK-BS プレミアムで「ある愛の詩」をやっていたが(下の写真)、甘ったるくて最後まで見ることはできなかった。上映当時はけっこう気に入っていたのだが。歳をとって父親の視線で見るようになったからだろうか。
 実は荻さんは、ぼくの大学1年の時に一般教養の「映画学」という科目を担当されていた。映画に興味があったので最初の1、2回出席してみた。映画のアメリカ起源とドイツ起源の話などをされていたが、難しそうだったので受講登録はしなかった。当時のぼくは「雨に濡れた舗道」とか「渚の果てにこの愛を」といった東宝東和提供のメロドラマのような映画ばかり見ていたから、荻さんにとっては縁なき衆生だった。

   

 神田「スポーツ・・・」は、東大教授で東大野球部監督でもあった著者による日米(英)比較スポーツ論である。 
 サッカー、ラグビー、クリケットなど勝敗をつけないイギリス貴族階級の間で生まれたスポーツのアマチュア性が、商業主義に敗北するまさに直前に書かれた論考である。アマチュアリズムを死守しようとしたブランデージIOC会長が、アマチュア違反の金メダル候補を札幌オリンピックから追放した事件など、まったく忘れていたかそもそも記憶にもなかった(171頁~)。最近の東京オリンピック(2021年)をめぐる金まみれの汚職事件など、本書以後の50年間でオリンピックは完全に商業主義に席捲されてしまった。
 ベースボールにはアメリカ起源説とイギリス起源説があるという(176頁)。たしかに「バーナビー警部」に出てくるクリケットは野球と似ている。わが国にはじめて野球を紹介したのが福沢諭吉だったというのも知らなかった(184頁)。「野球」という訳語は正岡子規が本名の「のぼる」→「の=野」「ボール=球」をもじって命名したと信じていたが、神田によれば別の一高生(中馬庚)の命名だったという。ネットで調べると、中馬は徳島県の脇町中学の教師になって野球部を指導したという。ぼくのゼミ生に脇町高校のラグビー部員で花園に出場した学生がいた。
 執筆当時は野球全盛だったようで、野球と日本人の国民性について、木村毅からはじまって安部磯雄、中野好夫、多田道太郎、加藤秀俊、サイデンステッカーなどそうそうたる論客が野球を論じている(184頁~)。昭和37年に来日した西ドイツ・サッカーチームの団長が、野球などどこが面白いのだ?サッカーの団結精神こそ素晴らしい、西ドイツチームにプロ選手など一人もいない、技が落ちればお払い箱のプロ選手になることなど好まれないと発言しているが、隔世の感がある(181頁)。

 油井「音楽・・・」は、南北戦争で敗れた南軍が捨てていった軍楽隊用の古楽器を手に入れたニュー・オルリーンズの旧奴隷たちが、楽譜の読める仲間から教えられてブラスバンドを組み、バイトをして低賃金を補ったというジャズの起源を語る(204頁)。ぼくには、このジャズの起源が、わが国の戦後の中学校で展開されたブラスバンド部員どうしによる音楽教育と似ているように思われる。

 三神「マス・メディア・・・」は、元テレビ局員による論稿で、戦後マスメディア(ラジオ、テレビが中心)の変遷を論ずる。本書が発行された1973年当時、すでにテレビの衰退、VR(ビデオのことらしい)、CATV(有線テレビ)への移行が始まっていたらしい。
 わが家では、VHSのビデォ・レコーダーはわりと早めに購入したが(当時ダビングした大量のVHSテープの処分に迫られているが、可燃ごみに出せるのでせっせと断捨離している)、CATV(?)はずっと遅れて、21世紀に入ってからJ-COMには加入したが、コンテンツの有料配信には入っていない。友人は、テレビのCMが煩わしいので hulu だか amazon prime だかに加入したという。ストレスがなくて気持ちがいいらしい。
 1970年代から、テレビ視聴者の中にはニュースとスポーツ番組しか見ない層がすでに出てきていたこともこの論稿で知った。テレビの終わりの時代はけっこう早くから始まっていたのだ。

 2023年1月27日 記

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斎藤真他編『デモクラシーと日米関係』

2023年01月25日 | 本と雑誌
 
 斎藤真他編『日本とアメリカ 比較文化論(2) デモクラシーと日米関係』(南雲堂、1973年)を読んだ。
 これも断捨離を前にしたお別れの読書。

 本書が出版された時には(1973年)、三谷太一郎「大正デモクラシーとアメリカ」、麻田貞雄「日米関係と移民問題」、綿貫譲治「アメリカによる日本の『民主化』」を読んでいたが、今回は、残りの数編を読んだ。
 隅谷三喜男「日本の社会運動とアメリカ」、大下尚一「キリスト教の受容と民主主義」、秦郁彦「太平洋戦争と日米戦略」、有賀貞「アメリカの対日政策の焦点」である。
 隅谷では、日本の社会運動の出発点がサンフランシスコに移住した日本人職工組合から始まり、その後も片山潜、幸徳秋水、安部磯雄らの渡米日本人によって発展したことを知った。さらに幸徳秋水の大逆事件の発端が、彼が創設した「社会革命党」のサンフランシスコ在住の残党グループによる「暗殺主義」(明治天皇を暗殺する旨をほのめかす文書を発表した)に起因することを知った。
 大下は、日本のキリスト教が最終的には天皇制国家と共存する道を選ぶに至ったものの、木下尚江、安部磯雄、新渡戸稲造、吉野作造、賀川豊彦らを経由して、民主主義に連なることを述べる。
 秦は、太平洋戦争における日米の戦略の推移を時系列にたどり、日本の敗因をさぐる。これまでは「戦略」面からの戦争叙述には興味がなかったが、最近のロシアのウクライナ侵略を見るにつけ、ウクライナ勝利のためにはこのような戦略的な分析も必要なのだろうとは思うようになった。対米開戦決定の「御前会議」用の文書は、敵を「対米英蘭蔣戦争」といい、「蔣政権の屈服」を目標としていた。敵は蔣介石だったのだ(225頁)。
 有賀も、日本軍国主義に勝利したアメリカが、やがて冷戦における日本の軍事利用、そのための経済復興に舵をきる経過を概観する。連合国の中には日本とドイツを農業国にしようと主張したというが、今となってはそのほうが1周遅れの先頭走者になっていたかもしれない。全体主義、野蛮で侵略的な日本というイメージをアメリカの手で払拭させ、この悪いイメージを中国に転嫁させたという(306頁)。

 以前に読んだ頃は、アメリカ移民、とくに戦時中の日系人の強制収容に関心があったので麻田の論稿を読んだ。麻田や牛島秀彦その他から高橋三千綱「葡萄畑」まで、排日移民法からマンザナー強制収容所に至る日系移民の本を結構読んだ。日系人の強制収容を決定した当時のカリフォルニア州知事ウォーレンが、後に連邦最高裁長官になってリベラルな判例を形成するのも皮肉な歴史だ。
 綿貫からは、戦後の民法改正を審議した内閣の臨時法制審議会と司法省の司法法制審議会が同一の審議会だったこと(後者が前者の第3部会を兼務したという)ことを知った(273頁)。昨年来、戦後の民法改正過程を調べていて両者の関係が分からなかったのだが、こんなところで氷解した。

   

 三谷も今回再読して、その中に新渡戸の「平民道」に言及があることを知って驚いた(145頁)。
 デモクラシーの前提には“virtue” (「徳」か)がなければならない、新渡戸はこれを「平民道」と表現したことを、ぼくは三谷のこの論稿で知ったのかも知れない。50年近く前のことなので記憶は定かでないが、本書の発行が1973年で、手元にある『新渡戸全集』が1970年の発行だから平仄はあっている(上の写真は『新渡戸稲造全集・第5巻』(教文社、1970年)。24頁に「平民道」が収録されている)。
 わが「平民道」の原点がここにあったとなると、断捨離するのがちょっと惜しくなった。こんな調子だから、定年から3年経っても断捨離はいっこうに進まない。

 2023年1月25日 記

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映画 「モリコーネ--映画が恋した音楽家」”

2023年01月20日 | 映画
 
 ジョゼッペ・トルナトーレ監督の「“モリコーネ--映画が恋した音楽家」 を見てきた。
 吉祥寺駅南口(東口?)駅前の吉祥寺オデオンで。中学、高校時代の6年間通学で吉祥寺駅を通っていたのだが、こんなところに映画館があった記憶はない。
 あのころは中央線は地上を走っており、あの辺りには踏切があったはずだ。
   

 さて映画だが、何かのラジオ番組で紹介しているのを聞いて、面白そうだなと思った。久しぶりに見たい映画に出会った。
 エンリオ・モリコーネは好きな作曲家の1人である。字幕では「エンニオ」となっていた。
 上映館を調べると、吉祥寺でやっている。これなら場所も悪くない。しかし上映時間が2時間40分(!)というので躊躇した。いくら何でも長すぎないか。「ニュー・シネマ・パラダイス」 みたいに、モリコーネの音楽が流れる古い映画の部分部分をモンタージュのようにつなぎ合わせたようなものだと、とても2時間40分は耐えられない。
 しかし、結局行くことにした。

    

 午前11時25分から2時間40分なので、昼飯がわりにおにぎり4個と、近くのコンビニで買ったお茶とお菓子(どら焼き)を持参した。
 映画は90歳をすぎたモリコーネが自室で作曲したり、柔軟体操をするシーンから始まる。
 そして、彼の生い立ち、というよりは音楽家としてのキャリアの出発点から彼の音楽家人生をたどっていく。
 トランペット吹きだった父親の命令で音楽学校に入り、トランペット奏者を目ざすが、やがて作曲に目覚めていく。そして映画音楽の世界で頭角をあらわすようになる・・・。
 この辺から、もう2時間40分という時間のことはまったく忘れていた。

 懐かしいメロディー、懐かしいシーン、懐かしい俳優や歌手が次々に登場する。
 彼の出世作になった「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」 などの発想から完成に至るプロセスをモリコーネ自身が語り、監督や製作者らの回想を交えながら、モリコーネの曲が流れるシーンが映る。
 申し訳ないことに、「荒野の用心棒」を聞きながら、ぼくはこの曲が挿入歌として流れる「迷宮グルメ 異郷の駅前食堂」を思い出してしまった。あの番組は、挿入歌で流れる「荒野の用心棒」と「ライム・ライト」が番組の雰囲気に似合っている。

 ぼくの知らない映画や俳優や歌手も大勢登場する。トルナトーレ自身も何度か登場する。
 懐かしかったのは、ジャン・ギャバン、リノ・バンチュラ、アラン・ドロン、ジャン・ポール・ベルモント、マルチェロ・マストロヤンニ、それに現在のジョーン・バエズまで登場した。
 “ワンス・アポンナ・タイム イン アメリカ” のジェニファ・コネリーも初々しい。あの映画の撮影時にはモリコーネの音楽をスタジオで流しながら撮影したという。
 映画俳優だけでなく、歌手のジャンニ・モランディやミーナも登場した。彼の曲を歌っていたのだ。残念ながらミーナが歌っていたのは “砂に消えた涙” ではなかったが。
 しかし、何といっても印象的だったのはモリコーネご本人である。
 時にはメロディを口ずさみながら、時には指先で机を叩いてリズムを刻みながら、時には目を閉じて指揮棒を振るしぐさをしながら、自作を語る語り口が魅力的だった。

 驚いたのは、高校時代に見た「アルジェの戦い」 が、何とイタリア映画で、作曲がモリコーネだったこと! 
 あれはフランス映画だとばかり思っていた。フランス人がアルジェリアの独立運動を弾圧する怖い映画だった。人権宣言以来のフランスの「自由」や「人権」が、「フランス人の」自由、人権にすぎないことを思い知らされた映画だった。
 ただし、今回聴いてもあれが「モリコーネ」の音楽とは思えなかった。“荒野の用心棒” 以降の彼の曲風とは違う世界だった。

 アカデミー賞に6回もノミネートされながら、受賞に至らなかったなど、信じられないエピソードである。クラシック出身のモリコーネが「映画」音楽家であることに「罪悪感」をもっていたというのも驚きであった。
 彼は新人監督だったトルナトーレ監督の依頼に応じて、「ニュー・シネマ・パラダイス」 の音楽を引き受けてくれたという。いかにもモリコーネ風で、ペーソスがあってノスタルジックないい曲だった。

 今回の “モリコーネ” は、「ニュー・シネマ・パラダイス」より編集が数段洗練された印象だった。いい映画を見た。
 モリコーネは2020年に亡くなったようだが、ラッシュででもこの映画を見ることはできたのだろうか。

 2023年1月21日 記

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トーマス野口『検死官』

2023年01月19日 | 本と雑誌
 
 トーマス野口&ジョセフ・ディモーナ/佐瀬稔訳『検死官--Dr. 刑事トーマス野口』(講談社、1984年)を読んだ。
 前に読んだような気もするが、断捨離の前にお別れのつもりで読んだ。

 トーマス・野口といっても、もう知らない人も多いかもしれない。
 ぼくたちの世代には、変死したマリリン・モンローを検死解剖した法医学者として有名だった。日本生まれで日本医大を卒業したが、日本医学界の徒弟制度に嫌気がさして、アメリカに渡ってロサンゼルス郡検死局長にまで上りつめた法医学者である。
 ハリウッドが管轄区域だったため、有名人の変死事件も扱うことになった。本書に登場するのは、マリリン・モンローのほかにも、ナタリー・ウッド、シャロン・テート、ジャニス・ジョプリン、ウィリアム・ホールデン、ジョン・ベルーシなどの芸能人だけでなく、ロバート・ケネディその他航空機墜落事故や豪雨被害の死亡事故なども取り上げられている。

 ナタリー・ウッドやウィリアム・ホールデンの最期はまったく知らなかった。彼によれば、モンローは睡眠薬による自殺で、ナタリーはヨットでの事故死、ホールデンはアルコール過剰摂取による事故死だったようだ。
 モンロー、ベルーシなどは噂話のようなことは聞いていたが、詳細な経過は本書で知った。ロバート・ケネディの暗殺には(逮捕された犯人の外にも)致命傷を負わせたもう一人の犯人がいたのに未解決のままになったことなども知った。
 野口が担当した事件ではないが、兄のJ・F・ケネディ暗殺事件でも銃弾は4発発射されており、(逮捕された)オズワルド以外にも狙撃手がいたことが示唆されている。

 彼は、自らが担当したこれらの変死事件について公の場でしゃべりすぎるなどとして、シナトラその他の非難を受け、懲戒にもかけられる。カリフォルニアの検死官は公選制ではなく、任命制のようだ。一度目の解任請求は退けられたが、二度目の請求で解任されることになる。
 検死制度を整備して犯罪抑止を目ざし、法医学者の地位を確立したいという彼の熱意はわかるが、「出る杭は打たれる」だった。日本人に対する人種差別意識も(決して表面化することはないが)あっただろう。
 ハリウッド映画界は夢を売る産業だから、本書に書かれたようなナタリー・ウッドやウィリアム・ホールデンの最期は知られたくない「不都合な真実」だったのだろう。
 解任の背後にはそれら勢力の影の圧力があったのかもしれない。ただし解任後に彼は大学のポストを得ている。

 日本でも芸能人の変死が週刊誌やテレビ番組などで取り上げられることはあるが、検死解剖結果のような公的な情報がここまであからさまに書かれたことはないのではないか。冤罪事件となった弘前大学教授夫人殺人事件を取り上げた古畑種基の「法医学の話」(岩波新書)や、上野正吉「犯罪捜査のための法医学」(弘文堂)、吉益脩夫の「犯罪学概論」(有斐閣)などでは、個別事件について、どの程度プライバシーに配慮した記述がなされていたのだろうか。
 これらの本は、みんな退職時に後輩の若手教員にあげてしまったので、確かめられない。

 2023年1月19日 記

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智積院展、サントリー美術館

2023年01月13日 | 東京を歩く
 
 朝日新聞の営業からタダ券をもらったので、サントリー美術館で開かれている「京都・智積院の名宝」を見てきた。「抒情と荘厳--等伯プロデュース、国宝障壁画一挙公開」という長い副題(キャッチ・フレーズ?)がついている。
 六本木の東京ミッドタウンに出かけるのは久しぶり。前回は何を見に行ったのか、何の用事で出かけたのかも思い出せない。

     

 智積院(ちしゃくいん)には10年近く前に、イギリスに旅立つ息子に少し日本の伝統文化を知っておいてもらおうということで京都、奈良に出かけた際に訪れた。
 あいにく三十三間堂で時間を食っている間に、智積院の閉館時間が迫ってしまい、残念ながら中には入れなかった。そんな因縁があったので、招待券を貰ったのをよい機会に出かけてきた。

 副題にもある通り、長谷川等伯および息子の長谷川久蔵の障壁画を中心に、その他智積院に所蔵されている書画が展示されている。「等伯プロデュース」の意味は不明。
 目玉というか呼び物というべき展示物は、やはり等伯の「楓図」(冒頭の画)と、久蔵の「桜図」なのだろう。

     

 幸い亡父の蔵書の中に「障壁画全集・智積院」(美術出版社、昭和41年、上の写真)という本があったので、予習、復習ができた(「楓図」「桜図」の写真も同書から)。
 等伯の画には亡父の書き込みがあって、「原物の幹の色はこれほど緑黄色でなく、濃い茶色の地に黒に近い部分が入っている。他の部分は各種色刷中最も原物に近い色が出ている。昭和42年10月13日記」とメモがある。
 久蔵の「桜図」(下の写真)については「この画家は、金色を諧調の空間とする。もとよりそれは、春という季節の大気を象徴する役割を負わせた金雲である。・・・」その他の解説(水尾比呂志)に朱線が引いてあった。

   

 今回見た原物は、この画集の図録よりも、はるかに色褪せていた。亡父が原物を見た昭和40年代からの60年近くの間に、さらに色褪せてしまったのだろうか。
 やまと絵も研究テーマの一つにしていた亡父と、展覧会と画集を通して会話することができた。
 こうして、13日の金曜日は無事終わった。

 2023年1月13日 記

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きょうの浅間山(2023年1月11日)

2023年01月11日 | 軽井沢・千ヶ滝

 何気なく、「気象庁監視カメラ(浅間山・鬼押)」を開いたら、冬の日ざしに輝く浅間山の姿が載っていた。
 
 太陽の光がきれいだったので、アップする。

 この時期なのに、浅間山の山頂は雪をかぶっていないようだ。
 下界の軽井沢も暖かいのだろうか。

 2023年1月11日 記

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映画「二十四の瞳」 (NHK-BSプレミアム)

2023年01月04日 | 映画
 
 2023年、最初の映画は「二十四の瞳」になった。
 きょう(1月3日)の夕方、NHK-BSプレミアム(BS104ch)でやっているのを偶然に見つけた。NHKのBSプレミアムで去年の夏に放映されたテレビ・ドラマの再放送らしいが、知らなかった(NHKエンタープライズ制作、NHK 松竹制作・著作、2022年)。
 2022年に最後に見た映画が “ひまわり” で、2023年に最初に見た映画が “二十四の瞳” と、どちらも一種の「戦争映画」だったのは偶然ではないだろう。

 主人公の大石先生を演じている女優さんが清楚で、好感をもった。
 土村芳というらしい。知らなかった(下の写真)。高校生だった頃、同じNHKの連続テレビ番組「姉妹」で岡崎由紀を見初めた時を思い出した。
 大石先生は、原作者の壷井栄の妹さんだったかお姉さんがモデルだと聞いたことがある。小豆島の分教場の先生にしては、土村芳は少しきれいすぎる気がするけど。
 
     

 「二十四の瞳」は、何度も映画化、テレビ・ドラマ化されたが、小豆島がまだ俗化していなかった昭和20年代に、地元の子どもたちを使って、ほとんどロケで撮影された木下恵介のがいちばんよかった(昭和29年公開)。
 最近の小豆島は都市化、俗化してしまったので、「二十四の瞳」の昭和の雰囲気を小豆島ロケで再現するのは、もはや困難だろう。今回の作品もすべてを小豆島でロケしたのではなさそうである。ぼくの知らない風景が出てきただけかもしれないが。
 今日見たドラマに登場する岬の分教場は、田中裕子主演の映画を撮影した時に作られたオープン・セットをそのまま観光施設として保存した映画村(?)で撮影されたようだ(最初の写真)。       

 ぼくが初めて小豆島を訪ねた昭和50年頃は、土庄港から安田に向かう旧街道など、まだ戦前、戦後直後の小豆島の面影が多少は残っていたが、その後の40年の間に小豆島はまったく変わってしまった。

 2023年1月3日 記

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“迷宮グルメ 異郷の駅前食堂”(J;テレ 10ch)

2023年01月03日 | テレビ&ポップス
 
 1月2日(火)、19時~24時、J -;テレ(地上波10ch)で、ヒロシの “迷宮グルメ 異郷の駅前食堂” が5話連続で新年特集をやっていた。
 お気に入りの番組なので、忘れないように年末からスケジュール帳にメモしておいて、5時間ぶっ通しで全部見た。すでに放映されたものの再放送だったので、見覚えのある駅前もあったが、やっぱり面白かった。

 昨日はアジア編は香港と釜山、ヨーロッパ編はスロベニア、ポーランドとトルコが舞台だった。
 香港では、海外取材番組にはありえないような小汚い場末の路地裏を歩いたりもするのだが、それでも味があって良かった。旅人はヒロシでなければだめだろう。
 食堂で彼が食べるものは、ぼくには苦手そうなものが多かった。テレビでは味は伝わらないから気にならない・・・と言いたいところだが、台北の寧夏夜店(?)で食べた(本当は注文したけれどほとんど食べられなかった)微妙な味の牡蠣料理などを思い出した。

     
      

 「せわしない番組増えたこの時代 結構大人に見てほしい」という番組のキャッチ・コピーもいい。
 ぼくらのような小さい頃から草創期のテレビで育った老人には、最近のテレビ番組はドラマだけでなく、芸人のひな壇番組も素人番組も、何から何まで面白くない。CMの入れ方なども視聴者をバカにしているようで、かえってスポンサーやその商品が嫌われると思うのだが。
 「せわしない番組」増えたというより、「つまらない番組」増えたこの時代、である。もうテレビ局の現場には、テレビ第一世代を覚えている人間さえいなくなってしまったのだろう。

 再放送でも、再々放送でもいいから、“迷宮グルメ 異郷の駅前食堂” は “世界ふれあい街歩き” のように、いつまでも延々と放映してほしい。

 2023年1月3日 記

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明けましておめでとう! 2023年

2023年01月01日 | あれこれ

 2023年、明けましておめでとうございます!

 今年も、テレビ東京の “東急シルベスター・コンサート” でドボルザーク「新世界より」を聞きながら新しい年を迎えました。

 今年がよい年であることを心から祈ります!

 2023年1月1日 記

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