豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

きょうの浅間山(2023年7月27日)

2023年07月27日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 東京も毎日暑いが、軽井沢も連日30℃を超える暑さが続いているようだ。
 夜になると、東京よりは多少は涼しくなるだろうが、日中の暑さを考えるとあまり行く気にもなれず、東京のエアコンの中で生活している。
 行くことができないので、気象庁HPの監視カメラ画像から今朝の浅間山の姿をアップしておく(上の写真)。

 最近では軽井沢でエアコンを使っている家もあるが、エアコンを使うならわざわざ軽井沢まで行く必要もないだろう。
 軽井沢の俗化を嫌った西洋人たちは野尻湖に避難したというが、この夏は野尻も連日30℃超えで、結構暑いらしい。夏季合宿の生徒たちが湖で泳ぐにはいいが・・・。

    

 自然の環境、気温で、夏が一番快適なのはどこだろうと言ったら、地理にはまっている小学4年生の孫が、日本で一番夏の平均気温が低いのは、北海道の釧路、根室だと教えてくれた。
 以前釧路に行った折に、釧路では空き家を夏の間だけ避暑用の別荘として貸し出すビジネスがあると聞いた。需要があるのだろう。
 釧路は空港もあるから、東京からの交通の便も悪くない。渋滞した関越道よりは短い時間で到着できるかもしれない。
 上の写真は、同じく気象庁監視カメラから釧路、雌阿寒岳の現在。
  
 そう言えば、倍賞千恵子も、ロケで訪れて気に入った中標津に別荘を持っていると何かに書いてあった。

 2023年7月27日 記
 

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戸田貞三『家族構成』

2023年07月14日 | 本と雑誌
 
 戸田貞三『家族構成 叢書名著の復興』(新泉社、1970年。原著は1937年)を(斜めに)読んだ。

 同書は、大正9年(1920年)に行なわれた第1回全国国勢調査から抽出した世帯票に基づいて、当時のわが国の家族構成の特徴を統計的に研究したもので、わが家族社会学の嚆矢をなす書といわれている。
 門外漢の私は、わが国の家族が大正9年当時においてすでに、3世代以上の縦につながる「直系家族制」ないし傍系家族も含んだ「大家族制」ではなく、夫婦とその間の子からなる直系2世代の近代小家族に近づいていたことを明らかにした研究であるという紹介か引用を読んだ程度だった。

 しかし、何の根拠もなく漠然と戦前のわが家族は現戸主およびその配偶者と子や孫だけでなく、前戸主やその配偶者、戸主の兄妹、その子孫(現戸主にとっての従兄妹ら)を含む大家族ないし複合家族が原則形で、当時の戸籍はそのような家族(「家」)を公示していたと思っていた私にはまさに蒙を啓く研究だった。
 実際に、大正9年国勢調査の結果では1世帯当たりの人員は4・89人であり、戦前の「家」構成員は10人くらいだっただろうと思っていた私には意外な数字だった。
 ちなみに大正末年頃のわが先祖の戸籍には25名の親族が記載されていた。前戸主、現戸主、現戸主の妻、前戸主の妻、現戸主の子(7人)、子の妻(婦、3人)、現戸主の孫(11人)が記載されていた。ただし、死亡や分家、婚姻、養子縁組などで半数以上が消除されているので、実際にこの25人が同時に同一世帯として生活していたわけではないが、それでも10人近い「大家族」「複合家族」である。

 今回、近親婚禁止における「近親」の範囲について調べるために、何か書いてあるかと本書を斜めに読んだのだが、「近親」ないし「親族」の範囲については、当時の民法(明治民法)の「親族」の範囲が当時の日本人が共有した親族概念よりは狭いことの指摘などはあったが、近親婚についての記述は見られなかった。戸籍票などの公的統計による実証的家族研究を志した著者にとって、客観的な資料に乏しい近親婚を論ずることはできなかっただろう。
 戸田の研究は、大正9年当時のわが家族がすでに小家族化しつつあったことを実証したものと単純に考えていたのだが、彼の「小家族」論がたんなる実証研究ではなく、やがて来たるべき小家族化時代における社会保障問題を視野に収めていたことを、本書に付された解説などで知った。

 この国勢調査によると、都市部では一人世帯が30%近くあったことも本書で紹介されている。大正時代は「独身者」文化の時代だったと神島二郎が書いていたが、この時代を背景とした小津安二郎の「小市民」もの映画(坂本武、岡田嘉子の「東京の宿」など)や、昭和戦前期の日守新一が演じた「一人息子」)などは、実は今日の孤老問題を先取りしたものだったのだ。
 子の養育や高齢者の介護など、まさに現在顕在化した問題を1920年代から心配する論者がいたのである。もともと戸田は社会事業(social work?)の研究を志したが、当時の社会事業の講義が面白くなかったので(講師は誰だったのだろう?)、専攻を社会学に変更したのだという。
 100年前にこのような先覚者がいたのに、しかも少子化が顕在化して40年にもなるのに、いまだに家族制度の再興を夢見たり、少子化の歯止めが可能だと夢想する官僚、政治家はなんと暢気なことか。

 ところで、本書を読んでいて驚いたのは、戸田が使った資料の中に、大正9年全国国勢調査だけでなく、東京帝国大学文学部、経済学部の学生が大学に提出した戸籍謄本約1500~1600通というのがあったことである(177頁注22、376頁注30)。
 私が学生だった1960~70年代にも、高校や大学入学時には戸籍謄本だか抄本の提出を求められたが、よもやその大学の社会学の研究に使われることなど、誰も想定していなかっただろう。そのような目的で使用される場合があることへの事前の承諾なども得ていなかったのではないか。今日であれば、個人を特定されないような方法で統計資料として使われることですら、事前に本人の承諾が必要である。そもそも戸籍謄本の提出を求める大学など、今はないだろう。
 そう言えば、明治民法制定の際に、婚姻年齢を何歳に設定するのが医学的に妥当かを諮問された東京大学医科大学付属病院が、現在ならプライバシー侵害に及ぶとんでもない質問調査をした結果を紹介する論文を読んだことがあった。戸田の研究は、明治民法制定時(1898年)から20年以上後だが、まだ戸籍に関するプライバシー意識はそんなものだったのだ。

 2023年7月13日 記

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諸橋憲一郎『オスとは何で、メスとは何か?』

2023年07月04日 | 本と雑誌
 
 諸橋憲一郎『オスとは何で、メスとは何か?』(NHK出版新書、2022年)を読んだ。
 <「性スペクトラム」という最前線>という副題のとおり、生物の「性」はカテゴリー(領域)ではなく、グラデーションをもった「スペクトラム」であるいうのが著者の主張である。

 生物の性別を「オス」「メス」という2つのカテゴリーに截然と区分して、オス・メスの特徴を強調してきた従来の生物学に対して、生物の「性」は、そのような対立する2領域に区分できるものではなく、もっと流動的、相対的なものである。
 生物の各個体は、オス100%とメス100%を両極として、「オス」95%、80%、50%(オスでもメスでもない、or オスでもありメスでもある)という中間点を経て、「メス」50%、80%、95%から反対極の「メス」100%に至るグラデーションの中に位置づけられる。これが「性のスペクトラム」論である(34~5頁)。
  
 著者は、性はスペクトラムであるとはいうものの、典型的な「オス」と「メス」の区別は認めているようであり、その指標となるのは内性器である。精子をつくる精巣をもっているのが「オス」、卵子をつくる卵巣をもっているのが「メス」であるという定義法を、半分だけ正解という。著者によれば、閉経後のメスもメスである(62~3頁)。
 生物の性を決定するのは、染色体の上に存在する性決定遺伝子であり、この遺伝子(SRY遺伝子)によって受精時にはニュートラルだった胎児の生殖器が精巣の形成に向かい、この遺伝子がない場合には卵巣の形成へと向かうことになる。さらに形成された精巣や卵巣で産生される性ホルモンの働きによってオス化、メス化が進行し、性ホルモンの減少によって「脱オス化」(ジジイ化)、「脱メス化」(ババア化)という性の変動が生じるのである(67頁~)。

 さらに、生物の脳にも「性」があるが、哺乳類の場合には、出生前後に脳の性の基本形が定まる第一ステップと、性成熟期以降に性ホルモンによって雌雄に特徴的な行動を誘発する第2ステップの2段階によって脳の性が確立するという(169頁)。
 著者は、脳のことは専門外だとして、強く主張していないが、脳の性中枢の形成は、性ホルモンの影響だけでなく、脳の細胞にも存在する性決定遺伝子によって出生前後にすでに確定していて、その後の環境によっては変わらない、変えられない脳の領域があるようだ。
 人間の性自認でいえば、100%男性と認識(性自認)する「男性」から、どちらかといえば男性と認識する「男性」、「男性でもあり、女性でもある」と認識する中間点の「男性」(男性50%、女性50%)を経て、どちらかといえば女性と認識する「男性」から、女性であると認識する(女性100%)の「男性」にいたることになる(177頁)。
 著者は、メダカやショウジョウバエの脳と生殖行動の研究を紹介することで、人間の性指向についても、本人の意志によって変えられないことを示唆しているようである(178~81頁)。 
 
 ぼくも以前からこのような「性スペクトラム」論に大賛成で、法律の世界における法的な性別の男女二分法に疑問を持ってきた。ドイツなど数か国では、「第三の性」による身分登録が認められるようになっている。
 生物学的には性別を男女いずれかに決定することが不可能である。生物学で「オス」「メス」を定義することはできない! 
 にもかかわらず、法律は社会的な必要から、出生時に外性器の形態で男か女かを決定し、外性器で判別できない場合には性染色体によって決定してきた。しかし日常生活の便宜のために(立小便ができるか否かなど!)、性染色体の結果にもかかわらず、親の希望などによって性器摘出なども含む性適合手術やホルモン療法がおこなわれたために、成長した子どもが性的なアイデンティティの混乱に陥る事例があった(「ブレンダと呼ばれた少年」など)。

 本書は、このような法的性別二分法に疑問を感じ、人間の「性」の相対的、流動的な性質を検討するうえで必要な、基本的な生物学の知識を与えてくれる。ぼくは著者の考えを、ネット上に公表された学術論文で知ったが(※諸橋「性の決定に働く遺伝子たち」季刊誌・生命誌24号)、今回一般向けの新書版で読むことができるようになった。新聞などの書評欄でもっと取り上げられてよい本だと思う。織田祐二がやっているNHKテレビの科学番組などでは取り上げられたのだろうか。
 なお、ぼくには「性のグラデーション」というほうがなじみがよい。しかも両極は「オス」100%、「メス」100%ではなく、さらにその極をこえた「オス」度120%、150%の「スーパー・オス」「スーパー・メス」も存在するように思うが・・・。
 
 2023年7月4日 記 

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建物でたどる日本近代法史・10 旧丸の内ビルヂング

2023年07月02日 | あれこれ
 
 「建物でたどる日本近代法史」の第10回は「旧丸の内ビルヂング」。三菱地所の所有のようだ。
 通称「丸ビル」の、あの建物である。
 出典の記事は朝日新聞1983年2月16日付。「丸ビル還暦」の見出しで、日本最初の本格的オフィスビルである丸ビルが、この月(1983年2月)で開館から60年を迎え、老朽化が目立っており、階段はすり減り、傷んだ外壁のタイル張り替えだけで14億円かかったリしたけれど、まだ健在であると紹介している。
 後に建てかえられることになるが、まだこの当時は建てかえの話題は上っていない。

 旧丸ビルは権威があって、入居の審査はきわめて厳格。入居希望者(社)があっても審査基準に満たない応募者(社)の場合には、たとえ空き室のままになっても入居を認めなかったという話だった。
 現に編集者時代の私が原稿の受取りで、旧丸ビルの5階だったかに事務所を構えていた「兼子・岩松法律事務所」を訪ねた折にも、同じフロアに空き室があった。
 私が訪問した頃には、もうすでに兼子一弁護士は亡くなっており、高弟の弁護士さんが主宰していたが、ドアのすりガラスに書かれた表札(?)は「兼子・岩松法律事務所」のままだった。
 ぼくが学生時代に使った民訴法の教科書は、兼子一『新修民事訴訟法体系(増補版)』(酒井書店、1971年)だったが、その表紙扉には、兼子先生の死亡記事が貼ってあった。1973年4月6日付(新聞名は不詳)で、「渋谷区大山の自宅で死去、66歳、喪主は長男仁氏」とある。
 長男の仁さんが東大法学部に進学したのを機に、東大教授を辞職して弁護士になったというエピソードがあった。

   

 ぼくが授業を受けた民訴法の先生はいわゆる旧訴訟物派で、兼子先生の教科書を指定したが、ほとんど使わなかった。三ケ月説批判の舌鋒の鋭さが印象に残っている。裁判官による職権主義的な訴訟運営に対する批判が中心だったように記憶するが、自信のない印象批評であるが。
 ちなみに刑事訴訟法の教科書は平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣)だったが、ぼくは同じ当事者主義、弾劾的訴訟観でも、井上正治さんの論理展開のほうに説得力を感じた。井上正治『全訂刑事訴訟法原論』(朝倉書店、1952年)によれば、井上さんは九州大学時代に、集中講義で九大に来た兼子先生の民事訴訟法を受講し、その影響から当事者主義的な刑事訴訟法を志向したという(上の写真)。
 平野さんは政策論が前面に出過ぎた印象だったのに対して、井上さんは民訴の理論(旧訴訟物論)から演繹した刑訴法理論の構築を目ざしていると思った。

 今はもうなくなってしまった、あの天井が高く、ひんやりとしていて、ややうす暗いレトロな雰囲気のビルの階段を兼子先生も上ったのだろうか。たしか、エレベーターも、グレタ・ガルボかマレーネ・デートリッヒでも降りて来そうなレトロな箱だったように記憶する。
 新しく建てかえられた新丸ビルには一度だけ行ったことがあるが、アーケード街には昔の面影はまったく感じられなかった。

 2023年7月2日 記

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建築でたどる日本近代法史・9 東京証券取引所

2023年07月01日 | あれこれ
 「建築でたどる日本近代法史」第9回は、旧東京証券取引所。
 「思想犯の獄舎」の次が資本主義の本丸(?)「証券取引所」というのも並びが悪いのだが・・・。

 証券取引所というのが、いったい何をする場所なのか、実はよく知らない。NHKの定時ニュースの最後に「今日の為替と株の値動き」というコーナーがあるから、株の売買はしているようだが、為替との関係は知らない。いずれにしろ、ニュースのたびにやっているところをみると、視聴者の関心が強いのだろう。
 毎年年の初めに、東京証券取引所で振り袖姿の女性を交えて年頭の儀式(大発会だったか)をやっているのが放送され、福岡だったかの証券取引所が取引数激減のために閉鎖されることになったとか、東京証券取引所のシステムがダウンしたために一日中株の取引ができなかったなどというニュースを耳にしたこともある。最近のマイナンバーカードの不具合で取りざたされている富士通の関連会社が、東証のシステムダウンにも関係していた会社だったと(図書館で立ち読みした)先週の週刊誌に出ていた。

 昨今の電子取引の導入によって、証券取引所という場所がどうなり、中で何が行なわれるようになったのかも知らない。オンラインで取引ができるなら、証券取引所という「場所」は必要なくなるのではないのか。 
 いずれにせよ、かつては証券取引所という制度があり、その作業場として証券取引所という建物があったことは歴史上の事実として記憶されることだろう。
 この記事はまさに「株式取引に新風ーー機械化待つ東京証券取引所」という見出しで、「機械化前夜」の東京証券取引所を紹介している。証券マンたちが雑踏して、騒がしく指の動きで売買を行なっていたあの「場立ち」(というらしい)の姿を、「取引所まではジェット機で来て、あとはわらじ履き」と茶化している(日本経済新聞1981年5月5日)。
 そして建物が改築されるのに伴って、売買も機械化されることを紹介している。

 ※証券取引所制度の紹介は、志村治美「証券取引所見学の実行法--株券の流れを追って」法学セミナー1976年5月号を参照。

 2023年7月1日 記 

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