豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

内田康夫『軽井沢殺人事件』

2009年07月27日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 内田康夫『軽井沢殺人事件』(角川ノベルス)を、ブック・オフ店頭の105円コーナーで見つけた。

 数ヶ月前だったら決して手にすることのない本だが、(確か)軽井沢在住の多作作家がどんなものを書いているかを知りたくて買って帰った。

 当然軽井沢を舞台に、豊田商事事件と東芝のココム違反事件とを下敷きにしたような事件を、探偵浅見何某と“信濃のコロンボ”が解明する。
 
 昭和62年刊とある。
 当時を記憶するぼくらの世代なら読み通せるが、今では通用しないのではないか。

 ストーリーなんかどうでもいい、軽井沢の雰囲気を味わうことができれば十分という人なら、それなりに読めるだろう。

 塩沢湖界隈がテニス民宿だらけになったのがいつ頃だったか記憶にないが、この小説に軽井沢高原文庫が登場するから、昭和62年にはあの文庫がすでに建っていたことがわかる。
 
 離山のことをもっと描いてほしいところだった。どうせ“ご当地小説”にするのだったら。
 表紙カバーの左下に描かれたシルエットが、この小説のいう「西南西西」の方角から見た離山なのだろう。
 どちらかといえば離山の「西南西西」に住んでいるが、このような離山は見たことがない。少し南への偏りが足りないのかもしれない。

 * 写真は、内田康夫『軽井沢殺人事件』(角川書店、昭和62年)の表紙カバー。古い本だったので、読んでいるうちに72ページと73ページの間で無線綴じがガバッとはずれてしまった。

 2009/7/27

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“追憶--The Way We Were”

2009年07月12日 | 映画
 
 4枚目は映画“追憶”のサントラ盤。

 “The Way We Were -- Original Soundtrack Recording”(CBS-SONY SOPM 89)。

 第46回アカデミー賞“歌曲賞・作曲賞受賞作品”。
 1973年公開の映画らしいが、これまた懐かしい。

 ぼくはジャズは嫌いだけれど、いわゆる“スイング・ジャズ”は嫌いでない。
 むしろ好きなほうで、グレン・ミラーやベニー・グッドマンは、同時代の人間よりも聞いたほうだと思う。
 戦後のダンス・ホール世代だった母親がこの手の音楽が好きだったらしく、家にけっこうレコードがあった。

 だから、映画の“追憶”の中で流れる“夕日に赤い帆”や“In the Mood”などといった挿入曲も懐かしい感じがした。
 
 レコードの解説によると、“夕日に赤い帆”は1937年の曲だが、1960年代後半のぼくの高校生の頃は、ビリー・ボーンの演奏で、ラジオのリクエスト番組で流れていた。
 
 “In the Mood”も1939年の曲だそうだが、これも、映画“追憶”で流れてきた時、懐かしい思いがした。
 映画“グレン・ミラー物語”でももちろん流れるし、高校時代にブラスバンドをしていた息子の演奏会でもやっていた。
 先輩から後輩にペットやサックス、トロンボーンなどの技術が継承されるブラスバンド文化も、捨てたものではない。

 バーブラ・ストライザンドが歌う“The Way We Were”もいい。

 そういえば、バーブラ・ストライザンドの役も、離婚して子どもを抱えながら反戦活動する女性だった。
 そういう女性にリアリティーが感じられる時代だったのだ。

 別れたロバート・レッドフォードのことを忘れてはいないが、“we simply chose to forget ・・・ ♪”と歌うバーブラの声が哀切だった。

 偶然街角で再会した時に、バーブラは「再婚した」と嘘を言い、「新しい夫は子どもを大事にしてくれる」と嘘を言う。
 “It's good.”と言って、レッドフォードが去っていく。

 カメラが徐々に引いて、ニューヨークの街角で反戦ビラを配るバーブラの姿が小さくなっていく。
 そしてエンディングの“The Way We Were”が流れる。エンディングでは、インストロメンタルにバーブラのハミングが入るだけである。

 同じころ、日本でベ平連のデモに参加していたポロシャツにチノパン、サドル・シューズなんか履いていた女の子は、今頃何をしているのだろうか。

 きょうは東京都議会議員選挙。
 ぼくは何とかネットワークの同じ年の女性に投票してきた。きっと、べ平連のデモの隣りで腕を組んだ女の子だと思って。
 
 * 写真は、“The Way We Were”(CBS-SONY SOPM 89)のジャケット。

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高橋真梨子 “モノローグ”

2009年07月12日 | あれこれ
 
 3枚目は、高橋真梨子 “モノローグ -- for true lovers”(ビクター VIH-28010)。

 この中に入っている“Remember Sea”という曲が好きで買った。
 久しぶりに聞くと、最近のほうが歌がうまくなったような気がする。

 ペドロ&カプリシャス時代の“夜明けの匂いとともに”(Atlantic L-10040A)も聞く。
 定番の“五番街のマリー”、“ジョニイへの伝言”のほか、“陽かげりの街”や“別れの朝”もいい。
 “花のサンフランシスコ”だの、“悲しき雨音”なんかもカバーしていたのだった。

 * 写真は高橋真梨子 “モノローグ”(Atlantic L-10040A)のカバー。


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ウエス・モンゴメリー “ダウン・ヒア・オン・ザ・グラウンド”

2009年07月12日 | あれこれ
 
 同じく、レコード鑑賞のつづき。

 ウエス・モンゴメリー “ダウン・ヒア・オン・ザ・グラウンド”(A&M-CTi Record、LAX-3092)。
 Wes Montgomery、“Down Here on the Ground”.

 ジャズは嫌いだけれど、このレコードに入っている曲も嫌いでない。
 一応“Jazz Series”の一枚だが、解説によれば“イージーリスニング・ジャズ”というカテゴリーに含まれるらしい。

 このレコードは、前記の編集者仲間に勧められて自腹で買ったように記憶する。
 ひょっとしたら、これも貰ったかもしれない・・・。

 * 写真は、ウエス・モンゴメリー “ダウン・ヒア・オン・ザ・グラウンド”(A&M CTi Record, LAX-3092)のジャケット。
 

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マル・ウォルドロン “レフト・アローン”

2009年07月12日 | あれこれ
 
 きのう土曜日は、父の日に息子からプレゼントされたレコード・プレイヤーで、レコード三昧の午後を過ごした。
 
 最初は、マル・ウォルドロン “レフト・アローン”(ポリドール・ジャズ。シリーズ“ベツレヘム”MP2150)。
 Mal Waldron, “Left Alone”.
 来日記念盤、マルの“幻の名盤”国内初のステレオ化実現!! と帯に書いてある。

 このレコードは、いまから30年くらい前の編集者時代に、同僚からもらったもの。
 「ジャズは嫌いだ」といったら、「騙されたと思って聞いてくれ」と言って、このレコードを渡された。折伏しようと思ったのだろう。
 たしかに、マル・ウォルドロンのこのレコードは悪くなかった。しかし、だからといって、ジャズを好きにはならなかった。

 ジャズ・ファンだった友人の意図は実現したのかどうか・・・。

 * 写真は、マル・ウォルドロン “レフト・アローン”(ポリドール MP2150)のジャケット。

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有馬頼義 『原点』

2009年07月11日 | 本と雑誌
 
 有馬頼義ついでに、彼の 『原点』(毎日新聞社、1970年)について一言。

 この本に収められた文章は、もとは毎日新聞の日曜版に連載されたエッセイである。
 単行本になる1、2年前に連載されたはずである。ぼくは高校生だった。

 東尋坊で暴風に飛ばされた今東光の命を救い、酔って配膳車に跨ったままガラスドアに激突しそうになった大江健三郎を有馬が救った話が印象に残っている。
 いま読み返してみると、沖縄帰りのアメリカ兵の話で始まり、琉球王国独立論で結ばれている。
 前記の「推理小説入門」とあわせ読むと、まさに有馬頼義の原点を見る思いがする。

 琉球王国独立論に関する有馬の随想が、朝日新聞コラムニストに曲解され、非難されることがあったらしい(295頁以下)。
 「落ちてる物は釘でも拾え」をスローガンに、「祖国復帰」が金科玉条とされていた時代には、バイアスのかかった目から見ると、ごく真っ当な「琉球王国独立論」の紹介さえ、歪んで解釈されてしまうのである。

 祖国復帰運動中に、「琉球共和国独立論」だか「琉球共和国憲法論」という本が出版されたことを記憶する。

 具体的にどのエッセイが気に入ったのかは記憶にないが、この連載を読んでぼくは有馬頼義という作家が好きになった。

 * 写真は、有馬頼義『原点』(毎日新聞社、1970年)の箱。栃折久美子装丁とある。

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有馬頼義・木々高太郎編 『推理小説入門』

2009年07月11日 | 本と雑誌
 
 有馬頼義ほか編『推理小説入門』(光文社文庫、2005年)は、「一度は書いてみたい人のために」というサブタイトルがついているが、小説執筆のハウ・ツ・本とは言い難い。

 むしろ「推理小説」否定の書に近い。

 有馬頼義「私の推理小説論」は、有馬の推理小説執筆の「原点」が二・二六事件や、戦後の占領軍の横暴への恨みにあることを述べている。
 「エンターテイメント」としての推理小説の彼岸にある。
 
 有馬は斎藤実の姻戚に当たるが、少年時代に身近で二・二六事件を体験した。
 後に召集され、奇しくも、斉藤を殺した側の曹長から理不尽な新兵いじめを受ける。
 これが彼の「原点」の一つである。

 もう一つは、戦後、買出し列車の車内で、乗り込んできた占領軍のアメリカ兵のこれまた理不尽な略奪の被害を体験する。
 衆人環視の列車内で堂々と犯罪行為が行われる。これも「原点」となっている。

 戯れに推理小説を書いているのではない。
 --ということを述べているのだとすると、これもまた、「一度は書いてみたい人のために」覚悟はよいかと迫る精神論的入門書と言えなくもない。

 松本清張「推理小説の文章」は、本書の中では一番入門書的文章である。

 桐山隆彦(弁護士)「裁判と証拠」は、大部分の推理小説が、犯人の特定と謎解きで終わっているのに対して、実はそれは終わりではなく、始まりだと指摘する。一種のアンチ・推理小説論である。
 裁判では、証拠能力(法廷に持ち出すことができる資格)のある証拠を、裁判官が自由心証によって証明力の有無を判断して、合理的な疑いを差し挟まないまでに有罪との心証を得た場合にのみ、被告人は有罪とされることを指摘する。

 拷問など違法に収集された証拠は証拠能力が認められない。すなわち、法廷に提出することすらできないのである。伝聞証拠も同じである。
 本人の自白が唯一の証拠という場合にも、被告人は有罪とされない。
 推理小説の中には、到底公判を維持できないような作り話も少なくない。素人の読者ならそれでいいのだろうが、なまじ刑事訴訟法などを勉強すると、白けてしまう話も少なくない。
 (後に再審無罪となった弘前大教授夫人殺し事件を有罪を前提に執筆したままになっているのは問題だろう。)

 吉村三郎「監察医の話」はエッセイ風に東京都監察医務院の設立秘話や、その活動を紹介する。食事前には読まないほうがいい。
 先般の時津風部屋しごき事件でも明らかなように、検死、行政・司法解剖が適切に行われないと、犯罪が闇に葬られる恐れがある。

 長谷川公之「犯罪捜査」は、本書の元になった書物が刊行された1960年時点での、警視庁の犯罪捜査を概観する。
 最近の警察の捜査は、最近退職した刑事の書いた本などのほうが正確かもしれないが(その何冊かは巻末の権田萬治の解説に紹介されている)、現場臨検から操作の手順など古典的な犯罪捜査の手法は、下手な推理小説よりはるかに面白い。

 本書の「あとがき」で、有馬は、この本を読むと推理小説を書くことをあきらめなければならなくなるかもしれないと書いている。
 犯人が捕らえられた時に推理小説が始まるとも書いている。
 戦争小説、社会小説、風俗小説も含めた「変格推理小説」が大いに書かれてほしいと言う。

 そういう「推理小説入門」である。

 * 写真は、有馬頼義・木々高太郎共編 『推理小説入門--一度は書いてみたい人のために』(光文社文庫、2005年)の表紙カバー。

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鍬本實敏 『警視庁刑事』

2009年07月10日 | 本と雑誌

 高村薫『マークスの山』に献呈の言葉が載っている「鍬本實敏氏」のことを、「この献呈の辞もフィクションの一部ではないか」などと以前に書いた。

 しかしグーグルで検索して、鍬本實敏氏は実在の警視庁刑事だったことを知った。
 そして、鍬本實敏『警視庁刑事--私の仕事と人生』(講談社文庫)を、アマゾンで買った。

 巻末に、高村薫や、宮部みゆきの著者にまつわる思い出話が載っていた。
 いろいろな推理作家の、警察の捜査活動などに関する知恵袋的存在だったようだ。
 本職から観ると、高村『マークスの山』の合田などは、まだ「青くさい」刑事らしい。
 
 彼女たちのレベルになると、講談社の編集者が彼に会わせてくれらしい。
 二流の推理作家が、元刑事の手記などを参考に警察の捜査を描いても、とても及ぶべくもない。
 ただし、6年間(!)にわたって彼から学んだことは、刑事という生身の人間であって、警察組織や警察官については何も調査をしたことがないという高村薫の言葉は印象的である。

 * 写真は、鍬本實敏『警視庁刑事--私の仕事と人生』(講談社文庫、1996年)の表紙カバー。

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ジョージ・ルーカス “アメリカン・グラフィティ”

2009年07月10日 | 映画
 
 先日、吉祥寺のヨドバシカメラで買ったDVD、“アメリカン・グラフィティ”を観た。

 久しぶりである。
 懐かしかったのは当然として、意外だったことをいくつか。

 1つ。主人公、リチャード・ドレイファスの愛車がシトロエン2CVだったこと。まったく記憶になかった。
 メイキング映像の中でルーカスが語っているように、この映画は60年代のアメリカのクルマ文化が背景になっている。
 シトロエン2CVは、“後に作家となるような田舎町の青年の乗るクルマ”という記号として描かれている。
 そもそもシトロエン2CVが60年代のアメリカに輸入されていたこと自体が意外だった。

 2つ。何と、ハリソン・フォードが端役として出演していた。メイキング映像に登場しなかったら、見落としていた。

 3つ。メイキング映像は見ないほうがよかった。主要な俳優たちの現在の姿が出てくるのである。
 リチャード・ドレイファスはたまに見かけるので覚悟していたが、それ以外の俳優は見たくなかった。
 “アメリカン・グラフィティ”は青春映画である。あの映像のまま封印しておいたほうがよかった。
 女の子たちは、それなりに歳を重ねて妙齢の女性になっていて、あまり老けた感じはしなかったのだが、スティーブ、テリー、ミルナーは、それこそ「観るなー!」・・・。

 * 写真は、“American Graffiti -- アメリカン・グラフィティ”(ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン)のDVDから、カートの愛車シトロエン2CV。
 街を流す白いサンダーバードに乗った美女をカートが待っているシーン。

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佐野洋 『推理小説実習』

2009年07月07日 | 本と雑誌

 佐野洋『推理小説実習』(新潮文庫、1983年)。

 著者と題名に興味を引かれ、ネットで探して購入した。

 推理小説を書くために直接役立つ内容ではなかったが、佐野洋の短編として面白かった。

 全体が6章に分かれて、各章ごとに導入の解説があった後に、佐野自身の実作が続くという構成。
 第1章<犯人当て>、第2章<倒叙>、第3章<アリバイ崩し>、第4章<心理サスペンス>、第5章<事件小説>、第6章<楽しい犯罪>=ピカレスク小説。

 一番は、第3章の「アリバイ崩し」であろう。

 佐野は、「アリバイ崩し」という形式を否定する。
 なぜかと言えば、わが国(というより近代国家すべて)には“無罪の推定”という大前提があるからである。
 刑事裁判においては、訴追側(検察)が被告人の犯罪行為を「合理的な疑い」のないまでに証明しない限り、被告人は有罪とされない。

 もちろん被告人ないし被疑者は、アリバイを証明する必要などない。
 本来は証明する必要などないのに、被疑者が自らアリバイの証明を要求される。そして、アリバイを証明できなかったために有罪とされるなどということは、近代国家では起きてはならないことである。
 たとえ推理小説の中でも、佐野洋はそんなこと(=アリバイ証明)を被疑者に要求したくないのである。

 佐野洋の真骨頂を見る思いがする。
 
 前に読んだ、有馬頼義『推理小説入門』(光文社文庫)と同様に、「推理小説入門」の形を借りた佐野洋の推理小説論と思ったほうがよい。

 * 写真は、佐野洋『推理小説実習』(新潮文庫、1983年)の表紙カバー。
 

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赤井三尋 『翳りゆく夏』

2009年07月06日 | 本と雑誌
 
 夏休みのイギリス旅行に備えて、吉祥寺のヨドバシカメラに旅行グッズを買いに出かけた。

 ついでにDVD売り場ものぞいて、『アメリカン・グラフィティー』と『追憶』を買う。老後の楽しみに(もう「老後」かもしれないが・・・)、わが青春を飾った思い出の映画のDVDを揃えている。
 『エデンの東』、『ティファニーで朝食を』、『ペーパー・ムーン』あたりから始めて、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』頃まで10本くらいが目標。『思い出の夏』、『雨に濡れた舗道』、『シベールの日曜日』などを除いて、ほぼ揃った。

 その後、サン・ロードに出て、外口書店の店頭にあった、赤井三尋 『翳りゆく夏』(講談社文庫)を買う。200円。
 第49回江戸川乱歩賞受賞作。

 読み始めると、中が汚くて閉口する。食べこぼしでページが開かなかったりする。元の所有者が、よっぽどだらしなかったのだろう。

 話の中味のほうはまずまずだった。
 推理小説というよりは、マスコミ業界を描いた風俗小説と言うべきもの。
 著者がニッポン放送の社員というだけあって、朝日新聞、週刊新潮か文春、フジ産経グループの三つ巴の争いを背景に読めば、何とかリアリティーも感じられる。
 
 そして、著者がフジ系マスコミの現役社員ということを考えれば、結末も「想定の範囲内」(フジの天敵、堀江貴文の言葉だが)か・・・。
 どちらかと言えば、朝日側の人間であるぼくにとっては、「まさか・・・」であったが。

 この作品も、祐天寺、石神井公園、荻窪、国立(一橋)など、地理勘のある舞台が頻繁に登場した。
 翔田覚『誘拐児』もそうだったが、何で誘拐ものを書く作家は、身代金受け渡し現場に横浜を選ぶのだろうか? 横浜というのはそんなに騒然とした街なのだろうか。

 最後の40~50ページは蛇足に近い。
 ディーン・クーンツだか、スティーブン・キングだったかのハウ・ツ・本に、結末を示したら、さっさと話を終わらせろとあった。
 最後の「犯人の告白」と「3年後」は不要である。「晩夏の陽ざしに梶はどこか翳りを感じた」くらいで終わらせたほうがよかった。
 どうしても後日談を語りたいのなら、犯人親子のほうが気になるところである。

 会話はうまいと思った。不自然さを感じなかった。
 少なくとも、G・マクドナルドよりは数段上である。

 * 写真は、赤井三尋 『翳りゆく夏』(講談社文庫、2006年)の表紙カバー。

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高村薫『マークスの山』

2009年07月02日 | 本と雑誌
 
 小説新人賞のレベルを測定するための読書。
 今回は、高村薫『マークスの山』(上下2冊、講談社文庫、2003年)。
 1993年の直木賞受賞作。

 すごい!!
 抜群の読み応え。最近読んだ小説の中では暫定一位だった宮部みゆき『理由』(朝日文庫)も吹っ飛んだ。
 実は上巻はブック・オフで105円で買ってきたのだが、こんなすごい本をブック・オフなどで買うことは高村薫だけでなく、日本の出版文化に対しても失礼だと思い、下巻はちゃんと新刊で買った。

 ジャンル分けに意味があるとは思わないが、あえていえば「犯罪小説」なのだろう。
 しかし、それは、ドストエフスキー『罪と罰』や、フォークナー『八月の光』を「犯罪小説」と呼ぶのと同じ意味においてである。
 犯人の狂気を描く筆致はドストエフスキーのほうが優るだろう。--といっても、『罪と罰』を読んだのは高校生の頃で、それから40年も経っているので細部の記憶は定かでない。しかし40年を経てもラスコーリニコフはぼくの片隅に巣食っている。「マークス」がそうなるとまでは思えない・・・。

 とにかく筆者が力をこめて書いているのが伝ってくる。
 時として、その圧力が強すぎて、読み進めるのが辛くなることもあった。それこそ、冬の北岳で強い向かい風を受けて鼻腔が収縮するように、息苦しくなった。
 しかし、昨日読み終わってしまい、もう『マークスの山』を読めない空虚が残った。
 すぐにつぎの本を読む気にもなれない。
 
 この小説は「警察小説」ではあるかもしれないが、「推理小説」ではないだろう。
 同じ直木賞受賞作でも、東野圭吾『容疑者xの献身』は推理小説の域にとどまっているが、宮部みゆき『理由』はそこから一歩踏み出していた。 
 『マークスの山』はさらに突き抜けている。

 警察の捜査活動の描写も、最近読んだものとはかけ離れて精緻である。
 ここに描かれたような、本庁捜査一課と所轄署(碑文谷署)との軋轢、所轄同士の反目(碑文谷vs王子)などは現実の話なのだろうか。
 ぼくにはかなりリアルに見えるのだが、そうだとしたら、相当確実なインフォーマントがいたのだろう。
 巻頭で本書を捧げられている「元警視庁刑事 故鍬本實敏氏」というのがその人なのか? ひょっとするとこの献呈の辞すらフィクションの一部のようにも読めるのだが・・・。

 ただし、合田刑事を除いた警察官は、その愛称も人物の造形も不十分。途中から誰が誰だかわからなくなってしまったが、それでも読み進めることに不便はなかった。
 解説の秋山駿が言うように、『マークスの山』が「組織と人間」の系譜に属する作品だとすると、これも著者の計算のうちなのかもしれない。しかしそうだとすると、警察と検察の関係は弱い。検察(霞ヶ関)は「向こうのほうにあるもの」にしか見えない。

 犯人の狂気も了解不能だった。コルサコフ症(平沢貞道!)による周期的な健忘症患者に、ここに書かれたような連続犯罪、しかも知能犯罪が可能なのかどうか・・・。
 いずれにしても、『白痴』のムイシュキン公爵のような「無垢」の存在としては受け入れられなかった。

 真の犯罪者たちの犯罪も不自然。
 「暁成大学」も性格不明。所在地は都立大か駒沢大だが、両大学とも法曹界での地歩はない。金持ち大学なら慶応、成蹊あたりだが、同じく法曹界での実力不足に加えて、両大学ともかなり庶民化している。法曹界での伝統で行けば中央、早稲田あたりだが、オーナー経営ではない・・・。
 どこをイメージして読めばいいのか・・・。
 
 終末近くの「遺書」による事件の説明は、いかにも古くさい手法。
 
 「・・・・・・」や「---」を使ってはいけない。こんな記号を使うのは、筆者が書くべきことを書けていない証拠だと小説執筆ハウ・ツ・本は指摘するが、この本では「--------」という8文字分(!)の縦線が頻出する。「・・・・・・」もけっこう使われている。
 ぼくは、この小説こそ「--------」を文章で書くべき小説ではないのか、と思った。

 しかし、とにかく、すごい!!小説だった。
 
 たまたま今朝の新聞に今回の芥川賞、直木賞の候補作が発表されていた。高村薫『マークスの山』を読んだ直後では、どれが選ばれても平凡な印象をぬぐえない。

 * 写真は、高村薫『マークスの山』(上下2冊、講談社文庫、2003年)の表紙カバー。

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