物を大切にするということは大事だと思うが、こいつにだけは言われたくないということもあると思う。この短いエッセイ中で山頭火は言っている。四国巡拝中に道づれとなった老遍路に関することだ。二人が休憩中に煙草を吸ったときのこと、山頭火はこの老遍路がマッチを使い過ぎることについて次の様な事を言っている。
――ずいぶんマッチを使いますね。
――ええ、マッチばかり貰って、たまってしようがない。売ったっていくらにもならないし、こうして減らすんです。
彼の返事を聞いて私は嫌な気がした。彼の信心がほんものでないことを知り、同行に値いしないことが解り、彼に対して厭悪と憤懣との感情が湧き立ったけれど、私はそれをぐっと抑えつけて黙っていた。詰ったとて聞き入れるような彼ではなかったし、私としても説法するほどの自信を持っていなかった。それから数日間、気まずい思いを抱きながら連れ立っていたが、どうにもこうにも堪えきれなくなり、それとなく離ればなれになってしまったのである。
しかし、もし山頭火が口に出していたらどうなったか? 私なら、あんたにだけは言われたくないと言っただろう。なにしろ山頭火は生活能力ゼロで友人たちの支援や行骨で暮らしていたうえ、しょっちゅう酒や焼酎に溺れて酔いつぶれていた。そもそも、仏教者にとって酒は必需品ではない。寧ろ御法度の品である。般若湯などと名前をごまかしても駄目だろう。そんなものに金をつぎ込むなど、信心に生きる仏教者としてはダメダメではないのか。山頭火は水道を出しっぱなしにしていた家の夫人にも彼女は物のねうちを知らない。と言っている。
山頭火は次のようにも言っている。
物そのもののねうち、それを味うことが生きることである。
偉そうに言っているが、そうすると、酒や焼酎などのアルコール類にはねうちがあるというのだろうか。
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