文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

やはりボート場は不要だ

2016-10-28 12:36:21 | オピニオン

 2020東京オリンピックの会場整備費がいろいろと問題になっているが、今日の埼玉新聞のサイトに、「<五輪ボート会場>彩湖の整備費は266億円 県が試算、都に要望」という記事が載っていた。

 海の森より安いとされる彩湖でも266億円、とんでもないことだ。そもそもボート競技なんてやる必要があるのか。ボート会場なんか整備しても、後々の使い道はない。せいぜい競艇場くらいだろう。ギャンブル狂いの連中は、競艇場ができれば喜ぶかもしれないが、一般の人にどれだけメリットがあるのか。オリンピック会場に関してよく言われる「レガシー」とは一番相容れないものではないのか。

 あんなものは止めるのが一番だが、それができない場合には、以前書いたように、利根川にテープでも張って会場にすればいい。記録が出ようがでまいが、公式な会場がどうとか、そんなの知ったことか。

 とにかく、日本の将来のためにならないことに金を使うような余裕は、今の日本にはないのだ。政府も、東京都も国民も、もっと危機感を持って、考えていかなければならないのに。

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オリンピック考
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諏訪東京理科大も公立化

2016-10-28 09:58:47 | オピニオン
 信濃毎日新聞のホームページに、本日付けで、「「公立諏訪東京理科大」に 諏訪東京理科大 公立化後の名称」という記事があった。諏訪東京理科大学という大学が私立から公立に移行するそうだ。

 ここで、ブログ記事のタイトル、「諏訪東京理科大も公立化」の「も」について若干説明しよう。実は山口県にも「山口東京理科大」というのがあった。昔の小野田市、今の山陽小野田市だ。

 今は山口市の山口大学内に移転した放送大学山口学習センターが、かってはその山口東京理科大学内にあった。私は会社員時代から放送大学生を続けているが、最初に入ったのは山口学習センターだったので、山口東京理科大も何度か訪れたことがあった。

 この「山口東京理科大」という名前、いったい山口の大学なのか、東京の大学なのかよく分からない名前だと思っていたのだが、ここも今年から公立化されて「山陽小野田市立山口東京理科大」という名前になった。

 公立化も当然の流れだ。鳥取県には公設民営方式の大学として設立された「鳥取環境大学」がある。ここも現在では効率化され、名称が「公立鳥取環境大学」となっている。

 公立大学になって、何が変わったのか。一番の大きな変化はその学費である。国公立の学費は横並びで大体年間50数万円だ。私たちが大学に通っていたころと比較すれば、とんでもなく高いが、それでも私立大学に通うことを思えば半分の出費で済む。最近は、学費の問題で進学をあきらめる子供たちも多いと聞く。東京周辺ならまだしも、長引く経済停滞の影響をもろに受けている地方にとって、学費の問題はものすごく大きいのである。

 次に大学自体の評価である。一般に学費が安いほど優秀な学生が集まりやすいということもあり、地方では特に私立より国公立大学の評価の方が高い。確かに東京理科大学の本校なら、夏目漱石の坊ちゃんも卒業したという設定になっているくらいの、物理学校以来の伝統ある大学だ。しかし、いくら東京の有名大学の名前を冠してあっても、地方のまだ色々な面で未知数な部分が多い大学に入りたいと思う子供がどれだけいるのか。

 諏訪にも同じような「諏訪東京理科大学」というのがあることを今回初めてしった。山口東京理科大学もそうなのだが、なぜ東京にもないのに、公立化後もわざわざ「東京理科大学」の名前を残すのだろうか。その名前が学生集めに役立たなかったことは、公立化へ移行したことから明らかだろう。ここに書いたように、重要なのは学費の問題と公立大学としての評価なのである。
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書評:大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア―序章―

2016-10-28 09:17:05 | 書評:小説(その他)
大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

・J.D.サリンジャー、(訳)野崎孝、井上謙治


 本書は、グラース家の7人兄妹を描いた、グラース・サーガとも呼ばれる一連の物語のうちの2作を収録したものだ。両作品とも、兄弟姉妹の中で上から2番目となるバディを語り手にしている。全体に、コミカルだが、かなりシニカルな語り口で話がすすんでいく。

 まず「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」の方だが、これはグラース家の長男であるシーモアの結婚式の時の話だ。家族それぞれの事情から式に行けるのはバディだけ。肋膜炎の病み上がりで、横隔膜の辺りを絆創膏でがんじがらめにされての出席である。

 彼は、ひょんなことから、花嫁側の関係者と同じ車に乗りこむのだが、花嫁の介添役の婦人から、さんざんシーモアの悪口を聞かされる。もっともシーモアの方にも悪口を言われてもしかたのない部分もかなりあるのだが。パレードによる渋滞で車が動かなくなり、皆でバディとシーモアのアパート(二人が軍隊に入ったので、実際に住んでいるのは妹のブーブーだが)に行くことになる。そんなドタバタを描いたものだが、ここに出てくるのは、まさに俗物とでもいうような人々ばかり。

 このタイトルの由来は、ブーブーが浴室に残した次のメッセージである。

<大工よ、屋根の梁を高く上げよ。アレスさながらに、丈高き男の子にまさりて高き花婿きたる。(以下略)>(p89)

 これを読んで、シーモアはどれだけ背が高いんだと思ったが、次の「シーモア序章」でバディが述べているところによれば、彼の身長は、5フィート10インチ半。当時のアメリカの基準では、背の低い男の中では高い方に属しているらしい。

 そして「シーモア―序章―」だが、これは40歳になったバディが書いたシーモアの思い出話のようなものだ。シーモアは31歳で自殺をしている。この作品は、ひたすらシーモアを礼賛するような内容だろう。

 一神教の国では、シーモアは神にはなれないが、シーモアもバディも中国や日本にものすごく興味を持っていたようだ。本書のそこかしこに、道教の話や俳句の話がちりばめられているのである。だからこれは、あたかもバディがシーモアという神に捧げる祝詞のようなものだと思えば、当たらずと言えども遠からずか。

 シーモアは、兄弟姉妹が優秀なグラース家の中でも飛び抜けた天才のようだ。何しろ15歳でコロンビア大学に入り、18歳から大学で教えていたらしい。しかし天才だからだろうか、彼には病的な危うさがある。

 例えば彼は、子供の頃シャーロットという美少女に9針も縫うような大けがをさせているが、その理由は、「ブーブーの猫を撫でていた姿が美しかった」からだという。完全にアブナイやつだ。

 また、シーモアの日記に書かれていた、結婚相手のミュリエル評もすごい。

<事物を貫いて流れている、万物を貫いて流れている太い詩の本流。これに対する理解力をも愛好心をも、生涯ついに恵まれることのなかった人間。むしろ死んだほうがましかもしれないが、それでも彼女は生き続けていく>(p98)

 よくこれで、ミュリエルと結婚しようなどと思ったものだが、そこが天才の天才たるゆえんか。しかしこれでは、俗物だらけの世の中、生きにくいだろうなあ。

 「大工よ」の方はまだいいが、「シーモア」となると、うだうだと回りくどい文章が続くので、文学読みの人たち以外は、この本を途中で壁に叩きつけるかもしれない。私は文学読みではないので、しばしばそんな誘惑に襲われたのだが、それに耐えながらも、一応最後まで読んだ。そんな私を誉めてやりたい。偉いぞ、自分!

 なおひとつ気になった部分がある。「禅宗のある修道院」(p65)という表現が出てくるが、もちろん仏教宗派たる禅宗に修道院なんてものはない。原文は、どうだったのだらろう。原文がどうあれ、日本語に訳すなら、ここは「寺院」としたいところなのだが。
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