Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

キャンプと呼ぶにはなにかが、いやなにもかもが足りない

2006-08-07 23:26:59 | 撮影とテーマ設定2006年3月~12月

強烈に暑い日だったが、台風の接近による天候悪化が避けられないため、ちょっと無理して撮影に出かける。
とはいえ、シートフィルムを10枚ほど消費した段階で、体全体がだるくなってギブアップ…


慣用句で言うところの、年寄りの冷や水なのだが、感覚的には真逆だねぇ~


今日はワークショップの期別最終回なので、ぶっちゃけ打ち上げ目的で出かける。
というのも、夏休みに入ったためか、暗室が押さえられなかったので(学校の設備を使えなくなった写学生があふれたのかな?)、コンタクトもテストプリントも間に合わなかったのだ。
正直、行こうかどうしようか、迷うところもなくはなかったが、来期は参加しないこととしているため、まぁ最後のご挨拶というわけだ。
ただ、来期は参加しないといっても12月には展示を予定しているし、受講生の方々と完全に縁が切れるというわけでもないので、別になにがどうというものでもないし、いつものように写真の話をして、いつものように別れて、それでおしまい。


ちょっと面白かったのは、自分が最近はまっている「キャンプ」についてあれこれ話した時で、案の定というかなんと言うか反応は極めて鈍く、むしろ反応できるヒトがいて驚いたくらい。わかるヒトにはわかると思うのだが(そして、わからないヒトには永久にわからないとも思う)、キャンプというのは、それを感じられるか否かで反応がきっぱりと別れてしまい、ほとんどすべての場合は「なんのこっちゃわからない」まま、話を流されてしまう。
英語圏では辞書に収録されているほどのポピュラリティを獲得している言葉なのだが、残念ながら日本では定着しないまま死語と化したようだ。


話を戻すと、先日鑑賞した干田哲平展「母と」に対して、自分があまりにも「アレはキャンプだよぉ~」と言い張ったことから、当然のように「キャンプってなんだよ」という話となり、5月にプレイスMで開催された川口和之展「DISTANCE OSAKA」と「DISTANCE TOKYO」とか、あるいはスペンサー・チュニックを「キャンプのしゅばらちぃ実例」として引き合いに出しつつ、なんとかキャンプを伝えようと四苦八苦していたというわけ(いや、なんだかんだで自分は会話をかなぁり楽しんでいたのだから、これまた感覚的には真逆だねぇ)。


でまぁ、そこまではよかったのだが(というか、ヨシとしておこうやって感じ)、その後でいつの間にか自分の展示に関する話となり、例によって「テーマが見えない」という話となってしまう。まぁ、自分としてはテーマを作家の側から提示するなんて、鑑賞者を小ばかにしたようなものだと思っているので、その部分についてはどうしても話が平行線のままなのだが、問題は写真の複製可能性や機械的要素の介在に伴う「本物性と偽物性」というテーマそのものについて、参加者から「それは写真というメディアを扱っている段階で当然のように現れるため、ことさら展示してまで打ち出すものではないのでは?」という疑問を呈されたことだった。


まぁそのぅ~
なんともぅしますかぁ~そのぅ~
自分は当然のように現れるからこそ、そこになんとか新しい見方やら、当然過ぎて見過ごしていた要素やらを盛り込もうとしていたのでありまして、そういう風に評価されるということは、とりもなおさずすなわち全否定なのですよ…
まぁ、これも自分の力の至らなさがもたらしたものでありますから、謙虚にありがたく受け止めたいところではあります。
というか、これって「バカがソンタグのまねをしたこと自体が大失敗」というところにつきる、のでしょうかねぇ~


やれやれ、おぉしょぼぼぉ~~んぬぅ~



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2 コメント

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そんな展開が、 (のくと)
2006-08-12 01:21:57
あの夜にあったんですね。あのはじっこの方で。元気出して下さい(笑)。



自分は、後半はあまり良く覚えておらず、駅で手を振ったことは覚えております。
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お心遣いに感謝します (m_m)
2006-08-15 13:19:44
とはいえ、まぁ険悪になったとか、そういうことではないので、あまり気にしないでください。

ただ、オリジナルプリントをギャラリーで展示すると言う、単純複製とは距離を置いた方向性で作品を公表しているので、商業カメラマンよりは「写真の複製可能性や機械性」に対する意識が存在しているのかと思っていたのですが、その点は考え違いをしていたようです。

また、作家的な自意識を「ナイーブな形で作品へ投影すること」を厳しく戒める金村氏のワークショップにおいて、金村氏の手法を信奉し、金村氏に心酔することで「作家的自意識を表現する人」が現れた瞬間に立ち会ったことは、ある意味で大きな収穫でした。

これらの経験は、今後の制作活動において、重要な位置を占めるでしょう。
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