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神話を解体するという神話

2007-07-31 19:26:40 | 業務関連


今日は晴れるかと思っていたが、午前中はずっと曇っていたため、撮影は断念して事務所へ向かった。
事務所では、取引先の編集者氏と新規創刊された雑誌についてあれこれ話したり、現在の市場動向についてお互いの考えを確認しあったりしたが、その中でキーワードとして浮かび上がってきたのが「神話」であった。



ただ、神話といっても、古くから伝わる神話、いわゆるMythosでは無く、以下のような定義に基づく、いわば社会学的な文脈における「神話」である。



特定の文化的背景を共有する社会集団において広く流通し、好んで信じられている不合理かつ人為的な概念あるいは価値観を指す言葉としての「神話」



例えば、かつて存在していた「日本人は勤勉だ」とか「日本は階級差別の無い、中流社会だ」とか、あるいは「日本は単一民族国家だ」とかいった類の事実関係に基づかない、いわば勝手な思い込みを指すと思っていただいてもほとんど間違いはない。用法としては「土地神話」とか「不敗神話」がそのものずばりだが、研究書や資料では「神話的」という形容動詞用法が多いかもしれない。
また、最近流行の都市伝説やまじない、占いなどもその範疇に含まれるが、特定個人や小集団を対象とするものではなく、基本的に国家や地域、世代といった規模の大きな集団を対象とする、あるいは大きな集団内で流通する点が異なる。先の例で言うと、口割け女人面犬といった個々の都市伝説を取り上げるのではなく、例えば「都市伝説という神話」と言う包括的な扱いになる。



人間の行動や思考は必ずしも合理的といえないどころか、むしろ不合理な行動や思考の中に「時折合理的な行動や思考が混ざる」といったほうがよいほどで、よほど気をつけて自らを律し続けていない限り、合理的な行動や思考を継続することは難しいといってもよい。それは、ほぼ間違いなく行動や思考の基準が合理性の有無ではなく、当人にとっての「快・不快」が基準となっているためだ。
また、だからこそ人間集団には個人の不合理な行動や思考に外部から歯止めをかける仕組み、代表的なところでは各種の法令といった社会的装置が必要なのだといえよう。



恐らく、最も流布しているもののひとつが「民族という神話」だと思うが(その次が「ジェンダー」という「神話」か)、民族については「人類の大多数が好んで信じている」点と、民族を自認する「特定民族集団内の個人」にとっては、民族という価値観に一定の合理性が見受けられなくも無い点から、必ずしも神話とは呼べないという批判もある。ただし、これは民族という日本語にネーション(nation)とエトノス(ethnos)という、異なる概念が混在されていることに起因するものといえる。とはいえ、この点について突っ込んだ考察をすることは自分の手に余ることなので、文献資料の引用でお茶を濁しておくよ。



人間を分類する自然で神与の仕方としての民族(nation)、ずっと遅れてやってきたが生得の政治的運命としての民族(nation)、それは神話である。ナショナリズムは、時に先在している古い文化を取り上げて、それらを民族(nation)に変えて行くこともあるし、時にそれらを作り上げることもあるし、しばしば先在文化を完全に破壊することもある。よかれあしかれ、それが現実なのであり、一般的に不可避の現実なのである。
『民族とナショナリズム』ゲルナー 加藤節 監訳 p82-83 岩波書店2000原著1983(内は引用者による付記)
ただし、日本ではベネディクト・アンダーソン白石隆・白石さや 訳『想像の共同体』1987リブロポート・1997NTT出版(Benedict Anderson : Imagined Communities 1983)がずっと先に紹介されていたこともあって、ゲルナーの言う神話性よりは「想像の政治的共同体」(imagined political communities)という言葉や概念の方が流通しているように思える。原著刊行年は同じなんだけどさ。

ずいぶん派手に脱線してしまったが、ここで問題となったのは民族がどうこうというものではなく、最初に説明した「神話」をいかにして商売に結びつけるか、また「その具体的な方法はいかなるものか」だった。



もちろん、この場で具体的な話は出来ないのだが、つくづくうんざりさせられたのは、人々が極めて強く「神話」を求めていることであり、また「自らを心地よくさせてくれる神話」に対しては、時としてかなりの対価を支払うこともあるという事実を改めて確認したことである。



ぶっちゃけ「神話」は「アウラ」とほぼニアイコールの概念なので、まぁおおかたそんなこったろぅとは思っていたものの、そうは言っても個人的に面白くないということに変わりはない。それこそ「快・不快」の問題だ。



そのため、商売抜きで「自分のため」になにかやるときは、もちろんこの忌々しい「神話」なり「アウラ」なりを、いかにして解体、あるいは破壊するかがテーマとなるし、そのための手段として現代美術であり写真を選択している。だが、その現代美術が既に「神話」と化しつつあり、また写真も「アウラ捏造の道具」から離れることは無かったというのが、残念ながら偽らざる現状でもある。



そもそも、神話を解体するという思考そのものに「神話の存在を自明としている」側面があり、また神話という不合理な存在を解体するという行為そのものも不合理なため、いうなれば「神話を解体する神話」というある種の「メタ神話」に過ぎないという批判もある。



ごせつごもっとも



とはいえ、その「神話を解体するという神話」ってぇのが「自らを心地よくさせてくれる神話」は間違いなく、文字通りの意味で「快・不快」の問題なんだよなぁ~って…



あっででぇ~?
おかしいぬぅ~

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