出オチご容赦…
さておき、新型スキャナを導入して、ここ1年ほど悩んでいた問題に、ようやく蹴りをつけることができた。
まぁ、蹴りをつけることができたといっても、自力で解決したわけじゃないので、あまりたいそうなこともいえないのだけど、それでも事実上解決したのだから、終わりよければなんとやらといったところであろうさ。
もちろん、スキャナは事務所においてあるというか、あまりにもでかい代物なんで、自宅には置くところなんかないからねぇ~
たとえ自分の私物だったとしても、事務所で使わせてもらっただろうな。というか、この大きさもあって導入を躊躇していたところだっただけに、本当にありがたかったでございますよ。
ともあれ、おかげでコンタクトはスキャンで済ませられそうだし、素材としてのプリントもラボへ外注することとしたので、苦手な暗室作業はかなり回避できるようになった。ほんとにやれやれでございますです。
ただ、恐らくこれが最後の「民生用高性能フィルムスキャナ」ってことになるんだろうし、こいつを使いつぶした後のことはあんまり考えたくないなぁ~
ただ、ドローイングの世界にしたって、画材をはじめとする工業生産物との関わりは避けられない。例えば絵具の技術発展は西洋絵画に大きな影響を与えたし(特に鉛チューブの発明は大きく、その後も絵具容器の発展は、絵画技法にも大きな影響を及ぼしている)、日本画にしたって新しい岩絵具の登場による技法の変化が始まっている。版画にいたっては写真に匹敵する大変革を過去に経験しているのだが、いつでも「技術が先行し、それによって人々の意識が変革する」という図式に変わりはない。
人々の意識変化が技術革新をもたらしたわけではない
確かに、自分自身もこうしてぼやくように、嘆きたくなる気持ちもわからなくもないが、最近になって反近代の逆襲というか、個人が個人として生きることを否定したい人々による粗暴な言動が目に付く(乙武ブログの炎上など、粗暴な言動を端的に表す事件であろう)。こういう粗暴さの背後には、技術のもたらす利便性のみは享受しつつも、自らは意識を変革することなく、前近代的なムラ社会に留まり続けたいという、非常に手前勝手で貧しい精神が潜んでいるように思えてならない。
自分としては、技術変化のもたらす意識変容を冷静に受け止めつつ、あくまでも「その先にある何か」へ目線を向けて、今後も制作し続けたいと思う。
この言葉は不良っぽい男とかが「ケりつけてやらあ!」とかいうふうに使われるので誤解されがですが、
「ケリ」というのは本当は古典文学で文章を結ぶに「いと哀れなりけり」とかいうふうに分の末尾に「けり」という言葉を付けることから生まれた表現だったりします。
まあ、幾らなんでもこのキャッチフレーズは間違い承知の
意図的なものでしょうが・・・
それにしても、古いエントリーを閲覧してくださったのですね。自分でも、ネタを振ったことすら忘れていました。
ご指摘いただいたように「けりをつける」という慣用句を「蹴りをつける」と表記することは誤りですし、このエントリーに関しては「自力解決していない」のですから、二重の意味で間違いなんですけど、誰にも突っ込まれないまま今に至っていました。
それにしても、あやしい慣用句をひらがな検索するくせをつけたら、これまでの言葉遣いに間違いがたくさん見つかってしまい、なんとも言えない気分になりました。