今日は機材の改造を依頼するついでもあり、打ち合わせの前にシートフィルムを7枚消費した。
本当は8カット目を撮影してホルダをあけたかったのだが、流石に仕事をあけるわけにも行かず、いささかもにょるオチがついたのはご愛嬌か。
夜には、ものすごくひさぁ~し振りに、かつてお世話になった先輩写真家氏とお会いして、いろいろと興味深いお話を聞かせていただいた。
先輩写真家氏はスナップ調の人物写真やポートレートがお得意で、物腰の柔らかさが作風にも現れているような、そんな人物である。
ありがたいことに、写真家氏は個展にも足を運んでいただいたのだが、残念ながらどちらでもお会いできないまま、今日まで月日が流れていた。すっかり不義理をしていた手前、会う前はいささか緊張もしていたのだが、お話を伺っている間に、気がつけばちょっとハメをはずしすぎていたらしい…
まぁ、あまり認めたくもないのだが、やはり作品をほめてもらって、少し有頂天になっていたのだろう。
よせばいいのに、かねてより言動を面白くなく思っていた某大判カメラマン氏を引き合いに出し、ひとしきり愚痴をたれた挙句に「同じポートレートを撮る作家でも、度量の広い先輩とは大違いですよ」などと、軽口を叩いてしまった。
先輩はいつものように物腰柔らかく、しかしきっぱりと「そんなことはないですよ、私だって傍若無人な撮り方をする人は嫌いですから」と返された。
その後、先輩は穢れを忌むことの大切さを、懇切丁寧に教えてくれた。
件のカメラマン氏は、他人を押しのけてでも撮りたいという欲に負けた人々を怒るあまり、実は自らも怒りに穢れてしまっている。その穢れた心根の発露に触れた自分もまた、やはり愚痴をたれることで穢れてしまうのだと。
穢れた人々に対しては、まずそれを憚って避け、畏れ、そして敬う心を持たねばならない。この、穢れを憚って避け、畏れ、そして敬うことが「忌み」である。
凡人は穢れに力で対抗することはできず、ただ忌み嫌うのみなのだと…
しかし、自らの穢れを見透かされたような、そんな情けないひと時をすごしながら、自分は先輩と正反対のことを考えていた。現代作家として活動するのであれば、穢れをただ忌み嫌うのではなく、むしろ穢れと正面から向き合い、そして穢れも含んだ人間主体を描くことが重要なのではないかと…
無論、穢れと正面から向き合うといっても、サド的露悪趣味やラッダイト的破壊衝動におぼれることなく、もっと冷静かつ知的に構えるつもりではあるのだけどね。
そして、少し考えた後でそのように切り返すと、先輩は少し意外そうな顔をした後でこういった。
まぁ、分娩台でセルフヌード撮ったり、人形とハメ撮りしなければ、それでいいんじゃない?
自分も、まったくその通りだと思うょ。