Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

電車男はミンストレル・ショー?

2007-04-26 19:31:15 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は朝から好天に恵まれたこともあり、久々に撮影に出かけた。
ところが、シートフィルムを6枚消費した段階で、雨の臭いをたっぷりはらんだ北からの風を感じたので、あわてて機材をしまいこむと、とりあえず駅へ向かった。
電車の中で少しうつらうつらして、降りたら相変わらず好い天気のままだ。
なんだ、気のせいだったかと下を見ると、地面がすっかりぬれている。携帯をチェックしたら30分も経過していない。
なにかすごいやばい気分がして、スタンドの新聞をチェックしたのだが、当然ながら普通に今日の新聞が並んでいた。



寝てる間に異世界へジャンプなんて、どっかの特撮番組じゃあるまいしと思うのだが、その瞬間にすごく心がときめいたのは、そう悪いことじゃなかったと思う。



その後は事務所で打ち合わせやらなにやらと、いつもの日常業務に手をつけるのだが、合間に「旧世代オタクと新世代オタクはどこが違うのか?」という話が出る。まぁ、仕事の合間に考えるねたとしては重すぎるし、ぶっちゃけ言って答えが出るような問題でもないのだが、自分たちの今後とも密接に絡み合う問題でもあるので、なんとなくみんな乗ってくる。



これはまだ個人的な経験則に過ぎないのだが、それでもやはり実感として強く意識するのは、新世代オタクに「マイノリティー感覚が備わっていないらしい」ことである。
つまり、旧世代オタクが成長過程で社会から異端視され、排除されることで「自らのオタク性を強く自覚した」のに対し、新世代オタクはそういった形でのバッシングをあまり受けたことが無く、どちらかといえば「周囲の先輩オタクから面白い別世界としてオタク世界へ引き込まれる」中で、自らのオタク性をじんわりと自覚して行ったように見受けられるのだ。



旧世代オタクは社会的なバッシングという通過儀礼を経ることで社会との関係性をより客観的に捉え、さらにオタクとしてより高度に進化するきっかけともなったのだが、社会的バッシングという辛い経験は既存の社会通念や秩序を超越した自由な想像力の源となる一方で、以前のエントリーでも触れたような「いぢられることに対する恐怖」や、あるいは外部の人間が「オタクを語ることを拒む風潮」にもつながっている。



もちろん、バッシングなどという辛い経験を経ずとも、オタク世界のぬるま湯でぬくぬくしていられるのであれば、もちろんそれに越したことはないし、そういう「穏便な方法でもオタクが増える」のは、むしろ喜ばしいことでもあるのだが、そうなると旧世代オタクのマイノリティー感覚は、新世代オタクにとって非常に鬱陶しいものとなるような気もする。
例えば「電車男」や「萌えブーム」は、新世代オタクにとって社会から認められたことを意味するようだが、旧世代オタクにはミンストレル・ショーMinstrel show)のように受け止めている人々も少なくない。かねてから何度も触れているが、旧世代オタクが現代芸術をはじめとするファインアート一般を胡散臭く感じているのも、芸術分野におけるオタクの扱いにミンストレル・ショーを想起させるなにかが含まれているためだろう。
もっとひどい事例としては、大判カメラと古典レンズでコスプレ写真を撮影していた某氏などのように、ご自身は善意で「オタクの芸術的に優れた部分を社会に紹介しているつもり」なのだが、その実態はオタクを古典的ファインアート文脈でパッケージしただけの、よりいっそう悪質なミンストレル・ショーだったというものすらある。



ただ、このミンストレル・ショー解説にあるように、それが文化的な融合を意味するのであれば、そこには確かな救済も希望もあるし、また文化的な融合度を高めるにはマイノリティー感覚が邪魔になる局面もあるだろう。とはいえ、個人的にはやっぱりまだまだ警戒すべきことも多いように感じるし、オタクとしてオタク向け商品を提供する側にも、もちろん考えなければいけない点は多々あるだろう。



例えばサックスというメジャーな楽器のサブカテゴリーとして存在するC-Melodyサックスをネタに、オタク的こゆぅぃマニアが機材に関する薀蓄を面白おかしく披露しているし、時にはマニアの域を超えた知見を開陳することもある。
しかし、それはあくまでも「現在では生産されることも無い廃れた楽器」という、非常に限定された立場から見渡す音楽の、あるいは楽器の世界であって、そういった立場からの意見やものの見方が音楽や楽器の世界に対して普遍性を持つかというと、恐らくそんなことはないだろうと思う。



マジョリティーの側が規定したマイノリティーの姿にせよ、また反対にマイノリティーが想起するマジョリティーの容貌にせよ、いずれも限定的な情報から全てを見通したかのような傲慢さが背景にあるのは同じだろう。
その意味では、旧世代オタクのいささかひねた警戒心や、新世代オタクのちょっと脳天気な全能感のいずれとも異なる、面白くは無いが中間的ななにかが、自分たちに求められているのかもしれない。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿