朝から雨模様で、仕事も微妙にはかどらない。
昨日の原稿を担当者と一緒にチェックしなおしたり、今後の仕事について軽く打ち合わせたりした後、出先で夕食をご馳走していただく。夜には昨日の知人と合流し、案の定というかなんと言うか、昨日の続きを話すことになった。
まず、アウラの説明については、以下に『文化理論用語集』の説明を一部引用する。
アウラ(Aura)
ウォルター・ベンヤミン(Benjyamin1970)の論考「複製技術時代の作品」において初めて使われた用語であり、一つの芸術作品の唯一性と、それが伝統や儀礼と結びつくことで付与される神秘的な価値を示す。以下略
ここにおいて重要なのは、アウラが「伝統や儀礼と結びつくことで付与される」というところで、芸術作品のアウラを感じるためには、受け手にもある一定の「アウラを感じる心」が求められるともいえよう。
いささか極端に過ぎる事例だが、例えばイスラム原理主義者は仏教やキリスト教の美術にアウラを感じ無いだろうし、また枯山水や魯山人の器にアウラを感じる子供もまぁいないだろう(いたら気持ち悪いかもね?)。つまり、仏教やキリスト教の儀礼とか、あるいは日本文化の伝統を共有していない受け手は、仏教やキリスト教美術のアウラ、または枯山水や魯山人の器のアウラを感じ取れないといえるのだ。
言い換えるなら、アウラとは受け手が伝統や儀礼を通じて培った「神秘的な価値を感じる心」を刺激し、芸術作品に優れた価値があるように思わせる仕掛けである。そのため、もしも受け手の「神秘的な価値を感じる心」を培った伝統や儀礼をうまく取り入れられれば、手っ取り早く作品に価値があることを示すことも可能となるのだ。
とはいえ、アウラが「伝統や儀礼と結びつくことで付与される」以上、アウラを仕掛けとして利用する作品も伝統や儀礼との結びつきを避けられないし、当然ながら伝統や儀式を横断する多様性や国際性は持ち得ない。また、受け手が作品の価値を認め易くなるような仕掛けを、作家自身が作品に練りこむことについては、もちろん批判されてしかるべきだと思うし、ベンヤミンはそのような行為をアウラの捏造として激しく非難している。
このようなアウラの捏造を回避し、さらには作品からアウラを切り離すため、一部の作家たちは写真作品における「匿名性、ないしは無名性」をことのほか重視したのである。また、アウラは土地や人物の持つ歴史あるいは文化とも容易に結びつくため、匿名性の中でもUnlinkabilityを重視し、例えば「どこで撮影したのかわからない=現実の撮影地と作品とが結びつかない」ことや、あるいは「誰を撮影したのかわからない=被写体と作品が結びつかない」ように心がけたのだ。
続く…