今日は朝から見事なほど晴れ渡っていたが、相変わらずあれこれと忙しく、打ち合わせの合間にロールフィルム1本消費するのが関の山だった。早く仕事やらナニやらを片付けて、ゆっくり撮影する時間を取りたいのだが、展示が終わるまでは無理かもしれない。
午後には、知人に紹介していただいたヌードとポートレート中心のカメラマン氏と会ったが、業務が成立するかどうかは極めて微妙ということでお互い納得し、雑談ついでに撮影のあれこれを聞かせていただく。自分のように中途半端な存在にとって、第一線の現場で活躍しておられる方の話は参考になることばかりなのだが、その方は業務とは別個に個人でも撮影しておられるので、自分自身の制作活動にとっても直接的に役立つ情報をたくさんいただいた。
その中でも最も興味深く、ある意味では衝撃的だったのがこれ。
周囲の人々や知人をモデルにするな
とはいえ、ハリー・キャラハンの「エレノア」シリーズや、アルフレッド・スティーグリッツがジョージア・オキーフをモデルにした一連の作品をはじめとして、それこそ枚挙に暇がないほど数多くの作家たちが、周囲の人々や家族をモデルに撮影していることを考えると、いささかおかしな話に聞こえるかもしれない(最近でも、梅佳代氏が周囲の人々をテーマに作品を制作している)。だが、最近では人格権の一環としてのプライバシー権が積極的に認められるようになり、いわゆる肖像権について高度な配慮が求められるようになったため、たとえ知人や家族であってもモデルリリースのない作品については発表できない可能性が非常に高いし、あえて発表した場合は作家自身が大きなリスクを背負うことになる。
それに、そういった堅苦しい話を抜きにしても、周囲の人々や知人をモデルに撮影した場合、作品としての出来不出来とは全く別個に、本人が気に入らなければ公開できないというリスクが付きまとうのだ。ぶっちゃけた話、いわゆる「フォトジェニックなカット」以外は、モデルが公開を渋るケースがほとんどで、下手をすると人間関係に支障を来たす恐れもある。そればかりか、モデルから「フォトジェニックではないカット」を否定されることによって、作家自身が自らの方向性に自信を失うことさえありうるから、それなら最初からプロのモデルかアートボランティアを募ったほうがよいというのだ。
確かに、ハリー・キャラハンがモデルにしたエレノアと、同じくアルフレッド・スティーグリッツのジョージア・オキーフは、いずれも作家と配偶者の関係だったし、エレノア氏の作品に対する献身的な協力ぶりは、ちょっとほかに比較できないものがあったと思う。また、スティーグリッツがオキーフをモデルにした作品が公開されるまでには、相当な紆余曲折があった。そういえば、モンローを撮影したアンドレ・ド・ディーンズにも、かなぁりしょっぱいオチが待っていたっけな~
それに加えて、カメラマン氏が強調していたのは、モデルとの緊張関係が無くなることによって、作品にしまりが無くなるということだった。まぁ、これには異論のある方も少なくは無かろうが、いわゆる「家族アルバム」を超えて、作品としてのカットを撮影するには、撮影者にそれ相応の経験が必要だという話は、自分にとって強い説得力を持っていたのは確かだ。
とはいえ、モデルを雇うには先立つものが不足しているし、学校やサークルに所属していない身とあっては、ボランティアを募るのも難しい。いずれにしても簡単には解決できない問題であり、もう少し準備期間が必要であることを痛感させられた。
それに、自分自身のポートレイトに対する制作姿勢も定まっていないのだから、モット勉強を重ねるのが専決なんだよね。
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