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そして、味がない

2007-08-30 18:05:16 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月
Ariake014


先日撮影したフィルムをラボから受け取ったのだが、恐れていた通り半分は使い物にならない。案の定、シャッタの不調が失敗の原因なのだが、修理となるとかなりいい金額になるため、やむなくレンズの使用を一時中止した。
気に入ってるレンズではあるのだが、展示まではなにかと出費がかさむし、そもそも修理可能かどうかという問題もあり、いずれにせよ我慢するほかはないだろう。



午後には付き合いのある編集者氏と軽く打ち合わせしたが、先行きが極めて不透明な情勢でもあり、抽象的な話に終始してしまう。どちらかといえば、受け取ってきた自分の写真を観て、なんだか「カタログみたいだよね」って話になったことの方が面白く、かつ興味深い流れにもなった。



以前にもチラッと書いたかと思うが、自分はテイストレスな作品を目指しているので、カタログみたいというのはむしろほめ言葉なのだが(展示タイトルも「秩序の目録」だし)、その辺の感覚を伝えることは非常に難しいんだよね。
というのも、芸術的なイメージを喚起しやすい画像には一定の傾向があり、その傾向を受け入れるか拒否するかが作家の制作姿勢そのものといっても過言ではない。例えば、廃墟写真家として有名な丸田祥三氏は全く無批判にその傾向を受け入れているし、また「妖しい人々」というブログの作品では分かりやすい作品に距離を置きつつも、最終的には芸術的なイメージ喚起に真正面から取り組んでいる。
また、自分のように芸術的イメージを喚起しない、させないことに力点を置いた制作姿勢をとる作家もいるが、その場合は作家に「デュシャンレディメイドに対する姿勢」を説明することが求められる。でまぁ、現代哲学の領域に達しつつあるデュシャン的美術論と、芸術的なイメージ喚起との違いがどこにあるかといえば、それは「芸術作品を特別な存在として認めるか否か」に収斂されるのではなかろうか?



ただ、これまでにもアウラ話で散々ぼやいてきたように、芸術に「特別ななにか」を求める人々は山ほどいて、また彼らの声はうんざりするほど強く響き渡っている。もちろん、その声が最も強く轟いているのは芸術批評なる領域なのだが、例えば「ART TOUCH 美術展評」なるブログでは芸術が特別なものであることが全く自明となっていて、芸術の特別性や非日常性を否定する作品や言説に対して、極めて攻撃的に全否定を試みている(ただ、作品ではなく作評を攻撃している場合がほとんどなので、反批評としてのスタイルなのだろうけど)。
また北大路魯山人は、ほとんどテイストレスといってもよいほどシンプルかつミニマルな内容を繰り返しながら、自身の卓越した感覚と破滅的といってもよいほどの攻撃性によって、グロテスクなまでに濃い味付けの言説を展開したのだが、これもまた芸術が(そして魯山人自身が)特別な存在であってほしい、そして特別な存在であらねばならないという思い込みが反映しているのだろう(恐らく「ART TOUCH 美術展評」のうんざりするような攻撃性も、同様の思い込みから生まれているのだろう)。



まぁ、世の中には種田山頭火のように、どう考えても特別な人生を歩んだ特別な存在であったにも関わらず、最小限の言葉で単純に語り続けた作家もいるから、その辺はそれぞれといったところなのだろう(簡単な言葉でありながら、山頭火の句は難しいしね)。



ともあれ、自分にとっての芸術とは、あくまでも普通でありふれて、そして味がない存在だから、ある意味ではおのようなものなんだよね。



えっ?
お麩のように味が無いものを好んで食べる奴はほとんどいないし、それだけで十分に特別な存在だって?
わかってないなぁ~芸術はお麩のように普通でありふれて、そして味がない存在だけど、それを生み出す作家はそうじゃないんだよ。実際、お麩工場は普通でもありふれてもないし、味が無くもないだろう。
ついでに言っとくと、作家の世界となるとやはり特別で、しかも一般人は立ち入り禁止なんだよ。
なぜかというと、魯山人やどっかの評論家みたいに攻撃性たっぷりの人がうようよしてて、野蛮に作家を攻撃しまくってるからねw


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