Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

墨、攻め!

2007-02-16 22:52:48 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は穏やかな好天に恵まれたこともあり、工房で機材を受け取るついでに撮影した。
シートフィルムを3枚消費しただけだったが、非常に気持ちよくシャッターを切ることができた。



午後からはいつものように打ち合わせだったが、自分が主導する企画ではないのでもっぱら聞き役に回っていた。
もちろん、最後のほうは例のごとく雑談となったのだが、不覚にも「墨、攻め!」というネタが自分のツボにジャストミートしてしまい、勝手に割り込んで爆笑しまくるという石原良純的迷惑キャラと成り果てていた。



そういう状態だったから、まぁいぢられるのも当然の成り行きというわけで、しまいにゃお約束の「なんで写真撮ってるの話」となってしまう…
もちろん、席には既にこの話を聞いたことがある人もいて、割と露骨に「あぁ~ぁ、またこの話出たよ…」ってな空気が横溢しており、いささか話しづらいこともあったので「単に好きだから、趣味の一環として撮ってる」とかなんとか、かなり露骨に適当な答えを返したのだが、どうもコレがよくなかったらしい。結局、そういうレベルの問題じゃないでしょということで、仕方なく「写真は機械的表現手段であること」と「写真は複製を前提とした表現手段であること」にしぼって、それでもかなりはしょった説明をしたのだが、今度は「なんでコンテストに入選してるような写真は撮らないの?」ときた…



もしかして「墨に攻められてるのはこの俺か?」といいたいところをぐっとこらえて、とりあえず以下のような説明をさせていただく。



花鳥風月といった自然をテーマにしたり、あるいは祭事や神仏といった宗教的なものをテーマにしないのは、自分の芸術や人間に対する思想が理由となっている。つまり、人間もまた自然の一要素に過ぎないので、ことさらに自然の美をありがたがるつもりはないし、ましてや「自然と人間を対比的にとらえ、自然の方を礼賛する」などというのは、ある意味で人間は自然から独立した、特別な存在であるという傲慢さにもつながりかねないとさえ思う。また、神仏は人間が考え出した空想上の存在であり、宗教において重要なのは根幹を成す理念や哲学だと考えているので、祭事や神仏には興味が無い。
さらに、敢えて付け加えるなら、自然や神仏への礼賛という趣旨で制作するのであれば、写真のような機械的かつ複製を前提とした手段ではなく、やはり人間の手による技巧や技法で表現すべきではないかと思う。もちろん、これらのテーマを撮影する人々が、それこそ宗教的な情熱を持って困難な撮影に挑んでいるのは重々承知だが、やはり撮影における苦労と人の手を使った制作における文字通りの手間隙とは、同列に論じ得ないのではないかと思う。



次に、西洋近代美術的な「神への従属から解き放たれた人間性の発露」として、人間そのものを礼賛するという方法論については、そもそもそのような方法論自体が陳腐化しているとの見方をさておくとしても(ただ、この「神への従属から解き放たれた人間性の発露」として作品を制作するという動機そのものは、現在でもなおひとつの正しさを備えている)、やはり人間の持つ根源的な暗黒面を嫌というほど知ってしまった現代人にとって、あまりにも無邪気に過ぎるといわざるを得ない。かといって、例えばサド哲学からスピンアウトしたような露悪趣味や反ヒューマニズムは文字通りの意味で時代遅れだし、また人間には「暗黒面と同じくらい輝かしい光明も備わっている」のは間違いないのだ。
これも蛇足だが、自分が皮肉を垂れた(そして先輩からたしなめられた)カメラマン氏のように、ことあるごとに撮影者の悪行を取り上げ、作品の質と絡めるような調子で文句を言う人物というのは、ほぼ間違いなく「作品を作家の人間性が表出したもの」と捉えており、またそう捉えているからこそ「写真を撮影する人間の不品行が我慢なら無い」のだろう。だが、人間には品行方正な人もいれば不品行な人もいるのは当然だし、また品行方正な人であっても不品行を働いてしまう、あるいはその反対だってありえるのも当然だ。まして、作品の質と作家の人間性を無条件かつ無批判に同一視するのは、控えめに言ってもあまり頭のよいこととは思えない。



とまぁ、こんなことをだらだらと話していたのだが、最終的には「確かに分娩台でセルフヌード撮ったり、人形とハメ撮りよりはずっとマシ」だけど、そっちの方が「わかりやすく反芸術的だと思う」というトコロへ落ちていったのは、まぁ控えめに言っても微妙だねぇ~



でも、少なくとも自分はギャラリーという「芸術を保証された空間で反芸術を気取る」ほど厚顔無恥ではないので、ただただ自分の根底をなす制作動機をまともに説明できないもどかしさと、そして「根底をなす制作動機など、実は最初から存在していなかったし、これからも存在し得ない」というやるせない現実を前に、ただ呆然と立ち尽くすのみなのだ。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿