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「捨ててこそ空也」 梓澤要 新潮社

2019-05-28 | 読書

 

 

南無阿弥陀仏と唱えて修行をした「空也上人」揺れる時代に生まれ「空」を求め、人々に来世の幸せを説いた。
梓澤さんの著作を知って、近作「方丈の孤月」から鴨長明の世界を読みたかったが。図書館ではすでに予約が詰まっていた。それでは他の梓澤作品を読んで作風を知りたいと思った。
平安中期といえば鎌倉の時代に移るまえの武士の台頭も興味深いが。 半ば完成したかのような貴族文化華やかな頃、突如天変地異が襲い、飢饉が人々を脅かし、疫病、盗賊の跋扈と人心の落ち着く間もないほど荒れた時代にもかかわらず、王朝文化が続いていた。 そんな中で生まれた異端ともいえる人々をドラマチックに描き出す梓澤要という作家に興味を持った。
度重なる大火や天災に見舞われ多くの文化的な財産が失われた時代、資料が少ない所を独自の骨太なストーリーに組み上げて、読みだすと止まらない作品にしている。面白い。
時代の流れに翻弄され、それに抗い、あるいは異なる世界を求めて新しい境地を開いた、そんな人たちの生き方の物語は、社会制度は根本的に変わってきたかも知れない現代でも、人の生き方や生きづらさ、苦しみはいつに世でも変わらないものだという思いが、読んでいてもこころに染み入るような気がした。
どんな時代制度の中で生きていても、人として生まれて死んでいくことは、少しも違わない苦楽の世界を背負っている。 歴史の流れを重厚に積み上げる、この方の作品を少し読んでみようと思う。
のちの空也は、醍醐天皇の第二皇子に生まれ、五宮常葉丸と名付けられた、だが母の出自の低さゆえに親王に宣下されず、母は帝の寵愛を失い、自尊心と嫉妬心のはざま狂い幼い常葉丸の腕をつかんで投げそれ以後左腕が曲がり不自由になった。母は井戸に身を投げて死んだ。常葉丸17歳の時。 彼は帝の宴に出た帰りに、鴨川の河原でうずたかく積まれた死骸を焼く煙を見た。そこでうめく人々を背負って運んでいく流れ者の一団と遭遇する。
彼は出奔して死骸を埋葬する仲間に入った。 皇子の教養にと仏教の教えを受けていたが、彼は経文の一つ一つに疑問を持ち授業に招かれた高僧をしつこく質問攻めにするような子供だった。
遺骸の埋葬をする人々がつぶやいているのが、比叡山で見聞きした「阿弥陀念仏」だと思い出す。化野に積み上げられた骸の山の前で、男たちが唱えているのは密教の祈りの言葉だった。ただただ安らかな死を願う手向けの言葉だった、それを聞いて泣いた。
火葬をして死人を弔い時には橋を架け井戸を掘る優婆塞の集団に入った。従って来た通盛はつねに傍らにいた。 わずかな干し飯、干し芋、水でしのいだ、空腹を抱え乞食の日々を耐えた。
虐げられた人々は、あの世で行きつく所を阿弥陀浄土といい、飢えて死んでいくときも、愛する者との別れが今生だけではないと希望を託し、心を鎮め、阿弥陀仏に帰依してその慈悲に惟縋って念仏を唱えることしかできないのだ、と教えられる。
もっと学ばなければならない、常葉は尾張の古刹を訪ねた。まだなんの資格もなくそこで下働きをしながら住まわせてもらった。経蔵の管理をしている悦良という若い僧について、彼から経典について学んだ。 まず三論宗、「空思想」について教えられる。ここでは、作者は様々に例えて、悦良に語らせている。
「あらゆるものは、因縁によって生ずる。たに依存し、その縁によって起こることをいうので、縁起ともいうが、あらゆる存在やものごとは、それ自身から、また他者からまた自身と他者の双方から、また因なくして生じたものとして存在することはない。いかなる時にも、いかなる場所にも存在しない。それが空というものなのだよ」 「空というとすぐに、何もないとか、虚無ととらえるが、それは間違った考え方なのだよ。空とは永遠に変化しない固有の実体などというものはないということなのだ。すべての物はそれは物であれ、人間であれ、現象であれ、因と縁が関係しあうことで、絶えず変化する。生じ、とどまり、変化し、滅する。生・住・異・滅といって、極端にいえば、一瞬ごとに変化している。それを縁起といおうが、因縁といおうが、因果といおうが、皆同じことだ」
この問答は難しいがこれに続くたとえや、常葉の初心者が持つような質問の答えも、釈尊の言葉で分かりやすく説き聞かせていく。
とらわれないことだという。
「真理を知らぬこと、それが無明だ。無明の闇をあてどなくさ迷い歩いているのがわれわれ人間なのさ」
そしてここで常葉は少しずつ闇に光を見出す気がする。
悦良の前で髪を剃って出家し、沙弥名を空也とした。
空也28歳の時、父醍醐帝が崩御した、清涼殿が落雷で燃え、帝はその時雨に打たれそのままなくなったのだ。最後の別れに上京し藤原実頼に会った。彼は菅原道真を追い落とした忠平の孫で、父時平は摂政まで登ったが精神的な負の遺産を背負っていた。帝の死や近親の早逝も道真の怨霊の祟りと噂され、宮中でも護摩をたき俄かに道真の魂を鎮めるというので社を建造した。
祖父の宇多法皇が崩御した。 空也は淡路島南方の絶海の孤島を目指して修行の旅に出た。彼の最後を看取ることになる頑魯が一緒だった。 苦難の末、島にたどり着き、小屋に安置された十一面観音の前で七日間の不眠不休の行の末霊験を得た。
再び訪ねた尾張に悦良はいなかった。寺と縁を切って陸奥に行ったという。彼の厳しい生き方は世慣れた僧に受け入れられなかったのか。 後を追って空也と頑魯は会津から筑波にむかった。そこで道真に心酔して兵をおこした平将門に会う。将門は空也を暖かくもてなしてくれた、同じ年、月日も同じ生まれだと知ったが,彼は憤死したと言われる道真を祭って都を目指していた。が叔父の良兼の焼き討ちに会い、脚が腫れる奇病を得て死んだ。
空也は帰郷し、次に興福寺の空晴を訪ねて教えを請うた。當麻寺で曼荼羅図を拝し、民衆教化の方法を確かめ深めていった。 そして空の境地にいたる修行、悟りに近づく境地に近づいていった。
「道理、善悪、知識、これらはすべて我欲。往生を願う心も、悟りを求める心も、おのれを縛る執心。自我にとらわれておるのです。執心を捨てねば、おのれを捨てることなどできませぬ。おのれを捨てきらねば、悟りは得られませぬ」 「いかにも……何であれ、何もかも、捨ててこそ」
空也は広く人々に中に入り、不自由な左手の金鼓を鳴らし念仏を唱えながら歩き、鴨川の西に質素な高床の宝殿を建て一日限りの大般若経供養会を開いた。
その後は東山の庵で晩年を過ごした。 声に従っての見仏なれば、息精はすなわち念珠と書いた。
空也71歳、静かに目を閉じた。
作者は仏教学を学び、経典についてや釈迦の教えなど文中は難しい部分も多い。 神にも仏にもあまり縁がない生活で、この本を読むと好きな仏像を見る目、なにかのおりに耳にするすろ読経の声に傾ける耳も少し変わった気がする。 最下層に生まれ自分を守る術の無い当時の貧しい人々が、念仏、経文にすがりせめても死後は安らかであってほしいと願うのも非情で、今、飽食の時代などと言われることにも忸怩たる思いが湧いた。 歴史書を書くには不明な部分も多い時代に、空也という人が信念に従って生き抜いた様子が興味深く、ダイナミックなストーリーに巻き込まれるのも、それを読ませる筆力にも感動した。
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