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「赤刃」 長浦京 講談社

2016-08-09 | 読書



久し振りに時代小説を読んだ。まず、日本は漢字の国だな、とつまらないことに感心した。

徳川の幕藩制度もほぼ完成に近づいていた頃、三代将軍家光の時代、下克上を目指して戦った群雄たちも、関が原の働きに応じて与えられた身分や領地を治め、徳川足下の江戸の町並も徐々に平常の暮らしを整えていた。
だが、戦国時代の余韻はまだくすぶっていた。武芸を頼み一旗上げようと命をかけた武士の魂のかけらがまだくすぶっていた。
戦いのやまない頃に若く血気盛んだった人たちが、老いの身をもう一花咲かせたいと思う一団があった。

理由のない人斬り、辻斬り、美男を好んで誘拐凌辱の上切り殺すという事件が頻繁に起き始めていた。傾き者のなりをし、往来の邪魔をするものを斬る若者が闊歩し始める、死人は300に上った。

名だたる使い手を集め掃討人という名前でこういった謀反人一派を捕らえるよう家光は命じたのだが、ことごとく返り討ちに会い二名は行方不明一名は捕らえられるという手ごわさだった。
そこで島原の乱で群を抜いて見事に働き、当時松平信繁、のちの松平伊豆守の目に止まった小留間逸次郎を江戸の呼び寄せることになった。

小留間逸次郎は当時の長崎奉行の次男で、本家は兄が継ぎ、部屋住みの身だったが、父親の片腕として任地に随行していた。
彼は伊豆守を後ろ盾に、巷で人々を襲っている反逆者狩り、掃討人を命じられる。

敵は赤迫という老人を首魁にして名だたる武人が集まっていた、武士という身分だけで目標を失った武家の子弟も、赤迫の言う、新しい生きがいを求めて集まってくる。
小留間逸次郎は腕もたつが頭も切れる、選り抜きの30人の護衛人と中でも優れた4人、ともに戦ってきた一人に手綱を取らせて、馬上から探索を開始した。

敵の赤迫も武士の誇りがあり、小留間逸次郎と出会ってみたい、いわば相手にとって不足はないと思っていた。

そして攻防戦が始まる。日々何所かで起きる血生臭い陰惨な戦いの様子が、これでもかと描き出され、今までにないリアルな刀や槍での切りあいは、負ければ、その致命傷から体は壊れ命を落とす、勝者の後には死屍累々の有様がこれでもかと続く。こういったものを書く作家は新しいと言おうか。確かに力のある新人に違いない。

老人たちの言う果し合いの流儀も若者には届かず、覚悟の浅い若者の思いがけない死様も痛ましい。
武士の狂気が、ここまで来ると、小留間逸次郎にしても体を張って役目を果たさなくてはならない。
既に策もつき、仲間も失い、わずかに残った心を許せる仲間とともに、赤迫と対することになる。

テロにはテロリストの論理がある。
赤迫には
--- 武士とは敵を殺すことを生業とし、敵を多く打ち倒すことで功を得て、なりあがっていく生き物だ。しかしその敵を殺す戦がなくなってしまった今、武士はどう生きる、本能と本文を捨て、別の生き物になるか、なれるならそれでいい。だが、なれぬなら、武士同士互いの本能のまま殺し合い、華々しく自滅していくのが美しかろう。武士など乱世会っての生きもの。生きる場を失ったものは滅ぶのが自然の節理。あぶれた武士は死に絶えるのがを野ために一番よいのだと ---

さてこの中に人として間違っているところはいくつあるでしょう。と自分にも読みながら問う。

この時代、まだ未熟な制度の中に納まりきれない、幕府や藩や地方の小さな支藩までもひとつの法度という縛りで絡められてしまった時代。厳しい罰は命で支払う時代に、流されず自分を見失わず、こういった虚無感の中から生き方を見つけようとあがいた物語は読後も二組の悲哀と惨劇だけが残っていく。
事実を追って、あるいは武士の滅びを書こうとしたためか、作者は小留間逸次郎という若者が使命を果たすために、策を練り命を賭して戦う姿だけを見続け、その心理にまで筆が届かなかった。
妻と子を失い、菩提を弔う気持が湧いてきたところなど、彼は魅了的な主人公になっていたかもしれないところが、少し残念に感じた。多生人柄に触れた部分があれば全体がもう少し救いのある話になっていただろう。





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