<旅行2日目>
さて、ダンケルク2日目(旅行2日目前半)の記録になります。
1日で30km以上歩いた事実と来たるべき筋肉痛に戦きながら寝たのですが、無事に7時に起床しました。普段がダメダメ不摂生なオタ会社員生活のため、時差ボケもなくあっさりとしたものです。
ホテルで朝ご飯をいただき(簡単なコンチネンタル)、いざ出発です。

蜂蜜とヨーグルトと卵の美味しさに戦いた朝。そしてヌテラは悪魔の食べ物(うまい)。
まずはOperation dynamo 1940 museum…の前を通り過ぎて、English only兄さんがいた疑い地点(Ref; 旅ケルクの記録4(ダンケルク編その2)@ダンケルク ロケ地+ゆかりの地を巡る旅)を確かめに。
地図の上では昨日見に行ったEast moleに通じている+浜辺から最初につながっている道なので、トミーとギブソンが担架をもって走ってmoleにある病院船まで行くことからすれば確かにここかも…な場所だし。

うーむ、English only兄さんの側に見えた鉄の棒がない..ということは、ここは外れ?しかし、トミーたちが浜辺からmoleへ行くには、この道を通るのが自然…。疑念が晴れないので、ひとまず行けるところまで歩いてみて確かめてみることに。


歩いて行ったら、(前日に歩いた)見覚えのある道と工場が見えてきて、やっぱりEast moleへ続いている道だなと判断。
ということは、トミーとギブソンは、この道を通ってEnglish only兄さんの近くを駆け抜けてEast moleの先に待ってた船をめざして走って行った…のかなと推察。
撮影当時はともかく、今現在(6月30日、7月1日撮影当時)はフェンスが入っており、East moleへの直接の通り抜けが出来ない状態でしたが(うーん、残念)。
ということで自分の中では何となく納得したので、トミーが走りぬいた通りをもう1回歩きなおした後に(しつこい)、Operation dynamo 1940 museumに行くことに。1874年に沿岸防衛強化のために建設された「第32要塞」の遺構を利用した博物館とのことで、見た目からしてなんだか厳しい。


博物館の前にはフランス国旗、イギリス国旗、そしてドイツの国旗が。博物館前の看板にもドイツ語表記があったしドイツの人も来るのかしら...、真珠湾の展示に日本語はあったりするのかしら...などと思いつつと激写して、入場です。

さて、入って早々、カッコいいフランス陸軍登場。

ナポレオンとかのイメージがあるし、江戸幕府も近代化にあたってフランス式の陸軍を学んで取り入れたくらいなのに、どうして敗北したんだろう。特に20世紀のフランス陸軍(WW I、WW II)はやられっ放しなイメージが(ちなみに日本陸軍へのイメージは(以下自粛))…などと思いつつ、ドイツの電撃作戦、黄色作戦・赤色作戦の説明パネルも含めてじっくりねっとり観察。
イギリスとの温度差をボードの説明に感じつつ(ドーバー城での展示でも思ったけど、互いに相手のせいだと思ってるフシが)、軍の装備やダンケルクで墜落したスピットファイア・ハリケーンを観ていきます。

どこかで見たことがあるカップたち(イギリス軍が当時使っていた食器)。劇中でもピーターたちがムーンストーン号で使っていたシーンとは別にイギリス軍兵士の腰のあたりにぶら下がってるのが映っていたシーンもあったし、このタイプの食器が軍で用いられていたんでしょうか。軍・民間で広く使用されてたアウトドアグッズ的な。


イギリス軍の鉄製ヘルメットと銃。ヘルメットが鉄製なのを聞いて、重くて首が痛くならないのかとBBAは心配になりましたよ..。防弾できるほど厚みはなさそうなのに、鉄製の意味ってなんだろうか...と思ったが、しょうがないのか。そして、こんな銃(ブレンガン)で上空をとんでる飛行機を撃とうとするなんて無謀だし映画の演出じゃあ…と思いましたが、帝国戦争博物館(IWM)のアーカイブに同じ構図の写真があったのを思い出し、その場で「あああああ」と声が出ました(うるさい)。

劇中ではスコットランドにゆかりのある人たちとしては、ハイランダーズやコリンズがいましたが、いわゆるスコットランドの部隊がダンケルクにおりましたので、その関係かと。アレックスのお仲間のハイランダーズの人が被ってた帽子は、この博物館にはありませんでした(ロンドンにあるNational army museumに似たものがありました)。

イギリス海軍が履いてた靴下。ぬくそう。中佐が着ていたセーターと似た感じの繊維。ジョニーくんも履いてたのかな。

当時の自転車。イギリス空軍の爆撃機のパイロットのエンブリー中佐(当時)はダイナモ作戦時に爆撃機が撃墜されたところをドイツ軍の捕虜になったが、ドイツ兵を殴り倒して脱出。カカシの服を奪って自転車で南フランスの港まで逃げ、そこからイギリスに10週間後に帰国した...らしいですが、ファリアにおかれましても、この感じで脱出をしていただきたいところ(ポーランドのザーガンにあったスタラグ・ラフトIII収容所からの脱出でもハリウッド映画的だけど、ほとんど脱出に成功してないし、脱走した50名はのちに銃殺されているので;映画「大脱走」のモデル)。

ピーターのお兄さんが乗っていたハリケーンのプロペラ。大きい。この展示の状態で私よりも高い(私の身長は160cm弱)。


こんな姿になっちゃって…と言わんばかりのスピットファイアの機体。現地でも人気なのか、写真を撮る人(フランス人かイギリス人かは不明)が途切れる感じはなかった感じが(とはいえ、母数は小さいので列にはならない)。お触り禁止の表示をほぼほぼ無視して触っていく人たちも多かったですが、そんなフリーダムで大丈夫なんだろうか。
ダンケルクの危機に際し、フランスの救援に向かったイギリスの戦闘機は10個中隊(防衛庁防衛研修所戦史室 著、大東亜戦争開戦経緯(1)より)とのことだけど、その中の1機だったりするのでしょうか。
フランスの博物館にイギリス空軍の飛行機が展示されているのを観ると、劇中でも史実でも「空軍はどこにいる?!(Where is the bloody air force?!)」と言われたRAFだけど、ちゃんと戦っていたんだなあと謎の感動に襲われました。6月4日庶民院でのチャーチルの演説や、その後の語録でも言及されていた通りに。
地上や海上から空軍の戦闘を確認することは困難だったから、イギリス海軍に撃ち落とされた(=フレンドリーファイア)機もあったようなので。イギリス空軍が任務を果たしていることを知っているのは、同じ高度で制空権を得るために戦うドイツ空軍だったりしたら皮肉なことだし、さらには本土に爆弾が落とされまくる(一般市民も死ぬような)BOBで空軍の働きについて誰もが知るようになったのも皮肉なことだし。
<It was gained by the Air Force. Many of our soldiers coming back have not seen the Air Force at work...(1940/6/4 チャーチル演説一部)
ところで、イギリス海峡上空の航空部隊の任務の担当は第11戦闘機群で戦闘機は16個中隊(約200機)、ダイナモ作戦中の1940/5/27に会敵した第74中隊のスピットファイアが11機、第56中隊+第610中隊のハリケーン+スピットファイア20機とバーカーの著書(ダンケルクの奇跡)にあるのだけども(もちろん、これ以外も沢山あるんだろうけど)、この機体がどこの隊のものなのか、そもそもファリアやコリンズの『フォーティス』はどこの隊に所属していたのか。
映画「ダンケルク」の考証もしたレヴィーンの著書『ダンケルク』(ノンフィクションの方)には、ファリアやコリンズたちの所属については明らかになっていないと書いてありましたが、キャラクターに特定のモデルがいない分、想像の翼が広がります。
映画の主人公であるイギリス軍兵士の名前がトミー(演:フィン・ホワイトヘッド)であるように(トミーはイギリス軍兵士を表す俗語。“無名の兵士”の代名詞である“Tommy Atkins”に由来する; wikiより)。
あるいは、私の知人のイギリス人が、「あの映画は僕の祖父の物語でもある」と言ったように(彼の祖父はRAFの爆撃機乗りだった)。
映画の脚本・演出を手掛けたノーラン監督の祖父も大戦中はパイロットをしていたり(戦死している)、ファリアを演じたトム・ハーディーの祖父もダンケルクにいたという事実も含めて、数珠つなぎのように、あるいは網のように個人と物語がつながっていく様が見えてくるようでした。
ちなみに、私の母方の祖父は三菱の工場で機械いじりをしたり太平洋戦争中には海軍に所属してラバウルで戦ったりしてた人なのですが(ヤシの葉っぱで作った服で帰国)、母によると何時頃かに零戦もいじくってたそうで(ほんまかいな)、彼らの祖父の物語を通じて、私の祖父の物語がふっと思い起こされたりしてました。完全に余談。
(閑話休題)
博物館には、ダイナモ作戦の日ごとの推移がイギリス軍・フランス軍の防衛ラインやドイツ軍の包囲網と併せて展示されてましたので、私のようなプロセスが分らない人間にも分りやすかったです。
それにしても、博物館の展示パネルにあった「ダンケルク:勝利か,それとも敗北か?(Dunkirk: Victory or Defeat?」にはドキリとしましたが。
6/1(夕方)にドイツ軍はダンケルクの全周陣地を形成し、6/2に内部に侵入(港から数百ヤードまで接近;大阪朝日新聞が6月3日に伝えるところによると、20kmに迫る)。これを受けて、ダンケルクのフランス軍が行動限界を迎えるとイギリス軍に通知された6/3の翌日の6/4に、ダイナモ作戦は終了。その翌日6/5にはダンケルクのフランス軍(司令官:アブリアル)は降伏し、同市は1945年に解放されるまでドイツの支配下に入るわけで(イギリスに亡命したド・ゴールらによる「輝けるレジスタンス」の始まりでもある)。フランスにとっては長い忍辱ライフの始まりとなったアレコレに、複雑な感情があるのでは….と勝手に推察。
とはいえ、ダンケルクは造船の町であり貿易港を有する町でもあるため、連合軍に対する物資の補給を担う港が失陥したというのは経済的な損失がバカにならないはずで、イギリスにとっても苦しい戦いがこれからも続くわけですが。
博物館のショップには色んなグッズや書籍があったのですが、フランス語の書物が読めないので(恥ずかしながら、今年の5月に旅行用のガイドブックや単語帳/文法のテキスト等を買って始めた程度で、正直、看板やレストランのメニューが読める程度…)、クッキーを買って帰ることに。
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/d5/2f7ec8790516e386f92c3e5ff02e9e6d.jpg" border="0">

勝手にダンケルク煎餅と呼んでいたクッキー。個包装で6個入り。バターの香がよくて配った同僚にも評判が良かった。
駅への道すがら、もう一度プリンセス・エリザベス号の写真を撮り(しつこい)、心残りはイロイロあるものの(海鮮料理食べてないし…ぶつぶつ)、ダンケルク市に別れを告げることに。<2泊3日くらいで日程組めばよかった...。
ダンケルクからカレーへ電車で移動して、トミーたちのように船(フェリー)でドーバー海峡(フランスではカレー海峡と呼ぶらしい)を渡り、イギリス(ドーバー)へ移動します。
「作戦完了。我、ドーバーに帰還す。(Mission completed. Returning to Dover.)」by テナント大佐(英海軍大佐。後に海軍大将。ダイナモ作戦においての働きにより、ダンケルクのジョーと呼ばれる。)
<ダイナモ作戦概要>
1940年5月26日〜1940年6月4日に実施
参加した艦船:約40(イギリス、フランス、オランダ、ベルギー)
参加した民間船:約940(正確な数は不明)
救出されたイギリス兵:33万8226人(ラムゼー提督報告)
救出されたフランス兵士:2万525人(ラムゼー提督による報告)
以上、第二次世界大戦マップ(スフィフト著)、及び帝国戦争博物館(IWM)データベースより抜粋

ダンケルクの海岸線とリトルシップたちの航路などのメモ書き
<イギリス海軍は脱出のための海路を3つ(X,Y,Z)設定した。劇中のドーソン親子のモデルになったライトラー親子はXルートを使ってラムズゲートへ帰還するルートを選択したとされる(Ramsgate maritime museum展示パネルより)。
*上図は、Museum Dunkerque 1940 Operation Dynamo展示パネル、及び、ダンケルク海岸線(イギリス国立公文書館 No. ADM 1/9997)を基にガバ鳥がてきとうにメモ書き。
(ダンケルク編終わり。ドーバー海峡編に続く)
Ref)
1. ジョシュア・レヴィーン(2017年)『ダンケルク』(武藤陽生 翻訳)ハーパーコリンズ・ジャパン社
2. A.J.バーカー(1980年)『ダンケルクの奇跡 イギリスの大撤退作戦』(小城正 翻訳)、HAYAKAWA nonfiction
3. 真砂 博成(2001年)『5月の嵐 ドイツの電撃作戦とダンケルク』学研M文庫
4. 「ダンケルク海岸線(イギリス国立公文書館 No. ADM 1/9997)」、マイケル・スウィフト他(2015年)『第二次世界大戦作戦マップ』(福田 希之 他 翻訳)河出書房新社
5. ジョン・ウィリアムズ(昭和46年)『パリ陥落<ダンケルクへの敗走>』(宇都宮直賢 翻訳)、サンケイ新聞社出版局
6. MUSEE DUNKERQUE 1940 OPERATION DYNAMO公式HP <http://www.dynamo-dunkerque.com/> (2018-04-23参照)
7. 山室良(2017年8月28日付)「いま,ダンケルクが熱い! ……ような気がするので,本物のダンケルクへ行ってみた」<https://www.4gamer.net/games/138/G013889/20170825090/> (2018-04-23参照)
8. Dunkirk Battlefield tour公式HP <https://www.dunkirk-tourism.com/Group-travel/Group-travel-Adults/Group-trips-Adults-Tours-and-visits/Dunkirk-battlefield-tour> (2018-04-23参照)
9. イギリス国立公文書館(The National archives) 公式HP (Cabinet papers; The fall of France) <http://www.nationalarchives.gov.uk/cabinetpapers/themes/fall-france.htm> (参照2018-04-24)
10. 帝国戦争博物館公式HPアーカイブ(Imperial War Museum; IWM)”WHAT YOU NEED TO KNOW ABOUT THE DUNKIRK EVACUATIONS” < https://www.iwm.org.uk/history/what-you-need-to-know-about-the-dunkirk-evacuations>
11. 帝国戦争博物館公式HPアーカイブ(Imperial War Museum; IWM)” 7 PHOTOS FROM THE DUNKIRK EVACUATIONS” < https://www.iwm.org.uk/history/7-photos-from-the-dunkirk-evacuations>
12. ウィンストン・チャーチル(2001年)『第二次世界大戦』第1巻(佐藤亮一 翻訳)河出書房新社
13. ウィンストン・チャーチル(2001年)『第二次世界大戦』第2巻(佐藤亮一 翻訳)河出書房新社
14. ウィンストン・チャーチル(1940年6月4日)『We shall fight on the beaches』<https://www.youtube.com/watch?v=MkTw3_PmKtc&t=59s>(2018-04-23参照)
15. WinstonChurchill.org公式HP、『We shall fight on the beaches』<https://winstonchurchill.org/resources/speeches/1940-the-finest-hour/we-shall-fight-on-the-beaches/>
16. 大阪毎日(大毎)新聞「獨空軍、マルセイユ始め南仏各地へ初の空襲 ダンケルクへ余す5里」、1940年6月3日、1版 (明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)
17. 読売新聞「英兵撤退完了」、1940年6月5日、1版(明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)
18. 読売新聞「ダンケルク要塞占領 海岸線独軍に帰す」、1940年6月5日、1版(明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)
19. 「フランス敗れたり」、『画報近代100年史第15集』1952年、p1214、国際文化情報社
20. 防衛庁防衛研修所戦史室(昭和48年)『戦史業書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯(1)』朝雲新聞社
21. 伯林、昭和15年6月7日、「獨軍のダンケルク占領と連合国の経済的被害」、『獨逸事情』、昭和15年7月号
さて、ダンケルク2日目(旅行2日目前半)の記録になります。
1日で30km以上歩いた事実と来たるべき筋肉痛に戦きながら寝たのですが、無事に7時に起床しました。普段がダメダメ不摂生なオタ会社員生活のため、時差ボケもなくあっさりとしたものです。
ホテルで朝ご飯をいただき(簡単なコンチネンタル)、いざ出発です。

蜂蜜とヨーグルトと卵の美味しさに戦いた朝。そしてヌテラは悪魔の食べ物(うまい)。
まずはOperation dynamo 1940 museum…の前を通り過ぎて、English only兄さんがいた疑い地点(Ref; 旅ケルクの記録4(ダンケルク編その2)@ダンケルク ロケ地+ゆかりの地を巡る旅)を確かめに。
地図の上では昨日見に行ったEast moleに通じている+浜辺から最初につながっている道なので、トミーとギブソンが担架をもって走ってmoleにある病院船まで行くことからすれば確かにここかも…な場所だし。

うーむ、English only兄さんの側に見えた鉄の棒がない..ということは、ここは外れ?しかし、トミーたちが浜辺からmoleへ行くには、この道を通るのが自然…。疑念が晴れないので、ひとまず行けるところまで歩いてみて確かめてみることに。


歩いて行ったら、(前日に歩いた)見覚えのある道と工場が見えてきて、やっぱりEast moleへ続いている道だなと判断。
ということは、トミーとギブソンは、この道を通ってEnglish only兄さんの近くを駆け抜けてEast moleの先に待ってた船をめざして走って行った…のかなと推察。
撮影当時はともかく、今現在(6月30日、7月1日撮影当時)はフェンスが入っており、East moleへの直接の通り抜けが出来ない状態でしたが(うーん、残念)。
ということで自分の中では何となく納得したので、トミーが走りぬいた通りをもう1回歩きなおした後に(しつこい)、Operation dynamo 1940 museumに行くことに。1874年に沿岸防衛強化のために建設された「第32要塞」の遺構を利用した博物館とのことで、見た目からしてなんだか厳しい。


博物館の前にはフランス国旗、イギリス国旗、そしてドイツの国旗が。博物館前の看板にもドイツ語表記があったしドイツの人も来るのかしら...、真珠湾の展示に日本語はあったりするのかしら...などと思いつつと激写して、入場です。

さて、入って早々、カッコいいフランス陸軍登場。

ナポレオンとかのイメージがあるし、江戸幕府も近代化にあたってフランス式の陸軍を学んで取り入れたくらいなのに、どうして敗北したんだろう。特に20世紀のフランス陸軍(WW I、WW II)はやられっ放しなイメージが(ちなみに日本陸軍へのイメージは(以下自粛))…などと思いつつ、ドイツの電撃作戦、黄色作戦・赤色作戦の説明パネルも含めてじっくりねっとり観察。
イギリスとの温度差をボードの説明に感じつつ(ドーバー城での展示でも思ったけど、互いに相手のせいだと思ってるフシが)、軍の装備やダンケルクで墜落したスピットファイア・ハリケーンを観ていきます。

どこかで見たことがあるカップたち(イギリス軍が当時使っていた食器)。劇中でもピーターたちがムーンストーン号で使っていたシーンとは別にイギリス軍兵士の腰のあたりにぶら下がってるのが映っていたシーンもあったし、このタイプの食器が軍で用いられていたんでしょうか。軍・民間で広く使用されてたアウトドアグッズ的な。


イギリス軍の鉄製ヘルメットと銃。ヘルメットが鉄製なのを聞いて、重くて首が痛くならないのかとBBAは心配になりましたよ..。防弾できるほど厚みはなさそうなのに、鉄製の意味ってなんだろうか...と思ったが、しょうがないのか。そして、こんな銃(ブレンガン)で上空をとんでる飛行機を撃とうとするなんて無謀だし映画の演出じゃあ…と思いましたが、帝国戦争博物館(IWM)のアーカイブに同じ構図の写真があったのを思い出し、その場で「あああああ」と声が出ました(うるさい)。

劇中ではスコットランドにゆかりのある人たちとしては、ハイランダーズやコリンズがいましたが、いわゆるスコットランドの部隊がダンケルクにおりましたので、その関係かと。アレックスのお仲間のハイランダーズの人が被ってた帽子は、この博物館にはありませんでした(ロンドンにあるNational army museumに似たものがありました)。

イギリス海軍が履いてた靴下。ぬくそう。中佐が着ていたセーターと似た感じの繊維。ジョニーくんも履いてたのかな。

当時の自転車。イギリス空軍の爆撃機のパイロットのエンブリー中佐(当時)はダイナモ作戦時に爆撃機が撃墜されたところをドイツ軍の捕虜になったが、ドイツ兵を殴り倒して脱出。カカシの服を奪って自転車で南フランスの港まで逃げ、そこからイギリスに10週間後に帰国した...らしいですが、ファリアにおかれましても、この感じで脱出をしていただきたいところ(ポーランドのザーガンにあったスタラグ・ラフトIII収容所からの脱出でもハリウッド映画的だけど、ほとんど脱出に成功してないし、脱走した50名はのちに銃殺されているので;映画「大脱走」のモデル)。

ピーターのお兄さんが乗っていたハリケーンのプロペラ。大きい。この展示の状態で私よりも高い(私の身長は160cm弱)。


こんな姿になっちゃって…と言わんばかりのスピットファイアの機体。現地でも人気なのか、写真を撮る人(フランス人かイギリス人かは不明)が途切れる感じはなかった感じが(とはいえ、母数は小さいので列にはならない)。お触り禁止の表示をほぼほぼ無視して触っていく人たちも多かったですが、そんなフリーダムで大丈夫なんだろうか。
ダンケルクの危機に際し、フランスの救援に向かったイギリスの戦闘機は10個中隊(防衛庁防衛研修所戦史室 著、大東亜戦争開戦経緯(1)より)とのことだけど、その中の1機だったりするのでしょうか。
フランスの博物館にイギリス空軍の飛行機が展示されているのを観ると、劇中でも史実でも「空軍はどこにいる?!(Where is the bloody air force?!)」と言われたRAFだけど、ちゃんと戦っていたんだなあと謎の感動に襲われました。6月4日庶民院でのチャーチルの演説や、その後の語録でも言及されていた通りに。
地上や海上から空軍の戦闘を確認することは困難だったから、イギリス海軍に撃ち落とされた(=フレンドリーファイア)機もあったようなので。イギリス空軍が任務を果たしていることを知っているのは、同じ高度で制空権を得るために戦うドイツ空軍だったりしたら皮肉なことだし、さらには本土に爆弾が落とされまくる(一般市民も死ぬような)BOBで空軍の働きについて誰もが知るようになったのも皮肉なことだし。
<It was gained by the Air Force. Many of our soldiers coming back have not seen the Air Force at work...(1940/6/4 チャーチル演説一部)
ところで、イギリス海峡上空の航空部隊の任務の担当は第11戦闘機群で戦闘機は16個中隊(約200機)、ダイナモ作戦中の1940/5/27に会敵した第74中隊のスピットファイアが11機、第56中隊+第610中隊のハリケーン+スピットファイア20機とバーカーの著書(ダンケルクの奇跡)にあるのだけども(もちろん、これ以外も沢山あるんだろうけど)、この機体がどこの隊のものなのか、そもそもファリアやコリンズの『フォーティス』はどこの隊に所属していたのか。
映画「ダンケルク」の考証もしたレヴィーンの著書『ダンケルク』(ノンフィクションの方)には、ファリアやコリンズたちの所属については明らかになっていないと書いてありましたが、キャラクターに特定のモデルがいない分、想像の翼が広がります。
映画の主人公であるイギリス軍兵士の名前がトミー(演:フィン・ホワイトヘッド)であるように(トミーはイギリス軍兵士を表す俗語。“無名の兵士”の代名詞である“Tommy Atkins”に由来する; wikiより)。
あるいは、私の知人のイギリス人が、「あの映画は僕の祖父の物語でもある」と言ったように(彼の祖父はRAFの爆撃機乗りだった)。
映画の脚本・演出を手掛けたノーラン監督の祖父も大戦中はパイロットをしていたり(戦死している)、ファリアを演じたトム・ハーディーの祖父もダンケルクにいたという事実も含めて、数珠つなぎのように、あるいは網のように個人と物語がつながっていく様が見えてくるようでした。
ちなみに、私の母方の祖父は三菱の工場で機械いじりをしたり太平洋戦争中には海軍に所属してラバウルで戦ったりしてた人なのですが(ヤシの葉っぱで作った服で帰国)、母によると何時頃かに零戦もいじくってたそうで(ほんまかいな)、彼らの祖父の物語を通じて、私の祖父の物語がふっと思い起こされたりしてました。完全に余談。
(閑話休題)
博物館には、ダイナモ作戦の日ごとの推移がイギリス軍・フランス軍の防衛ラインやドイツ軍の包囲網と併せて展示されてましたので、私のようなプロセスが分らない人間にも分りやすかったです。
それにしても、博物館の展示パネルにあった「ダンケルク:勝利か,それとも敗北か?(Dunkirk: Victory or Defeat?」にはドキリとしましたが。
6/1(夕方)にドイツ軍はダンケルクの全周陣地を形成し、6/2に内部に侵入(港から数百ヤードまで接近;大阪朝日新聞が6月3日に伝えるところによると、20kmに迫る)。これを受けて、ダンケルクのフランス軍が行動限界を迎えるとイギリス軍に通知された6/3の翌日の6/4に、ダイナモ作戦は終了。その翌日6/5にはダンケルクのフランス軍(司令官:アブリアル)は降伏し、同市は1945年に解放されるまでドイツの支配下に入るわけで(イギリスに亡命したド・ゴールらによる「輝けるレジスタンス」の始まりでもある)。フランスにとっては長い忍辱ライフの始まりとなったアレコレに、複雑な感情があるのでは….と勝手に推察。
とはいえ、ダンケルクは造船の町であり貿易港を有する町でもあるため、連合軍に対する物資の補給を担う港が失陥したというのは経済的な損失がバカにならないはずで、イギリスにとっても苦しい戦いがこれからも続くわけですが。
博物館のショップには色んなグッズや書籍があったのですが、フランス語の書物が読めないので(恥ずかしながら、今年の5月に旅行用のガイドブックや単語帳/文法のテキスト等を買って始めた程度で、正直、看板やレストランのメニューが読める程度…)、クッキーを買って帰ることに。
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/d5/2f7ec8790516e386f92c3e5ff02e9e6d.jpg" border="0">

勝手にダンケルク煎餅と呼んでいたクッキー。個包装で6個入り。バターの香がよくて配った同僚にも評判が良かった。
駅への道すがら、もう一度プリンセス・エリザベス号の写真を撮り(しつこい)、心残りはイロイロあるものの(海鮮料理食べてないし…ぶつぶつ)、ダンケルク市に別れを告げることに。<2泊3日くらいで日程組めばよかった...。
ダンケルクからカレーへ電車で移動して、トミーたちのように船(フェリー)でドーバー海峡(フランスではカレー海峡と呼ぶらしい)を渡り、イギリス(ドーバー)へ移動します。
「作戦完了。我、ドーバーに帰還す。(Mission completed. Returning to Dover.)」by テナント大佐(英海軍大佐。後に海軍大将。ダイナモ作戦においての働きにより、ダンケルクのジョーと呼ばれる。)
<ダイナモ作戦概要>
1940年5月26日〜1940年6月4日に実施
参加した艦船:約40(イギリス、フランス、オランダ、ベルギー)
参加した民間船:約940(正確な数は不明)
救出されたイギリス兵:33万8226人(ラムゼー提督報告)
救出されたフランス兵士:2万525人(ラムゼー提督による報告)
以上、第二次世界大戦マップ(スフィフト著)、及び帝国戦争博物館(IWM)データベースより抜粋

ダンケルクの海岸線とリトルシップたちの航路などのメモ書き
<イギリス海軍は脱出のための海路を3つ(X,Y,Z)設定した。劇中のドーソン親子のモデルになったライトラー親子はXルートを使ってラムズゲートへ帰還するルートを選択したとされる(Ramsgate maritime museum展示パネルより)。
*上図は、Museum Dunkerque 1940 Operation Dynamo展示パネル、及び、ダンケルク海岸線(イギリス国立公文書館 No. ADM 1/9997)を基にガバ鳥がてきとうにメモ書き。
(ダンケルク編終わり。ドーバー海峡編に続く)
Ref)
1. ジョシュア・レヴィーン(2017年)『ダンケルク』(武藤陽生 翻訳)ハーパーコリンズ・ジャパン社
2. A.J.バーカー(1980年)『ダンケルクの奇跡 イギリスの大撤退作戦』(小城正 翻訳)、HAYAKAWA nonfiction
3. 真砂 博成(2001年)『5月の嵐 ドイツの電撃作戦とダンケルク』学研M文庫
4. 「ダンケルク海岸線(イギリス国立公文書館 No. ADM 1/9997)」、マイケル・スウィフト他(2015年)『第二次世界大戦作戦マップ』(福田 希之 他 翻訳)河出書房新社
5. ジョン・ウィリアムズ(昭和46年)『パリ陥落<ダンケルクへの敗走>』(宇都宮直賢 翻訳)、サンケイ新聞社出版局
6. MUSEE DUNKERQUE 1940 OPERATION DYNAMO公式HP <http://www.dynamo-dunkerque.com/> (2018-04-23参照)
7. 山室良(2017年8月28日付)「いま,ダンケルクが熱い! ……ような気がするので,本物のダンケルクへ行ってみた」<https://www.4gamer.net/games/138/G013889/20170825090/> (2018-04-23参照)
8. Dunkirk Battlefield tour公式HP <https://www.dunkirk-tourism.com/Group-travel/Group-travel-Adults/Group-trips-Adults-Tours-and-visits/Dunkirk-battlefield-tour> (2018-04-23参照)
9. イギリス国立公文書館(The National archives) 公式HP (Cabinet papers; The fall of France) <http://www.nationalarchives.gov.uk/cabinetpapers/themes/fall-france.htm> (参照2018-04-24)
10. 帝国戦争博物館公式HPアーカイブ(Imperial War Museum; IWM)”WHAT YOU NEED TO KNOW ABOUT THE DUNKIRK EVACUATIONS” < https://www.iwm.org.uk/history/what-you-need-to-know-about-the-dunkirk-evacuations>
11. 帝国戦争博物館公式HPアーカイブ(Imperial War Museum; IWM)” 7 PHOTOS FROM THE DUNKIRK EVACUATIONS” < https://www.iwm.org.uk/history/7-photos-from-the-dunkirk-evacuations>
12. ウィンストン・チャーチル(2001年)『第二次世界大戦』第1巻(佐藤亮一 翻訳)河出書房新社
13. ウィンストン・チャーチル(2001年)『第二次世界大戦』第2巻(佐藤亮一 翻訳)河出書房新社
14. ウィンストン・チャーチル(1940年6月4日)『We shall fight on the beaches』<https://www.youtube.com/watch?v=MkTw3_PmKtc&t=59s>(2018-04-23参照)
15. WinstonChurchill.org公式HP、『We shall fight on the beaches』<https://winstonchurchill.org/resources/speeches/1940-the-finest-hour/we-shall-fight-on-the-beaches/>
16. 大阪毎日(大毎)新聞「獨空軍、マルセイユ始め南仏各地へ初の空襲 ダンケルクへ余す5里」、1940年6月3日、1版 (明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)
17. 読売新聞「英兵撤退完了」、1940年6月5日、1版(明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)
18. 読売新聞「ダンケルク要塞占領 海岸線独軍に帰す」、1940年6月5日、1版(明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)
19. 「フランス敗れたり」、『画報近代100年史第15集』1952年、p1214、国際文化情報社
20. 防衛庁防衛研修所戦史室(昭和48年)『戦史業書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯(1)』朝雲新聞社
21. 伯林、昭和15年6月7日、「獨軍のダンケルク占領と連合国の経済的被害」、『獨逸事情』、昭和15年7月号