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鳥の巣頭の世迷い言

読書音楽観劇、ハゲタカ廃人、そしてアラシックライフをエンジョイしている三十路のお気楽会社員・ガバ鳥のblog

旅ケルクの記録10(ロンドン編 その3)@ダンケルク ロケ地+ゆかりの地を巡る旅

2018年08月15日 23時46分17秒 | ダンケルク
<旅行4日目つづき>

さて、RAF museum Londonで時間をすごした私ですが、なれない頭脳労働に頭が痛くなってきてしまい(ふだん使わないから)、夕方に博物館を出て、ロンドン市街地に戻りました。
←帰国してから、撮影した飛行機の写真の撮り逃し、不備に気付いて撃沈する。もうちょっと粘ればよかったああああ。

といっても、戻った時間は17時過ぎ頃で、まだホテルに帰るには早い時間だし買い物だけするのは時間がもったいないし…ということで、急きょ、チェルシーにあるNational Army museum(国立軍事博物館)に向かいました。ロンドン ヴィクトリア駅から徒歩で10分程度のところにあります。
RAF museumで空組要素を頭に詰め込んだので、今度は陸組要素を詰め込もう…と思った次第。





こじんまりとした博物館。RAF museumやIWMより慎ましく小さい。

手荷物検査を受けた後、展示スペースへ向かいました。


さすがはパックスブリタニカの一時代を築いた国とあり、とくに19世紀の展示物が豊富です。
IRAがついこの間まで国内で活動していた国とあって関連の資料も豊富でしたが、ダンケルク関連に焦点をしぼって、展示物をみていきました(深堀すると視点がぶれる…というのと、我が貧弱なる能ミソが過重労働でストライキを起こしていたので)。


スコットランド部隊の軍帽(バルモーバルボンネット:ボンネットは帽子の意)
展示物の中に、見覚えのある帽子をみかけたので激写。WW II中のスコットランドの部隊が被っていた帽子なのですが、ダンケルク劇中でもハイランダーズの一人が被ってた帽子に似てるような…。
劇中のアレックスが所属していたハイランダーズはスコットランドの部隊ですが、1940年の在フランスのイギリス軍部隊のハイランダーズは以下の通り。そのうちの誰かがこれをかぶっていたんでしょうか。ちなみにこの帽子は2000年代に廃止されたとのこと。

<在フランスのイギリス軍のハイランダーズ>
・第51歩兵師団;1940年5月10日にフランス軍の指揮下でザール戦線に参加。のちにソンム川南方の戦闘に参加
   第152歩兵旅団 
    シーフォース・ハイランダーズ第2大隊
    シーフォース・ハイランダーズ第4大隊
    クイーンズ・オウン・キャメロン・ハイランダーズ第4大隊
   第153歩兵旅団
    ゴードン・ハイランダーズ第1大隊
    ゴードン・ハイランダーズ第5大隊
 第154歩兵旅団
    アーガイル&サザランド・ハイランダーズ第7大隊
    アーガイル&サザランド・ハイランダーズ第8大隊

・第52師団
  第157歩兵旅団
    ザ・グラスゴー・ハイランダーズ第1大隊


WWII時にイギリス陸軍が使用していたメタルのヘルメット。重そうだけど、首が凝らないんだろうか。


WWII時にイギリス陸軍が使用していたドッグタグ。RAF museumでみたタグとほぼ同じ。ここら辺は陸軍/空軍の区別がなかったのかしら。残りの海軍のドッグタグを拝見したいところ。


WW IIでイギリス陸軍が使っていた銃とパネル。銃が近代化されていくにつれて訓練期間が長くなっていく..というような説明書きと一緒に展示されてました。グリーンになるのに18ヶ月。思ったより熟練するのに時間がかかる。そんなに育てる時間があったのかなあ。徴兵された若者たち(いわゆる職業軍人ではない人たち)は、劇中のトミーのように、銃を撃つのがスムースにいかなかったのでは。


<番外編>




ナイチンゲールのランプと胸像。イギリス陸軍の博物館だし、何か関連した展示物があるかなー…と思ってたら、やっぱりありました。なんといっても、統計学を駆使して戦地の病院における兵士の死亡率を衛生管理の改善によって低下させた立役者ですもんね。慈悲の心でもって看護…とかいうイメージより、キレッキレの統計学者であった部分に、医療系社畜の端くれの私は心がもっていかれます。当時パスツールが主張していた微生物による感染症を否定していたものの、統計学的分析により、感染制御の基礎を理論を構築なしえたという凄い人だし(今回は時間がなくてナイチンゲール博物館へ行けなかったのが本当に残念)


というわけで、駆け足でしたが、ざっくりとnational army museumを巡ってまいりました。
(他にもいろいろ展示があったんですが、今回のテーマとはあまり関係がなさそうだったので記載を省略)

博物館を出た後、スーパーでその日の夕ご飯、次の日の朝ご飯+お弁当にするパンを買って、帰宅しました。
(本当はもっと買い物をしたかったけど、RAF museumで大量にグッズを買ってしまい、これ以上の買い物は不可能でした…orz)

次の日は始発で、ピーターやドーソンさん、ジョージたちの拠点のウェイマスと、トミーとアレックスたちが機関車に乗り込んだ駅であるスワネージへ向かいます。


旅行4日目の移動)
ロンドン ヴィクトリア駅→コリンデール駅(地下鉄)
コリンデール駅⇔RAF museum(片道徒歩20分程度)
コリンデール駅→ロンドン ヴィクトリア駅(地下鉄)
ロンドン ヴィクトリア駅⇔National army museum(片道徒歩15分程度)

旅行4日目に歩いた+走った距離)
Iphoneに入っているアプリで測定された距離:17.4 km(ロンドン市内)



・蛇足
そういえば。
丁度この夜、サッカーワールドカップでイングランドvsコロンビアの試合があり、イングランドの試合を多くのロンドン市民?はTV観戦していた模様。「おおー!」とか「ぎゃああ!」とか、とにかく夜中までイチイチうるさい(笑)。別に私が宿泊していたホテルのすぐ側の道路で若者が騒いでいた…という訳ではないのですが。
そしてイングランド勝利の瞬間、こんどは複数の船の汽笛?が鳴り響いてまたうるさい。←車のクラクションでなくて、汽笛だったと思う。
ダンケルク劇中でも、例えばリトルシップがダンケルクに到着し始めた時に海軍の船が汽笛を鳴らすシーンがありましたけど、あんな感じで。




1. ジョシュア・レヴィーン(2017年)『ダンケルク』(武藤陽生 翻訳)ハーパーコリンズ・ジャパン社
2. A.J.バーカー(1980年)『ダンケルクの奇跡 イギリスの大撤退作戦』(小城正 翻訳)HAYAKAWA nonfiction
3. National Army museum公式HP <https://www.nam.ac.uk/> (2018-04-24参照)
4. 吉田 宗平(2016)『ナイチンゲールは「白衣の天使」だったのか?統計学者ナイチンゲールとその歴史的背景』関西医療大学
5.Florence Nightingale museum公式HP<http://www.florence-nightingale.co.uk/?v=24d22e03afb2> (2018-04-23参照)
6.地球の歩き方 ロンドン2017-2018(2017年)ダイヤモンド・ビッグ社
7. アローヘッド(2017年) Head dress (1923〜現在)、Arrow-Head vol.23(個人同人誌)

旅ケルクの記録9(ロンドン編 その2)@ダンケルク ロケ地+ゆかりの地を巡る旅

2018年08月14日 05時11分45秒 | ダンケルク
<旅行4日目>


コンチネンタルスタイルのホテルの朝食(ロンドンのホテルとしては安い部類にはいるホテルですが、紅茶+牛乳は美味しかった!)

ロンドンのB&Bで朝を迎えた旅行4日目。
簡単な朝ご飯をもりもり食べた私は、うきうきと地下鉄に1時間ほど乗ってロンドン郊外のコリンデールへ出かけました。『ダンケルク』の劇中でファリアやコリンズが属していた”Bloody air force” こと、RAF(イギリス王立空軍; Royal Air Force)の博物館、Royal Air Force (RAF) museumに行くためです。今年で創立100周年ということもあり、様々な企画やイベントも開催されつつある賑々しい雰囲気を味わいながら、博物館へ向かいます。看板やフラッグが道にあるので迷いようがないという分かりやすさ。


駅を出たすぐ側の道路にある看板。ピクトグラムが可愛い。


museumへと連なる100周年のフラッグ。有刺鉄線みたいな飛行機雲のイラスト。

RAF100周年ということで、あちこちにフラッグが立ち並んでいるのを見ると、「空軍はどこにいる?!(Where is the bloody air force?!)」と、劇中でも、また史実でも、味方であるイギリス軍兵士にも罵られたり喧嘩になったというRAFの過去を考えると、(RAF兵士たちの)苦労が報われて良かったと思うべきなのか。
もちろん、ダンケルク撤退が完了した1940年6月4日の夕方に行なわれたチャーチルの演説や、その後のチャーチルの回想録によって、RAFの働きは言及されてはいる訳ですが。
『It was gained by the Air Force. Many of our soldiers coming back have not seen the Air Force at work.』(1940/6/4 チャーチル演説一部)

『(ダイナモ作戦において)イギリスとドイツの空軍の資質が直接試されることになった。我が戦闘機司令部は大きな努力を払って、現場の上空を絶えず警戒し、勢力において優る敵と戦った。刻々とドイツ戦闘機隊と爆撃機隊に食い込み、大きな損害をあたえ、分散させ、追い払った。(中略)不幸にして、海岸の軍隊は、この勇壮な空中戦をほとんど見ていない。多くの場合、何マイルも離れたところや、雲の上で行われたからである。(中略)陸軍の中には、空軍に対して激しい怒りをぶちまけるものもあり、ドーバーやテームズの港に上陸した軍隊のあるものは、何も知らないところから、空軍の制服を着た軍人を見ると、悪口を浴びせた。』(W. チャーチル『第二次世界大戦』より抜粋)

一般市民、あるいは兵士たちのRAFへの印象はダンケルクの数か月後に起こったバトル・オブ・ブリテン(ドイツ空軍による英国本土の攻撃)以降に変わったわけなのですが、それはつまり空軍の活躍+犠牲が一般市民の眼に見えるまでにフロントラインが迫ってきたということであり、そもそもの軍隊の存在意義を考えると皮肉と言うかなんというか(国民の生命および財産の保護...)。
吉田茂の防衛大学の学生への訓示を併せて思い出して、なんとも言えない気分になったりも。
<君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい。

とはいえ、何のための道具なのか、何を目的に開発されたのか、などを差し置いても、やはり戦闘機やその製造技術、それを乗りこなすために鍛錬をしたパイロットたちや周辺のスタッフたちは、どうしようもなくカッコ良いと思えるものです。政治とか軍事とか、いわゆる『難しい事情』を忘れてワクワクするというか。物理的にとんでるのってそれだけでも楽しい。
スピットファイア開発設計の技師であるミッチェルがスピットファイアを開発した過程には興奮しますし。特に、エアレースのシュナイダー・カップで世界記録のスピードを他国メーカーと競っていく過程、ロールスロイス社のエンジンとタッグを組む過程、1936年にスピットファイアが初飛行し、イギリス空軍に実戦配備されるまでの過程等には、宮崎駿の映画「紅の豚」や「風立ちぬ」を思い出して、おもわずニヤリとしてしまいます。
(そしてもちろん、ドイツのメッサーシュミット教授がメッサーシュミットを開発した過程も、同様に)

劇中のドーソンさんではありませんが、スピットファイア開発メンバーやパイロットたちは、きっと自分たちの乗った飛行機の『口笛のようなエンジン音』、’Sweetest sound’をとにかく愛してやまなかったでしょう。1936年にスピットファイアの試作機に乗ったRAFパイロットたちはひどく狂喜したと言いますが、『スピット』という愛称の優れた同機に興奮を覚えたことでしょう。最初にスピットファイアが配置された第19中隊(第12戦闘機集団)のパイロットたちの心情はいかばかりか。
『現在、飛んでいる「スピットファイア」はほんの一にぎりしかない。空を飛ぶときにおこる、あのなつかしい口笛のようなひびきをきくこともめずらしい。しかし、その後わたくしは、ときどきなつかしい操縦席にすわって飛行するのだが、そのとき「マーリン」発動機の音が、あの勇敢にたたかった日々を思いださせてくれるのである。』(ジェームズ・エドガー・”ジョニー”・ジョンソン英国空軍少将(昭和48年当時)、元RAFのスピットファイアのパイロットで、かつイギリス空軍きってのエースパイロット:ジョン・ベター著、『スピットファイア』(昭和48年)より抜粋)

さて、そんなこんなで歩いて行って、RAF博物館に到着です。道路からフェンス越しに見えるスピットファイア(レプリカ)やハリケーン(レプリカ)にワクワクしながら入場です。


ハリケーンのレプリカ


入口からしてデザイン性がある。陸上自衛隊の広報センターの「りっくんランド」とは雰囲気が違う感じにやや戸惑う。管理する団体や目的が違うといわれればそれまでなんですが。←シン・ゴジラのロケ地巡りで行ってきたので。それにしても、元が空軍基地の敷地に建てた博物館なだけあって、敷地は広い。

入ってすぐの手荷物検査を受けた後、さっそく突入。
なんといっても広い敷地に展示する建物が複数点在しており、一つ一つの建物の中には展示品が沢山あるので、効率よく行かねばなりません。集中して見るのは体力も使いますし。第二次世界大戦(WW II)に焦点をしぼり、じっくりねっとり見ていけば良い…。
などと思っていたのですが、RAFの制服やら何やら、スピットファイアやロールスロイス製エンジンに遭遇して興奮してしまい、効率とか回る順番とか要領が、すっ飛んでしまいました。だって、そこにあるんだもの、本物が。



WW II頃のドッグタグ。ファリアやコリンズがつけてたのかもしれないとhshs。メタルじゃないのが意外。←いままで見てきた映画の影響+不勉強






マスコットやチャーム


兵士が使用していたバイオリン。

展示品にWW I時に兵士が愛用していたバイオリンがあり、一瞬驚いたのですが、考えてみればRAFに入隊するのは比較的上流の家柄の人が多かったそうなので、小さいころから教養の一環として習ってた人も多いかも。コリンズはともかく(Oilを「おいう」と発音するスコットランド出身!)、ファリアはソフィスティケートな都会っ子のスメルがするので、小さい頃に嫌々ながらも習っていたらと想像すると面白いかも。
『空の勝利の鍵はチームワークにあった。スピットファイアのパイロットたちは、生活も遊びも訓練も戦いも、つねに一緒にやった。』とRAF元パイロット(ジョンソン少将:昭和48年当時)も言及するくらいだったので、あんがいファリアが弾くバイオリンに耳をかたむけるコリンズ…みたいな光景を、どこかで目にすることはあったのかもしれません(←妄想を真顔で断言するオタク)。
それにしてもマスコットや小物がいちいち可愛い(イギリス人、熊が好きだなあ)。


脱出を想定している人(=パイロット)向けの脱出用キット。パイロットが占領地で捕虜になった場合に一般人に紛れて脱出するためのもの。捕虜になった場合、地図(シルクに印刷された地図←折りたたみ自由だし、紙よりは怪しまれない)が回収されることもあったとか。また、こうした地図は本のカバーやチェス盤、トランプカードなどに挟み込まれて秘密裏に捕虜収容所に持ち込まれたそう。パイロットのブーツも切って普通の靴と変わらない体裁にして逃げられるようにした仕様になっている。(最悪な状況の中で、ベターな状況に近づけるよう選択肢が与えられてるというのはいいな...と思ったり。最悪を想定し、打開するための手段をきちんと考え、そのための教育訓練が実施されているというのが素晴らしい!覚悟を教えるのでなくて!)



スピットファイアMkVb

それにしても、博物館に展示されるものとあって、スピットファイアは綺麗な状態で保管されていました。ダンケルクのダイナモ博物館に展示されていたボロボロのスピットファイアとは雲泥の差過ぎて、思わず「うっ(泣)」となりました。勝利の女神の祝福をうけた者と受けなかった者の差異の大きさに泣けてきたというか。
フランスのダイナモ博物館(ダンケルク)に展示されてたスピットファイアのプロペラは途中からポキンと折れてたし、ハリケーンなんて、プロペラ一つだけになってたし(中身はどこへ?海の中へ?)。
博物館に展示されているのは撃墜されずに生き残った、あるいは出撃しなかった等、いろんな理由があるのでしょうが、やはり外も中身も無事であって欲しいもの。
<ダイナモ博物館で展示されていたスピットファイア+ハリケーンの展示写真については拙ブログ『旅ケルクの記録5(ダンケルク編 その3)@ダンケルク ロケ地+ゆかりの地を巡る旅』に。


バッテリー


ロールスロイス「マーリン3」エンジン
Sweetest sound…とドーソンさんのように言ってみたくなるロールスロイス社製のエンジン。このエンジンとタッグを組んだスーパーマリーン社(設計技師:ミッチェル)の飛行機は世界一のスピードをマークし、やがて戦闘機「スピットファイア」へ繫がっていく。
因みに、上述の元RAFパイロットのジョンソンも同じようにスピットファイアのエンジン音をSweet soundと言っている。
<“I found the engineer officer and together we had a look at her, gleaming and bright in a new spring coat of camouflage paint. Later I took her up for a few aerobatics to get the feel of her, for this was the first time I had flown a Mk IX. She seemed very fast, the engine was sweet and she responded to the controls as only a thoroughbred can. I decided that she should be mine, and I never had occasion to regret that choice.” James Edgar “Johnnie” Johnson; His first encounter with EN398 (Spitfire)





フォーティス隊も愛用?していたスピットファイアMkI


給油中?のスピットファイア。思ったよりも給油する燃料タンクの容量が小さいのに慄く。

それにしても、スピットファイアの実物が思ったよりずっと小さいことに驚愕しました。私が日本からヨーロッパへ来るときに乗ったスーパージャンボとは本当に全然違うんだなあと。スピットファイアの弱点は航続距離(MKI型680km、MKIIa型651km)が短いこと…とwikiやベター著の『スピットファイア』に載ってた情報が頭をかすました。劇中で3.空(1 hr)とあったけど、さもありなん。飛行可能時間は90分なんだもの。
フォーティス隊長が「燃料を残せ」と言っていたのはダンケルク撤退戦でスピットファイアは海の上で交戦するということもあったんでしょうか。燃料切れで海に落ちたら、あとは英独どちらかの海軍に拾ってもらうしかなくなるから。
敵に撃たれて海上に不時着する直前のコリンズが「15ガロン!」と言っていた時点でファリアの燃料はギリギリだったのでは…などと思ったり(帰らなかったのがファリアのファリアたる所以なのでしょうが)
ちなみに、スピットファイアの機関銃はブローニング銃と呼ばれ、もとはコルト社の機関銃を導入していたが、イギリス国内で生産が開始されて名前になったのだとか。スピットファイアのパイロットは、ときに相手パイロットの白い歯が見える距離まで近づいて撃ったとの話も。
『スピットファイア』の著者ベター(←元カナダ空軍のスピットファイアのパイロットでもある)によると、射撃性能はドイツのメッサーシュミット(7.3ミリ機関銃)より良かったとのことだけど、ここはイギリスでもないドイツでもない、第三者の意見を聞きたい所。←イギリス・ドイツの各戦闘機パイロットによる著作を見る限り、互いに自分の所の飛行機の性能が良いと主張してる感じがするし。

ダンケルク劇中ではフォーティス隊(+ちらっと一瞬だけ見えた爆撃機ブレナム)しか見えなかったRAFですが(まさに「空軍はどこにいた?!」状態)、実際のダイナモ作戦においては、スコットランドの部隊をのぞく全ての部隊の戦闘機が出撃したということで(RAFのホームページで適当に中隊の履歴を検索すると、結構な部隊の戦歴にDukikが入っている)、実際に200機近い飛行機と80名以上のパイロットがが失われたことを考えると、フォーティス隊以外にも観客の目には見えないだけで戦っていたのかも…と思ったりもします(それこそ、観客の私たちからも空軍がどこで戦ってたのか見えてなかったのかも…なんて思ったり)。
ダイナモ作戦まではパイロットの射撃訓練も組織的に充分につめていたが、それ以降は自主性にまかせるしかなくなったという主旨の話もありますが、この作戦の後にBOBがあり、イギリス以外の国(ポーランドやベルギー等)からの亡命パイロットや義勇兵の活躍を聞くと、RAFの慢性的なパイロット不足(=死亡率が高く入れ替わりが激しい)が伺えます。
とはいえ、慢性的なパイロット不足(リソースの不足)については、それこそドイツ空軍でも日本の軍隊でも同じだったわけですが。



黄色のノーズが目印のメッサーシュミット
劇中では黄色いノーズでしたが、ダイナモ作戦が実施された1940年6月の時点では黄色に塗られていなかったのだとか(映画上の演出)。
1935年に初飛行、1938年から戦闘に参加したドイツの誇る戦闘機であるメッサーシュミットは、当時の世界トップクラスの性能を誇る戦闘機で、イギリスの戦闘機ハリケーンを圧倒した。空飛ぶサラブレッド。ドイツ空軍の快進撃を担ったといっても過言ではないのかも?エンジンはダイムラーベンツ社。エンジンが重く、空中での小回りする能力(旋回する能力)はスピットファイアより、やや劣っていたとか。
『あまりにも数が少なく、出現がおそすぎた』(マーチン・ケイディン著『メッサーシュミット』より抜粋)と言われていたくらいなので、歴史にifは禁物とは言いますが、メッサーシュミットが大量生産されていたら、あるいはヒトラーが運用を誤っていなければ、ドイツの快進撃はもっと続いていた…のかもしれません。こう考えると、兵器にかぎらず、システムや製品の開発やオペレーションをマネージメントをする人間のクオリティーって大事になってくるなあと思います。知らんけど。


背中あわせ?のように配置されてるスピットファイアとメッサーシュミット。とかく比較されがちな機体だからだろうか。物語のワンシーンかと思ってしまいました。スピットファイアと戦ったはずの日本の零戦がないのは、展示のコーナーがドイツ空軍とイギリス空軍の空中戦であるバトル・オブ・ブリテン(BOB)のコーナーだからか?BOBコーナーには、戦闘機集団の司令官にして防空レーダーシステムを構築した立役者のダウディング空軍大将や、ロンドンを含むイングランド南東部の防衛にあたった第11飛行隊司令官のキース・パーク少将の写真も。
<イギリス空軍は防衛にあたり空域をわけ、飛行場と管制基地を配置した。第11飛行連隊がロンドンを含むイングランド南東部、第12飛行連隊がイングランド中部、第10飛行連隊がイングランド南西部となる。こうした空域はさらにいくつかのセクターに分けられ、セクターごとに管制基地(高空用レーダー基地、低空用レーダー基地)が配置され、当時としては最新の防空レーダーシステム(ダウディングシステム)を構築した。


ピーターのお兄さんが乗っていたホーカー ハリケーン。
メッサーシュミットはハリケーンを圧倒したと『メッサーシュミット』にもあったが、ダンケルクの博物館に展示してあったハリケーンのプロペラの一部を思い出して、泣けてくるなど。


劇中ではダンケルクのビーチ上のイギリス兵+フランス兵たちにぼろんぼろん爆弾を落として行ったドイツ空軍爆撃機ユンカース ストゥーカ。




劇中で掃海艇に爆弾をボロボロ落としていたドイツ軍の爆撃機ハインケル。乗務員の乗る箇所(風防の部分)が金属製ではないが、彼らの安全が気になるところ。←撃たれてエンジンは無事だがパイロット死亡で墜落しそう。


イギリスの爆撃機ブレナム。ダンケルク劇中で一瞬だけ登場。ジョージの頭上のはるか上空をフランス→イギリスへ移動。








WWII当時のパイロットの服装。ファリア大尉のタイプ。RAFの1940年代のパイロットの写真を見る限り、ファリアみたいな服装(セーター+制服+ジャケット)だったりコリンズ少尉みたいな服装(シャツ+ネクタイ+制服)だったり、さまざまだったのですが、イギリスには衣替えみたいな規定はないのかな?夏服と冬服が混じってフリーダムな感じがしますが、他の国の空軍もこんな感じだったのかしら。


股引みたいなパイロットの下着。マネキンが金髪なのもあってコリンズが着替えてるのかと思いました。


RAFパイロットたちの戦いを顕彰したステンドグラス。マンストン(BOBにあってRAFの前線基地として機能した)にあるスピットファイア&ハリケーン博物館にも、ステンドグラスを撮影してプリントアウトしたものが展示されてましたが、それだけRAFにとってはとても象徴的で大事なものなのかも。


飛行中隊のバッジ。各中隊には独自のマークと銘(モットー)があった。
ちなみにスピットファイアが初めて配置された第19中隊のバッジはイルカ。銘はラテン語で「Possunt quia posse videntur; They can because they think they can」。この中隊はダンケルクにも出撃している。←最初に第19中隊のイルカを見た時、赤塚不二夫が書いたウナギイヌみたい…と思った。ごめん。


平和が一番だ..と思いながら芝生に寝転ぶ。←オタ活動は世情が安定してないと難しいしね!


<蛇足的な>
そういえば。
H.I.S Londonのツイッターアカウントさん(@his_london)が、スピットファイアのコックピット体験コーナーを有料(10ポンドていど)で今年の9月までの期間限定でやっているとのツイートをしているの見て、私、うっきうきしながら、体験コーナーへ向かったんです。うっきうきしながら向かった先にはExperienceと書かれた看板があり、いざっと乗り込んで行った先に…スピットファイア、ありませんでした。RAF創立100周年ということで、そちらのパレードに駆り出されていたそうです(7月9日にパレードがあったとか)。Closedの表示を恨みながら見てました(しくしく)



恨めしく睨む視線の先(空っぽのスペース!)


恨みをひとまずカフェで一休みして晴らす。素朴な味のケーキと珈琲。展示物は多いし敷地は広いし、で休憩をはさみつつ見学をした。


ということで、朝10時からたっぷりと集中力と体力が続く限り、RAF博物館を見て回りました。少しだけ時間が中途半端にあまったのでNational army museumに立ち寄りましたが、それは次の記事にて。



(ロンドン編3へ続く)


<スピットファイアMK I概要>
発動機:ロールス・ロイス「マリーン」3 1030馬力
武装:7.7 mm機関銃8
最高時速:583 km/hr(高度5600 m)
上昇速度:770 m/分
実用上昇限度:9670 m
航続距離:925 km
全備重量:2950 kg
全幅:10 m
全長:9.11 m

ジョン・ベダー(昭和46年)『スピットファイア』(サンケイ新聞社出版局)より抜粋


<メッサーシュミットMe109E3概要>
発動機:ダイムラーベンツ601A 1100馬力
武装:7.9 mm機関銃 2、20 mm機関銃 3
最高時速:570 km/hr(高度3690 m)
上昇限度:11250 m/分
航続距離:663 km
自重:2003 kg
全備重量:2502 kg
全幅:9.71 m
全長:8.47 m

マーチン・ケイディン(昭和46年)『メッサーシュミット』(サンケイ新聞社出版局)より抜粋



1. ジョシュア・レヴィーン(2017年)『ダンケルク』(武藤陽生 翻訳)ハーパーコリンズ・ジャパン社
2. A.J.バーカー(1980年)『ダンケルクの奇跡 イギリスの大撤退作戦』(小城正 翻訳)HAYAKAWA nonfiction
3. ジョン・ベダー(昭和46年)『スピットファイア』(山本 親雄 翻訳)サンケイ新聞社出版局
4. マーチン・ケイディン(昭和46年)『メッサーシュミット』(加藤 俊平 翻訳)サンケイ新聞社出版局
5. バトル・オブ・ブリテン 戦闘機集団レーダー網(英国公文書館蔵)、マイケル・スウィフト他(2015年)『第二次世界大戦作戦マップ』(福田 希之 他 翻訳)河出書房社
6. haru /在処(2017年)『On my way』自費出版
7. 地球の歩き方 ロンドン2017-2018(2017年)ダイヤモンド・ビッグ社
8. Royal Air Force museum公式ガイドブック(2018年)『RAF museum suvenir book』
9. Wikipedia 「スーパーマリーン スピットファイア」<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%B3_%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%A2>(2018-08-09参照)
10. Wikipedia 「No.19 Squadron 」<https://en.wikipedia.org/wiki/No._19_Squadron_RAF>(2018-08-09参照)
11. Wikipedia「ジョニー・ジョンソン」<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3>(2018-08-09参照)
12. Bryan Legate (2015年10月31日) 『Heraldic Badges: Halloween edition』Royal air force (RAF) museum <https://www.rafmuseum.org.uk/blog/heraldic-badges-halloween-edition/>(2018-08-12参照)
13. イギリス空軍博物館(Royal Air Force museum)公式HP <https://www.rafmuseum.org.uk/>(2018-04-23参照)
14. イギリス王立空軍(Royal Air Force)公式HP <https://www.raf.mod.uk/>(2018-08-13参照)
15. Bill Haward(2015年)『What the RAF Airman Took to War』Shire
16. Johnnie Johnson (初版1956年、再版2010年)、『WING LEADER』Crecy Publishing社
17. The telegraph (2001年2月1日付) Air Vice-Marshal J E 'Johnnie' Johnson <https://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/1320495/Air-Vice-Marshal-J-E-Johnnie-Johnson.html> (2018-08-13参照)
18. Bill Gunston (2001年1月31日付) ‘Johnnie Johnson’ The guardian <https://www.theguardian.com/news/2001/feb/01/guardianobituaries2> (2018-08-13参照)
19. Mrtin Waligorski (2010/4/16)「Johnnie Jonson’s Spitfire」The spitfire site <http://spitfiresite.com/2010/04/johnnie-johnsons-spitfire-revisited.html> (2018-08-13参照)
20. イギリス空軍の脱出地図(英国公文書館蔵)、マイケル・スウィフト他(2015年)『第二次世界大戦作戦マップ』(福田 希之 他 翻訳)河出書房社
21. ウィンストン・チャーチル(2001年)『第二次世界大戦』第1巻(佐藤亮一 翻訳)河出書房新社
22. ウィンストン・チャーチル(2001年)『第二次世界大戦』第2巻(佐藤亮一 翻訳)河出書房新社
23. 君山(それはエドワルダに訊いて)(2018年)『Tell me, your thinking about DUNKIRK』(個人同人誌)

旅ケルクの記録8(ロンドン編その1)@ダンケルク ロケ地+ゆかりの地を巡る旅

2018年08月07日 22時14分21秒 | ダンケルク
<旅行3日目つづき>

さて、ドーバー駅を出発してロンドン ヴィクトリア駅に着いた私ですが、いったん宿泊予定のB&Bに荷物を置いてから、地下鉄をつかってロンドンブリッジ駅へ向かいました。
熱中症だったからゆっくりホテルで休んでいよう…などと殊勝なことを考えていたのですが、ホテルの部屋に冷房がついていない環境(*)なのを確認するや否や、外に出ることに。
(*)ロンドンのホテルの多くは冷房が設定されていないとか。私のホテルも例によって暖房のみの設置。

作ったばかりのオイスターカードを張り切って使って地下鉄(tube)に乗り込み、行った先はロンドンブリッジ近くにあるHMSベルファスト号(イギリス海軍の退役船)。ロンドンの地下鉄に乗ることは初めてでしたが、ドラマ「SHERLOCK」や映画007シリーズ、映画「ピーターラビット」を観ていたお陰?か、(フランスよりも)ビクビクせず、スムースに乗り降りすることができました。見覚えがある、馴染があることって意外と大事だ。


「SHERLOCKのシャーロックとジョンが爆弾入りの地下鉄で奮闘してたよなあ。確か、この座席の下に爆弾が設置されてて…」などと思いながら乗ってた地下鉄(←物騒な妄想をする乗客)

さて、地図アプリ(Citymapper)という文明の力をおおいに利用した私はロンドンブリッジ駅に無事に到着して(方向音痴の私にしては珍しく!)、ベルファスト号に到着することはできました。しかし残念なことに、見に行った時点で閉館しており内部を見学できなかったので、川岸から外側を眺めるのみに。
この船は1939年の就役から1963年の退役まで、D-Day(ノルマンディー上陸作戦)等の第二次世界大戦、朝鮮戦争等の実戦で使用されてきた軽巡洋艦になりますが、1940年のダイナモ作戦には参加しておりません。でも、その頃に就役したんだったら、ボルトン中佐たちにはご縁があったかも。案外、ボルトン中佐が無事に帰ってこれたら、こういった船に乗ってたりしたんでしょうかね。
史実版のボルトン中佐こと、テナント英国海軍大佐(ウィリアム・ジョージ・テナント)は、後に艦長として提督として無事に第二次世界大戦を戦い抜いていったのですが、ボルトン中佐も犠牲にならず、ちゃんとフランス兵と一緒に帰ってきて欲しいところ。
巡洋艦といえば、劇中で、フランスに向かうムーンストーン号とすれ違ってたイギリス海軍の船も巡洋艦だったなあ。


茶色×茶色なテムズ川に浮かぶ軽巡洋艦ベルファスト号


同じくベルファスト号。メンテナンスのお蔭か?綺麗な船体

ベルファスト号は1939年の就役以降、第二次世界大戦や朝鮮戦争等に参戦してきた船で、幾度も被弾はするが、幸運にも撃沈されず、1963年の引退後にもスクラップにもされず、こうしてテムズ川に停泊・展示されている船です。これが戦勝国の特権なのか、それとも単純に資料を評価・保管する高い術と文化的背景をもってきたイギリスならではなのか(なんといっても大英博物館のある国で、博物館・美術館の入場料が無料の国!)。
連合艦隊旗艦・三笠を引退後にろくに保守管理もせずダンスホールとして使用して荒廃させ、(敵軍である)連合軍のチェスター・ニミッツ提督(太平洋戦争当時は米国海軍太平洋艦隊司令長官)を驚愕させた日本人の子孫としては、スピットファイアを1943年の時点で博物館で保管・展示を決定していた英国をを羨ましいと思うべきか、反省をするべきところなのか。
そこらあたりの知識が残念な私は、ただ写真を撮るばかり。
←うーん、勉強とか教養っていつになっても大事で、どんな分野のものでも大事!!たとえ萌えを感じるためといっても!



テムズ川とタワーブリッジ

さて、ひとしきりテムズ川で観光客っぽい写真をとったり涼をとったりした私は、ウェストミンスターに寄って国会議事堂を眺めたのちに、ちかくのスーパー(M&A)で夕飯+次の日の昼食の買い物をして、ホテルに帰りました。
(007の劇中でぶっとばされたMI6も近くにあるよなー…と思いましたが、軍施設の周りをうろちょろして怒られたくないので、そのまま退散。)




修復中の熊本城のごとく工事中のビッグベンと国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)

スーパーで購入した、ちょっとしたサンドイッチが500円とか600円とかの値段なのには目玉を飛び出でたのは余談。(ヨーロッパ、いちいち物価が日本より高い…。デフレジャパンの会社員にはチトきつい)
ご飯を食べてビールを飲んでグッスリ寝て起きたら、ファリアやコリンズが属していたRAF(Royal air force)の博物館へ。スピットファイアやメッサーシュミットに会いに行きます。


(ロンドン編2へ続く)


<HMSベルファスト号の概要>
製造:ハートランド&ウルフ造船所
タイプ:軽巡洋艦
全長:613フィート6インチ
幅:69フィート
吃水:19フィート19インチ
排水量:11,553トン
スピード:32ノット
起工:1936年
進水:1938年3月18日(聖パトリックデイ)
就役年:1939年
引退:1963年



旅行3日目の移動)ドーバー→ロンドン
ドーバー城→ドーバー駅:徒歩25分程度
ドーバー駅→ロンドン ビクトリア駅(SouthEastern railway):1時間30分程度
ロンドン ビクトリア駅→ロンドンブリッジ駅 (tube):20分程度

iphoneに入ってるアプリで算出されたウォーキング+ランニングの距離)
旅行3日目:14.1 km



Ref)
1. ジョシュア・レヴィーン(2017年)『ダンケルク』(武藤陽生 翻訳)ハーパーコリンズ・ジャパン社
2. A.J.バーカー(1980年)『ダンケルクの奇跡 イギリスの大撤退作戦』(小城正 翻訳)、HAYAKAWA nonfiction
3. HMSベルファスト号公式HP (IWM HMS Belfast) <https://www.iwm.org.uk/visits/hms-belfast> (2018-05-03参照)
4. 地球の歩き方 ロンドン2017-2018(2017年)ダイヤモンド・ビッグ社
5. 地球の歩き方 イギリス2017-2018(2017年)ダイヤモンド・ビッグ社
6. Visit Britain(英国政府観光庁)公式ホームページ<https://www.visitbritain.com/jp/ja#MKfded01EWUYht34.97> (参照2018-05-03)
7. Military factory HMS Belfast (C35)<https://www.militaryfactory.com/ships/detail.asp?ship_id=HMS-Belfast-C35> (参照2018-08-07)
8. Historic Naval Ships Association <http://www.hnsa.org/>(参照2018-08-07)

旅ケルクの記録7(ドーバー編 )@ダンケルク ロケ地+ゆかりの地を巡る旅

2018年08月03日 00時34分21秒 | ダンケルク
<旅行3日目>

さて、旅行3日目の朝はドーバーのB&Bで感動に打ち震えることから始まりました。朝ご飯として提供された伝統的なイングリッシュブレックファストに対して。
イギリスのモーパッサンと評されたウィリアム・サマセット・モーム(主な著作:月と6ペンスなど)の言葉に「英国で美味しい食事をとりたければ朝食を三度とればいい(To eat well in England, you should have a breakfast three times a day.)」とありましたが、皮肉でもなく美味しかったです。









滞在当時、「モーパッサンの言った通りだ!イギリスの朝ご飯は美味しい!」と感動しながら食べてた伝統的なイギリスの朝ご飯。←別にモーパッサンとはトモダチではないし、後でイギリスのモーパッサンと評されたウィリアム・サマセット・モームの言葉と知る(恥)

なんだか映画Darkest hourでチャーチルがベッドで食べてたような伝統的なザ・イギリスの朝ご飯を食べた後、ドーバーを散策しながらドーバー城へ。昔からイングランド防衛の拠点として機能した城であり(イングランドのドーバー海峡における防衛の拠点。第二次世界大戦中に地下トンネルが秘密指令基地として機能。幽霊がでる城としても有名)、第二次世界大戦中のダンケルク撤退戦際に要となったダイナモ作戦の司令室としても機能した所です。こんもりとした山の上にあるドーバー城を目指してえっちらおっちら歩いていきました(またしても徒歩!)。



領民のように山の上にあるお城を見上げる

まずは入場料を支払って入場して(紙のバンドをスタッフンさんに巻いてもらう)、さっそく第二次世界大戦の地下トンネルのツアーへ。スタッフさんの説明+ガイド付きで60分程度のツアーになります。人気コースらしく、10時の開館時間と同時に入場してすぐに地下トンネルを目指したのに、すでに先客がゴロゴロいました。
<ツアーはだいたい20分~30分ごとに出発。人数制限あり。写真撮影は禁止。ツアーに参加するための追加料金などは必要ない。




入口にて待機(いわゆるお城(建物)の地下1階にある…というよりも、敷地内にトンネルをあちこち掘っていって、そこを基地として使用)

地下トンネル内部は、当たり前ですが、どこかカビっぽい臭いで暗い。通路は狭いし、慌てて出たり入ったりしてたら色々ぶつけたんじゃないでしょうか(2人同時に楽にすれ違うには、やや幅が足りない感じが)。当時、換気システムはちゃんと働いていたのだろうか電気はちゃんと途切れることなく来ていたのだろうか…と思いつつ入場。

ここに、ダイナモ作戦の指揮をとったラムゼー提督(1883-1945。ダイナモ作戦当時は海軍中将。一度海軍を退役していたが、旧友のチャーチルの依頼もあり海軍に復帰。後に大将。1945年にフランスで事故死)以下16名の主要スタッフがここに詰め、ダイナモ作戦を動かしていくこととなるわけで。

40万人の救出に16名の主要スタッフって少ないな…とも思いましたが、このスタッフはリエゾン(連絡員)的な機能で、その下に色んな組織(部隊)がぶら下がってたりしたのだろうか…とかいろいろ思ったのだけど、実際のところはどうなんだろう。一瞬、映画『シン・ゴジラ』に出てくる巨災対(巨大未確認生物災害対策本部)みたいな感じだ…と思っちゃいましたが。一度は海軍を退役した後に中将として復帰した「上官受けしない」「はねっかえり」ラムゼーの下に集まった少数精鋭の部下…とか、そういうところが。もちろん、集まった実際の部下たちが、例えば巨災対の安田や森、袖原たちのように『オタク』『鼻つまみもの』だったり『一匹狼』だったりした訳ではないでしょうが(たぶん)。

(閑話休題)

さて、入ったトンネル内部には、それこそダンケルクやカレーなどの各地点の気象状況、部隊の状況などが街別・項目別にずらりと並べられておりましたが、ダイナモ作戦中の司令部の様子が『秩序だった混乱』だったことが少しわかるような気がしました…。多忙+混乱+行き違い+イライラ+怒号等があったのでしょうが、どこか整然と情報がならんでいて、各メンバーがやるべきことをやっていたんだろうな…ということが解るような様子というか。いわゆる悲壮感やパニック感があまり感じられないからだろうかと思いましたが、こればっかりは後世に生きる私には解らず仕舞い。『光り輝いた/シャイン』じゃないポンコツ会社員の私は、ひたすらプロフェッショナルな空気に圧倒されてました(しごと出来ないタイプなんで、あははははー)。

そういえば、マネキンの展示を見る限り、けっこう軍服をきた女マネキンの数も多かったのが印象的でした。戦闘機に乗り込む女性(WW II)の写真をジョン・ベダー著の『スピットファイア』(昭和46年発行、山本 親雄 翻訳、サンケイ新聞社出版局)で見ましたが、海軍にあっても女性の台頭は同様にあったのか。

第一次世界大戦中にアメリカ海軍が女性をリクルートしていたし(高校の世界史の便覧で見た気が)、太平洋戦争中に日本陸軍のレーダー基地で女性が働いていた話もあるし、あらゆる分野の働き盛りの男性を戦争にとられ続けて人材不足になった分を女性が代わりにオペレートするようになるという構図は、どこの国であっても変わらないということなんでしょうか。
いずれにせよ、様々な分野でエクスパートとして働く女性たちの姿を見るのは、後の世代の女の私にとって頼もしい限りで有り難い限り。



ラムゼーとチャーチルが眺めたアングルと同じ感じでドーバー海峡を眺めつつ撮影(地下トンネルの出口付近で撮影)。


同じく、ドーバー城の第二次世界大戦の地下トンネルから見えた港(フェリーポート)。なんだか見覚えのある港とフェリーが。


地下トンネルの隣には同じく地下トンネルにある病院もありましたので、ここの見学ツアーにも参加することに。手術室やベッド、トイレといった施設の設備を見学しました。通常の病院施設とはまた別の…病気じゃなくて怪我を直すところなのが明確すぎて、「あ、ここは、本当に戦争で使われた施設なんだ」と今さらながらの実感をいたしました(おそい)。
と同時に、病院の地下トンネルの換気システムを心配してしまいましたが。稼働中の病院は、ものすごく臭そうだし。「便や尿、血液などの汚染物の処理とか、衛生管理をどうやってたんだろう。通常の病院の床とは違うし、拭き掃除とか消毒とかをちゃんとできたんだろうか。」とか。というわけで、こんな穏やかな史跡に見える城が、本当に戦争に使われてきた、文字通り防衛の要として機能してきた場所だったんだなと改めて。流石、幽霊の目撃談がある城。


病院の入口。ここのみ撮影可能。


ラムゼー提督の銅像。ドーバー海峡を睨んでる守護神的な。

とはいえ、史跡や資料として見るイングランドの城や軍服、装備はカッコ良いんですよねえ、うーむ(語彙力がない悲しみをこらえる図)。


イーングランド!万歳!と叫びたくなるドーバー城の天守閣(的なもの)






天守閣からの眺めは最高です(←...)

ちなみに、ここドーバー城には『ダンケルク』の衣装が展示されていたとのことですが、私が行ったときには残念ながらもう展示されてませんでした。FRAC(ダンケルク)での小道具の展示と同じように期間限定だったんでしょう。トミーやボルトン中佐たちの衣装が展示されてたようなんですけども。とても残念でした、とても…(滝涙)。


代わりにねっとり見てきた海軍の制服


さて、ドーバー城をウロウロと4時間近く歩き廻った後(城内は広いので1つ1つ見ていったら結構時間がかかる)、駅に向かいながら街を散策しました。4時間使って回ったけど、正直全然見れてない感がすごいです。とにかく本当に城が大きいんですよね。どこからでも山の上の城が見える感じで。



ドーバー城と街並み。城の周りに街が広がる感じ

ざっくりと散策した後は、ロンドンに移動(本当はもっと散策する予定でしたが、熱中症っぽい症状がでたので体力に余力があるうちに次の予定地であるロンドンへ移動することに)。

原宿駅くらいの大きさの駅舎ドーバー駅(Dover Prior)で駅員さんにブリットレイルパス ロンドン(これ以降、水戸黄門の印籠のように駅改札でチケットを見せて便利に電車を使いまくる)にスタンプを押してもらって日付を入れて貰い(=いわゆるバリデートをしてもらう)、ロンドン ヴィクトリア駅へ。ドーバーのスーパーで買った、謎のモモ+サンドイッチを食べつつ、直通の電車で2時間弱の移動です。電車の座席もひろくて快適な旅でした(東海道新幹線よりぜんぜん良い)。




世界の車窓から的な風景を楽しむ


購入したヨーロッパのモモ。蟠桃に形は近い。果肉は日本の一般的な白桃のより固め。


ロンドンに着いた私は、ついさっきまで熱中症気味になっていたのにコリもせず(冷房の効いた電車の中で水を飲んだり寝たりしたら回復したので…)、田舎者よろしくロンドン散策+夕飯の買い物に繰り出すのですが、それはまた次の記事で。



(ドーバー編 終わり)


Ref)
1. ジョシュア・レヴィーン(2017年)『ダンケルク』(武藤陽生 翻訳)ハーパーコリンズ・ジャパン社
2. A.J.バーカー(1980年)『ダンケルクの奇跡 イギリスの大撤退作戦』(小城正 翻訳)、HAYAKAWA nonfiction
3. 真砂 博成(2001年)『5月の嵐 ドイツの電撃作戦とダンケルク』学研M文庫
4. English heritage dover castle 公式HP<http://www.english-heritage.org.uk/visit/places/dover-castle/> (参照2018-05-03)
5. English Heritage Guide books Dover castle a frontline fortress and its wartime tunnels (2011年初版、2016年改定)Geoff Neal Group社
6. 地球の歩き方 イギリス2017-2018(2017年)ダイヤモンド・ビッグ社
7. Visit Britain(英国政府観光庁)公式ホームページ<https://www.visitbritain.com/jp/ja#MKfded01EWUYht34.97> (参照2018-05-03)
8. Haru(@haru-hall) (2018年)、「ドーバーからダンケルク旅2018冬・海峡フェリー編」<twitterモーメント>(参照2018-04-24)
9. 山室良(2017年8月28日付)「いま,ダンケルクが熱い! ……ような気がするので,本物のダンケルクへ行ってみた」<https://www.4gamer.net/games/138/G013889/20170825090/> (2018-04-23参照)
10. ダンケルク海岸線、マイケル・スウィフト他(2015年)『第二次世界大戦作戦マップ』(福田 希之 他 翻訳)河出書房新社より)
11. サマセット・モーム(2010年)『月と6ペンス』(行方昭夫 翻訳)岩波書店
12.樋口 真嗣(監督)・庵野秀明(脚本・総監督)、2017年、『シン・ゴジラ』東宝株式会社
13. イギリス国立公文書館(The National archives) 公式HP (Cabinet papers; The fall of France) http://www.nationalarchives.gov.uk/cabinetpapers/themes/fall-france.htm> (参照2018-04-24)
14. 帝国戦争博物館公式HPアーカイブ(Imperial War Museum; IWM)”WHAT YOU NEED TO KNOW ABOUT THE DUNKIRK EVACUATIONS” < https://www.iwm.org.uk/history/what-you-need-to-know-about-the-dunkirk-evacuations>(2018-07-31参照)
15. 帝国戦争博物館公式HPアーカイブ(Imperial War Museum; IWM)” 7 PHOTOS FROM THE DUNKIRK EVACUATIONS” < https://www.iwm.org.uk/history/7-photos-from-the-dunkirk-evacuations>
16. 帝国戦争博物館公式HPアーカイブ(Imperial War Museum; IWM) "A WHO'S WHO OF D-DAY"
17. 帝国戦争博物館公式HPアーカイブ(Imperial War Museum; IWM) "HOW CHURCHILL LED BRITAIN TO VICTORY IN THE SECOND WORLD WAR" (2018-07-31参照)

旅ケルクの記録6(カレー/ドーバー海峡 編)@ダンケルク ロケ地+ゆかりの地を巡る旅

2018年07月28日 07時55分57秒 | ダンケルク
<旅行2日目つづき>

さて、ダンケルクに別れを告げた私が次に向かったのは、カレー。ダンケルクから約40kmくらい離れた、人口7万4千人くらいの街になります。ダンケルクからは電車で2時間と少し(TER)。ここから船にのってドーバー海峡(フランスではカレー海峡と呼称)に渡ります。
なんとカレー港とドーバー港、直線距離で40km程度で、本当に近い(Googleマップで算出)。
ダンケルクよりも早く付くだろうし(ドーバー港~ダンケルク港の直線距離:約50-60 km)、スピットファイアの燃料もダンケルクに行くより使わずにすんだのではなかろうか。

カレーは劇中でコリンズに「ダンケルクは遠すぎる。なぜカレーじゃないのか(=カレーから救出しないのか?)/Dunkirk is so far. Why can't they load at Calais?」と言われた街ですが、イギリス等との交易の窓口でもあったり地理的な近さもあったり、イギリス支配下にあったこともあったり(1347年から1558年までイギリス領土。エリザベス1世の姉・メアリー女王の治世の時に失陥)、イギリス人にとっては大陸におけるイギリスの拠点都市として馴染のある街なのかも。

到着したカレー駅(原宿駅より少し大きいくらいの駅舎)を降りて、いざ港に。シャトルバスか、それともタクシーがあるとの情報を得てましたので、どちらかでフェリーポート(港)まで向かう…予定だったのですが、いつまでたってもどちらも現れず。短気な私は「ええい、ままよ」と徒歩でフェリーポートまで向かいました(だいたい30分程度で着くとgoogle先生が)。街中にちょいちょいフェリーポートまでの看板もあるし、遠くにフェリーが停泊してたのも見えたし、うん大丈夫…と楽天的に考えて。


カレー駅。本当にチマッとしてた。

結論として、もう二度とやらない(血反吐)

少なくとも、ゴロゴロを持って30分も石畳の街を30分歩いてフェリーポートに行かないです...orz。
最初のうちは良かったんですが、だんだん重く感じるキャリーケース(石畳だから余計に)、本当にここなのか?!と疑わしい徒歩客専用の入り口+そこから結構いりくんた道が続いていつまでも歩く道…。
Google先生の言う通り、30分で確かに到着したけれど、荷物(特にキャリーケース)を持ったままだとキツイので、同じ条件だったら二度目は無いな…と思いました。

ところで、カレーといえば、ダンケルク同様、WW IやWW IIで破壊された街で、Google検索で「ダンケルク カレー」と検索すると、その他の検索ワードとして「犠牲」などの言葉が出てくる都市でもあります。
1940年6月5日の東京朝日新聞でも、ダンケルクの英兵30万人帰還の記事の中で「『(ダンケルク脱出作戦の)この裏で特記すべきは4日にわたる壮烈なるカレーの市街地戦である。しかしカレーは4日の後遂に喪われた。この時傷を負わない英兵は僅かに30名にすぎなかったが、この犠牲的死守によって英遠征軍は脱出作戦に成功した。カレーの英司令官はドイツより時間つきで降伏を求められたが彼は拒絶した』と(チャーチルは)述べた」とあり、そこに少しばかりスン…となるという。<( )内、ガバ鳥による補足
この後にロンドンでチャーチル博物館・戦時執務室を見学したときにも、壁に広がる地図と、そこに書かれたDunkirkやCalaisの地名に言葉もなく。ゲイリー・オールドマンがチャーチルを演じた映画、「Darkest hour(邦題:ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男)」でもその描写がありましたが。
上記の記事の中で言及されている司令官(ニコルソン准将)は1940年5月26日のカレー失陥の後に捕虜となり、数年後に収容所で死亡するわけですが(転落死とも自殺とも)、ダンケルクの奇跡と呼ばれた撤退戦の裏には救援が間に合わなかった/見捨てられた悲劇もあったわけで。
『私は、カレーは死守し、守備隊に海路退却を許さない決心をした。(中略)数少ない、このような立派な、訓練された軍隊を2日か3日の時間を稼ぐというおぼつかない利益のため、しかもその日時を利用できるかどうかもわからないのに、犠牲にすることは辛い限りであった。守備隊を引き上げないという最終決定は、五月二十六日の夜に行われた。それまで駆逐艦を待機させてあった。(中略)ダンケルクの救出を妨げる原因は他にもあったかもしれないが、カレーの防衛によって稼いだ3日間のおかげで、グラヴリーヌの水路が確保されたことは確かである。』(W.チャーチル『第二次世界大戦』より抜粋)

とはいえ、1940年5月16日にはすでにダンケルクに限らずヨーロッパ大陸に派遣されたイギリス軍に対して「危険状況における大兵団の撤退について討論」が検討され始め、かつ5/14にはBBCラジオを通じて海軍より民間の小型ボートの登録要請もでていたので、時間やリソースの問題もからんでいたんでしょうか。来たるべき本土決戦に備えてRAFも「出し惜しみ」をしていたように。
<RAFの戦闘機集団司令官のダウディング大将はフランス防衛のための戦いへの(新たな)イギリス空軍戦闘機部隊投入を拒否している。


古い街らしいな..と思った塔を歩きながら激写


ということで、そんなこんなの考えをしつつ、旧い都市らしい空気を醸していた市街をゴロゴロ荷物を引きづり歩き、なんとかチェックインの時刻ギリギリ(出港時刻1時間前)にフェリーポートに到着しました。暑くて汗だくになってフェリーの窓口に駆け込む羽目になりましたが。
私「すみません、チェックイン!チケット、あああ、Hello, Mr. I’d like to check-in a ferry for Dover that I booked…(唾をとばす)ぶっふぉ」←ばか

さて、無事にチェックインを終えた私は、Pedestrian assembly pointで待てと書かれていたので、そのポイントで待機してフェリーにつれていってくれるバス(+出国入国審査)を待つことに。
しかし、いつまでたっても(出発30分前になっても)案内アナウンスがないし係の人もやってこない。
Pedestrian/Foot Passenger(乗り物無しの徒歩乗客)どこからいつフェリーに乗ればいいのか問題の発生(私の中で)。
乗り場からフェリーにつれていってくれるバスはいつどこから出発するのか、チェックインの時の説明や館内アナウンスを聞き逃したのか(フランス語の後に英語でアナウンスがあるから聞き逃したとは思いにくいが)、そして出国審査と入国審査はどうするのか、出航まであと30分なのにどうするんだろうか、ぐるんぐるんと頭の中を嫌な予感が駆け巡る。



不安…。

不安な気持ちでアナウンス/係員を待ち続けること○○分、ようやく表れた係員らしき人に女性が話しかけたのを見つけたので、彼女に便乗して質問をすることに。
私「予約したドーバー行の便に乗りたいんですが、どうやって乗れば良いですか?どのバスに乗ればいいの?」(半泣きブロークン英語で質問する私)
係員さん’Oh! You are lucky! I’ll take you with her!’ (忘れようのない単語)
私’Thanks!’(喜びで打ち震える私)

ラッキーなことに、質問した係員さんがまさに案内の担当者であり、かつ先に質問をしていた彼女も一緒のフェリーに乗る徒歩の乗客で、(フェリーに乗るための)連絡バスに連れて行ってくれて、そのまま一緒に出国+入国審査をすることに(カレーの港でフランス出国+イギリス入国審査をしてしまう)。



安心…(バスの中でぐったり)


バスに乗ってドキドキしながら言われるがままに事務所に出たり入ったりして出国+入国審査を受けて、言われるがままにバスで荷物検査を受けて、ゴロゴロ荷物を引きづりながら、なんとかフェリーに乗船です。いやね、もうドキドキしすぎて、バスに乗るときに”Bon voyage”のカード(フェリーに乗船する際に渡す)を貰ったのはいいのですが、その写真をとる余裕もない時間でございました…(チキンだから)。

ちなみにターミナルビルのPedestrian assembly pointには他にも沢山の徒歩乗客する人たち(小学生集団、買い物おばちゃん集団など)がいて、いざとなったらその人たちに付いて行けば良いかな…と思っていたのですが、結局ドーバー行のフェリーに徒歩で乗る客は、私+女性(私より先に質問してた人)+フランス人家族4人の6人のみで、まっったく私の憶測とは外れていたので、分らないときは係員/スタッフに質問をするべきだ、たとえ英語が聞き取れなくても別の人にも聞いてみるなどして何回かアタックするべきだ、と心の底から思いましたね。

(閑話休題)

ということで、フェリーに乗っていざドーバーへ出航。約32km、約90分の船旅です(本当に近い!)。

それにしてもドイツがイギリス上陸を目的としたアシカ作戦は失敗だったけど、当時の技術でどれくらいの時間やプロセスでイギリス南部に到達して侵攻していくスケジュールだったんですかね?
もしこれが全面的に実現してたら、ラムゼー中将ひきいるイギリス海軍だったり、RAFの第11戦闘機群(司令官:パーク少将)だったりがドーバー海峡でドイツ海軍・空軍を迎え撃ってた展開になってたんでしょうか。←BOB(バトルオブブリテン)のことはおいといて。


さよならカレー、さよならフランス…。

ということで、フェリーは沢山のお客をのせて(自転車、車、バスの乗客)、30分遅れで出発。波も穏やか。船の中ではポンドが使用され、すでに雰囲気はイギリスな感じ。アナウンスも英語が先でフランス語の方が後になりました(当然ですが、カレー港ではフランス語→英語の順番でアナウンス)。
売店にはイギリスのメーカーのサンドイッチや、英語表示のポテチが売られておりました。乗務員もイギリス人が多く、雰囲気がいっきにイギリス。フランスで戦っていたトミーたちがムーンストーン号に乗った時の雰囲気に、ほんの少しだけ触れた気分でした(見慣れた文字の表示、見慣れた食器や紅茶…)。ということで、船内とドーバー海峡を楽しみながらの航海となりました。


スピットファイアのポテチとサンドイッチ。美味しかった。



穏やかなドーバー海峡。ダイナモ作戦当時も(奇跡的に)波は穏やかだったそうな。海に対して船が本当に心細いくらい小さく見える。‘O God, thy sea is so great and my boat is so small.'(神よ、海は広く、私の船はあまりにも小さい)

ところで、劇中ではトミーがドーセット(イングランド南西部の街;ドーソン親子+ジョージの住んでいる街)の白い崖をみて「ドーバー?」と問いかける元となった、ドーバーの白い崖(ホワイトクリフ)ですが、本当に白いです…。そして大きい。遠く離れた地点からでもはっきりとした大きさの白い崖が見えるくらい。流石は英国の通称「アルビオン」の元となった崖なだけはあります。
イギリスからフランスに行くときは遠ざかり、フランスからイギリスに帰ってくるときには近づいてくるので、イングランドから大陸へ渡っていくイギリス人にとって、白い崖は故国(イギリス)のランドマーク的なものなのかもしれません。トミーたちもフランスに出征して行くときに、遠ざかっていくドーバーの白い崖を船から見ていたのかも。



フェリーから見えたドーバーの白い崖(ホワイトクリフ)

そんなこんなで、ドーバー港に到着して下船した私は、これまたヒーヒー荷物を引きづりながらホテルへと向かいました(フランス人家族に先にタクシー譲ったら、次がいつまでも来なかった…)。
<出国審査はカレーで済ませたからノーチェック

ホテル(B&B)へエッチラオッチラ歩いて行く途中、巨大な白い崖に圧倒されつつ(本当に大きい)、ホテルに到着(20時30分くらい。北に位置する関係で、日が落ちるのが遅いせいで20時でも暗くならない)。
好みドストライク+いたれりつくせりのB&Bの部屋でくつろぎながら、イングランドの鍵と呼ばれたドーバーでの散策の予定を練って旅行2日目の夜が更けていくのでした。



圧倒された白い崖(ホテルに行く道から撮影)




ドストライクだったB&Bの部屋(また泊まりたい…)



(ドーバー編に続く)



旅行2日目の移動)
ダンケルク駅→カレー駅(SNCF鉄道);2時間程度
カレー駅→カレー港:徒歩30分
カレー港→ドーバー港;フェリー(P&Oフェリー)で90分程度
ドーバー港→ドーバー駅近く;徒歩30分程度


iphoneに入ってるアプリで算出されたウォーキング+ランニングの距離)
旅行2日目:17.2 km


【追記】2019/2/18
ドーバー海峡(フランス~イギリス)を行き来するフェリーの会社はP&O ferries社、DFDS seaways社の2社(2018年7月現在)。P&O社はカレー~ドーバー、DFDS seaways社はダンケルク~ドーバー及びカレー~ドーバー間を運航。DFDS seaways社のフェリーについては、徒歩の乗客(=自家用車や自転車等の乗り物に乗っていない客)は利用できないため注意。




Ref)
1. ジョシュア・レヴィーン(2017年)『ダンケルク』(武藤陽生 翻訳)ハーパーコリンズ・ジャパン社
2. A.J.バーカー(1980年)『ダンケルクの奇跡 イギリスの大撤退作戦』(小城正 翻訳)、HAYAKAWA nonfiction
3. ダンケルク海岸線、マイケル・スウィフト他(2015年)『第二次世界大戦作戦マップ』(福田 希之 他 翻訳)河出書房新社
4. アシカ作戦、マイケル・スウィフト他(2015年)『第二次世界大戦作戦マップ』(福田 希之 他 翻訳)河出書房新社
5. バトルオブブリテン 戦闘機集団レーダー網、マイケル・スウィフト他(2015年)『第二次世界大戦作戦マップ』(福田 希之 他 翻訳)河出書房新社
6.Haru(@haru-hall) (2018年)、「ドーバーからダンケルク旅2018冬・ドーバー城・ダイナモ作戦室編」<twitterモーメント>(参照2018-04-24)
7. Haru(@haru-hall) (2018年)、「ドーバーからダンケルク旅2018冬・海峡フェリー編」<twitterモーメント>(参照2018-04-24)
8. Haru(@haru-hall) (2018年)、「ドーバーからダンケルク旅2018冬・カレー編」<twitterモーメント> (参照2018-04-24)
9. 山室良(2017年8月28日付)「いま,ダンケルクが熱い! ……ような気がするので,本物のダンケルクへ行ってみた」<https://www.4gamer.net/games/138/G013889/20170825090/> (2018-04-23参照)
10. 読売新聞「英兵撤退完了」1940年6月5日1版(明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)
11. 読売新聞「ダンケルク要塞占領 海岸線独軍に帰す」、1940年6月5日、1版(明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)
12. ジョン・ベダー(昭和46年)『スピットファイア』(山本 親雄 翻訳)、サンケイ新聞社出版局
13. 東京朝日新聞「英兵三十万人生還 英国首相演説 三万人は遂に犠牲」1940年6月5日2版(明治大正昭和新聞研究会、新聞集成 昭和編年史15年度版、平成4年、新聞資料出版 収載)