<旅行7日目>
さて、ロンドン観光を満喫?した次の日、今度はイングランド東部の都市ラムズゲートに向かうべく、South Eastern railwayに乗り込みます。ついこの間、ドーバーからロンドンに行くときに乗った電車と同じ路線なので、少しだけ見慣れた感じがあるのがうれしいところ。というわけで、またしても水戸黄門の紋所よろしくブリットレイルパス(ロンドン)を振りかざしながらVictoria駅から出ている直通の電車に飛び乗り、いざ出発。ロンドンからラムズゲートまで電車90分程度の旅と相成りました。
ウェイマスで見た風景とは、すこし違う感じがするのはプラセボなのか、地域特有のものなのか。同じイングランドといえども、州が違うと違ってくるものなのか。下知識なしのイギリス観光をしてる客としては、よく解らず(なんとなーく違うなー…くらいで言語化できない。知識ないのが哀しい)。
そんなこんなでありもしない知識を捻り出してる日本人をさておき、多少の運行トラブルはあったものの(運行ライン上の駅でトラブルが発生したため、当初の予定を変更しつつもd迂回ルートを取るなどした)、電車は無事にラムズゲートに到着しました。
小さな駅だった。混む感じもない。
ラムズゲートはイングランド南東部の小さな港町(人口4万人程度)であり、カンタベリー物語で有名なカンタベリーや、BOBのフロントラインとして機能したRAFの基地がある街マンストンも近くにあります。
そんな街に私が行く動機は中世の物語ではなく、もちろん映画「ダンケルク」であり、つまりはラムズゲートがムーンストーン号のモデルになったSundowner(サンダウナー)号を擁する街だからであり、ジョージがかつて住んでいた街だからでもあります。<劇中に一瞬うつったジョージの新聞記事より。
ラムズゲート駅についた私は、ひとまずバス(バス; Stagecoach、路線Loop)にのってSundowner号が停泊しているハーバー(バス停:Harbour)へ向かいました(駅からバスで5分程度。近い)。バスはハーバーへ向かうバカンスのお客さんがチラホラといたので、それなりの観光地域なのかも。
<Stagecoachが出している1日フリー切符を運転手さんから買って乗車(4.3ポンド/大人; Thanet dayrider)
海軍にゆかりのある街ということで、ハーバーのあちこちに海軍所縁のモニュメントがあったりしました。ダイナモ作戦のSundowner号に限らず、多くの民間人が海軍に協力していた証左でもあります。実際、Sundowner号以外にも5隻の民間船(リトルシップ)がダイナモ作戦には参加していましたし。
ロイヤルを冠する世界一の海軍、かつ親しみのあるロイヤルネイビーに憧れる少年は多かったでしょうが、ジョージもその一人だったりしたのでしょうか。
ドーバー海峡に面する港町(@Harbor)。サマーバケーションのシーズンということもあり、近くの浜辺でマリーンレジャーを楽しむ人も。公衆トイレもあかるくて綺麗だった(とはいえ、夕方の深い時間に1人で使いたくないかも)。
ジャパンからきた呑気なオタがバスに揺られること5分、あっさりとハーバーに到着。たくさんのヨットに肝心の船を見つけきれるのかビビりましたが、あんがい簡単に見つかりました。
Sundowner号。こじんまりとした船。
Sundowner号はクルージング用のプレジャーボートですが、ダイナモ作戦で130名もの兵士を詰め込んでダンケルクからラムズゲートへ帰ってきた船と思えないくらい小さかったです。あいにく、ヨット乗り場には関係者以外の人間は下りることはできなかったので上からの撮影のみとなりましたが、思ったよりもカジュアルな感じでぷかぷか浮かんでました。
Sundowner号はその後も海軍に協力をし続け終戦を迎え、その後の1990年には再度ダンケルクへ50周年のアニバーサリー航海をしたようです。もともと1912年に製造されたことを考えると、意外と丈夫なつくりなのかしらん。もしろん、地元の方々が大事にケアされていたのでしょうが。
←これについての記事/情報は、すぐ隣にあるRamsgate maritime museum(ラムズゲート海洋博物館)のパネル展示で見ることが出来ます。
船にあった、船についての説明書き(ズームで撮影)。タイタニック号沈没事故の生き残り乗務員であるチャールズ・ライトラーは6/1にダンケルクからラムズゲートに兵士130名を連れ帰ったとある。
ちなみに、この時までに、この船に一番人が乗った時で21名だったそうなので、可能な収容人数を大幅に超過していた模様。兵士130名を乗せて船がラムズゲートに帰ってきた時、ラムズゲートの役人たち+軍人たちはまず、その人数が本当にいるのかを信じようとせず、そして驚きこう言ったそう。
「神の心理だ、兄貴!あいつらをどこに詰め込んだんだ?」
←劇中ではこう言われていた。「How many you got in there?(どれだけいるんだ?)」
ダンケルクの海岸線とリトルシップたちの航路などのメモ書き
<イギリス海軍は脱出のための海路を3つ(X,Y,Z)設定した。劇中のドーソン親子のモデルになったライトラー親子はXルートを使ってラムズゲートへ帰還するルートを選択したとされる(Ramsgate maritime museum展示パネルより)。
*上図は、Museum Dunkerque 1940 Operation Dynamo展示パネル、及び、ダンケルク海岸線(イギリス国立公文書館 No. ADM 1/9997)を基にガバ鳥がてきとうにメモ書き。
ダンケルク劇中でムーンストーン号の船長であるMr.ドーソン(ドーソンさん)のモデルになった、チャールズ・ライトラー(Charles Herbert Lightoller;タイタニック号の乗務員の生き残りにしてイギリス海軍退役中佐)は、その息子であるLieut Frederic Roger Lightoller(次男。海軍に所属。1906年生まれ。1945年、フランス ノルマンディーで38歳で戦死)と共にダイナモ作戦に参加した訳ですが、どうやら船には当時18才の少年(Gerald Ashcroft; シースカウト)も乗船していたとか(Ramsgate maritime museumの展示ブース説明より)。
ライトラーさんのもう一人の息子、ロジャーの弟(末息子)であるブライアン(Herbert Brian Lightoller;史実では、イギリス空軍所属の爆撃機ブレニムに搭乗していた。ブレニム自体はダンケルク劇中に、一瞬だけ登場している。)は空軍に義勇兵(*)として参加し、開戦した次の日の1939年9月4日にドイツで22歳で戦死したとあり、ピーターのお兄さんの運命に重なり(フィクション上の人物とはいえ)いろんな思いを馳せずにはいられません。ロジャーも1945年にフランスのノルマンディーで戦死するわけですが、息子2人を大戦で亡くすこととなったチャールズ・ライトラーの胸中やいかに。
(*)Find a graveのオリジナル説明にはRoyal Air Force Volunteer Reserveとあった。
ちなみに、1940年5月のニューヨークタイムズにはチャールズ・ライトラーらによる兵士救出劇の一部が記事になって掲載されていたのですが、ここに載っていたエピソードを見るに、本当にこの人たちがドーソン父子のモデルになったんだなあと本当に実感します。ピーターが敵を撃墜しているスピットファイア(=ファリア、コリンズ)に歓声をあげていた場面を思い浮かべることができるほどに。
『船が動き出し、後進しながらふたたび航路に入ると、そこは相変わらず地獄絵図が繰り広げられていた。(中略)爆撃機が一気、味方戦闘機の視界に入ると、突如海をめがけ、我々の後方40メートルほどの海上へほとんど垂直に突っ込んでいった。(中略)あの黒くて大きな爆撃機が水没すると、あたりに響き渡るような歓声が上がった。』<New York times記事より抜粋>
『我が家の末の息子、空軍少尉のH-B-ライトラーが<ブレニム>爆撃機に乗っており、ある時私に攻撃、防御、回避に関する有益な情報を随分教えてくれたことがあった。(中略)あるとき敵機が明らかにわれわれのデッキを掃射しようと、およそ30メートル後方から現れたことがあった。敵機は滑るようにして急降下したが、私はこの機が10から15度ほど機首をひき起こしてから撃ってくることを承知していた。「準備しろ」と息子に言うと、敵機が引き起こす瞬間まで待ち、その動きを見せたとたんに「取り舵いっぱい」と言った。』<New York times記事より抜粋>
また一方で、ピーターがいずれ徴兵されるであろうという可能性についてピーター・ドーソンを演じたトム・グリン=カーニー自身がインタビューで言及していることもあり、物語とフィクションは別物と思いつつも、ダンケルク本編後に徴兵されるであろうピーター・ドーソンが無事であるように死なないでくれと思わずにはいられません。
なお、船の近くにあったMaritime museum(海洋博物館;サンダウナー号の管理もしている)には、それらに関する資料がたくさん展示してあり、ダンケルク撤退戦に関するビデオが上映されていました(DVDが販売されてた)。
また、海洋博物館らしく、博物館にはSoundowner号のことだけでなく、他の海洋に係る展示も多かったです。船の模型や漁業の道具など。売店には海に纏わるかわいいグッズもおいてあったし、機会があればダンケルクのファンには訪れて欲しいところです。
ダンケルク撤退戦に参加した一番小さなリトルシップ、タムジン号(IWM収蔵の船)と同じ大きさ・作りの船。博物館のオジサンが、見ていきなさいよ!と促してくれた。
船をたっぷり堪能した後は、近くにあるピーターというFish&Chipsのお店でフィッシュ&チップスを頂きました。ピーターという名前の響きだけで店をチョイスしましたが、明るくて入りやすい店でした。1人で食べてるお客さんもけっこういたので、一人旅の私も安心(←日本のレストランでさえも1人で入るのに1000000 MPくらいの心のエネルギーを使う人)。
お店では魚の種類が選べるということで、私はタラを選びました。ホクホクしていて、(予想以上に)意外と美味しかったです。量が量だったので、ぜんぶ食べるのは難しかったですが。
たっぷりの量があったフィッシュ&チップス。比較のために置いたファリアが小さく見える…。
親切な店員さんの案内に助けられながら注文をして、たっぷりの料理に満足して支払をすませたら(いろいろテンパっててチップ渡すの忘れた…ごめん…)、次の目的地に向かいます。
空軍の街であり、BOB(バトル・オブ・ブリテン)において前線基地として機能した空軍基地のあるマンストンへ向かいます。
(マンストン編に続く)
Ref.)
1. ジョシュア・レヴィーン(2017年)『ダンケルク』(武藤陽生 翻訳)ハーパーコリンズ・ジャパン社
2. A.J.バーカー(1980年)『ダンケルクの奇跡 イギリスの大撤退作戦』(小城正 翻訳)、HAYAKAWA nonfiction
3. New York Times (ダグラス・ブランクリー編集)2005年『ニューヨークタイムズが見た第二次世界大戦』原書房
4. Ramsgate Maritime museum公式HP <http://www.ramsgatemaritimemuseum.org/> (2018-05-03参照)
5. Haru(@haru-hall) (2018年)、「ドーバーからダンケルク旅2018冬・ラムズゲート編」<twitterモーメント>(参照2018-04-24)
6. Find a grave「Lieut Frederic Roger Lightoller」<https://www.findagrave.com/memorial/56275932/frederic-roger-lightoller>(2018-09-04参照)
7. Find a grave「Helbert Brian Lightoller」<https://www.findagrave.com/memorial/18427318/herbert-brian-lightoller>(2018-09-04参照)
8. Find a grave「Charles Herbert Lightoller」<https://www.findagrave.com/memorial/8165323/charles-herbert-lightoller>(2018-09-04参照)
9. Stagecoach公式HP <https://www.stagecoachbus.com/> (2018-04-24参照)
10. Wikipedia「ラムズゲート」<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88>(2018-04-24参照)
11. Visit Kent公式ホームページ “Sundowner” <https://www.visitkent.co.uk/sundowner/>(2018-09-07参照)
さて、ロンドン観光を満喫?した次の日、今度はイングランド東部の都市ラムズゲートに向かうべく、South Eastern railwayに乗り込みます。ついこの間、ドーバーからロンドンに行くときに乗った電車と同じ路線なので、少しだけ見慣れた感じがあるのがうれしいところ。というわけで、またしても水戸黄門の紋所よろしくブリットレイルパス(ロンドン)を振りかざしながらVictoria駅から出ている直通の電車に飛び乗り、いざ出発。ロンドンからラムズゲートまで電車90分程度の旅と相成りました。
ウェイマスで見た風景とは、すこし違う感じがするのはプラセボなのか、地域特有のものなのか。同じイングランドといえども、州が違うと違ってくるものなのか。下知識なしのイギリス観光をしてる客としては、よく解らず(なんとなーく違うなー…くらいで言語化できない。知識ないのが哀しい)。
そんなこんなでありもしない知識を捻り出してる日本人をさておき、多少の運行トラブルはあったものの(運行ライン上の駅でトラブルが発生したため、当初の予定を変更しつつもd迂回ルートを取るなどした)、電車は無事にラムズゲートに到着しました。
小さな駅だった。混む感じもない。
ラムズゲートはイングランド南東部の小さな港町(人口4万人程度)であり、カンタベリー物語で有名なカンタベリーや、BOBのフロントラインとして機能したRAFの基地がある街マンストンも近くにあります。
そんな街に私が行く動機は中世の物語ではなく、もちろん映画「ダンケルク」であり、つまりはラムズゲートがムーンストーン号のモデルになったSundowner(サンダウナー)号を擁する街だからであり、ジョージがかつて住んでいた街だからでもあります。<劇中に一瞬うつったジョージの新聞記事より。
ラムズゲート駅についた私は、ひとまずバス(バス; Stagecoach、路線Loop)にのってSundowner号が停泊しているハーバー(バス停:Harbour)へ向かいました(駅からバスで5分程度。近い)。バスはハーバーへ向かうバカンスのお客さんがチラホラといたので、それなりの観光地域なのかも。
<Stagecoachが出している1日フリー切符を運転手さんから買って乗車(4.3ポンド/大人; Thanet dayrider)
海軍にゆかりのある街ということで、ハーバーのあちこちに海軍所縁のモニュメントがあったりしました。ダイナモ作戦のSundowner号に限らず、多くの民間人が海軍に協力していた証左でもあります。実際、Sundowner号以外にも5隻の民間船(リトルシップ)がダイナモ作戦には参加していましたし。
ロイヤルを冠する世界一の海軍、かつ親しみのあるロイヤルネイビーに憧れる少年は多かったでしょうが、ジョージもその一人だったりしたのでしょうか。
ドーバー海峡に面する港町(@Harbor)。サマーバケーションのシーズンということもあり、近くの浜辺でマリーンレジャーを楽しむ人も。公衆トイレもあかるくて綺麗だった(とはいえ、夕方の深い時間に1人で使いたくないかも)。
ジャパンからきた呑気なオタがバスに揺られること5分、あっさりとハーバーに到着。たくさんのヨットに肝心の船を見つけきれるのかビビりましたが、あんがい簡単に見つかりました。
Sundowner号。こじんまりとした船。
Sundowner号はクルージング用のプレジャーボートですが、ダイナモ作戦で130名もの兵士を詰め込んでダンケルクからラムズゲートへ帰ってきた船と思えないくらい小さかったです。あいにく、ヨット乗り場には関係者以外の人間は下りることはできなかったので上からの撮影のみとなりましたが、思ったよりもカジュアルな感じでぷかぷか浮かんでました。
Sundowner号はその後も海軍に協力をし続け終戦を迎え、その後の1990年には再度ダンケルクへ50周年のアニバーサリー航海をしたようです。もともと1912年に製造されたことを考えると、意外と丈夫なつくりなのかしらん。もしろん、地元の方々が大事にケアされていたのでしょうが。
←これについての記事/情報は、すぐ隣にあるRamsgate maritime museum(ラムズゲート海洋博物館)のパネル展示で見ることが出来ます。
船にあった、船についての説明書き(ズームで撮影)。タイタニック号沈没事故の生き残り乗務員であるチャールズ・ライトラーは6/1にダンケルクからラムズゲートに兵士130名を連れ帰ったとある。
ちなみに、この時までに、この船に一番人が乗った時で21名だったそうなので、可能な収容人数を大幅に超過していた模様。兵士130名を乗せて船がラムズゲートに帰ってきた時、ラムズゲートの役人たち+軍人たちはまず、その人数が本当にいるのかを信じようとせず、そして驚きこう言ったそう。
「神の心理だ、兄貴!あいつらをどこに詰め込んだんだ?」
←劇中ではこう言われていた。「How many you got in there?(どれだけいるんだ?)」
ダンケルクの海岸線とリトルシップたちの航路などのメモ書き
<イギリス海軍は脱出のための海路を3つ(X,Y,Z)設定した。劇中のドーソン親子のモデルになったライトラー親子はXルートを使ってラムズゲートへ帰還するルートを選択したとされる(Ramsgate maritime museum展示パネルより)。
*上図は、Museum Dunkerque 1940 Operation Dynamo展示パネル、及び、ダンケルク海岸線(イギリス国立公文書館 No. ADM 1/9997)を基にガバ鳥がてきとうにメモ書き。
ダンケルク劇中でムーンストーン号の船長であるMr.ドーソン(ドーソンさん)のモデルになった、チャールズ・ライトラー(Charles Herbert Lightoller;タイタニック号の乗務員の生き残りにしてイギリス海軍退役中佐)は、その息子であるLieut Frederic Roger Lightoller(次男。海軍に所属。1906年生まれ。1945年、フランス ノルマンディーで38歳で戦死)と共にダイナモ作戦に参加した訳ですが、どうやら船には当時18才の少年(Gerald Ashcroft; シースカウト)も乗船していたとか(Ramsgate maritime museumの展示ブース説明より)。
ライトラーさんのもう一人の息子、ロジャーの弟(末息子)であるブライアン(Herbert Brian Lightoller;史実では、イギリス空軍所属の爆撃機ブレニムに搭乗していた。ブレニム自体はダンケルク劇中に、一瞬だけ登場している。)は空軍に義勇兵(*)として参加し、開戦した次の日の1939年9月4日にドイツで22歳で戦死したとあり、ピーターのお兄さんの運命に重なり(フィクション上の人物とはいえ)いろんな思いを馳せずにはいられません。ロジャーも1945年にフランスのノルマンディーで戦死するわけですが、息子2人を大戦で亡くすこととなったチャールズ・ライトラーの胸中やいかに。
(*)Find a graveのオリジナル説明にはRoyal Air Force Volunteer Reserveとあった。
ちなみに、1940年5月のニューヨークタイムズにはチャールズ・ライトラーらによる兵士救出劇の一部が記事になって掲載されていたのですが、ここに載っていたエピソードを見るに、本当にこの人たちがドーソン父子のモデルになったんだなあと本当に実感します。ピーターが敵を撃墜しているスピットファイア(=ファリア、コリンズ)に歓声をあげていた場面を思い浮かべることができるほどに。
『船が動き出し、後進しながらふたたび航路に入ると、そこは相変わらず地獄絵図が繰り広げられていた。(中略)爆撃機が一気、味方戦闘機の視界に入ると、突如海をめがけ、我々の後方40メートルほどの海上へほとんど垂直に突っ込んでいった。(中略)あの黒くて大きな爆撃機が水没すると、あたりに響き渡るような歓声が上がった。』<New York times記事より抜粋>
『我が家の末の息子、空軍少尉のH-B-ライトラーが<ブレニム>爆撃機に乗っており、ある時私に攻撃、防御、回避に関する有益な情報を随分教えてくれたことがあった。(中略)あるとき敵機が明らかにわれわれのデッキを掃射しようと、およそ30メートル後方から現れたことがあった。敵機は滑るようにして急降下したが、私はこの機が10から15度ほど機首をひき起こしてから撃ってくることを承知していた。「準備しろ」と息子に言うと、敵機が引き起こす瞬間まで待ち、その動きを見せたとたんに「取り舵いっぱい」と言った。』<New York times記事より抜粋>
また一方で、ピーターがいずれ徴兵されるであろうという可能性についてピーター・ドーソンを演じたトム・グリン=カーニー自身がインタビューで言及していることもあり、物語とフィクションは別物と思いつつも、ダンケルク本編後に徴兵されるであろうピーター・ドーソンが無事であるように死なないでくれと思わずにはいられません。
なお、船の近くにあったMaritime museum(海洋博物館;サンダウナー号の管理もしている)には、それらに関する資料がたくさん展示してあり、ダンケルク撤退戦に関するビデオが上映されていました(DVDが販売されてた)。
また、海洋博物館らしく、博物館にはSoundowner号のことだけでなく、他の海洋に係る展示も多かったです。船の模型や漁業の道具など。売店には海に纏わるかわいいグッズもおいてあったし、機会があればダンケルクのファンには訪れて欲しいところです。
ダンケルク撤退戦に参加した一番小さなリトルシップ、タムジン号(IWM収蔵の船)と同じ大きさ・作りの船。博物館のオジサンが、見ていきなさいよ!と促してくれた。
船をたっぷり堪能した後は、近くにあるピーターというFish&Chipsのお店でフィッシュ&チップスを頂きました。ピーターという名前の響きだけで店をチョイスしましたが、明るくて入りやすい店でした。1人で食べてるお客さんもけっこういたので、一人旅の私も安心(←日本のレストランでさえも1人で入るのに1000000 MPくらいの心のエネルギーを使う人)。
お店では魚の種類が選べるということで、私はタラを選びました。ホクホクしていて、(予想以上に)意外と美味しかったです。量が量だったので、ぜんぶ食べるのは難しかったですが。
たっぷりの量があったフィッシュ&チップス。比較のために置いたファリアが小さく見える…。
親切な店員さんの案内に助けられながら注文をして、たっぷりの料理に満足して支払をすませたら(いろいろテンパっててチップ渡すの忘れた…ごめん…)、次の目的地に向かいます。
空軍の街であり、BOB(バトル・オブ・ブリテン)において前線基地として機能した空軍基地のあるマンストンへ向かいます。
(マンストン編に続く)
Ref.)
1. ジョシュア・レヴィーン(2017年)『ダンケルク』(武藤陽生 翻訳)ハーパーコリンズ・ジャパン社
2. A.J.バーカー(1980年)『ダンケルクの奇跡 イギリスの大撤退作戦』(小城正 翻訳)、HAYAKAWA nonfiction
3. New York Times (ダグラス・ブランクリー編集)2005年『ニューヨークタイムズが見た第二次世界大戦』原書房
4. Ramsgate Maritime museum公式HP <http://www.ramsgatemaritimemuseum.org/> (2018-05-03参照)
5. Haru(@haru-hall) (2018年)、「ドーバーからダンケルク旅2018冬・ラムズゲート編」<twitterモーメント>(参照2018-04-24)
6. Find a grave「Lieut Frederic Roger Lightoller」<https://www.findagrave.com/memorial/56275932/frederic-roger-lightoller>(2018-09-04参照)
7. Find a grave「Helbert Brian Lightoller」<https://www.findagrave.com/memorial/18427318/herbert-brian-lightoller>(2018-09-04参照)
8. Find a grave「Charles Herbert Lightoller」<https://www.findagrave.com/memorial/8165323/charles-herbert-lightoller>(2018-09-04参照)
9. Stagecoach公式HP <https://www.stagecoachbus.com/> (2018-04-24参照)
10. Wikipedia「ラムズゲート」<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88>(2018-04-24参照)
11. Visit Kent公式ホームページ “Sundowner” <https://www.visitkent.co.uk/sundowner/>(2018-09-07参照)
コメントありがとうございます。
私が行ったのは7月でしたが、サマーシーズンということもあって、マリンレジャーを楽しむ人で賑わってました。のんびりゆっくりと時間が流れるような街でしたが、私もまた行きたいと思ってます。
海外で思わぬ奇縁があったりすると、より一層親しみが湧きますね。