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東国原知事の「徴兵制論」
けれど、徴兵制を持ち出す理由たるや、使い古された、手垢のついたものだと思いませんか。
若者が訓練や規則正しいルールにのっとった生活を送る時期があった方がいい
道徳や倫理観などの欠損が生じ、社会のモラルハザードなどにつながっている気がする
「徴兵制あってしかるべき」 東国原知事が持論展開(朝日新聞)
軍隊に入ろう。軍隊に入れば、規律性が身につき、道徳的で、類稀なとはいわないまでも人格者になる。こんな思い込みがあるようです。この人もそれに駆られたのでしょうか。
軍隊、自衛隊というツリー構造の組織の中にあって、上からの命令は下にそのまま貫徹される。ならば、事はすべて、まるで水のように流れていく。これでよし、これをたとえば規則性だと勘違いして、日常の世界に持ち込もうとするところに錯誤がある。企業がしばしば自衛隊一日体験などと銘打って新入社員を研修させるのも、ツリー構造という点では軍隊と紙一重だからということもあるわけです。
さて、その徴兵制。あの戦争が好きな米国でさえ、徴兵制をとってはいません。けれど、徴兵制をやめたものの、好戦的で、戦争を巨大なビジネスにしてしまったアメリカの実態は、高校生たちがリクルーターたちの執拗な勧誘に会い、戦争に狩り出される。それも民間軍事会社への就職という形で。まさに、見えない徴兵制が蔓延している現状です。
徴兵制を敷くのは、ドイツ、スウェーデン、デンマークやロシアなどで、それも良心的兵役拒否が合法的に認められるか、それを補う制度的措置をとっているところもあって、徴兵制の廃止・縮小がおおまかな世界の流れではないでしょうか。
徴兵に応じたくない、戦闘行為などにかかわりたくないと思っている人はもちろんいるでしょうが、そう思っていても、いなくても兵役に強制的につかせるしくみが徴兵制なので、徴兵制自体に規律性や道徳性、あるいは倫理的なものが備わっているわけではまったくありません。
この知事のように、訓練や規則正しいルールにのっとった生活を送るためだなどといって徴兵制をもちだすのは、ただ一つ、外部からの圧力で人を動かす、つまり強制力を注入しようとする魂胆です。そして、東国原知事が視野にいれていたのかどうかはっきりしませんが、その強制力が軍隊、兵士の確保に結びつけば、当初の目的を達したことになる。以前に防衛省が自衛隊レンタル制度を検討していることが報じられているくらいですから(参照)。いまの日本では、自衛隊隊員の確保が、こんな形で徴兵制を持ち出す最大の理由でしょう。
では、知事が語った自衛隊の実態はどうでしょうか。守屋氏やその背後の巨大な利権に群がる者たちがいる。自衛隊の日常がおよそ規律や道徳などとはかけ離れたものであることが国民の眼前で明らかにされました。この点でも規律や道徳、倫理という言葉で自衛隊を語る東国原氏は批判を免れない。
重大事でもなければメディアにとりあげられることもなかろう地方の自治体首長なのでしょうが、タレント出身ということもあって、この人の一挙手一投足はしばしば注目されてきました。しょせんは知名度にあおられ、有名人を追いかけるメディアと社会だからこそ、こんな人物の言動は根本から疑ってかかってしかるべきなのでしょう。
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降格して。
すでにいわれてきたことですが、いよいよ降格を自ら願いでる時代到来でしょうか。
たしかにストレスを感じない、時間に追われることのない仕事なんて、いまどきないのかもしれません。多くは、ストレスいっぱい、しかも時間に追われ、その上に安い賃金、これが格差社会の進行とともにもたらされている、日本の働く環境なのではないでしょうか。

かつては、過重な労働を主要因としてとらえられてきた燃えつき症候群が、形をかえ、いまや立ち去り型サボタージュ(*1)とよばれるような事象が全国で起きている。そのことが全国の医師不足にも拍車をかけている事実がある。
冒頭の記事をよんで考えたのはこのようなことでした。同じ切り口で考えることができる、そう思うのです。
記事が伝えるのは、「希望降任制度」を06年度に利用した人数が調査以来、最高になったという事実です。そのうち長時間労働が強いられる教頭からの降格希望が62人と大半を占めていて、文科省は「初めて経験する管理業務にストレスを感じたりする人が多いからではないか」と分析していると記事はいいます。
医療においても、(公)教育においても、サービスを受ける側は公的な制度の枠組みでサービスを受けて当然という思いがまずあって、自らのサービスにたいする思い、別の言葉でいえばその人の理想なのかもしれませれんが、そこで考えるのは、その思いと現実のサービスの落差が厳然としてあるということです。
落差があるものだから、当然のように現場ではサービスの供給側と需給側との間に軋轢が起こる。そしてその軋轢が肥大化すれば、医療機関内での暴力事件に発展したり、教育現場での暴力行為までに及んでくるのでしょう(*2)。医療にかぎっていえば、医療にたいする患者側の期待と医療技術の限界という矛盾にも起因しています。それは、つきつめると、人間は死から免れることはできないという不安と、医療の不確実性との矛盾でもある。医療とは医療従事者と患者との共同の営為であるという認識を深めることが双方に求められています。その機会が欠如しているということだと思うのです。
話を冒頭の記事にもどすと、教頭たちが、現場の多忙感のみならず、生徒たち、そして親、一方で教職員との関係でストレスを感じることは容易に推測がつくことです。ストレス耐性という言葉もありますが、それがないと指摘するのは簡単でしょう。でも、冒頭の教頭たちが自ら退任できる選択肢を得ることは賛成です。もっとも、世の中には辞めたいのに、諸々の理由で辞めることもできない人がいることもあわせて認めざるをえないのですが。でも、希望降任制度で降格を認めるだけでは、事態は何もかわりません。
私たちの頭のなかは、あらゆるものを(金で買う)商品・サービスだとつい考えてしまう構造に次第になってきたといえるでしょう。すべてが、商品・サービスをつくる・生み出す、消費するの関係。売る、買うの関係にしてしまうのです。そうではなくて、そもそも教育や医療というものは、サービスを施す側と受ける側との共同の営為だととらえることが必要でしょう。そのための相互理解を深めること、その機会としくみをつくることが不可欠で急務なのではないでしょうか。
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*1;小松秀樹『医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か』(朝日新聞社)
*2;日経新聞(11月11日)「院内暴力 対処急ぐ」
病院内での暴力問題が深刻化し、病院側が苦悩している。医療スタッフだけでなく、患者が巻き込まれるケースも後を絶たず、8日には佐賀県で入院患者が打たれ死亡する事件まで起きた。施設内の安全確保という観点から警察OBを採用する一方で、患者側にも「暴力行為は即退院」との誓約書を求めたりするなど対策を強化。(ただトラブル増加の背景には医療不信の高まりなどもあり、患者との信頼関係をいかに回復するかという重い課題も見えてくる。
【関連エントリー】
モンスターペアレンツ
理不尽なクレーム。医療では…
死に至る異動はノー
米国務省で31日、外交官をイラクに強制的に赴任させる同省の方針に反対する職員約300人が集会を開いた。
治安の悪さを懸念する参加者から「(辞令は)死刑判決になりうる」と怒りの声が相次いだが、同省は拒否すれば解雇も辞さない方針だ。
AP通信などによると、イラクでの国務省の業務は復興支援などで拡大を続けており、来夏は任期満了などで必要となる約250人の補充枠に対し、志願者は200人強にとどまっている。
米外交官は就任時、世界のいかなる場所でも勤務をいとわないことを誓約するが、同省は本人の同意のない転勤はさせない方針だった。
インド洋からの撤収が話題となっている今日にてらして面白いニュースだと思います。
イラクの現状は、米国民がもっとも知っている。イラク戦争の泥沼化で、外交官がこんな行動に出るところに米国国内の分裂が現われ、それを物語っているのかもしれません。分裂といっても、米国ではすでに多くの国民の意思はイラク戦争反対でしょう。
外交官でなくても、みすみす自らの命を落としかねない危険な地に足を踏み入れることは誰でもはばかられるわけで、いまどき「死に至る異動」など毛頭、望んでいないはず。たとえばベトナム戦争帰還兵のベトナム戦争シンドロームはよく知られていますし、イラク派兵の自衛隊員のなかにも精神的な障害を受けた隊員についても報道されてきたほどです(下記関連エントリーを参照)。つまり、戦争という死に直面する非日常のなかでの他におきかえることのできない過度のストレスを引き受ければ人間がどのようになるのか、それをこれらの事実は示しているでしょう。
冒頭の記事によれば、米国外交官は着任時に誓約することになっているようですが、ここがアメリカ的なのかもしれません、実際には同意なしに転勤させないようです。だから、外交官300人はこの既得権を逆手にとってそれを行使したわけです。
ふりかえって、わが日本国ではどうでしょう。
外交官のなかにも最近は、自らの意思を貫く人もでてきているようですが。外交官の枠を広げて、日本の官僚のみなさんについて、はっきりしているのは、依然として政財官の構図のなかをうまく走りまわっている人物があとを絶ちません。少なくとも、外交官が着任を拒否する、あるいはその意思を示し、同じような志をもっている人たちが、行動に移すなどはこれまでなかったし、今の時点でも考えられないことではないでしょうか。お上に仕えるという感覚がまだ根強いような気がするし、それがなくならないとこんな行動には移せないはずです。公務員には公務員としての服務規程があるのでしょうが、それより以前に私たちは人間であって、死と直面する他者が存在し、自らも死に至りかねない状況を拒否する自由もまた、あるのではないでしょうか。拒否することが、実は回りまわって、たとえば国民全体の奉仕者としての(国家公務員の)使命と合致しているのかもしれません。
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【関連エントリー】
自殺つづくイラク帰還自衛隊員
62回目の8・15;イラク米軍狙撃兵の話
塩酸メフロキンと自衛隊派遣兵の自殺
高い手数料のからくりは。
銀行で小銭を両替する際の手数料の額に逆上し、行員のネクタイを引っ張ったとして、甲子園署は25日、暴行の現行犯で、西宮市内に住む自称新聞販売店従業員の男(28)を逮捕した。
調べでは、男は同日午後2時40分ごろ、同市内の三菱東京UFJ銀行甲子園支店の窓口で、現金350円を5円硬貨70枚に両替しようとしたが、手数料が315円かかることを聞いて逆上し、窓口の行員に詰め寄り、止めようとした男性行員(53)のネクタイを引っ張った疑い。
同行のホームページによると、両替手数料は50枚までは無料だが、51枚以上は350円かかるという 。
率直にいって、気持ちが分からぬでもありません。頭にきますよね。この記事のように、現金350円を換金しようとして手数料が元金とほぼ同額になるというのですから、お話になりません。頭にくるのがフツーではないでしょうか。
むろん暴力沙汰を推奨しているわけでは私はないので、記事の当事者が暴力的行為にでたことは咎められてしかるべきなのかもしれません。
けれども、私たちはこの現実に目をむけることが要る。
日本共産党の佐々木憲昭議員が、私にはこの問題の解を与えると受け取れる質問を1年以上も前にしていることを最近、知りました。
史上最高益あげているのに 6大銀行 法人税ゼロ「社会的責任を果たせ」
この佐々木議員のホームページが伝えるところが事の本質ではないか、と私には思えるのです。核心と私が考えるのは、以下の点です。佐々木議員はつぎのように指摘しています。
91年度から05年度のあいだに、貸し出しでの金利収入を経常収益比で6割から4割に減少させる一方で、手数料収入を2%から17%に急増させています。
これだけ莫大な利益を上げているにもかかわらず、税金をまともに払っていません。金融庁監督局長は、主要6銀行で法人税がゼロであることを認めました 。
要は、まずは庶民犠牲のもとで銀行が利益を上げている現実を問わねばならないのではないでしょうか。記事に象徴される手数料問題はその反映だということです。この記事の当事者は、その表現の方法は大いにまちがっていたといえるのでしょうが、その眼は本質を射抜いているような気がしてなりません。当事者の憤りが庶民犠牲という観点から派生しているだろうと考えられることにおいて。
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市場万能でよいか。日本の資本主義
だから、今日もその延長線上でしょう、世界とか、国際とかを語る際に、日本ではすなわちそれをアメリカと置き換えてもおかしくないほど、世界とはアメリカ中心のものであったといってもいい。
安倍晋三氏のナショナリズムを、当ブログではゆがんだナショナリズムとよんできましたが、安倍氏の思考もまた、アメリカ追随を抜け出ることはなかった。それゆえ、ナショナリズムが日米同盟重視と深くむすびつくという、矛盾するような中身をもっていたのです。具体的にいえば、アジアは、統治すべき相手であって、アメリカとともに自らの権益確保のために市場を確保する対象だということになるのです。
こんな考えの枠組みは、なにも安倍氏だけではない。
今年はじめの経団連の「御手洗ビジョン」に示される考えは、東アジア共同体をうたっているにはいますが、憲法9条改正、構造改革を前面にうちだしたものでした。ただし、経済同友会元専務理事の品川正治氏によれば、こうしたアメリカと一緒になって新自由主義路線を歩もうとすることに疑問を投げかける流れもまた財界になかにはあるそうです。
とまれ戦後、日本の資本主義は政府の強力な介入によって開発主義的な経済発展をなしとげてきました。むろんこれはアメリカばりの新自由主義とは異なるものでした。たとえば日本に定着した日本型雇用制度一つをとっても、それは少なくとも新自由主義のものだとはいえないでしょう。ところが、90年代以降、高度成長をつづける中国に勝つためには競争力をつけるしかないとして、賃金抑制、規制緩和をかかげて、新自由主義的な「構造改革」に乗り出してきたのです。成果主義と非正規への置き換えが広まりました。その結果、いまどき会社のために働くなどと胸を張る労働者がいるでしょうか。構造改革は労働の形態をかえてきましたし、労働者の企業への定着率も格段に低めてきたといわれています。
90年代以降の新自由主義、市場万能の世界でよいのか、あらためて今、その方向は問い直されてしかるべきではないでしょうか。
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教育費のために働く。
教育費を稼ぐために働くというまるで逆転した構図のようにも思えます。高校・大学の7年間だけでも教育費は一人あたり1000万円を超える。1年間でほぼ150万円にあたります。調査によるかぎり、教育費は親の年収の3分の1に達するというわけですから。
しかし、これだって、たとえば2人だとすると7年間で2090万円、3人では3135万円にも上る。歳の開きのない子どもを2人もてば、年間300万円の教育費になるわけですから、親の年収は900万円ないと成り立たないという理屈です。
因みに、このデータがあります。子どもの有無で、所得階級ごとの「生活の苦しさ」を感じる割合を示しています。この結果は当然のように、子どものいない世帯よりいる世帯が、そして所得の低い世帯ほど生活の苦しさを実感していることを語っています。だから、子育てあるいは子どもの教育費が実は生活の苦しさが少子化の要因になっていると推測されるのです。
教育費を稼ぐために働くといいましたが、それでも自らが生きていけなくては子どものことなど考えられません。その結果は、たとえば子どもが学びたいと思っても断念せざるをえない事態にもなる。要は所得の多寡によって、あらかじめ勉学の条件を奪われかねないことをこの調査結果は示している。現に今日、生活保護水準以下の世帯の割合が増高しているといわれていますので、その可能性は大きくなっているのでしょう。
この事態をどうやって打開できるのかを考えてみるのですが、三浦朱門氏(*)のように差別・選別をよしとする、割り切れる人なら別なのでしょうが、そんなわけにはいかず、何とかそれに応えなければと考えるのです。
この図をみると、日本の教育への公的支出は決して高くはない。どうみても、増やしてもよさそうな、各国とくらべてかなり低い水準です。だから、考えるのは、今の財政のあり方を少し変えて、教育予算を増やすこと。もともと教育にかける予算が低すぎます。その意味で財政のあり方を見直して、不要不急の国家財政支出を減らすこと、この国民的な議論がどうしても必要なのではなにでしょうか。
米軍のために何兆円もポンと出せるのですから、教育にそれをまわすことは十分あってよいのではないでしょうか。
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*;三浦氏の言動はしばしば波紋をよびます。教育に関する発言について以下でふれました。
教育貧困国ニッポン -格差拡大もたらす
情報弱者が存在する。
情報弱者が存在する。
情報技術の恩恵を受けることのできる人とできない人との間に格差が生じているということだ。高度な技術を得るためにはお金が要るわけだから、これは経済格差だ。その上に、誰もが情報量を増やせる環境のなかにあったとしても、知識格差は解消せずに、むしろ拡大する。高度な技術の恩恵を受けることができ情報量をふやせる人は、恩恵に預かることができない人との情報量にくらべれば、比喩的にいえば級数的に量の拡大をやりとげるだろうことは容易に想像がつく。
たとえば、実際に情報量をふやすには大量の情報のなかから選別する能力が不可欠だ。それに慣れない、習熟していない人とのちがいは歴然としてくるのであって、情報処理能力は二極化する。だから、それはその人たちの生活にも大きな差異をもたらすと考えることができる。
小泉郵政選挙で自民党広報戦略に位置づけられのが大勝したとあって、いまだにこの呪縛から逃れられない人もいるようだ。スリードの手によってつくられたB層。ポピュリズムと結びつけられ語られてきた。スリードによれば、相対的にIQが低く、同時に構造改革に中立か肯定的、要は否定的でない層をこう呼んだ。この層を貶めることは容易だし、現にブログのなかでそんな者も散見された。
が、冒頭の情報弱者という観点からこれをとらえられないか。今日、高齢者と家庭に残された子どもたち、主婦をはじめ情報弱者のメディアといえば、テレビだろう。
B層という言葉にはもとより選別が含意されているが、支配層はそれを囲い込もうという戦略を立てたのだ。社会を統合しようとする意図を無視はできない。われわれが何らかの社会運動に少しでもかかわろうとすれば、共同のあり方は必ず俎上にのぼらざるをえない。支配層のように統合するのではなく、彼らと共同することで、それこそ戦略もみえてくるというものだろう。
B層といわれる層を自らと対立させて外に置く態度ならば、仮にその人の、たとえば権力にむかって発せられる言葉がどんなに鋭かろうとも、どこか偽善的なように映ってしまう。
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*coleoの日記の記事を一部改変した。
「さらば」っていえる? 観客民主主義。
東京新聞の社説を一読いただきたい。
この社説は、2つのことを主張している。政治を眺めたり楽しんだりではなく、自分の目で監視し、自分の頭で決断しようと国民にたいして呼びかけている点。そして、政治家に乗じられ利用されないよう、主体性を持って報道しなければならないと自戒しているところ、これが2点目である。
タイトルにあるように、とくに最近の選挙で国民のとった投票行動など政治行動について、批判的にふりかえっている。観客民主主義という言葉から推測できるように、政治への国民の「受動的な関与」を指している。小泉郵政選挙はその端的な事象だというのである。
参院選を経て、さて国民はこの観客民主主義から脱したのかと社説は自問しながら、懐疑的なようである。なぜなら、安倍退陣表明後の自民党総裁選。それにメディアも国民も沸き立ち、民主党は影が薄くなった。一方の麻生人気。社説は、危うさをそこに感じ取っているといえそうだ。だから、冒頭の2点をあらためて明示しているということだ。
国民の国政への関与のあり方をとらえて、観客民主主義という言葉で表現される以上、そのしくみを考案し、自らの描く構図に選挙戦をいわば劇的なものにしつらえる圧力と背景があるはずだ。それが、たとえばコミ戦とよばれる政党による国民、メディア支配だろう。
いまや選挙戦をこうした劇として演出してみせるテレビは、不可欠の中心的「戦略兵器」と化している。社説のいうものだけでなく、参院選そのものもまた、政党とメディアに支配されたと私なんかは考えている。だから、観客民主主義から脱したのかと問われれば、私も懐疑的で、そうとはいえないと今なら答えるだろう。
それでも、小泉9・11選挙から参院選、そして自民党総裁選という中で深化しているのは、明らかに自民党の政治的影響力の衰退と自民党政治のゆきづまりではなかろうか。この点が国民の眼にとらえられれば、政治状況をさらに一歩前に動かしうる可能性を秘めていると考えている。参院選後、その一端は現われていて、実際に国民の意思が政治をかえうることが実感されるようになったのではないだろうか。私は、福田政権は小泉、安倍政権路線を基本的に引き継がざるを得ないと考えていて、今後、修正はしつつも基本線を踏み外さないという意味で自民党の巻き返しもありだろうが。しかし、政治は変わりうるという実感、要するに主体者としての確信がおそらく観客民主主義からの脱却を促進するものだと思う。
強い疑念をもつのは、おそらくつぎの選挙でもこれまでと同じようにメディアがふるまうだろうということである。
この点で、社説の主張するメディアの主体性が求められているのはいうまでもない。少なくとも劇場型選挙を成立させるには、メディアが計画どおり動くことが欠くことのできない条件なのだから。社説の自戒の念がメディア関係者共通のものになって広がるのなら、歓迎することこの上ない。
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*リンク切れの場合はここ(ウェブ魚拓)
集団が極化する。
====
group polarization は、集団極化とも集団分極化(*1)ともよばれる。長谷部恭男は集団偏向(*2) とよんでいるが、同様の意見をもっている者が論議すると、その意見がいっそう強調されるようになるという現象。
はてなダイアリー・キーワードでは……
集団討議の結果、討議前の個人の意見よりも先鋭化したかたちで集団決定がなされることをさす。このうち、討議前よりもリスク愛好的な決定がなされる場合はリスキー・シフト、リスク回避的な決定がなされる場合はコーシャス・シフト?という。一般的には、リスク愛好的な人々が討議した場合はいっそうリスク愛好的に、リスク回避的な人々が討議した場合はいっそうリスク回避的になる。
なお、こうした現象は、集団決定だけでなく社会的態度一般についても確認されている。この場合、個人の元々の態度が集団討議によっていっそう強化されることになる。例としては、自国の政府指導者に対して好意的な人々が討議するといっそう好意的になる例や、アメリカに対して非好意的な人々が討議するといっそう非好意的になる例など。
と、記されている。
インターネット上の討論グループを、キャス・サンスティンがその例として指摘する。そう誰もが思い起こせるだろう。
インターネットを直接民主主義(の場)と受け取るのはあまりに素朴だが、同じ意見がいいたいことをいって言葉を競い、いよいよ過激になり、そして、少しでも異なる意見は排除する。先がしだいに尖がってしまう。しまいには、相互に分裂してしまうだろう。
そこで、メディアは情報を伝えてくれるものだと考えがちだが、不必要な情報を伝えないのがメディアだともいえる。情報を選別し、不要な情報を排除するのがメディアなのである。そうであるし、だから受け取る側には、選別する眼が要る。
裏返しにいえば、メディアが情報を選別し、不要な情報を排除しえているのか、問われなければならないということだ。
今日、ちょうど形式的にはディスカッション・グループと同じようにメディアが集団極化に役割を果たしている。
それに耐えうる選択眼が要るのだろう。
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*1;あるいはサイバー・カスケード。
*2;憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)
石原氏が免罪するのは。
東京都の石原慎太郎知事は5日の定例記者会見で、自治体職員による国民年金保険料の横領問題について「多くの国民が将来を担保しているシステムを、現場が狂わせたのは非常に重大な犯罪」と厳しく指摘した。その上で、「舛添(要一厚生労働相)君が言ったように、刑務所に入ってもらう。免罪にするのは論外の話だ」と述べ、刑事告発を目指す舛添厚労相を援護した。
この人がまた介入するのでしょうか。この人も、誰かを厳罰に、コイツいつだとばかり、犯人探しに関心があるようです。もっとも、最近の日本の風潮は、厳罰に処することにたいする意識がことのほか強いように思えます。しかし、厳罰によって、われわれの不安がはたして解消するのかどうか、慎重に考えてみる必要もありそうです。
年金関連の問題は冷静に考えてみると、国民の支払った年金保険料がどこかにいってしまったり、資金が他に転用されていた事実があって、しかもそれが構造的な要因で作り出されていることが最も深刻なわけです。
石原都知事がどうせ発言するのなら、この点をどのように考えているのかを聞きたかった。そう率直に思います。彼の関心は、平板なジャーナリズムのそれとさほどかわりないようです。
もっとも、年金着服はそれ自体、許されるものではない。解明し、適正な処分がなされてしかるべきです。けれど、これとて、自治体は「(元職員らは)処分され、社会的制裁を受けている」などと慎重な態度をとっているのであって、「免罪」などにはあたらないものではないでしょうか。
「多くの国民が将来を担保しているシステムを、現場が狂わせたのは非常に重大な犯罪」という石原氏の発言は、誰にむけられるものでしょうか。一現場の不心得な自治体職員にはたしてむけられる言葉か。彼の裁量(の範囲)は、国家全体のシステムのあり方に多大な影響を与えうるものでしょうか。氏の言葉は、まさに問題が構造的なわけですから、政府にこそむけられるべきでしょう。国民との関係では、加入手続きからはじまる一連の事務手続き-年金保険料の支払い通知、保険料の収納、年金の給付など、一切の手続きの流れを総点検し、相互に事故・ミスをチェックできるシステムに改善することこそ、再発防止のために急がれるのではないでしょうか。そのシステムづくりは政府が旗をふってすすめるべき課題です。
舛添厚労相のすりかえを批判しましたが(すりかえに奔走。舛添氏)、石原氏も同じです。
自ら支払った保険料が年金としてきちんと給付されるかどうか、ここに国民の不安があって、「消えた年金」問題を解明してほしいというというのが願いなのですから、政府はこれに応える必要がある。だから、石原都知事の発言は、側面から政府をそれこそ免罪するものだといえるものでしょう。
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すりかえに奔走。舛添氏
舛添厚労相、抗議の自治体に「ざれ言につきあう暇ない」(朝日新聞)
年金保険料の横領問題で、舛添厚生労働相が「市町村の窓口は信用ならない」と発言したことに対し、鳥取県倉吉市長と東京都武蔵野市長が抗議文を提出していることについて、舛添氏は2日の閣議後の記者会見で、「小人(しょうじん)のざれ言につきあってる暇があったら、(私は)もっと大事なことをやらないといけない」と強い不快感を示した。
抗議文では、「職員の士気を損なう」などとしているが、舛添氏は「(年金横領では)市町村の不正の方が社会保険庁よりもはるかに数が多かった。士気の問題ではない。(抗議する)暇があったら、ちゃんと監視しなさい」と批判した。
記事は、自治体窓口での年金保険料の横領などが少なくないことについて、厚労相が発言したことに端を発します。窓口での不正は不正として「不心得」が許されるわけではありません。けれど、公務員の労働ぶりや不正が指摘されて、衆目がそこに集中し、公務員叩きという事態もへてきましたが、こうした公務員にたいする世間の目を逆手にとっているような気がしてなりません。
先月にさかのぼってみると、民主党が「年金保険料流用禁止法案」を参院に提出しています。
社会保険庁の調べによれば、1945年から2005年度までに福祉施設の整備などに流用された保険料累計額は6兆4000億円にものぼります。
国民は給付を受けるために保険料を支払うわけですから、給付以外にこの資金が使われれば流用でしょう。舛添厚労相の「市町村の窓口は信用ならない」との発言も、まったくかすんでくるのではないでしょうか。むろん窓口での不正はきちんと解明し、ただされないといけませんが、先に手をつけなければならないのは、あるいは厚生行政により深刻な影響を与えると推測されるのは、この流用問題だと思います。
ここに、氏のすりかえがある。国民から預かった保険料を、不急の施設に多額の投資をしてきた責任こそ明らかにして、国民に知らせる必要があるのではないでしょうか。いたずらに目をそらすための発言にしか私には思えないのです。
ちなみに、流用はおよそ以下のような形でおこなわれています。
- グリーンピアなどの施設 1兆5000億円
- 年金教育やシステム経費 2兆円
これらに、例のごとく少なくない政治家が介在し、大企業が群がる構図を想像するのは、あながちまちがいだとはいいきれないでしょう。すでに年金の管理システム問題が取り上げられ、多額の資金が流出していることが報じられています(当ブログでは社保庁;年金保険料1兆4千億円が企業にでとりあげました)。
舛添厚労相の加熱ぶりはもはや目に余ります。衆院での代表質問で、厚労省所管の独立行政法人・勤労者退職金共済機構で退職金が365億円も未払いがあると指摘された件で、記者団に質問され、こうのべたそうです。
制度もきちんとしないといけないが、国民一人ひとりの立場に立つと、権利の上にあぐらをかいてはいけないのではないか
自分の権利は自分で守っていかないといけない
問われているのは365億円にのぼる退職金未払いという政府の責任ですが、どうでしょうか、これが事実でないのなら堂々と未払いはないと答えればよいし、未払いの事実があれば釈明し、責任をもって支払うことをのべれば、記者への回答にはなるのでは。舛添氏がやっているのは、責任を棚上げし、年金制度のあり方や政府の信頼性にたいする批判を国民の監視(が足りないこと)にたいする責任に問題をすりかえていることです。
このように氏のすりかえ、あるいはごまかしにあたるかもしれませんが、最近の言動はすりかえという一本の糸で結ばれていて、どこまでも責任を回避しようとする姿にしかみえてなりません。
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郵政「改革を止めるな」! 内外資本のために。
日本郵政公社は本日、持ち株会社・日本郵政株式会社のもと、4つの事業会社に分割、民営化されました。
分割・民営化にむけて、庶民にとってどんな不都合が生まれたのでしょうか。4つの事業とは、郵便事業、貯金、保険と窓口業務ですが、それぞれ新たな問題が浮かび上がりました。
郵便事業のうち集配業務では全国1048局で業務が廃止されたので、遅配、誤配をはじめ苦情が相次いでいるようです。トヨタ方式の導入など「合理化」がすすめられ、その分、利用者にとっては不便になったようです。
貯金では、手数料が最高10倍に。不採算を理由にしたATM撤去は600台にのぼるといわれています。保険では、政府保証がなくなりました。旧簡易保険の条件変更が不可能になって不便でもあります。
いずれも庶民、利用者からみれば、不便さを感じこそすれ、利用しやすくなったとか、サービスが向上したと思えるような変化はありません。政府は分割・民営化で「サービスは低下させない」と大見得をきっていましたが、現実はこの政府のことばを確実に否定しているようです。
たとえば、以上にふれた「官から民」への移行は、不採算を大きな口実として合理化・効率化を図るというものでしたので、この考え方に立つ限り、これからもとくに地方でのサービス切り捨てがすすむことは想像に難くはありません。不採算は情け容赦なく切り捨てていくというのが「民」の一つの考え方だとすれば、これまでの(郵政事業の)「官」の考え方は、全国一律、一体的サービスを提供するというものでした。ともかくその基本に立っていたといえるでしょう。
このようにみてくると、新自由主義政策的「改革」という名で推進されてきた一連の構造改革は、この郵政民営化にとどまらず、一本の強い糸が貫かれていることに気づきます。効率化・合理化の名のもとに、民間でやれると思ったものはすべて「民」へ切り替える。そこで働く労働者も当然のことながら、コスト削減の対象としてみなされ、雇用縮小・首切りをおこなう。その際、サービス利用者には痛みを引き受けてもらう、などなど。
しかし、「官」で不採算であった事業を「民」に譲るという理由だけでは、新たな日本郵便株式会社の役員に大企業の経営陣が名を連ねることは説明がつきにくいのではないでしょうか。利潤追求が目的の民間会社が不採算をあえて引き受けるのは論理的ではなく、利潤を追求できる余地がそこにあるからにほかなりません。
ですから、たとえば公共性よりも利益と効率を優先する経営を強め、これまで必要がなかった株主への配分を重視するでしょう。利用者サービスをさらに切り捨て、株式の上場によって300兆円に上る国民の資産を内外資本の利潤追求に提供する方向です。
民営化の「仕掛け人」は日本と米国の金融・保険業界であるといってよいでしょう。米国が圧力をかけてきていることは常々語られていましたが、その狙いは、300兆円を超える資金の国家保証をはずして、海外流出、とくに対米流出を可能とすることにあったといわれます。その一方で、郵貯・簡保の新商品開発にあたって米国関係者を委員として入れるよう非公式に求めています(06年9月23日)。郵政9・11選挙後の05年末の米国の年次改革要望書は「米国の関心は、郵政民営化で銀行、保険、貨物分野において、米国企業を含む民間企業に不利益が生じないようにすることである」とあからさまにその意図を語っています。
物事に表があれば、裏もまたあります。郵政民営化は、公務員をダシに使って、ムダをなくすとよびかけた、小泉首相の「改革を止めるな」というアジテーションにひきづられ、それに期待した人もけっして少なくはありませんでした。しかし、表に現われている部分よりも、表には見えない部分や裏に、ちょうど氷山のように、巨大なモノが隠れていることも少なくありません。
そもそも郵政民営化、「構造改革」がどんな意図をもってすすめられようとしているのか、すでにその一端がこれまでの経過で明らかになっているわけで、誰のための改革なのかをあらためて問わないといけないように私には思えます。そうすると、小泉首相が「改革を止めるな」と叫んだ意味も分かるのではないでしょうか。
彼は、われわれ国民のために「止めるな」と絶叫したのではないはずです。大企業と米国の代弁者として「改革を止める」ことは小泉首相には許されなかったのです。
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相撲協会は変わるのか
この事件の当事者である親方が、部屋の弟子らに口止めしていたことが明らかになりました。
経過をみても明らかなように、当該親方の対応に誠実さの一かけらもみられません。事態は、いよいよ「かわいがり」という悪しき慣習が力士を死に追いやった可能性が強まりました。そうであるなら犯罪行為として厳しく扱われなければなりません。
だが、それだけではなく、この事件は、エントリーでのべたように日本相撲協会の責任が問われる問題をはらんでいます。同協会は極論すれば存亡の危機を迎えているといえるかもしれません。それは、たとえば協会がこの事件を事件解明とともに再発防止の「好機」ととらえ、自主的に対応できるかどうかが問われていると私は考えているからです。しかし、北の湖理事長の少なくともこれまでの対応には、そんな素振りはみじんもみえませんでした。それは「食い違いがあってもいけないので警察に任せるのが一番」という発言にもうかがえます。
これでは協会が事件を生み出す要因に迫り、再発を防ぐ方策を確立することなど、到底できないでしょう。刑事事件としては警察に任せるのでしょうが、再発防止策は相撲協会自身が確立する以外に、だれもできないことです。
閉鎖的体質をこの機会にあらため、早急に第三者をいれた事件解明委員会を立ち上げるべきでした。理事長は少なくとも、そのイニシャチブを発揮すべきでした。
そして、周囲の声も強かったのでしょう、ようやく文部科学省の指導を受け入れ、独自調査をすることを同協会は決めたようです。過去10年の事例を検証するらしい。この決定自体は評価されてよいものでしょう。「外部の有識者」も入れることのようですから、当ブログが主張してきた方向と基本線で合致するようです。
当該事件の解明はもちろん必要ですが、それにとどまらない日本相撲協会の組織機構をはじめ、ことあるごとに垣間見える旧態依然たる体質についても解明し、生まれ変わった姿をみせてほしいものです。相撲ファンはそのことに誰一人も反対しないのではないでしょうか。
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【関連エントリー】
急死力士は何を語る。
この上増税ではたまらない。
民間企業に勤める人が昨年1年間に受け取った平均給与は434万9000円と、前年を1万9000円(0・4%)下回り、9年連続でダウンしたことが27日、国税庁の民間給与実態統計調査で分かった。
一方、給与から天引きされた所得税は、定率減税の一部廃止により総額9兆八千九百二十五億円と前年より10・4%増えた。企業業績は好転しているが、個人が景気回復を実感できない状況が続いている。
男女別の平均給与は、男性が9年ぶりに前年比0・1%の増加に転じ、538万7000円、女性は0・7%減の271万円。全体の給与の減少は、派遣社員やアルバイトが増加する雇用形態の変化も一因とみられる。
給与を階層別にみると、300万円以下の割合が前年に比べ1・2ポイント増える一方、1000万円超の割合も0・2ポイント増え、格差が広がりつつある傾向をうかがわせた。
記事の範囲では、平均年齢、平均的な家族構成が明らかになっていないので、断定することはできませんが、434万9000円というのはどうでしょうか。生活保護基準とくらべてみても、それほど多い給与額とはいえません。しかも、階層別にみて、300万円以下が増え、一方、1000万円以上も増えています。標準世帯でいえば、この300万円が生活保護水準といえるでしょうから、この結果は、日本で貧困と格差が広がっていることが推測できるというわけです。
男女別の平均給与は、男性が9年ぶりに前年比0・1%の増加に転じ、538万7000円、女性は0・7%減の271万円。全体の給与の減少は、派遣社員やアルバイトが増加する雇用形態の変化も一因とみられる。
と記事にあるように、全体の給与額の減少、そして女性の給与額の減少が、正規雇用から非正規雇用、派遣などへの置き換えの結果を示しているのでしょう。とくに、9年連続でダウンということですから、働く者の「景気回復感」なんてあるのでしょうか。
福田首相は、消費税増税を視野にいれていることを隠そうとしていません。そして、来年度予算には、企業減税はちゃんと盛り込まれる予定であって、そうなるとますます庶民の家計は冷え込むし、大企業は笑いがとまらないのかもしれません。来年のこの調査の結果ももう予測できるような気さえしてきます。
福田新首相には、消費税増税にしぼってしまわずに、一度、根本から税制のあり方を見直してほしいものです。
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【関連エントリー】
必要なのは消費税増税路線の転換
大企業が消費税を歓迎するワケ
急死力士は何を語る。
17歳の前途ある力士が急死したのはもう3カ月も前のことである。取材に応じて力士の父親が事件の一端を明らかにしたという。
この事件が伝えるものは、力士の所属する一相撲部屋の問題でも、直接、暴行したといわれるその部屋の親方だけの問題でも、ましてや暴行に加わったといわれる兄弟子たちの問題でもないだろう。そこに留まっては、少しも事件の解明にはならない。この文脈で、事件を伝える電子版の記事をながめると、貼り付けられた写真がことのほか印象的に思えた。
記事には、入り口のシャッターが閉められたままの当該部屋の写真が添えられている。この写真が、事件の本質を語っているように思えてならなかった。
日本相撲協会の組織としての体質をそれが象徴しているかのようだ。
記事によれば、力士が死亡した際の部屋の対応が記されている。そのとおりだとすると、親方も部屋の力士たちも、この力士の死の重みをほとんど感じていなかったはずである。8月、親方が暴行を加えたことを力士の父親に伝えている。そして力士の死亡から3カ月後に事件が公になった。
この事件の経過の概略は、事実の究明と事件の再発を防ぐという点で考えると、負の部分での教訓に満ち満ちている。事件の解明を、日本相撲協会の利害関係をはなれて取り組まない限り、信頼を回復することはできないだろう。本当の再発防止のための提言もできない。要は、第三者による事件解明のための調査を出発点にして再発防止対策を明らかにし社会の点検を受けることが同協会に求められているのではないか。この死亡事件は今後、刑事事件として捜査されていくだろう。だが、われわれはややもすれば犯人さがしに汲々としがちだが、再発防止のために事実解明を重視し、力士育成のためのシステムをはじめ改善点を浮き彫りにすることだ。
問われるのは日本相撲協会だと率直に思う。同協会の閉鎖的な組織体質、組織機構が事件の引き金にもなっているように推測する。競技者の育成をいう点だけをとってみても、他の競技、たとえばサッカーやラグビーが世界中に競技人口をもち、競技会という相互の交流もありながら、切磋琢磨し、競技レベルをあげるだけでなく、コーチングシステムなどの力量を向上させている。国技という冠を戴いて、そこに安住しているように思えるのである。同協会には、力士のための教習所が併設されているようである。そのあり方さえ第三者の眼から点検が必要だと思うのだ。
新弟子検査の応募者が際立って少なくなっている今日の状況を、メディアが伝えているが、若者たちは日本相撲協会の内実を見抜き、敬遠しているのではないか。
暴力でたたきなおそうなどという根性が残っているところには人間は集まらない。
トレーニングのなかでわずかな進歩、昨日とは何かがちがうものを発見し、どう自分がふるまえばよいか、ぼんやりとでも脳裏に浮かび、またはみえてきたとき、競技者は、あるいは人間は、さらに一歩足を踏み出そうとするのではないか。そんな発見ができるところに人は集まるのだ。
死亡した若い力士もこんな思いから免れなかったにちがいない。
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