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「2200億円をめぐる」攻防。
以下は、coleoの日記に昨日書いたことだ。社会保障費の削減をめぐっての攻防について。
首相も、この間の社会保障費の自然増抑制に限界があることをあらためて認めた。これまで、舛添厚労相が繰り返し社会保障削減に限界があることをのべていたが、これを追認する格好になった。 日経が以下のとおり報じている。 ==== 社会保障費の自然増、首相「抑制、限界ある」 福田康夫首相は26日の衆院予算委員会で、高齢化に伴い自然増が続く社会保障費について「今まで歳出改革の対象にせざるを得なかったが、ずっと続けるのは実際難しい。社会保障の質を下げることになるのでおのずと限界はある」との認識を示した。民主党の前原誠司副代表が社会保障費について「無理に削るのが医療崩壊を加速させている。見直すべき時期だ」と指摘したことへの答弁。 政府は「骨太方針2006」で、社会保障費の自然増について、5年間で1兆1000億円圧縮すると明記。08年度予算案でも薬価引き下げなどにより2200億円抑制していた。首相発言は直ちに目標を修正する意向を示したものではないとみられるが、今後の財政運営に影響を及ぼす可能性がある。 |
社会保障削減によって、諸々の場面で矛盾が噴出している。これが、現状だろう。 医師不足とそれを要因の一つとする救急医療の機能低下、産科医療の地域からの撤退と縮小、患者の「たらい回し」。そして後期高齢者制度にみられる制度設計の現状…。 いずれも今日、医療崩壊というくくり方を支持しているように思える。 |
社会保障費の自然増2200億円の削減をめぐり、これに与するのか否か、その争いが政府与党内でもあるということだ。
すでに尾辻秀久氏は代表質問でこの点に言及した。
尾辻秀久氏の代表質問-「乾いたタオルを絞っても水は出ない」
今日、友人がメールを送ってくれた。そのジャパンメディシン社のメルマガから引用する。
「乾いたタオルを絞っても水は出ない。総理、2009年度予算の概算要求基準(シーリング)では社会保障費2200億円の削減を行わないと約束していただきたい」―。
1月22日の代表質問で、自民党の尾辻秀久参院議員会長は福田康夫首相にこう詰め寄り、与党のみならず野党からも拍手喝采(かっさい)を浴びた。また舛添要一厚生労働相は今月20日、東京都内で開いた記者会見で、「(09年度予算では)2200億円のマイナスシーリングをやめたいと思っている」と発言した。 |
同社の記事にそってふりかえると、「骨太の方針06」では、社会保障分野において「過去5年間の改革(国の一般会計予算ベースでマイナス1.11兆円の伸びの抑制)を踏まえ、今後5年間においても改革努力を継続する」ことが打ち出された。
これを踏まえた07年度予算概算要求基準では、政府が掲げる削減目標1.1兆円のうち、5分の1に当たる2200億円を削減することが閣議了解された。
この時は生活保護の見直しで400億円、雇用保険の見直しで1800億円を削減し「2200億円のノルマ」を何とか乗り切ったのである。
「骨太の方針07」でも、「歳出改革の内容は、機械的に5年間均等に歳出削減を行うことを想定したものではない」と明記したものの、結局、前年度と同様に2200億円を削減することが決まっている。
08年度予算編成では、診療報酬プラス改定という命題を一方で迫られる格好のなかで、2200億円の捻出に苦労をしているというのが今現在なのだろう。
現場に起こる問題は、確実に負の連鎖をたどり、深刻さを増している。
こんな状況のなかでの尾辻氏の代表質問であったし、自民党の厚労関係議員は、単年度22000億円の社会保障費削減を撤回をかかげてまでいるのだ。
しかし、削減を堅持しようとする勢力ももちろんいる。
大田弘子経済財政担当相は、年末の経済財政諮問会議終了後、会見で「今回の予算編成では、2200億円(の削減)を堅持し、緩めていはいけない旨の発言をし、社会保障費の歳出削減をかかげている。
冒頭にあげたエントリーでつぎのようにのべた。
政府はすでに12日、「医師は総数としても充足している状況にない」とする閣議決定をおこない、医師不足について認めている。 小泉構造改革に象徴される新自由主義的施策は社会保障切り捨てを一つの特徴としたが、その破たんともいえる。 ただし、こうも考えることができる。 昨年10月、経済財政諮問会議で御手洗富士夫氏ら民間委員は、あえて高負担・低福祉の試算を示してみせた。 社会保障推進会議での議論のゆくえが気になるが、削減の方向をいったん打ち消しながら、持続可能なものにするために消費税増税は不可避という宣伝が強まるか。 削減か消費税増税かという二者択一を迫ることも大いにある。 |
見立てがはずれることを願いたいものだが。もちろん攻防のゆくえが左右するのは単に2200億円にとどまるものではないのはいうまでもない。
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軍艦島にみる高度成長の光と影。

博多から高速を車でとばせば2時間半というところでしょうか。
今回は、職場の同僚たちとのミニ旅行にすぎません。
けれど、結論を先にいえば、なかなかのものでした。
いろいろと考えさせる旅行でした。少々オーバーにいえば、戦後と戦前の歴史を同時に垣間見ることができたわけです。
軍艦島。 (写真上、クリックすると拡大します)
ごぞんじでしょうか。長崎の方なら、10人中10人までがご存知のはずです。
正式名は端島。長崎湾に浮かぶ島。ここも長崎市です。 長崎は、鎖国時代も唯一、西欧にむけて開かれたまちでした。今でももちろん、街のあちこちにそのなごりがみられます。(写真左は出島)
軍艦島の歴史は、直接的には戦後、とくに高度成長期にもっとも輝いたといえるでしょう。長崎湾に浮かぶこの島では、かつて石炭が採れました。
19世紀には石炭の存在が認められたといいます。
佐賀藩を治める鍋島家のものになり、明治に入っては三菱財閥の所有になっています。以後、島には炭鉱労働者のためのコンクリート建ての住居とその周辺施設がつぎつぎに建設されました。
遠くからながめる島の姿は、通称のとおりまさに艦船そのもの。旅行当日、撮った島の姿をごらんください(写真上)。最盛期には東京の9倍の人口密度だったといわれます。だから世界一の稠密な島だったのです。 1974年に炭鉱が閉山。最盛期には5500人を上回る人口だった島は閉山後、当然のことながら次つぎに人がはなれ、閉山の年なかばにはすでに無人島になっています。
ようするに、この島をめぐって私が思うのは、戦前、戦後をとおして、いわば国策に振り回されたということです。
人びとの生活は、エネルギー政策にあおられ、そこに住むことによって存在し、そして今度はまた国策によって生活そのものを奪われていく。その運命にあった労働者とその家族、そして彼らの生活を強く思ったのでした。
この島の戦後は高度成長にはじまり、高度成長の終焉とともに彼らもその地を追われ、この島の戦後も終わったのです。 むろん最盛期をふくめて、彼らの生活はおよそ快適なものとはいえなかったでしょう。
いまでこそ、ストレスフルな仕事や生活、そのありようについて問題も派生し、関心も同時に高まって議論されています。
が、当時はそんな環境ではなかったのではないでしょうか。
もちろんストレス自体がなかったわけではなく、大いにあったと推測されるのですが。だって、私なんかはたとえば東京の9倍もの密度、と考えただけで目が回りそうです。人と人の関係はどうだったのでしょうか。
働く労働者はしかし、採掘という仕事におそらく誇りをもっていたのでしょう。
一方で、島という海に浮かび、外界と隔てられた自己完結の地とそこでの生活のなかでまた、彼らは日々苦悩したともいえるのではないでしょうか。
企業の論理が貫徹し、そこから一歩も抜け出せない、彼らの日常を軍艦島そのものの異形が象徴しているようでなりません。
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PS;軍艦島は現在、立ち入ることはできません。しかし、長崎港から出発する「軍艦島クルーズ」などの周遊コースがあり、海の上から外観をながめることは可能です。今回はそれを利用しました。
堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』-あとを追う日本は…。
日本もアメリカの後を追うようにしてさまざまなものが民営化され、社会保障費が削減され、ワーキング・プアと呼ばれる人々や、生活保護を受けられない者、医療保険を持たない者などが急増し始めた。アメリカで私が取材した高校生たちがかけられたのと同じ勧誘文句で、自衛隊が高校生たちをリクルートしているという話が日本各地から私の元に届き始めたのは最近だが、同時にアメリカ国内では、この流れに気がついた人たちが立ち上がり始めていた。 |

堤未果氏がこうのべるとおり、日本もまた民営化、民営化の掛け声のもとに民間企業に置き換えられた。たとえば、私たちがこれこそ国の仕事だと当然のごとく考えてきた教育や医療の分野で、国立大学や国立病院が独立行政法人に化けていったように。社会保障費の削減はいうに及ばず、毎年の自然増でさえ抑えこまれてきた。そして、ワーキングプアは全国民のうちの何分の一かを占めるほどの一大潮流となっている。生活保護世帯は減らないばかりか増えつづけ、一方で水際で申請にたいする圧力が強められているため、潜在的な受給希望者が少なからずいることは容易に想像がつく。また、医療保険の底が現実に抜けている状態は、当ブログでしばしばふれてきた。
さらに、紹介されている兵士リクルートは海の向こうのことではけっしてなく、とくに地方部で高校生を対象にした勧誘が繰り返されている実情は今や私たち自身が知りうるほどになってきた。
『ルポ貧困大国アメリカ』で堤氏が追いかけるのは、底辺で懸命に生きる人たちの日常だ。


日本では今、産科は「医療崩壊」を示す指標といえるくらい、もっとも地域の病院から医師が「立ち去っている」標榜科の一つだろう。そうして、病院から産科が撤退する結果もくわわって、「妊婦たらいまわし」という事態も生まれてきた。一方で、貧困が広がり、飛び込み出産が増えている。
こんな日本の産科だが、ではアメリカはどうか。それを堤氏が紹介している。その一節をあげてみよう。
「後で全部請求されますから、ただでさえ出産費用が高いのに、ティッシュと脱脂綿だけで35ドルのコストがかかるんですよ」 難産のために帝王切開したナンシーが最初に聞いたのは看護師の「奥さん。一人で起きられますか」という声だった。 「看護師はもちろん知っているんです。長くいればいる程費用がかかることをね。それだけじゃない、動けるようになった患者はできるだけ早く病室から出して次の患者を入れる。回転させるためにです」 「回転? 出産したその日にですか」 「私の出産は日帰り出産です。入院すると一日大体4000ドルから8000ドルかかるんですもの。今アメリカの多くの女性は、高すぎる医療費のせいで入院出産なんてできません」 アメリカには日本のような一律35万円の出産育児一時金制度がなく、すべて民営化による自己負担のため、所得による格差のしわ寄せが妊婦たちを直撃する。入院出産費用の相場は1万5000ドルだ。 「体は動かせるけどまだふらふらするって伝えたら、その看護師、親切に病室から外に出るための車椅子を持ってきたんですよ」とナンシーは苦笑いする。 |

自己責任と効率化の徹底した姿がここにある。看護師の親切も、病院を追い出すための車椅子を差し出すという気遣いに転化させられてしまうという、何という皮肉か。
日本はまだ、アメリカの域にはたしかに至っていない。しかし、多くは貧困が原因の飛び込み出産が増加しているという日本の現実で、仮に医療費がアメリカ程度であれば、どんな事態に立ち至るかはおよそ見当がつくのではないだろうか。
冒頭の一節のあとに、筆者はつぎのように記している。
兵士やその親たちだけではない。民営化の犠牲になった教師や医師、ハリケーンの被災者や失業手当を切られた労働者たち、出口をふさがれている若者たちや、表現の自由を奪われたジャーナリストたちが今声を上げている。生存権という、人間にとって基本的な権利を取り戻すことが戦争のない社会につながるという、真実に気がついた人々だ。アメリカから寄せられてくるこの新しいうねりは、同じ頃日本で急速に拡がった憲法九条を守ろうとする動きに一つの大きなヒントを差し出してくる。 |
このアメリカの変化は、一つは今たたかわれている米大統領選でも垣間見ることができるのではないか。つまり、こうした貧困のもっとも底の部分にまで追い詰められた米国民は、ブッシュ現政権からの何らかの変化を期待し、ヒラリーに、あるいはオバマに期待を寄せている。しかし、その期待に彼らが応えられるか、これが問題である。堤氏は別のところで、ヒラリーも、オバマもその点では期待できない、同じだとのべている。05年、日本ではまさに集団ヒステリーともいえる経験をした。同氏は、大統領選の「狂騒」が、現状では、まさに日本での小泉への期待と同じものだと冷静に指摘している。
話を戻すと堤氏は、アメリカを貧困大国という。ならば、日本の現状は、半ば貧困大国といえるのかもしれない。
アメリカの歩んできた道を当たり前のように歩むのではなく、しばし立ち止まって考えてみることは、無駄ではけっしてないだろう。思い切って引き返すことが要る。
社会保障削減をこのまま続けることはできない、と舛添氏が吐露するのも、この道を進み続けるのに抵抗が強いからである。別のことばでいえば長年の自民党政治がゆきづまっているからである。
ようは、この道をすすみつづけるのか否かは、憲法にてらして考えるということだろう。すすみつづけることは、日本国憲法の理念からますます遠ざかることを意味する。
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【関連エントリー】
堤未果『報道が教えてくれないアメリカ弱者革命』と新テロ法案
分断をあおる朝日新聞。
朝日新聞がまた誤解を招くような記事を書いている。
病院で働く勤務医と開業医との間にくざびをあえて打ち込むかのような記事に疑問を感じる。記事が読者に伝えたいのははたして何なのか。
勤務医再診料30円上げ 開業医との差縮める |
厚生労働省は9日、医療機関などに支払う診療報酬の08年度改定で、全国9000病院の約7割を占めるベッド数200床未満の中小病院の勤務医再診料を、570円から30円引き上げて600円とする方針を固めた。開業医の再診料は現行の710円のまま据え置くことが決まっており、格差は140円から110円に縮まる。開業医と病院の勤務医との再診料格差を小さくするとともに、中小病院の経営悪化を防ぐのが狙い。
13日の中央社会保険医療協議会(中医協)で正式に決める。 08年度改定では、勤務医不足対策のための財源確保が最大の焦点。厚労省は当初、開業医の再診料を引き下げることで費用を捻出(ねんしゅつ)しようとしたが、日本医師会などの強い反発で断念した。 代わりに、再診料に上乗せ請求できる外来管理加算を見直したり、簡単な治療の診療報酬を廃止したりすることで、開業医向けの診療報酬約400億円を削減。その分を勤務医不足対策の財源に充てることを決めた。 しかし、これらの措置では再診料の格差是正ができない上、外来診療の割合が高い中小病院にとっても減収となる。そこで、中小病院の勤務医の再診料を引き上げることで格差を縮小し、中小病院の減収分を埋め合わせることにした。 必要な財源約75億円は、外来管理加算の見直しなどで中小病院への支払いが減って浮いた分の医療費を、そのまま充てることで対応する。 |
勤務医の労働環境の劣悪さを訴えたいのか。それが、今回の診療報酬改定で是正されたというのか。
病院勤務の医師と医院を経営している開業医の間に格差があって、それはまずいといっているのか。それが今回、少しはただされたと伝えているのか。
それとも他に読者に知らせたいことがあるのか。
いずれでもないように思える。
少なくとも、つぎのように改定の中身がおよそ医療の内容とは無関係に経済的観点でのみ措置しただけの改定を、批判するどころか、何のコメントもせずに記事にしてしまう恐ろしさ。
片方を400億円削って、それをもう一方の穴埋めにするというわけだから。
こんなやり方に少しはくちばしをはさんでよいようなものだけれど。
日本の医療の現在を少しでもよい方向にと考えているとは、毛頭思えない記事ではないか。歴史が教えるのは、分断が持ち込まれるのは、ときには弾圧という形すらありうる、抑え込む際の常套手段であるということだ。
すでに勤務医たちの団体結成が伝えられている折、それを逆手にとって、開業医に矛先をむけるつもりか。
なぜ共同戦線かというエントリーでのべたが、分裂には共同という対置で臨むことが患者・国民に求められている。(「世相を拾う」08030)
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「朝日」よ、精神は何処に。「あらたにす」発足
朝日が、読売、日経とともに共同ポータルをたちあげました。
それにふれた社説をきょう、載せました。格調高い「平民新聞」の創刊宣言を冒頭でとりあげたものです。
しかし、当の朝日。こんな記事を書いています。こんたさんは、自らのブログで厳しく批判されています。
ジャーナリズムの精神はいったいどこにいってしまったのでしょうか。この由々しき事態を天国の先人たち、「平民新聞」の言論人、もちろん運動家たちはどう思うのでしょうか。
coleoの日記;浮游空間のエントリから転載します。
====
きょうの朝日社説は、あらたにす発足―言論の戦いを見てほしいというもの。
朝日・読売・日経の共同ポータル始動にともなう主張だ。
「平民新聞」の創刊宣言を冒頭でとりあげている。
吾人(ごじん)は人類をして博愛の道を尽(つく)さしめんが為めに平和主義を唱道す。故に人種の区別、政体の異同を問はず、世界をあげて軍備を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す |
当時の発行スタッフの、言論人として屹立した精神と朝日のそれを比べざるをえないので、そうすれば、おのずと落差の大きさを嘆かざるをえない。
たとえばぬるまゆにつかってすごす日々のこの記事の指摘。
ごもっとも。同感。
管理人さんは、対立をあおるものと記事を指弾されている。
外来の初診料は、前回06年度改定で開業医、勤務医とも2700円に統一された。だが、同じ病気での2回目以降の診察にかかる再診料は、勤務医570円(ベッド数200床未満)に対し、開業医は710円。 |
という表現は、指摘にあるように正しくない。
再診料は、勤務医と開業医で区別されているというわけではないし、勤務医と開業医に入るものでもない。病院あるいは診療所として届けられている医療機関に入るにすぎない。アメリカならば、制度的に、ドクターフィー(doctor fee)、ホスピタルフィー(hospital fee)というものがあって、それぞれ医師と病院に支払われるのだが。
記者は、中医協関係の会見配付資料かあるいは発表者側のレクチャーをそのまま記事にした可能性がある。だとするとこんどは発信者側の恣意性が問われる。
「無責任で不正確な情報があふれる中では、きちんと裏付けを取った正確な情報を発信する新聞の役割がますます重要になる」と社説はいうのだが、そっくり朝日に返さなきゃ。
制度を把握せず不正確な情報を発信する非常識を疑う。不正確を通り越して、意図的な記述を流すのであれば、いよいよジャーナリズムとしての価値はない。
(「世相を拾う」08020)
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なぜ共同戦線か。
当ブログでは、医療や社会保障にかかわってのべることも少なくないためなのか、医師や医療従事者の方々にもお立ち寄りいただいているようである。
先日、患者・国民と医師の関係は双方向か。という記事を公開した。これにたいして、ぬるまゆにつかってすごす日々;こんたさんからTBをいただき、以後、いくつかコメントを頂戴した。このエントリーでいいたかったことをすでに公開されていて、とくに医師とそれをとりまく関係を的確に図示されている。
紹介したい。敵の敵‐共同戦線‐というエントリーである。
こんたさんの主張しておられる共同戦線は、社会的な連帯とか、より発展した場合の(医療)統一戦線に置き換えることが可能だろう。その基本の着想だと思える。
必要な医療をどこでもだれでも受けられるようにという患者・国民の願いにこたえられるものにするためには、あるいは社会保障を充実させ文字どおりセーフティネットが機能するようにするためには、この共同戦線が不可欠である。そう思うのは、以下の理由によっている。
デーヴィッド・ハーヴェイがいうように、新自由主義は、それを推進していく上で、国民の中に必ず推進していくためのしかけを構築する。それは端的にいえば分断と差別という形で、弱者に牙を向けてくる。医療においては、医師と国民、あるいは医療従事者と国民、さらには社会保険加入者と国民健康保険加入者などのように。加えていえば、老人と現役世代、生保受給者とそのほか、という具合に枚挙に暇がない。政府・厚労省、財務省は、自らの医療費抑制、社会保障切り捨てを守備よく成し遂げるために、階層間の対立と軋轢を生み出す宣伝と組織に血道をあげてきたといっても過言ではない。因みに、税制の面では、いわゆるクロヨンという、裏づけのない政府の宣伝が長らく中小零細業者を苦しめてきたことも我われは知っている。
このように政権につく側は、国民にたいする収奪や負担を強いる場合、必ずといってよいほど国民のなかに「味方」をつくってきたといえるだろう。だから、分かりやすくいえば、敵の味方をも、われわれの味方にしなくては医療も社会保障の充実ものぞめない。
分断と差別は、思想的には自己責任論という衣をかぶって説かれてきた。
厄介なことに、この自己責任論は、ブログ言説のなかでもさまざまな場面で幅をきかせ、広く浸透しているように私には思えてならない。ブログ言説でしばしばみられる、キャス・サスティンのいう集団極化は、自己責任論の変形だととらえられるのではないか。
以前に、こうのべたことがある。
インターネットを直接民主主義(の場)と受け取るのはあまりに素朴だが、同じ意見がいいたいことをいって言葉を競い、いよいよ過激になり、そして、少しでも異なる意見は排除する。先がしだいに尖がってしまう。しまいには、相互に分裂してしまうだろう。 coleoの日記;浮游空間 集団極化とメディア |
いいたいことは、意識しようとしまいと、差別を強いる側、排他する側にわれわれは常に立ちうるということである。共同戦線や社会的連帯という立場は、これとは対極の態度だといえる。
社会保障をよりよいものにするという立場に立つ以上、こんたさんがいわれるように真の敵は何か、これを選び取るリテラシーがどうしても必要になる。
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【関連エントリー】
ハーヴェイは新自由主義をどうみたか。
朝日社説「希望社会へ…」-国の言い分を検証すべき。
朝日社説(1・21、ウェブ魚拓)は「希望社会への提言」で社会保障を扱い、将来図をどのように描くのか、その一端を示している。
提言の核心は、福祉サービスを地方政府に委ねるという点である。分かりやすくいえば、国の責任から地方の責任に移すということだ。ただし、ここでいう福祉サービスとは、以下のように医療や介護もふくむものであるらしい。
工夫のひとつが2番目の提案だ。医療や介護は思い切って地域政府にまかせ、住民が必要とするサービスの内容は住民が決める仕組みにしよう。 |
容易に推測されるのは、社説の立場が中央政府の財政状況の逼迫を前提にしていること、別の言葉でいえば、「小さな政府」がイメージされているといえる。なるほど社説は、やみくもに「小さな政府」にするのではなく、「中福祉・中負担」で連帯型の福祉国家をめざそう 、とは一応いうのだが。
社会保障への毎年の公的支出は、25年度までの20年間に40兆円以上も増えると大まかに試算されている。そのうち20兆円を医療が、10兆円を介護が占める。高齢者が急速に増えるからだ。 |
こう社説がふれるように、社会が高齢化するなかで、将来もふえつづける社会保障という化け物を、このまま国家が負担することは不可能、だから国庫負担を減らさなければならない。その結果、負担を国民に求め、給付内容も後退させてきたのが、この間の図式だろう。
しかし、こんな事実がある。あのフリードマンらの提唱によって新自由主義政策をとってきたことでは先輩格である米国の実情だ。案外知られてないように思えるが、米国の国家財政のうち、社会保障費が実に半分を上回って占めていることだ(下図参照。クリックすると拡大します)。国家の守備範囲を徹底して狭め、防衛や治安など一部に限定し、社会保障を含めて多くは市場に委ねていこうというのが、多くの人が思い描く「小さな政府」ではなかったか。
この事実を前にすると、たちまち立ちすくむ。映画「SiCko」によって、とくに低所得者層にとってはほとんど医療という世界から遠ざけられている残酷な実態が明らかにされたが、件の医療後進国・米国に、日本の国家負担が大きく及ばないことをどのように理解すればよいのか。むろん米国は、図をみれば明らかなとおり軍事費もかなりの部分を占めている。
日本はすでに「小さな政府」というわけだ。
この事実には裏側がある。痛みをともなうといいながら、小泉元首相は、歴代政府のなかでもいちばん借金をつくってきたという事実だ。小泉純一郎の5年間で、国債の発行残高は169兆円も増えたのである。なぜそうなったのか。
国民には負担を強いて、課税を強める一方で、税制上は、企業や財界、大資産家のために優遇してきたこともまた事実なのだから、この企業・大資産家減税と、小泉「構造改革」によるリストラの増加や社会保障改悪が相次いでボデーブローとなって、国民の所得は伸びなかったこと、この2つの側面で税収が増えなかった。したがって、財政悪化の要因は、公共事業の浪費とあわせて、とくにこの5年間の税収減だといえる。
このような事実と経過をふまえてみると、政府説明を鵜呑みにしたような朝日の構想の前提が崩れてしまうように思える。
社会保障が国家財政をダメにしたわけではないのだ。たとえば、朝日のこんなものいいは、滑稽にすら思える。
極力抑えるため、社会保障の中にもある無駄を徹底して排除し、効率化させていく。これは改革の大原則だ。 |
もっと大きなムダ、理屈にあわないことがあるではないか。
米国にも遠く及ばないような日本の社会保障への責任のとり方でよいのか、ということこそ問うべきだ。財政のあり方は、当ブログでなんども繰り返しているように、どこから財源を確保するのか、どこに税を配分するのか、この2つで立ち居地が決まる。
朝日の主張は、この意味で重要な視点を欠いている。国の言い分を検証するくらいのことは少なくともやってもらいたい。(「世相を拾う」08011)
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PS;米国と日本の国家財政の概要を下に図示しました。
メディケアは、高齢者及び障害者に対する公的扶助、メディケイドは低所得者に対する公的扶助。これ以外は、医療サービスを受けるには、公的な保険がないため私的保険に加入するほかないと考えてよいでしょう。
朝日社説「再可決…は無策」と大連立推進の立場
「再可決へ-「3分の2」決着の無策」という標題のとおり、朝日社説(1月11日)は国会の審議のありように言及しています。たとえば、
再可決とは、政治の対立がどうにもならなくなった場合に憲法が用意した非常手段である。これを使うには、合意づくりへの立法府の最大限の努力と有権者の理解が欠かせない。参院の意思を覆すには、政治的な妥当性がなければならないのだ。 |
のように。
なるほど憲法は、衆院が可決した法案を参院が否決した場合、衆院での再議決の規定をもってはいますが、その際、二院制の趣旨、民意にてらして運用されなければならないのではないでしょうか。
給油活動を継続できずに停止した事態に至って、世論はどのようなところにあるのか、つまり国民は給油再開に賛成なのか、反対なのか、これは無視できないところではないでしょうか。新聞各社の調査によれば、少なくとも再開せよという意見が少数だということは結果に表されています(参照)。
朝日社説に欠けていると私が思うのはこの点で、引用した一節でも、また他の部分でも言及しているわけではありません。
要は、なぜか朝日社説の視点は、政党のさや当てという部分に集中しているのです。
なぜか。朝日が大連立推進の立場に立っているからです。
政党のさや当てといったのは、自民党と民主党のそれですが、つぎのように朝日の主張がどこに立っているのかは明確でしょう。
政府・与党が再可決の腹を固めたのは、昨年11月に福田首相と民主党の小沢代表との会談で浮上した「大連立」が決裂してからのことだ。 2人だけの会談では、自衛隊の海外派遣のための恒久法制定まで含めて妥協ができそうだった。それが大連立話が頓挫したとたん、与党は「もはや再可決しかない」、民主党は「対決路線」と突き進んでしまった。 アフガニスタンの現状を見据えて、日本としてどんな協力をすべきなのか。骨太の議論を戦わせ、民意を踏まえつつ与野党が修正案を練り上げていく。「衆参ねじれ」の時代に求められるのはそんな知恵と工夫だったはずだ。 |
大連立の立場に立つかぎり、世論のありように目がむくはずはありえません。「自衛隊の海外派遣のための恒久法制定まで含めて妥協ができそうだった」と朝日が口惜しそうにいうとおり、国民の意思とは関係なく、事が運ぶしかけこそが大連立ということではないでしょうか。
参院選は自民党にノーをつきつけ、その結果、衆院で3分の2を占める与党と、野党が過半数を占める参院という、日本の政治史上も特殊な状況がつくられました。国民がこれを選択したのです。
従来の自民党政治をつづけていく上での自民党の矛盾、選挙に勝つための対決姿勢と従来の主張とがしだいに乖離してしまうという民主党の自己矛盾。自民、民主両党がこの2つの矛盾を解消しようとした結果が大連立の動きでした。
再可決という「選択」の要因は、自民党と民主党の無策にあるのではありません。
大連立がひとまず不発に終わった今、米国との約束を果たすためには、この道しかない。自民党にとってはもちろん、民主党にとってもそうでしょう。だからこそ、民主党は継続審議をもちだした。結果的には、他の野党の批判をうけ、これを引っ込めましたが、民主党にとっては参院委員会で否決に加わったという汚点がずっとついて回るからです。
だから、事態を冷静にみると、国民が賛成していない新テロ特措法を強引にすすめようとしているのは、自公与党と、与党案には賛成しなかったが、すでに恒久法づくりで基本線が一致している民主党-与党、民主党と国民との間の亀裂が大きく広がっているという事実でしょう。
朝日社説が語るのは、この事実に目をつぶり、大連立推進勢力としてすっかり収まったと自ら表明しているということではないでしょうか。(「世相を拾う」08005)
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「朝日」に欠落する視点-二大政党をめぐる日米の違い
たとえば年の初めのこんな日々かわりゆく天候は、あたかも今日の日本社会の不安定さを暗示しているかのようである。多くがおそらく感じ取っているであろういまの日本の社会のありようは、多かれ少なかれメディアにも同じように映っているのだろう。その端的なものが政治というわけだ。
元日の三大紙をながめてみると、日本は今、ある種の閉塞状況にあるという認識が基調になっている。なるほど、国会の中だけをみれば、参院選の結果によって「ねじれ」がつくり出されたために法案も成立しないという現状は、そもそも国民にとってゆゆしい時間の損失だとの判断も分からないわけではない。しかし、考えようによっては、たとえばこの国会の膠着した状況こそ、参院選における国民の判断が明らかにした、これまでの自民党が長きにわたってすすめてきた政治の到達点と矛盾といえないか。
朝日社説(08・1・1、ウェブ魚拓)はこの20年間をふりかえっている。私はつぎのようにとらえるのだが、20年間は重要な意味をもっていると思う。
自民党政権は、政権を保持しつづけ、権力を安定的なものにするために、選挙制度をかえ小選挙区制を導入した。たしかに、民主党という「新しい政党」が再編過程のなかでできあがり、自民党は政策実行の面で民主党を与党と位置づけ、自民党単独政権が不可能になれば、公明党も抱き込んで、新自由主義的な改革を強行してきた。ひらたくいえば「小さな政府」を掲げて、効率化・規制緩和を追求する新自由主義は、社会保障や教育やあるいは中小企業対策、地方などは後景に追いやられ、結果的に国民に負担を犠牲を押しつけるのだから、国民生活との矛盾は深まらざるをえないし、現に国民の痛みは極まっている。だから何かをかえてくれるとだろうと05年、小泉に一縷の望みを託した有権者も、さすがに昨年の参院選では自民党を選択しなかった。参院選の結果は、こんな一連の流れ、過去にようやく国民が眼をむけはじめたということを示すだろう。朝日によれば、この一連の流れが蛇行ということになる。
今年は、この20年の上にたって、今後、どんな選択を日本がするのか、それが問われる一年になるだろう。朝日は、その結節点を次期総選挙だと指摘するのだが、自民VS民主という構図から抜け出てはいない。「政権交代」を意識した論調は、この間の朝日のものである。そうではなくて、問われるのは、自民VS民主とはことなるもう一つの選択を視野に入れることができるかどうか、ということである。別の言葉でいうと、この20年間とは異なる、つぎの階梯に足を踏み入れる契機に今年をするのかどうかということだ。
朝日のように自民、民主の間の政権交代を志向するのをアメリカ型二大政党制だとよべば、昨年来の大連立が構想されながら、いったん頓挫しているのは、日本の政治状況が、アメリカ型二大政党制とは異なるからである。少なくとも現状は異なる。この差異は、端的にいえば国会における共産、社民の存在に尽きる。議席が少数に留まっているとはいえ、10%を超える国民の支持があるからである。
二大政党制の枠組みで権力を維持しようとする勢力は、だからこそ大連立で、米国型に近づけようとしたのである。この日米のちがいを乗り越えることができなかった。民主党が国民の意思に縛られながら、とりあえず連立に反対するという立場に踏みとどまったといえる。ただ、今後も連立の動きは繰り返されるにちがいない。
その意味では、次期総選挙は、「政権交代」ではなく、いよいよ自民党政治の延長ではない政治が可能かどうかが問われるという意味で「政権選択」の選挙だといえるのではないか。
朝日社説は、その点をあえて無視しているか、欠落させている。
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07年をタイムスリップする。

この破天荒はちょうど07年の激動を象徴し、表現しているかのようである。


この間に、国民が政治を動かすことができる、確実に動かしていると思える、いくつかの出 来事をあげざるをえない。薬害肝炎訴訟はいうまでもなく、来年4月から予定されていた後期高齢者 制度では政府は修正を余儀なくされた。その内容を高齢者が知るやいなや怒りが起こり、そ れが全国に燎原の火のように広がって各地の老人クラブをも動かす規模と質の怒りの運動となったのだ。新た な負担強化と医療差別をそれがもたらすからである。
生活保護の切り捨ては、かかげられたものの、結果的におろされた。連合までが最低1000円 にという要求をかかげた最低賃金制は、その願いからはほど遠いが久しぶりに改定される。


参院選は自民党が大敗し、民主党が大勝した。あえていえば、国民は自民を大敗させたが 、民主を勝たせたのではない。そんな国民の意識を察知したのが小沢一郎だった。小沢の 臭覚は、参院選での、集票のために自民党への対決姿勢を強めさせた。そこに、民主党にと っての矛盾があった。そもそもの同党の主張・政策と一致しない、対決姿勢など不安定その ものだろうから。同様に、自民党にとっても矛盾はいうまでもなく深まった。与野党逆転と いう国会の状況にあって、野党の結束が強まれば、自民の思惑を先行させる強硬な姿勢より も、選択肢は、譲歩に傾かざるをえない。今後、衆院選が控えていればなおさらのことであ る。新しい状況は政党間の矛盾をも深化させたわけである。大連立に福田が動き、小沢が動 いたし、背後の「支配層」もまた動いたのである。
自民党の大敗に端を発したのにかわりはないが、この政治状況がもたらした矛盾を端的に物 語ったのは、この大連立劇である。大連立は自民と民主の矛盾を打開すべく目論まれた。そ の劇場で奇しくも小沢は民主党の出自を自ら明らかにした。それは、引き続く自民党の退潮 傾向のなかで、長年つづいた自民党政治を支えていく勢力であることを国民の眼にみえる形 で示したという意味で歴史の重要な一ページだったといえる。そして、結局のところ、民主 党の「総意」は大連立に乗らないことを選んだし、選択せざるをえなかった。それは、新段階にすすんだ状況での同党の思惑がそうさせたのである。しかし、次期衆院選にむけて、それでも矛盾は拡大するだろう。

「政治とカネ」が問われた一年だった。組閣の際、たとえば身体検査という言葉が定着した ように関心がそこに向かうようになったのは一歩前進というのが率直な感想だが、根本的解 決との距離感は相当ある。大元にある団体・企業献金に日本の政治がどう手をつけられるか どうかにこそ解決の道はある。
こうして一年を現在から過去にむかって時間をさかのぼってみると、自民党政治のゆきづまりが実感される一年と特徴づけることができそうだ。別の言葉でいえば、それは、国民が政治の主体者としてようやく登場しつつあるということである。それに抗うためのしかけが大連立の動きであった。ある意味でいうと、これは支配層の危機管理の一面だともいえる。この連立劇は、それまで政権保持のために有効に機能してきた小選挙区制と二大政党制の到達点と矛盾もまた反映している。
だから、この07年を引き継ぐ08年は、政権を支える勢力の矛盾がいっそう深まるという点で、そ して国民の運動がより進化するだろうという点で、またこの両者の攻防がいっそう激化する という予測において、いっそう激動の年になるだろう。
国民と財界・支配層との攻防、日米同盟と国民生活との間の矛盾という支配構造の根幹にかか わるところでのたたかいが避けられそうにないという意味で激動はさらに加速すると推測す る。
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『ダーウィンの悪夢』から日本の生活保護まで。

きょうの「サンデーモーニング」は格差と環境をテーマに特集を組んで、新自由主義の成り立ちとそのもたらしたものを振り返っていた。番組は、映画『ダーウィンの悪夢』をいわばナビゲーターとして、人類にとっての格差と環境の意味を問い、新自由主義というシステムを紹介したものだ。ふりかえってみると、とくに小泉改革以後、日本での新自由主義の露骨な具体化の段階に入った。新自由主義が求める「小さな政府」においては当然のことのように社会保障に眼がむけられ、削減の嵐が訪れる。日本もまた例外ではなかった。
社会保障分野での削減の結果、日本社会のなかで何が起こってきたか、そして何が起こりつつあるのか。

社会保障は、日本国憲法25条の定める生存権を保障する方法として、以下のような柱をもっている。生活扶助や児童手当などの現金給付による所得保障が一つ。第二に、医療や福祉、教育、保育などにみられる現物給付といわれるサービスである。これらのサービスは現金給付でかえることはできない。そして、生存権を支えるための規制や社会的ルールである。 新自由主義は、たとえば第一の現金給付では、対象を限定しつつ抑制し、所得保障そのものを限定してきたように、そのほかについてもそれぞれ変えてきた。介護保険や障害者自立支援法でも明らかだが、二番目の現物給付は、利用者にサービスを買わせて、現金給付にきりかえていく方向に変えられた。第三のルールや規制にかかわっては、それをとりはらおうとする、最近の混合診療全面解禁を求める動きに典型的だろう(写真右;規制改革会議委員の松井道夫・松井証券社長)。
構造改革は社会保障の柱とされてきたものにねらいを定めて見直してきたのだが、その考え方は、社会保障を建物にたとえると、二階建てにするというものである。一階は、限定された公的保障の部分。そして、二階は、自由(競争)市場にゆだねる。二階部分に住むためには、利用者が契約し、サービスを買わなければならない。だから、こういった考えの前提には、社会保障全体をまず現金給付型に統一する方向がなければならない。「負の所得税」の考え方だ。こんな構造をめざして、構造改革路線はすすんできたのだ。
その矛盾が噴出したのが07年であるように思う。たとえば、生活保護の水準、つまり切り下げが取りざたされる一方、最低賃金制などの最低所得保障水準が一部改定されるなどの最近の動向はこれを反映している。租税を財源とする生活保護と保険財政をもとにした国民年金という最低所得保障、勤労者所得の最低水準を決める最賃だが、この三者の均衡が完全に崩れている。
もっとも生活保護水準を政府は絶対にあげられない。底辺を引き上げてしまうからである。
しかし、こうした新自由主義に反対する社会的運動が事態を切り開いている。餓死事件では国民の側の全国的な調査活動が契機となった。反貧困キャンペーンが新たな展望を与えている。そして参院選では、国民の新自由主義にたいする審判が示された。集票目当てで民主党は自民党との対決姿勢をとった。この姿勢を同党は簡単に崩すことはできない。そこに同党の矛盾があるのだが、本物かどうか国民は見極める必要がある。福田政権もまた、衆院選を控えていればこそ、国民の要求を無視はできない。
矛盾を明らかにしながら、参院選後の政治状況は、国会の構図をも縛っている。それは、社会保障にかかわるものでいえば、生活保護基準の見直しをかかげながら、いったん降ろしたこと、後期高齢者保険制度の見直しにも表れている。
私は、貧困は自己責任ではなく、自由権の侵害、要は不自由な状態に置かれているととらえる。社会保障をめぐってはいよいよ、25条にてらして最低保障、最低生活とは何か、その中身が問われてくるだろう。国民的合意をつくるための、活発な議論を期待したい。
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薬害肝炎。線引き崩さず全員救済退ける。
「被害者の全員救済」という願いは、かなわなかった。国側が最後まで救済範囲を限定する姿勢を崩さなかったことに、薬害C型肝炎訴訟の原告たちは失望し、和解協議打ち切りを宣言した。
20日午前、厚生労働省で会見した全国原告団代表の山口美智子さん(51)は「私たちが全面解決という最後の山を登ろうとしているのを、福田康夫首相は突き落とした。舛添要一厚労相も握っていた手を放した」と怒りで体を振るわせた。
原告・弁護団は19日を福田首相に政治決断求める期限としていたが、最後の望みをかけて、この日朝まで朗報を待った。これまでの5年間の闘いを振り返りながら、原告らは眠れないまま朝を迎えた。しかし、待っていたのは落胆だった。
製剤使用を知らせず、提訴の機会そのものを奪った上にこの仕打ちは許せるのだろうか。
薬害の被害者に何ら責任はない。血液製剤が投与された時期にかかわらず、感染とその被害を拡大した国・厚労省と製薬会社に大きな責任がある。国民の安全に責任を負うのは政府だ。
原告団の意思は、全員一律救済であって、明瞭であった。原告や被害者が願っているのは、①ウイルス性肝炎の感染拡大への国・製薬会社の責任の明確化と謝罪、②すべての被害者の救済、③真相の究明と薬害の根絶、である。
ウイルス性肝炎の大半は、医療行為に起因する医原性の感染です。感染被害を防ぎ、国民の生命の安全を確保することは国・厚労省の責任だ。放置すれば肝硬変や肝がんなど生命にかかわる。
舛添厚労相はこの朝、東京地裁が国などの法的責任を認めた期間から外れる被害者に対し、創設する基金を積み増す案を示した。全国弁護団の鈴木利廣代表は「全員一律救済の理念を理解しておられないようだ。札束でほおをたたくような案で、『要は金だろう』と矮小(わいしょう)化している」と痛烈に批判した。
政府は、全員救済ではなく、あくまでも線引きの姿勢を崩さなかった。鈴木弁護士の言葉が政府の姿をよくとらえている。
全員救済と薬害根絶という原則的立場をとれない政府に、はたして哲学があるとは到底思えない。たとえば米国にはどこまでも追随するし、これほど原理・原則を尊重をしない政治にほとんど呆れるばかりだ。
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薬害肝炎訴訟;全員救済し命奪うな。
薬害肝炎訴訟;全員救済し命奪うな。

被害者が国と旧ミドリ十字に損害賠償を求めた薬害肝炎訴訟で、大阪高裁での和解骨子案が出された。現在、審理中の5高裁で初めてだ。
骨子案は、国や企業が責任を負う範囲を限定したもので、原告側は「同じ被害を受けた仲間を線引きし、切り捨てる案」と厳しく指摘し、受け入れを拒否した。
薬害肝炎全国訴訟団は、首相と舛添厚労相に被害者全員一律救済の政治判断を求めた。当然の要求である。
肝炎汚染の危険性はフィブリノゲン製剤だけでなく、クリスマシン製剤も承認当初から指摘されていた。今回の和解案は、今年3月の東京地裁の判決基準に準じて、フィブリノゲンの投与については、製薬会社の責任の範囲を、1985年8月から88年6月、国が責任を認める範囲を87年4月から88年6月までに限定したもの。クリスマシン製剤については製薬会社が責任を認める範囲を84年1月以降とし、国の責任は認めていない。
記者会見にのぞんだ訴訟団のなかには、九州訴訟団の福田衣里子さんの小柄な姿もあった。
ちょうどしんぶん赤旗日曜版(12・16)は、一面を福田さんのクローズアップ写真で飾っている。「私の人生かけて」。この見出しのとおり、彼女はこの3年間、必死でたたかってきた。集会や記者会見ではときに涙を浮かべながら、それでも気丈な彼女は唇をきっと噛みしめて、また立ち上がってたたかいとおしたのだ。彼女自身は20歳のときにC型肝炎に感染していることを知った。生まれてまもなくクリスマシン製剤を投与されたのが原因だという。
和解案の提示に先立つ10日、彼女らは首相に面会を求めている。そのときのインタビューが記事に掲載されている。
私は、一日も早くすべての患者が治療を受け、元気になってもらうためにたたかっています。何年かけても真相究明をやりとげ、薬害をなくしたいんです。国は患者の救済を血液製剤投与の時期によって限定しようとしています。これでは人の命が切り捨てられる。納得できません。
他にかえるこれ以上の言葉はない。彼女の予想のとおり、和解案は到底納得できないもので、拒否すべき対象だった。
今年10月、薬害C型肝炎患者418人分のリストが厚労省の地下倉庫に放置されているのが発覚している。
国は提訴の権利そのものを奪ったわけである。リストのなかには上記の和解案が示した期間をはずれる人が、116人存在するといわれている。告知もせずに提訴できないようにして、救済期間を限定することが許されるのか。
ミドリ十字は薬害加害企業として繰り返し登場してきた。自民党へ企業献金を注ぎ込み、厚労省官僚の天下りを受け入れるという政・官・業の癒着がおおともにある。
人の命より企業の権益を優先する企業。献金と天下りという甘い汁をすってきた自民党。そこに薬害を生む根源があるといえるだろう。
全員をただちに救済すべきだ。そして、福田衣里子の言葉にあるように、薬害の根絶にむけた国の企業の責任をはっきりさせることが何よりまして要る。それは、彼女の行動の核心にあるすべての患者のためにという点で必要なのだ。
国と企業はそれでも人の命を線引きし、奪おうとするのか。
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トヨタ社員は過労死。世界のトヨタの裏側

この判決は、トヨタの工場労働者が残業中に倒れたのは過労が原因として労働基準監督署長を相手どって「業務外決定」の取り消しを求めていた裁判で、原告側の請求を全面的に認めました。
遺族年金不支給取り消す=トヨタ社員過労死訴訟-名古屋地裁((時事通信)
裁判では、労基署長の時間外労働時間の認定方法の是非、無償労働(QCサークル活動や提案活動)の業務性の判断などが争点になったものです。裁判長は、QC活動について「事業者の支配下による業務」と明確に認定し、死亡した労働者の労働の質や夜勤の疲労度などについて踏み込んで判断しています。
実際にTQC活動(*1。total quality control。総合的品質管理や全社的品質管理と訳される)やあるいはドラッガーが提唱したとされるMBO(Managemennt by objectives。日本では「目標による管理」と訳される)などに参加された方も多いのではないでしょうか。
これらは、いずれも本人の自主性に任せることで、主体性が発揮されて結果として大きな成果が得られるという人間観にもとづく労働管理の手法といえるでしょう。企業であれば、これらがいずれも企業という組織の中でおこなわれる以上、品質や目標を管理するのは最終的に事業者であって、その成果も企業の利益となって「結実」する性格のものでしょう。これらの管理手法は、自主性を尊重、評価するようなしくみのようでありながら、実は当の労働者にとっては、たとえば具体的な数値目標にむけて進行が管理され、あるいは品質が問われることにたいする肉体的、精神的疲労はけっして少なくないはずです。こうした管理手法の研修・指導や実践で常々感じるのはこういうことでした。
この意味で、名古屋地裁の判断はまったく妥当だと思うのです。
トヨタはいうまでもなく、世界有数の自動車メーカー。経常利益も法外な規模のものです(*2)。
今回の裁判で争われた事例は、おそらくトヨタで働く労働者の労働実態のごく一部が表出したにすぎないでしょう。けれど、訴訟は、一人の労働者の死という過酷な実態の上にトヨタの利益が成り立っていることもまた明らかにしました。
被告の国が控訴せず判決を確定することが望まれますが、トヨタという世界企業での事件だけに予断は許しません。
原告である、死亡した労働者の妻の言葉が印象的です。
トヨタは利益以外のことで世界に認められる会社になってほしい。
他言は要しません。
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*1;JIS(日本工業規格)用語では、以下のように定義されています。
品質管理を効果的に実施するためには、市場の調査、研究・開発・製品の企画、設計、生産準備、購買・外注、製造、検査、販売及びアフターサービス並びに財務、人事、教育など企業活動の全段階にわたり経営者を始め管理者、監督者、作業者などの企業の全員の参加と協力が必要である。このようにして実施される品質管理を全社的品質管理(company-wide quality control、略してCWQC)、または総合的品質管理(total quality control、略してTQC)という。
*2;トヨタの営業利益が年2兆円を超えたと伝えられたのは記憶に新しいことでしょう。
(関連記事)
トヨタ元社員は「過労死」、遺族側勝訴 名古屋地裁(朝日新聞電子版12・1)
切り捨ての方便-生活保護はセーフティネットたりうるか。
生活保護の減額容認 厚労省検討会「低所得世帯上回る」(朝日新聞)
生活保護基準は、厚労省が水準均衡方式によって決めている。1984年に採用されたこの方式によれば、採用当初は「一般国民の消費水準」の60%というものだった。これを、今回の検討会報告案では、低所得世帯の消費実態と比較して、生活保護が高いと断定しているわけで、生活保護の引き下げに道を開くことになった。
もともと水準均衡方式は、国民の消費水準が下がれば、それに応じて生活保護基準も下がっていくわけで、あり地獄のようなもの。あがいても、あがいてもずるずると基準は下がるしくみだ。それを今度は、低所得者と比較しようというのだから、生活保護受給者の矛盾はいっそう広がらざるをえない。総務省がおこなう全国消費実態調査によれば、1999年版と2004年版を比較した場合、全体の世帯では消費支出はほぼ横ばいだが、低所得者では落ち込んでいる。格差の広がりが指摘されるなかで、いちばんのしわ寄せは大方が想像するであろう低所得者に及ぶ。調査はそのことを示している。
日本国憲法が第25条に定めるように、すべての人が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有しているはずである。だとすれば、まず手をさしのべるべきは生活保護水準以下の世帯があるという現実である。生活保護が最後のセーフティネットという絶対的水準ならば、それ以下は存在してはならない。ただちに打開すべきである。
生活保護切り捨ては以下にのべるように既定の方針だった。今年5月、国会で労働関係三法案(労働基準法改定法案、労働契約法案、最低賃金法改定案)が審議された際、最低賃金が生活保護基準にも満たないことが大いに喧伝される一方で、すでに厚労省サイドでは、生活保護水準の引き下げを検討していることが報道された。方針はすでに明確だったのである。いま、あらためて労働契約法案、最低賃金法改定案が審議され、民主党をふくめ可決されようとしている国会のさまは、ことし5月の議論の際の、生活保護と労働関係法がセットに議論されていた、そのときの記憶を蘇らせる。
かつて、土光臨調などとよばれ、今日の新自由主義政策のさきがけともいえる政策が具体化された折、その政策が差別と分断を軸に展開されることを、抵抗勢力はさんざん指摘してきたのだった。以来、今日まで同様の政策は常に階層間の差別と分断をはらみ具体化されるに至っている。今回の最低賃金法改正案と生活保護切り下げのニュースはこの端的な表現であろう。
重要なことは、生活保護基準が実際にたとえば最低賃金、そして課税最低限、国保料、あるいは社会保障関連分野の支給基準と密接にかかわっていることである。だから、この意味で、われわれ一人ひとりの国民生活に大いに影響するわけである。
したがって、生活保護というセーフティネットをどのように考えるかという問題は、一人生活保護受給者の問題ではなく、すべての生活者、つまり国民にかかわる、避けてはとおれない問題であるということだ。
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