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「朝日」は、民主党の思いを代弁するのか。。
その理由は、以下の社説の主張にある。
単刀直入に、自公に固執するのか、なぜか、と問うているのだ。
政権を渡すか、渡さないのか、それはもちろん現在、権力の座につく自民党にとって横に置くわけいかない重要な問題だ。
自民にとって、単独政権に勝るものはまずないはずだが、長期低落傾向を免れえず、自公連立政権が今日まで続いている。当ブログでいう自民党政治のほころびがさまざまな面で噴出している現在、実は、自民党と手を組んでいる公明党も、将来にわたっての態度決定が迫られているといえる。自民とこのまま手を組み続けるのか否か、公明党の思案のしどころだといえる。
だから、福田首相の辞任表明は、公明党自身のこの観点からの自民党への揺さぶりが反映したものだといってよい。ゆきづまりの自民党と一緒に地獄に落ちるのは御免こうむりたい、こんな思いの一端が公明党には率直にあって、その同党の思惑が福田辞任をもたらす一因にもなったといえる。
朝日の社説の主張は、このようにある面では揺らぐ公明党へのけん制だと私は受け取る。
持ちつ持たれつの現状を考えると、自公体制を変える理由はない。これが党内の大勢の意見である。だが、それでは視野が狭すぎないか。
民主党が力をつけ、2大政党が政権選択う総選挙が迫る。この20年ほどの政治改革の流れがようやく形になろうとしている。「清潔な政治」をうたう公明党もこの流れをつくるために努力してきたのではなかったか。 自民党との連立で総選挙に臨む公明党には、次の問いに答える責任がある。自民党長期政権のもとで、政官業の癒着が進み、膨大な行財政のムダが積もってきた。今のままの連立でそれを排することができるのか。 |
社説の主張は、きわめてストレートな表白だとはといえないか。分かりやすくいえば自民党と手を切れと迫っているということである。
自民党の前回衆院選からの議席数後退は必至といわれる予測が横行するなかで、朝日の主張は、その想定に勢いを借りたものだといえよう。
裏を返せば、しかし、「政権交代」をもくろむ民主党は早晩、だれと手を組むのかという命題への対応を迫られることになる。そこから逃れることはできない。
その際、昨日エントリーで引用した渡辺治氏のコメントが的確に指摘するように、民主党にとって、公明党はベターなパートナーとなりうるのだ。
最近の鳩山由紀夫氏の言動をいま一度ふりかえってもらいたい。
朝日社説の立場は、こんな解釈からすれば、明らかに民主党の思いを代弁するものとみてまちがいはない。こう断言できる。
(「世相を拾う」08186)
新聞メディアは増税支援を決めた?
昨日のエントリーで、「毎日」を取り上げました(参照)。続いて、今日は、「朝日」が社説で、福田首相の本音を語らせようとしています(写真)。
「毎日」は首相の消費税増税の「覚悟」を問う、そして「朝日」は本音を語れという具合に、それぞれ表現の違いはありますが、「覚悟」も「本音」も、いずれも消費税増税を前提にしたものです。
つまり、この二紙は、消費税増税の立場から、福田首相の考える増税への道筋に、あるいはその道筋以外にないという世論を、かわって構築しようとするものにほかならないと考えざるをえません。
朝日社説をみてみると、はっきりとこうのべています。
医療や介護を充実させ高齢化が進んでいけば、政府の支出も増える。一方でいくら予算の無駄を削っていっても、いずれ社会保障を支えるために増税が必要になるだろう――。そうした考え方は理解できる |
論旨からいって、増税とは消費税増税であるのは明らかです。
端的にいえば、増税が不可避、そしてそれは消費税だといういうことです。
一方で、たばこ税の増税が話題をさらっています。
推進するのが、消費税増税に反対している中川秀直や民主党の前原誠司ということで、これはよりマシ、いいのではないかと考える人もいるようです。
しかし、あえてこの路線はあやしいと主張したい。
問われているのは、税をどこからとるのか、ということです。
当ブログは、消費税増税が法人税減税分をまかなってきたこの間の経過、あるいは所得税の累進性が緩和されたり、資産家への課税が緩和されてきた事実から、今がまさにこれをいったん元に戻す時期ではないかと考えるのです。大企業・財界は減税によって内部留保を築いてきたのですから、これを反転させ負担をしてもらう条件は大いにあると思うのです。
なぜ、たばこ増税路線があやしいのか。
それは、この間の経過に目をつぶっているからです。庶民が税に苦しむ一方で、減税の恩恵を享受してきたのが財界・大企業だということを結果的に隠蔽するものだからです。
たばこの害がさまざまな形で喧伝され、増税やむなしの世論形成に有利な状況にいまある。しかし、この路線のいかがわしいのは、財界や大企業から税をとるとは一言もいわない点だということです。
考えてみると、たばこ税もたばこという一つの商品の消費にかかわって課税するわけですから、消費税と形式的には何らかわりはありません。富む者も貧しい者も、愛飲家であれば等しく課税される。つまり逆進性は貫かれる。言葉を変えて、大ぐくりにいうと、消費税をたばこという一つの商品に特化したものにほかなりません。
税というものの、富める者から貧しい者への分配をうながす機能に着目して、これを尊重する立場にたつのなら、やはり、この10年ばかりの税制をふりかえって、それがもたらした貧困や格差をあらためるためにも、税制を元に戻すことは可能だ、税はもうかっているところからとれ、という声は検討に値すると考えるのですが。
(「世相を拾う」08110)
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消費税増税の「覚悟」って。。
つまるところ、消費税引き上げは必至との認識を示し、世論の同意を求めたいというのが発言のねらいだと受け取れる。
この福田氏の発言に「毎日」社説が言及している。
消費税増税をテーマに当ブログではいくつかのエントリーを公開してきた。そこで、今回は「毎日」社説にみられる論点の一つについてふれてみたい。
社説:消費税増税 福田首相には覚悟が要る |
「高負担・高福祉」でいくのか、「低負担・低福祉」か、あるいは別の選択肢があるのか、国が進むべきビジョンを示すことだ |
とする部分である。
問題の設定は、高負担・高福祉か低負担・低福祉かの二者択一でもなく、そのほかの選択肢があるのか否かでもないだろう。
いわんや高福祉ならば、高負担だと接続することでもない、と私は思う。この文脈には、いうまでもなく高福祉を支えるには消費税増税しかないという論理が隠されている。
そうではなくて、いまの低福祉を認めるのか否かが問題であって、あるいは(国民にとって今の)高負担を認めるのか否かがそうであって、負担と給付の水準を連係させる必要はない。
分かりやすくいえば、低福祉をあらためて、しかも国民に負担を求めないでこれを支える道があるかどうかの問題だと私はとらえる。
その道はある。その道を選択するのかどうかの、国民の議論が必要なのである。だから、話は最初にもどる。消費税は不可避ではない。
このような見立てからすると、「毎日」社説は視点がクリアではなく、焦点が定まっていない。
「毎日」は、大見得を切った以上、消費税増税をやる「覚悟」を総理に求めている。
総理の「覚悟」がどうであろうと、あるいは民主党がどのような態度を示そうと、ただ日本国国民が迫るのは、総理と自民党が、そして民主党は消費税増税以外に税源はないと認識しているのか、税源をどこに求めるのか、それを明らかにさせるという点である。
さらに議論をすすめるならば、税はもうかっている財界・大企業からとれということだ。
国民的議論の核心はそこにあると思う。
(「世相を拾う」08109)
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【関連エントリー】
消費税増税の大合唱で何をうたう…
最近の消費税関連エントリー
ハケンの現状を我われは打開できるのか。
常に真摯な論評をものしている mahounofuefuki さんからコメントを頂戴した。
エントリーでそのコメントに応えたい。
労働者派遣法改正については、最近私はかなり悲観的になっています。ブログにも書きましたが、その原因は民主党の「裏切り」がおそらく進行していることです。来年の通常国会あたりに自民・民主・公明の談合で、一方で日雇い派遣の禁止とマージン率の制限で労働側に妥協しつつ、他方で貴ブログがご指摘の「2009年問題」に対応するために企業の直接雇用義務を撤廃する、いわば抱き合わせの「改正案」が成立するというシナリオがあるような気がしてなりません。もちろんそれでは根本的解決にはならず、「市民」と「奴隷」の溝を埋めることはできません。だいたい民主党はいまだに登録型派遣の廃止すら打ち出せないでいます。過去の例から言って民主党が労働者の声を聞くとはとうてい思えません。正直なところ困っています。 |
真面目な氏の態度が実によく表れている。
mahounofuefukiさんのコメントの要点はつぎの2点だと解釈する。
一つは、2009年問題の帰趨である。
率直にいって、氏の見立てはあたっているかもしれない。氏が指摘される可能性を否定することはできない。
けれど、私が思うのは、そのような可能性があるにしても、もう一つの可能性を想起させるような現在の状況である。そのことをむしろ強調することを、運動論(として)は求めていると考えている。つまり、大小の労働運動や反貧困の社会的運動がそうした地平を切り開いているという現実を直視することが、私は大事だと思っている。比喩的にいえば、財界・大企業を追いつめているということだ。そこまで大げさでなくても、彼らが窮地に立っているという事実をみるということだ。
だから、この見方にたてば、かつての労働運動にはなかった多様性を私は評価したいし、そのことは一種の、かつての人間が考えることさえ及ばなかった可能性をはらんでいると私はみたい。それが、たとえば組織的でなかったり、突発的・一揆的なものであるにせよ、である。考えてみると、組織性や系統性などはじめから存在するものではなく、まさにいわれてきたように、たたかいながら学び、学びながらたたかってきたのが労働者だったのかもしれないのだから。
私は、以上のようにかなりの程度、楽天的にものをみていて、その点が、真摯な
mahounofuefuki さんとの違いになっているように思う。
そこで、mahounofuefukiさんのコメントの要点の二つ目だが、いうまでもなく民主党にたいする評価である。
結論を先にいえば、当ブログの読者の皆さんならお分かりのように、私の民主党に対する評価はすでに明確だ。出自を問えというのが私の立場。したがって、もとより民主党に期待などしてはいない。極論すれば、同党がどのような表現方法を採ろうと、民主党というのは権力のスタビライザーにすぎない、これが結論。
安定装置なのだ。
ただし、そうはいっても、私は、今国会での、たとえば後期高齢者医療制度での共同を大いに支持する。野党共同の、同制度廃止法案の提出を明確に支持したい。その限りで民主党の態度を評価する。
大事なのは、その際の評価する側のスタンスだろう。
私は、労働者が真に主人公となる社会の誕生を展望するので、その展望にてらしていえば、民主党の出番などまったくない。民主党に仮にプログラムがあるとしても、労働者が主人公になる社会をなどと、同党は自らの社会的使命、あるいは要請などと考えもしないからである。
したがって、mahounofuefukiさんの見立てはまちがってはいない。
私は、派遣労働というのが、社会運動を視野に置いているならばお分かりのように、現在の局面での「運動の環」だと思う。それは、繰り返すと、2009年問題の解決という、資本の側ののっぴきならない大問題でもあるからである。だから、労働者の側からみると、それは、「虐げられつづけて」きた局面を質的に転換できる要素をはらむと一方で思えるからである。
今を少しでもかえようとする意思があれば、それに私は率直に同意したいし、そのための手をつなげる可能性をともに模索したい。考えるのは、ただそれだけである。
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一部が苦しむ不平等か、全部が苦しむ平等かという問い。。
赤木智弘氏の「希望は戦争」というメッセージはさまざま議論の対象となってきた。あるいは、その直裁な表現において強烈なイメージで受け止めた人は多いだろう。
この赤木氏の主張を、東浩紀氏は解釈して、以下のように表現した(『思想地図』vol.1)。それにこたえて萱野稔人氏が発言している。
東氏はこのようにのべている。
中途半端は擬似敗戦状態では、間隔に世代間ギャップが生まれる。それなら、すべて燃えつくされたほうが、みんな敗戦体験ができるからいい。一部の人間が敗戦を体験し、ほかの人間は体験していないという不公正こそが最悪だ、と彼は言っている |
つまり、この文脈によれば、赤木氏の主張は、萱野稔人氏が端的にのべたように「一部が苦しむ不平等より全部が苦しむ平等を」というものに収斂される。
私は、たとえば派遣労働者の置かれている環境において今、彼らをただ戦力として最大限利用し尽くしてきた資本の論理が、その理不尽さゆえに国民の反発を買い、従来のやり方が通用しなくなっている事実、一方で自ら打開の方向を有効に見出しえない、ゆきづまりに直面していることをのべた。
この理解は、少なくとも赤木氏の主張の前提となる現状の把握とは、おそらく微妙に異なるものにちがいない。というよりも、より正確にいえば、現状の把握は仮に同じなのかもしれないけれど、そこから先の現状打開の方法論のちがいということになる。
「希望は戦争」という赤木氏の言説にかぎっていえば、他者との連帯の可能性をいったんは少なくとも否定するところからはじめなければならないし、はじまっている。だから、しかしと私は躊躇するし、とりあえずこれに同意することはできない。つまり、氏は、つきつめると戦争というものによってすべてが否定されてはじめてスタート時点にたつという理解になる。苦しみを同じくして、連帯は、あるいはその可能性がはじめてはじまるというわけだ。
けれど、戦争というものが今日、貧困ビジネスといわれる現実がとくに重要である。戦争によって、すべての者が同じ地点にたてるのではなく、同じように排除され、その他大勢というくくりで排除されるのがオチだ。全部が苦しむ平等ということではなくて、圧倒的多数が同じように「平等に苦しむ」だけにすぎない。また、戦争がビジネスである以上、少なくとも苦しまず、旨い汁を吸うごく一部がいる。
「一部が苦しむ不平等」という現象と、「全部が苦しむ平等」という現象が仮に異なるものだと区分したとしても、この2つの現象に共通する本質がそこには潜んでいて、それはごく一部の者が特権として他とは区別されているということである。
赤木氏の把握に違和を感じるのはこの点である。戦争というものによって、平等に分け隔てなく平等が構築されるというのは幻想にすぎない。不平等は貫かれる。あるいはもっと、極端な不平等がそこに存在する。
少し回り道をしたが、赤木氏の言説を参照して、あらためて思うのは、今の局面の理解である。
2009年問題を当ブログではとりあげた。
私がいいたかったのは、この問題が、今の資本の側の矛盾を表現しているということであった。具体的には財界・大企業が雇用戦略でゆきづまりに立ち至っているということであった。
だから、赤木氏の主張をふまえて私が考えるのは、彼のいう「希望は戦争」という主張を反転させるということだ。戦争というものが人・モノ・カネの最大の消費であって、それを商売にし、利益を確保しようする者が少なくともいるという現実がある以上、「希望は戦争」という主張を反転させなければならない。
一方で、日本国においては、2009年問題が資本の側の直面する、解決すべき重要問題としてたち現れている現実は、これを転回点として不平等のもとに大なり小なり置かれている圧倒的多数の国民に、連帯の希望を与えるものだと私は確信するのだが。少なくとも連帯の可能性を否定する条件は少ないと思える。
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【関連エントリー】
2009年問題が問うもの。
2009年問題が問うもの。
労働者派遣法が施行されたのは1986年である。そして、規制緩和の連続のなかで派遣労働者は320万人を超えるといわれている。
そのうちの多くは、いわゆる登録型の派遣だが、彼らは不安定な雇用形態、低賃金と無権利のなかに置かれている。最低限の生活すら保障されないという事実は、たとえば彼らにネットカフェ難民という貧困を強いてきたのだ。
こうした人間をまるでモノのように使い捨てにするような雇用のあり方がいま問われている。
財界・大企業の雇用戦略が矛盾に陥っているのである。それは、キヤノンやいすゞ、コマツなどの企業が製造現場から派遣労働をなくし、直接雇用の期間社員などに転換する方針を発表したことにも端的に表れている。
いうまでもなくこれは、使い捨ての働かせ方にたいする世論の強い批判の高まりが背景にある。
それだけではなく、いわゆる2009年問題の対応に財界・大企業は迫られているからである。
直接には、06年に偽装請負が大きな社会問題となったが、企業は、偽装請負を労働者派遣に切り替えることで乗り切ろうとした。
ところが、労働者派遣には、請負にはない制限がある。つまり、それは、同じ業務への派遣は最長3年までというものである。
だから、06年から3年後の09年に、大企業・財界にとっての問題が待ち受けているわけだ。
ご存知の方も多いだろうが、御手洗富士夫氏が請負法制をとりあげたり、「3年たったら正社員という派遣法は見直すべきだ」と発言してきたのはそのためである。氏は、派遣法などの規制緩和を求めているのだ。
現場の欠かせない戦力として派遣労働者を最大限活用してきた企業は、この難問に直面している。
以上の経過をみれば、批判をかわすためにその場かぎりの対応で終始してきた企業の「雇用戦略」がいよいよゆきづまっていることを示している。
この戦略のゆきづまり、2009年問題は、国民世論と運動が表出させたものだ。偽装請負、大企業の違法行為の国会内外での告発はこの点で情勢を動かしている。
おそらくこれら一連の世論と運動とあいまって、不安定雇用の境遇にある労働者のさまざまなとりくみの広がりがあり、連帯が形つくられつつあるのだろう。当ブログでとりあげた蟹工船ブームもこの延長線上に位置づけうるのではないか。
財界・大企業が2009年問題を乗り切ろうとするのは、規制緩和の方向によってのみである。
そうではなくて、労働者の側からみるならば、今日の派遣労働の劣悪な実態をつくりだした1999年の派遣法改悪を乗り越えて、派遣法の抜本的改正をなしとげることだろうと思う。
その基本方向は、派遣法に派遣労働者の生活と権利を保護する役割を明記することであるし、派遣労働は臨時的・一時的業務に限定することをはっきりと定めることだ。
99年改悪では、与党だけでなく、民主党も、社民党さえも賛成してしまった。その限りで、今日の事態を招いた責任がある。
非人間的な雇用環境をあらためようという意思があるのなら、いまこそ派遣労働者保護の立場を鮮明にすべきではないか。
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歯切れ悪い『朝日』 -高齢者医療制度

抑えようのないほどの怒りと悲鳴に近い、何とかしてくれという願いにこたえるのが政治の責任だろう。
冒頭の廃止法案は、つぎのような2つの柱をもっている。
- 来年4月に後期高齢者医療制度を廃止し、老人保健制度に戻す
- 10月までにとる緊急措置
- 後期高齢者保険料の年金からの天引き中止
- 保険料負担を軽減
- サラリーマンの被扶養者の保険料徴収の中止
- 70―74歳の窓口負担2割の中止
- 65―74歳の国保料(税)の年金天引き中止
後期高齢者医療制度で問われたのは、制度設計上の数々の問題点だけでなく、それぞれの問題点に表現される、制度の根本にある思想だった。つまり、それは、年齢で区分けし、従来加入していた医療保険制度やその扶養家族から強制的に除外し、差別的な医療を強要するものであった。
別制度への移行を強いられる高齢者の怒りと不安の対象はまさにそこにあった。
ようするに政府の医療費抑制ありきにいきつく。人のいのちより医療費削減に結果的に重きを置いたといわれてもしかたがないだろう。
朝日新聞が社説(5・24)で、野党の廃止法案にふれている。朝日の主張は、歯切れが悪い。
廃止法案についての言及部分は主につぎのとおり。
- 制度を「元に戻せ」と言うだけでは、問題は解決しない
- 老人保健制度に戻れば、多くのお年寄りは市町村の運営する国民健康保険に再び入ることになる。今後、お年寄りが増えた時に、いまでも厳しい国保の財政が維持できるとは思えない。
- 老人保健制度では、お年寄りの保険料も現役世代の保険料もまぜこぜで、だれがどう負担しているのかが分かりづらかった。現役世代の負担が際限なく膨らみかねないという不満もあった。
ようするに、国保に戻れば、また国保財政が悪化する、現役世代の負担が明確でない、と旧制度の「弱点」をもちだしているのだ。
けれど、(後期高齢者医療制度は)「国民皆保険を守るためだ」などと弁解したのは舛添大臣だったし、)。「一番医療費がかかる世代というものを明確にしながら現役世代の負担を明確にし、わかりやすい制度とする必要がある」といったのは法案提出時の厚労相・川崎二郎氏だった。
朝日は政府の言い分をそのまま繰り返しているにすぎない。
繰り返すと、医療費抑制策という制度の根本にある思想が問われていると先にのべたが、朝日は、医療費抑制の是非をこそ問うべきだろう。
「元に戻せ」と言うだけではと朝日はいう。しかし、その「元」の国民健康保険制度の財政を悪化させたのは、歴代の政府が国庫負担を減らし続けたことが大きな要因だろう。しかも、この間の日本では、正規雇用の非正規雇用への置き換えによって、非正規雇用のア彼らは社会保険から排除されてきたわけだから、国保が彼らを吸収したのだ。この点にかぎっていうならば、企業は非正規への置き換えによって(企業の)保険料負担を抑えてきたということになる。
つまり、私は、国庫負担を増額するという国の責任、そして不安定雇用を正規雇用に切り替えるという企業の責任を明確にする必要があると思う。この上にたって、制度の財政危機を乗り越えるのが、政治の責任ではないのか。
さすがに朝日も、「税金の投入は後期高齢者医療費の半分と決められているが、必要に応じて増やすことを明確に打ち出すべきだ」と申し訳程度にのべているが、歴史的な経過をふまえて、医療制度の財政危機の原因がどこにあるのか、そこに踏み込まず、目をそらしているのもまた朝日なのである。
(「世相を拾う」08092)
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日米同盟または「サヨもどき」。
昨日は中川敬の、明快なメッセージについてふれた。
たまたま、大澤真幸の最新刊『逆説の民主主義』 を読んでいるが、大澤はこう指摘していた。まったく賛成である。
私は「日米同盟」という表現が気になる。この語が指しているのは、日米安保条約に基づく両国の関係だが、かつては、この語が用いられることおはきわめて稀であった。おそらく、1980年代までは、日米安保のことを「日米同盟」と呼ぶ政治家は、ほとんどいなかっただろう。親米派も、反米派も、この語を用いるのが普通になったのは、おそらく、90年代の半ば過ぎである。どうして、「日米安保」は「日米同盟」になっただろうか? 私の考えでは、「日米同盟」という語には、日本人のアメリカに対する―-とりわけ冷戦終結以後の―-の屈折した感情が込められている。「日米同盟」と聞くと、まるで、日本とアメリカの対等なパートナーとして、友情を結んでいるかのように聞こえるだろう。だが、日米安保条約は、明らかに非対称な関係を規定する条約であって、日本に対しては消極的な、アメリカに対しては積極的な義務を割り振っている。この条約のもとで、日本人はアメリカに対して、不安と負債感を抱いているのだ。 |
これまで当ブログでは日米同盟および安保条約について、以下のエントリーを公開してきた。
NHKスペシャルの「リアリズム」と日米同盟の今日
「毎日」記者の目は地位協定をどうとらえたか。
この2つのエントリーからみると、大澤の見解は当ブログの立場とおよそ一致しているとみてよい。
ところで、大澤のいう「不安と負債感を抱いている」のは多くの日本人であるのだろうから、だとすると、自称「平和・リベラル」の人も、そしてあるいは自ら「左派」だと位置づけている人でさえ、その呪縛から解き放たれてはいない。
常日頃、勇ましい言説で鳴らしているブロガー諸氏もまた、日米関係に入り込んでしまうとたちまち沈黙してしまう、こんな感触を私自身はこれまでもってきた。
ちょうど、大澤自身がつぎのようにのべている。
「護憲」を訴える者すら、②(憲法の方を基軸におき、日米関係を憲法に整合するものへと転換する=引用者)を貫き通すのは現実的でないと考えている。 |
なるほど、私たちの周りの「平和・リベラル」ブロガーは、多くは、日米関係の血なまぐさい関係を前にたじろいてしまう。たちすくむのだ。大澤の指摘はこの点で当たっている。彼らのすくないない部分が、民主党支持をうたってはばからない現実と整合している。
つまり、この現象は、私の見立てでは、以下のダイナミクスのとらえ方のちがいによっている。
大澤曰く。
日本国憲法の精神と日本の安全保障政策の基本的な方針との間の矛盾である。日本の安全保障政策の中核は、言うまでもなく、日米安全保障条約にある。憲法と日米安保とは、相補的であると同時に、拮抗的な関係にあるのだ。 |
これが要諦だろう。補う言葉などまったくない。
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【関連エントリー】
中川敬とメッセージ
中川敬とメッセージ

知ってる人は知ってるが、ほとんど知られていない。だろう…。
ソウル・フラワー・ユニオンのリーダーだ。
2年前だったか、こちらにグループがきたとき、この歳でライブにいった。
若者でない管理人が今さらノリをうんぬんするのは野暮というもので、その気はないが、しかし、彼らのメッセージはとにかく強烈だった。叫び、シャウトの連続のなかに、明確なメッセージが読み取れたし、20曲近い楽曲は、多様な地域性を反映した、異色のメロディーであって、楽しむことができた。
メッセージを伝える歌は多い。逆に、何らかのメッセージを伝えるものが歌なのだろう。しかし、音楽というものの出来不出来は、歌う者と聴く者の間の、旋律とリズムを介したメッセージをとおした応答関係が成立するか否かにかかっているように思う。少なくとも、その日、中川をはじめソウル・フラワー・ユニオンとの間にその関係はちゃんと成立したとように思えた。
その中川が、小冊子に「戦争が人為なら」という短い文章を寄せている。
憲法9条を守るべき理由のひとつに、改憲しようとしているのがまさに憲法だということがあります。彼らは会見しても守らない。改憲したら一気に重しが外れて東アジア全体の政治状況が変わっていくでしょうね。
「日米安保はさておき、憲法9条を守ろう」という雰囲気もあるけど、それは駄目。ヤマトは戦後60年以上、米軍基地の大半を沖縄に押しつけてきました。憲法9条を守っても安保をなくさなければ沖縄を踏みつけにし続けることになる。「文言」をまもるだけでは駄目なのです。 |
中川の発言は、悪いが、民主党のどの議員よりも日本国の現状をとらえているようにみえる。正鵠を射ている。
「具体的な対象があって、その対象に語りかけようとする」能動性が迸る中川である。
ソウル・フラワー・ユニオン オフィシャル・サイト
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「毎日」記者の目は地位協定をどうとらえたか。

すなわち日米安保条約を中心にした体系である。
たとえば、日本国憲法の9条の戦争放棄に象徴されるような平和主義は、日米安保条約のつぎの条項と衝突する。
第3条
締結国は、個別的におよび相互に協力して、継続的かつ効果的な自助および相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる |
これは、1960年の安保改定で明記されたもので、つまるところ日米双方がそれぞれ軍事力を強化するということだ。たしかに、「憲法上の規定に従うことを条件として」とはうたっているが、そもそも「武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力」を発展させることが日本国憲法に違反すると判断される。
日本で憲法と日米安保条約という2つの体系が対立しながら共存するというこの拮抗関係に、繰り返される米兵事件の発生の要因がある。
毎日新聞の「記者の目」欄につぎの文章が掲載された。
記者の目:日米地位協定改定=上野央絵(政治部) 魚拓
最近では、われわれの目にするこの種の記事は、日米同盟を是認し、これを存続することをよしとする立場から書かれたものが多い。その点で、上野記者の一文は異色であって、輝きをもっていると私は思う。
狭い県土に日本の4分の3の米軍専用基地が集中する沖縄では、県民が米軍関係者による事件事故に巻き込まれる確率も高い。防衛省によると、06年度は全国1549件のうち沖縄は6割超の953件。人口10万人当たりに換算すると、本土の140倍の高確率だ。過去10年ほぼ変わらず、基地集中の実態を忠実に反映した数字といえる。 |
先に拮抗関係といったが、この記述に明らかなように、沖縄はその矛盾をもっとも鋭い形で引き受けてきたのだ。正確には、有無をいわさず押しつけられてきたといってよい。
事件事故はその帰結であった。
しばしば日米同盟を重視する潮流は、日米安保条約が「片務的」だということを一つの理由にして集団的自衛権行使を主張する。日本も米国の有事の際、参戦できるようにするということだ。
このかかわりで、上野氏はこうのべている。
「片務的」とは、日本有事に米国が日本を守る義務はあるが、米国有事に日本が米国を守る義務はないことを指す。その代わり基地を提供し、他の受け入れ国中最高額の駐留米軍経費を「思いやり予算」として負担している。 |
しかし、後段の「その代わり基地を提供し、他の受け入れ国中最高額の駐留米軍経費を「思いやり予算」として負担している」というのは正確ではない。
軍事同盟を規定する日米安保条約では、関係のあり方で片務的であって、集団的自衛権を盛り込んでこれを突破しようとしている。それも米国の世界戦略に沿った形で。
「思いやり予算」は安保条約の「片務性」のために負担してきたのではない。
ベトナム戦争で莫大な戦費を費消しつづける米国をまさに思いやって負担してきたのである。法的根拠もない。むしろ安保法体系は、上野記者が的確に指摘した地位協定に端的なように不平等性をもっているが、「思いやり予算」も同様に、そのような「贈与」を強いるという意味で不平等性を反映している。
だからこそ、「思いやり予算」はただちに中止すべきだ。
記事は、
県民大会に保守系首長として参加した翁長雄志(おながたけし)那覇市長は「日米安保体制のひずみ」と指摘し「沖縄の基地問題の解決なくして日本の自立はない」と訴えた |
ことをとりあげている。
沖縄での政治的立場の違いを超えたこの共通した認識を、一度真正面から論議してもよいのではないか。安保条約締結後の歴史は、この認識を後押しすることはあっても、その逆はないように思える。
その意味で、上野氏の記事が多くの人の目にふれることを期待したい。(「世相を拾う」08058)
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PS;集団的自衛権を容認しようと今していることと、なし崩し的に事実上の集団的自衛権の行使に当たる軍事行動を現にとっていることを区別しなければなりません。最近の与野党横断的な改憲議連や恒久派兵法を視野に入れた動きは、その前段階ととらえてよいと思います。
米軍広報紙になりきる読売新聞。

性犯罪の常習集団、在日米軍のために、際限なく税金を注ぎ込んできた日本。
在日米軍への「思いやり予算」に関する現行の日米特別協定を3年間延長する新協定が自民、公明両党の賛成で可決された(衆院外務委員会)。
「思いやり予算」は在日米軍の特権的地位をうたった日米地位協定にも反している(下記エントリー参照)。エントリーでのべたように、特別なものとして金丸信がはじめたものだ。
3月の少女暴行事件は基地がなければ発生しなかった。横須賀の殺人事件も在日米兵によって引き起こされたことが明らかになった。
思いやり予算を語る際には、少なくとも現状に至った経過を把握しておく必要があるし、そもそも在日米軍の駐留にかかわって日米の関係、米の特権的地位を定めた協定にすら明記されていないという認識を欠いてはならない。
冒頭の読売社説にはこの点が欠落している。
読売の基本的立場は、「思いやり予算は、日本の安全保障の必要経費だ。日米同盟の根幹にもかかわる。協定の期限切れを軽く考えるべきではない」というものだ。
しかし、百歩譲って、在日米軍が日本の安全保障に寄与し、そのための日本における米軍の地位を定めたものが地位協定だとしても、思いやり予算がどこに根拠をもって、「思いやり」を実行しなければならない、あるいは日本が実行するという定めがあるのだろうか。それを読売は説明しなければならない。
社説はまた、思いやり予算をめぐる民主党の態度に言及し批判している(*1)。
民主党が今回、協定案に反対したことが相当口惜しいらしい。
しかし、その批判の内容はとるにたらない程度のものである。
読売の立場が右派だろうと左派だろうと勝手であって、どちらでもよいのだが、しかし言説の質の低さはそのまま読売の実態を表している。
まるで米軍の広報紙のようにすら思える。
読売がこれまでの構造改革にどんな立場をとってきたのか、自身が忘れるはずはないだろう。国民には我慢を説いておきながら、「米兵に『本国にいるのと同じ生活の質』を提供する」とのべるに至っては、なんてものわかりがよいのだろうか。(「世相を拾う」08056)
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【関連エントリー】
「思いやり予算」は地位協定にも違反する。廃止だ。
*1;民主党の今回のこの問題での態度はひとまず評価されてよいでしょう。けれど、「読売」に批判されるような整合性のない対応をとるところに同党の弱点が露呈しています。ようするにこの問題でも政局をみるに敏な同党の姿勢がよく表れています。結局、国民の声が強ければ、どうしようもない民主党も背筋をぴんと伸ばさざるをえないのです。

切支丹の苦難をみつめるマリア。

私たちはやすらぎ伊王島というリゾート施設に泊まりました。できてそれほど経っていないこの施設は、若い人も結構多くて、人気のようです。
伊王島は日本でカトリック信者がもっとも多かったところ。島の東岸にそって南にむかってすすんでいくと、沖之島天主堂が道路の右側にみえてきます。
荘厳なゴシック様式の聖堂が印象的です(写真右。クリックすると拡大します)。
高台に建つ白亜の聖堂は、台風と落雷で改修不能となった明治初期の聖堂にかわって、1931年に建てられたものだそうです。
教会の正面むかって右手には、マリア像が建てられています。
1873年(明治6年)の明治新政府による、切支丹(キリシタン)禁制の高札の撤去まで信者たちの苦難は名状しがたいものがあったのでしょう。
天草の切支丹一揆以来、耶蘇教(キリスト教)に対する禁令は厳しさを増していきますが、信徒にたいする重い刑罰が課されてから二百数十年後、やっと信徒は「拷問」から解放されることになったといえるでしょう。
けれど、これも形式的なものにすぎず、実際には、地方で引き続き弾圧は繰り返されたといいます。
マリア像のたたずまい、そしてマリアのまなざしは、どことなく島民の苦難の歴史に向けられているように私には思えます。
いまでも朝夕の祈りと鐘の音が島内にこだまします。
沖之島天主堂は馬込教会とも。
天主堂に向かう坂道には、このようなマンホールに目を奪われました。
IOUJIMAと、しっかり路上でアピールしていますね。
次の日は、坂本竜馬。
風頭公園の像は、長崎の港を向いています(写真)。つまり、竜馬の眼は、日本の外、世界に向けられているのでしょうか。
当時、日本唯一の世界との接点であった長崎で、竜馬は亀山社中をたちあげています。
日本初の株式会社という説もあるようで、いわゆる商社といえるでしょう。これがのちに薩長同盟につながっていったといわれています。
この公園からそれほど遠くないところに亀山社中の跡がありました。
話は元に戻りますが、この日は、出津(しつ)町の遠藤周作文学館にも立ち寄りました(写真)。
つけくわるまでもなく、遠藤は『沈黙』で切支丹を描きました。
沈黙の碑に刻まれた、人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに碧いのです、という言葉は、やはり当時の信徒の苦難を、もっとも鮮やかに私たちにイメージさせるものではないでしょうか。
過去に遡って私たちがかわって引き受けることはもちろんできませんが。残念ながらこの日は天候が今ひとつ。
文学館の建つ小高い丘から臨む眼前に広がる外海(そとめ)の海に、その碧さを実感することはできませんでした(写真・外海)。
長崎市立遠藤周作文学館には蔵書約8000冊が収蔵されているといいます。
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「歴史の記憶」と『母べえ』
スペインからのニュースでは、上下両院選挙で与党の第一党が確実になり、サパテロ首相が続投するもようだ。
左派与党、第1党確実に=サパテロ首相続投へ-スペイン総選挙 スペインの上下両院選挙は9日の投票締め切り後、即日開票され、サパテロ首相(47)率いる左派与党・社会労働党が、日本の衆院に当たる下院(定数350)で第1党の座を確保した。今後4年間、同首相が引き続き2期目の政権を担当する。 ただ、右派野党の国民党も善戦、社労党の議席は過半数に届かなかった。好調だったスペイン経済に昨年秋以降、陰りが見えていることなどが要因とみられる。 内務省の発表によると、開票率95.88%の時点で、社労党が169議席(得票率43.73%)、国民党は154議席(同40.13%)を得る見込みだ。 |
サパテロ政権のこの4年間の実績をみてみると、カタルーニャ自治州の自治権拡大、女性への暴力根絶に向けた法律、男女同権法の制定、同性婚の合法化、若者への家賃補助の実施など、相次いで改革を実行している。一方で、経済では年3%前後の、欧州では比較的高い成長率を維持しながら、不安定雇用が全体の3分の1に達するなど問題点も指摘されてきた。
そして、とくにあげたいのは、フランコ軍事独裁政権時代(*1)に弾圧された犠牲者の名誉を回復する「歴史の記憶法」を制定したことだ。
歴史の記憶法。同法の成立は、過去にどのようにむきあうのか、日本との対比でいろいろと考えさせてくれる。
「歴史の記憶法」は昨年11月、スペインで成立した。1936年から39年まで続いた内戦とその後75年までの軍事独裁政権下で政治弾圧を受けた犠牲者の名誉を回復し、遺族を補償する内容のものだ。
共和制を求める人々に対して軍政下で行われた裁判は「非合法」と規定した。遺族年金の充実、犠牲者の身元確認の促進、内戦や政治弾圧に関する資料の保存などをすすめる。一方で、フランコ将軍や蜂起をたたえる記念碑やシンボルの撤去も求めている。
2004年に発足したサパテロ政権のもと、内戦と軍政時の被害を調査する委員会が発足するなど、弾圧についての調査、研究が進んでいた。
そこで、思うのは日本の現実である。
日本では、人民戦線政府ができたことはもちろんないが、しかし、政治弾圧は厳然としてあった。治安維持法によって、共産主義者だけではなく、民主主義者、リベラリスト、宗教者にも弾圧の手は及んだ。
この治安維持法を、山田洋次が映画化している。『母べえ』である。
ドイツ文学者・野上滋(坂東三津五郎)はある朝、治安維持法違反で検挙されてしまう。二人のこどもたちと父との暮らしも語らいも、これが最後であった。権力にとって不都合であれば、検挙できる。野上の存在そのものが邪魔だというわけだ。これが治安維持法である。
山田の作品で一貫している家族というテーマは、政治(弾圧)という、この作品の横軸と交わり、政治弾圧の非人間性をいっそう鋭く暴いている。母べえ(吉永小百合)の死の直前の、天国でなんか野上滋に会いたくないという言葉は、それまでじっと耐えて、滋との再会を願っていた佳代の、権力への激しい抵抗の意思表明と抗議だといえるのではないか。
戦後、治安維持法は廃止された。
しかし、日本では、治安維持法犠牲者にたいする国家の責任が明確に表明されたためしはない。謝罪や補償の要求にたいしても無視している。記憶に対峙する忘却ともいえる。
歴代政府のこうした対応は、一方での戦犯の復権を許してきたことと軌を一にしている。
歴史の記憶として、軍事弾圧を断罪し、その犠牲者を高く評価するスペインと、以上の日本の対比は鮮やかにすぎる。すなわち、それは両者の民主主義の成熟度のちがいを示しているのだろうか。
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*1;スペインでは、1931年の統一地方選挙で共和制支持派が勝利し、同年12月にはスペインを主権在民の民主的共和国とする憲法が制定されています。
その後、36年2月の総選挙では、共産党や社会党、共和党なども加わった人民戦線が勝利し、政府をつくりました。しかし、同年7月、フランコ将軍らが軍事反乱を起こし、内戦が全国に広がり、36年10月半ばには反乱軍がスペイン本土の約3分の2を占領します。
39年3月には反乱軍がマドリードを制圧し内戦は終結。これ以降、75年11月にフランコが亡くなるまで軍政が続き、共産党や労働組合の活動家らが不当に逮捕、処刑されています。
ビッグマックからみた自動車産業。。

しかし、そのマクドナルドが未払い残業代訴訟で敗訴したことを知らない人は存外、多いのかも。
直営店長は管理職ではないという判決が下ったのだ。つまり、管理職とは何かが争われた。
こんなマックなのだが、その認知度は、ビッグマック指数なるものが国際的に認められていることでも明らかなように、確実に大きい。世界的な知名度だといえる。経済をみる上での一つの尺度になっているのだから。
ビッグマック指数。
この指数はもともとイギリスの「エコノミスト」の発案によっている。
それは、全世界でほぼ同一の品質ものが販売されているので、購買力の比較に用いるのに適しているという判断にもとづいていた。
これにしたがえば、日本のビッグマックの価格は、税込み290円(08年1月・東京都、日本マクドナルド)。課税前価格は276円になる。ニューヨーク・マンハッタンでは3.49ドル(課税前)。
だから、仮に課税前価格を同一になるようにすると、為替ルートは1ドル=79.1円となる。
これを購買力平価と考えてよい。
けれど、実際の2月半ばの為替レートは1ドル=107.7円なので、ビックマック指数とくらべると実際は円安、つまり円が大幅に評価されていることになる。
置き換えると、つぎのようになる。
東京で買ったハンバーガーは、ニューヨークにもっていくと、3.49ドル。ようは、日本円にすると376円になる。東京で276円の元手のものが376円で売れるわけだから、そこに明らかに利益がもたらされる。もちろん、輸送にともなう食品の劣化などここでは考慮にいれていない。
そこで考えたいのは、トヨタなど自動車産業が輸出によってどんなふうに利益をあげているかということだ。
そのために、ここで、自動車1台はビックマック1万個分に相当するという等式がどの国でも成り立つという条件を前提とする。
すると、日本で276万円(課税前)の自動車はアメリカで3万4900ドルになる。だから、日本から輸出して売れれば、利益を売ることになる。ちなみに先の2月半ばのレートによれば、375万8730円になる。ようは、単純に100万円近いを利益を得ることになるのだ。
この間の日本で生じた現実はこんなことではなかったのか。トヨタはこうして莫大な利益をあげてきた。
ビッグマック指数を以前にとりあげた際、各国で原材料が異なることなどを、非国民通信さんからコメントで教示いただいた。もちろん万能のように扱うことは許されないが、しかし、購買力を単純に比較するには簡便な指標となる。
ようするに、自動車産業が輸出によって、円安といわれる際に、どのように無条件に利益をあげているのか、定性的によく理解できるのではないか。その上で考えるのは、輸出産業はさらに輸出戻し税というまったく労力を要しない減税のしくみ、というより収益増のしくみが存在するという事実だ。高い収益はこうして確保されている。
逆に、円高ならばどうなるのか。その際、国民はどうなるのか、考えてみるのも悪くはない。
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【関連エントリー】
ビッグマックからみる日本の豊かさ、貧しさ
フランスの危機。日本の医療崩壊。
日本の医療崩壊が指摘されている。同じことがヨーロッパでも起きているらしい。今日の日本からみると、フランス、お前もかと思える、こんな書き出しではじまる。
「フランス医療制度の危機」という、『ル・モンド・ディプロマティーク』の文章だ。
フランスの病院および医療制度の危機的な現状は、偶然のなせるわざではない。原因の第一は医師不足にある。過去20年間にわたって歴代政権がひたすら推し進めた政策のせいだ。年間に養成される医師の数は8500人から3500に減った(1)。この縮小政策を提唱したのは医療エコノミストの一部と自由診療医協会である。 http://www.diplo.jp/articles08/0802.html |
日本の厚労省は医学部の定員を削減してきた。そのことが今日の医師不足の引き金になっている。記事にあるフランスもまったく同じところから危機がもたらされているということになる。
フランスは国内総生産(GDP)の11%を医療費に費やしている。ドイツやカナダ、スイスと同等で、アメリカ(16%)より少なく、イギリス(9%)より多い。フランスの医療費の割合は今後も増大し、2025年には15%に達すると考えてしかるべきだろう。
これは社会的な選択である。自由主義の信奉者もまた、医療費の対GDP比が増えること自体に反対はない。彼らが反対しているのは、この大金が収益の法則を免れてしまうことだ。実に驚くべきことに、無用な処方箋の乱発や医療従事者のストの多発、といった原因による医療費の濫費に目くじらを立てるエコノミストや政治家は、以下に述べる三つの分野での多大な濫費については何も言わない。 |
OECD諸国の医療費のGDP比を示した図を示す(参照、*1)。
記事で、フランスは11%とあるが、図でも11.1%とほぼ同じ数値だ。日本はこの時点で、8.0%である。
そして、記事によればフランスでも医療費が高いとはいっても、その真の要因に少しも迫ろうとしないらしい。これも日本と同じであろう。
その三つの分野とは、
- 第一は、製薬産業による濫費である。
- 第二に、医療自由化の信奉者は、部分的な民間参入の結果がどうなったかについては押し黙っている。
- 第三に、フランスは民間営利クリニックへの入院がヨーロッパで最も多い(23%)。
医療費をもっとも増高させるこれらの要因。大きな方向でいえば、日本の実情とまったく変わらない。日本では薬剤費が医療費全体の3割以上を占めている。「保険で使われている薬剤の価格は世界一高く、また医療材料の価格も外国と比べて大変に高く設定されてい」ると指摘される(外科系学会社会保険委員会連合)ほどの、製薬企業などの市場として提供されているというわけである。
保険内診療の自己負担分の拡大、保険外の追加料金の容認、保険医指定の取消という恫喝、民間営利クリニックの(高い収益率による)発展といった様々な政策措置を眺めわたすと、そこには実に一貫した流れがある。社会保険からの診療報酬を細らせ、民間保険をはじめとする補助的保険の間口を広げるということだ。補助的保険の関与が増えれば、医療格差は2段階どころか10段階にも20段階にもなりかねない。めいめいが「ア・ラ・カルト」式で、必要度ではなく経済力に応じて保険を選ぶようになるだろう。医療の民営化のつけを払うのは誰か。富裕層でも中の上の層でもない。とはいえ貧困層でもない。基礎的医療保障でカバーされているからだ。最も大きな打撃を受けるのは、月給が法定最低賃金の1から2倍という中の下の層だ。賃金労働者の過半数に当たる。 |
細部をみれば日本とフランスでは、ちがいはあるのだろう。日本では、生保基準にも満たない賃金で働き、働いても貧困を抜け出せない層の存在が指摘されてきた。気になるのは、この記事でいう「最も大きな打撃を受けるのは、月給が法定最低賃金の1から2倍という中の下の層だ。賃金労働者の過半数に当たる」という部分で、この層に日本のワーキングプアに相通ずるものを感じてしまう。ただし、日本では、同時に、「基礎的医療保障でカバーされている」はずの生活保護にも削減・縮小の牙がむけられている。
だから、こうした医療を破壊させる施策には抵抗せざるをえないというのが筆者らの立場だ。
つぎのように対案の基本的立場を明らかにしている。
こうした政策を食い止めるために、公共サービスを擁護する立場から出せる対案は、住民の必要から出発し、医療への平等なアクセスを保障するような改革だろう。連帯を基本とする医療費負担制度は、社会保険料と税金を財源とすべきである。 |
かかりやすい医療を保障すること。
医療費の負担は保険料と税金を財源にすべき。
これらの2つは別のことを表現しているのだが、要するに、社会保障の再分配の機能を保持しようということである。
これに大いに賛成する。
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*1;社会実情データ図録から。
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患者の側からみる医療崩壊の経済。
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