母との接し方

2017-03-24 15:17:56 | 生い立ち・家族
私が結婚する前、私と母は決していい関係とは言えなかった。
喧嘩ばかりしていたとか、口もきかなかったとか、そういうことはなかったと思うが、
私はとにかく早く家を出たくてしかたなかった。
私は大抵の叶わないことは諦めてしまうタチだったから、母との関係もさっさと諦めていた。
話し合って関係を修復しようとか全く考えなかった。

結婚して実家から50キロほど離れた地に住むようになって、私は本当に解放感にあふれていた。
よく聞くように、嫁さんは実家にべったりなんていうこととは私は無縁だった。
母とは電話で話すこともほとんどなかった。
本当に用事のある時に電話をするだけで、その時も用件だけをすませば電話はすぐに切られた。
私も特別母に話すこともなかったし、あちらもそうだったと思う。
冷めた関係ではあったかもしれないが、冷たい関係ではなかった。

そんな関係を続けているうちに、私の母へのマイナスの思いはだんだん薄れていって、
結婚する前の母を嫌いだと思ったことや、恨み事は私の心から忘れられていった。
私は本当に、母と距離をおくことによっていい関係になれたと思っていた。

でも本当にそれで良かったのか?
私自身は良かったと思っているが、えりかさんやMちゃんのお母さんへの接し方を見て、
ちょっとそう思った。

えりかさんの場合は、お母さんに愛してもらえなかったと感じていて、
(まあ、今では全く愛されていなかったとは思っていないようだが)
今でもお母さんに愛してほしくて、じたばたしているようだ。
親しくつき合っていた頃には、お母さんのことを嫌い、口汚く罵ったこともあった。
お母さんに気持ちを伝えても理解してもらえない。
それでもお母さんに依存して、そのたびに裏切られて、その繰り返しのようだった。
私も、母との関係を諦めることができなかったなら、そうなっていたのかもしれない。

Mちゃんの場合は逆で、お母さんに依存されている。
以前からずっとそのことで困っていたけれど、最近はますます拍車がかかって悩んでいるみたい。
何て言うか、認知症とまで言わなくても、高齢になると部分的に認知機能が衰えて、
他のことではしっかりしているのに、このことに関してはちょっと…、と思えるようなことがあると思う。
Mちゃんのお母さんの場合、それがMちゃんに依存することのような気がする。
Mちゃんの場合も、元々お母さんと仲良しというほどの関係ではなかったようだが、
Mちゃんのお母さんもなかなか個性の強い人である。

2年ほど前、Mちゃんが泣きながら電話してきたことがあった。
お母さんと喧嘩したという。ひどいことを言われたという。
自分の考え方の方がおかしいのかと私に聞いてきた。
私は、全くMちゃんの考えがおかしいとは思わなかった。
Mちゃんと喧嘩して困るのはお母さんの方である。
その電話ではMちゃんもしばらくはほっておいて様子をみると言っていたが、
2日後に会った時には、一応和解したと報告を受けた。
Mちゃんの方から連絡を入れて、いろいろあって、散々な思いをしたけれど、
それでも和解できたのだと言う。

やっぱり親子というものは、そこまで気持ちをぶつけ合うのが普通なのだろうか?
傷つけ合っても親子の縁は切れないのだから、そこまでするべきなのだろうか?
私は母とは縁の薄い親子だったと感じるのはそういうところだ。

第九

2017-03-23 14:04:08 | あれこれ
コーラスをやっていた私は、一度第九を唄ってみたいと思っていた。

思い起こせば、OL時代。
いつもべーちゃんと遊んでいた頃。
「第九聴きに行きたいな」と言うと、第九には全く興味が無かったであろうべーちゃんは、
ちゃっちゃと名フィルの第九のチケットを買ってきてくれた。
(べーちゃんは、本当にそこらのでき過ぎた彼氏よりも、私にとっては有難い人だった)
2-3回一緒に聴きに行った覚えがある。

結婚してこの市に住み始めて、第九を唄うためにその都度合唱団が作られることを知った。
まあ、素人さんが第九を唄うという催しは全国いや、世界各地で行われていると思う。
いいなあと思ったけれど、子供を産んだばかりの私には無理だと思われた。
その頃からいつか第九を唄いにいこうと思っていた。

私の住んでいるところの第九合唱団は、毎年構成されるわけではない。
3-4年に一度くらいかな?
第九の練習は夜なので、子供が小さい頃はまだ無理だった。
集金の仕事を始めてからは、毎週夜出かけるのは仕事に差し支えると思った。

私が所属していた合唱団では、私がやめてから2回ほど第九に参加したはずだ。
メンバーが集まりが悪かったからだったか、
演奏のレベルを上げたかったからだったか、依頼されて参加したと聞いた。
その頃から、私のいた合唱団の指導者が第九の方の指導もするようになった。
最初はパートの指導だったと思うが、その後総合指導をされているようだった。

この先生が、ちょっと曲者で…。
私と同じ歳で、ものすごく優秀な人。
性格も決して悪くはないと思うのだけれど、なんと言うか…。
でき過ぎた人の難点を持ち合わせていると言うか…。
私たち凡人の気持ちはわからないのかな?と思うような、
いや、決してわからないわけではなくて、わかっていて、それでも自分の夢が大き過ぎて、
うまく私達凡人を誘導してしまうような…。
それをまた、周りで持ち上げる人がいたりするので、わけがわからなくなって…。
何を言ってるのかわからないだろうけど、まあただ単に「いい人!!」とは言えないところがある。
でも、私は彼女の音楽的才能?は尊敬していた。
彼女の創り上げる音楽は好きだった。
彼女の指揮はとても唄いやすいと思っていた。

今年も、何かで第九合唱団の募集の案内を見た。
ちょっと気持ちが動いた。
でも、今からボランティアを始めて生活がどう変わるかわからない。
ぐずぐずダラダラ生きている私にとって、一度に二つも新しいことを始める勇気はないとやめておこうと思った。

そのしばらく後、コーラスをしていた時の友達と連絡をとる機会があった。
その時に誘われた。「第九、唄おうよ!!」
私は、唄いたい気持ちはあるんだけど、今回もやめておこうと思った理由をあれこれとまくしたてた。
「そんなの何とかなるよ!第九唄った後の感動はすごいよ!!」
(彼女は経験者である)
「ちょっと考えさせて」そう答えたけれど、
私の気持ちはもうずいぶんと唄いに行く方に傾いていた。

そうだ。やりたいことは何でもできるだけやってみようと思ったんじゃなかったか。
第九の練習をすることは、音訳の方にもプラスになるはずだ。
やめる理由なんてないことに気づく。
というわけで、私は今朝申し込みのハガキを書いた。
先着順なので、間に合わなければそれはそれで諦めもつく。

年末にはすがすがしい気持ちでここに報告できればいいなと思う。

彼女の生き方 2

2017-03-21 15:36:04 | 生い立ち・家族
母が離婚したのは34歳の時。
私が初めて母の歳を知った時、母は38歳だったと思う。

母は、太っていた印象が強い。
晩年に病気になってからは痩せてしまったが。
小学校の教師をしていた母は、子供から「ちびデブサンタ」というあだ名をつけられていると言っていた。
母は、痩せている人より太っている人が好きだった。
姉や私に、「もう少し太っていた方がかわいいのに」と言っていた。
私は痩せているというほど痩せてもいないが。

34歳で離婚した母は、その後男性を好きになったことはなかったのだろうか?
再婚を考えたことはなかっただろう。
姉と私を育てることと、そしてそれ以上に仕事のことしか考えていなかったと思う。
それ以上に、と言ったが、母にしてみれば、それは姉と私を育てるための手段だったはずだ。
でも私にしてみれば、もう少し子供に興味を持ってほしかった。
でも、それが「仕事をして生きる」ということなのかなとは思う。

母は、恋愛することなんて考えていなかったと思う。
どちらかと言うと、もう男なんて懲り懲りという感じ?
母は、他人と暮らしていける人じゃないとも思っていた。
私だって、決して「大好き」とは言えない夫と結婚して、
その後30年近く恋愛とは無関係と思って生きてきた。
私だってそうなのだから、母にはもっと無関係だったろうと思ってしまう。
でも、自分が恋愛してからはちょっと思う。
もしかしたら、母にも好きな人がいたことがあったのかもしれないと。

38歳を過ぎれば、私は自分の歳に母が同じ歳だった頃のことを重ねることができたはずだ。
まあ、敢えてそんなことを考えたこともなかった。
ちょっと前、私の成人式の時の写真に、母と二人で並んで写っているのを見た時に、
この時の母は、今の私より若かったんだと思って、
その時に、初めて母はこの時どんなことを考えていたのだろうと思った。

つづき

2017-03-21 15:33:32 | 生い立ち・家族
母から結婚していた時のことを聞いたことが一度だけある。
私が長子を産んだ時のこと。

私が長子を産んだ時は、難産とは思っていないが、吸引分娩でそこそこ大変だった。
まあ、私は初めてのお産だったので、こんなものかなと思っていたのだが。
母は言った。ちゃんと生きて出してくれたのだからいいと。

母は、初めての子を死産している。
その話もその時初めて聞いた。
予定日を1ヶ月過ぎても産まれなかったのだという。
それで無理矢理大学病院に転院して、産ませてもらったのだが死産だったと。
最初に行っていた産科医院は、父の親から紹介されたところだった。
「それがケチのつき始め」
母はそう言った。
その経験から、姉の時も私の時も最初から大学病院で診てもらっていたと。

そんなこともあり、私は両親の離婚の原因は、家族関係にあるのかとなんとなく思っていた。
でも、母が離婚を考えたのが、私を妊娠中のことだとすれば、
よくあるあれだろうか?
妻の妊娠中に夫が浮気、というやつ。
まあ、それはどうでもいい。

私は、母が33歳の時の子である。
同級生の親の中で、母はかなり歳が多い方だった。
何年か前に知ったのだが、父は母より5歳年下だったようである。
私の上に姉がおり、更にその上に死産した兄がいたということは、
父はかなり若くして結婚したことになる。
父は今いくつだろう?

母が亡くなってから、母の歳が数えられなくなった。
「生きていたら何歳」というように。
私が○歳だから、33を足して…、とそう考えないとわからない。
母が生きていた頃は、すぐに母の歳を言えたと思う。
それが生きていることと、死んでしまったことの違いなのだろうか?

だから、父の歳を数えるのはもっと手間がかかる。
(まあ、どう転んでも大した手間ではない)
父は多分、今84歳。

父は、私たちが成長したら、会える日がくるとか思っていただろうか?
父は、姉や私に会いたいと思ったことがあっただろうか?

長男を母の墓参りに連れて行った時に、
これがお母さんのおじいちゃんとおばあちゃんのお墓で、これは、おじいちゃんのおかさあんのお墓で…、
と説明していたら聞かれた。
「あんたの親父のは?」
次男は、正月に帰郷した時に、「おじいちゃんてさあ…、死んだの?」と聞いてきた。
そう聞かれるまで、私は気づかないでいた。
子供たちに、父の話をする必要性に。
私自身がよく知らない話を、伝えなくてはならないだろうか?
でも、伝えないということは、母が私達にきちんと話さなかったというもやもやしたものを、
そのまま子供に引き継いでしまうということなのかなと、少し思った。

お彼岸

2017-03-21 12:12:22 | 生い立ち・家族
お彼岸で実家に行き、墓参りをしてきた。

姉が言う。母の結婚式の写真が出てきたと。
前に帰った時に、母の花嫁姿の写真は見せてもらった。
そう言うと、それでなくて、ちゃんとアルバムに貼られたものだと。

古いアルバムが3冊。
結婚式の集合写真。
母と、父の両親との3ショットも。
その後の、新婚時代に撮られたと思われるこちらの親戚と写した写真など。
その中に、父と母との2ショットが一枚。

2冊目には、若い頃の母がたくさん写っていた。
剥がされている写真もたくさんある。
細かくコメントが書かれている。
そのコメントの字は明らかに母の字ではない。
でも、最初の方には母が一人で写っているものがほとんどで、
他の誰かがこのアルバムを作ったとも思えない。
母は昔、こんな字を書いていて、その後で字を習ったのかなあとか思って見る。
(母は、なかなかの達筆であった)
途中空白のページが何枚かあったような気がするが、
その後ろの方に、「我が一族」と書かれたページがあった。
ほとんどの写真は剥がされていたが、明らかにそれは父方の家族だった。
そうか。これは父の字なんだ。
父がきっと母の写真をたくさん撮って、アルバムにしていたんだと思う。

そして3冊目。
それは、姉のアルバムだった。
姉の誕生を祝うアルバム。
1ページ目には、引き延ばした生後間もないと思われる姉のアップの写真に、
姉の命名の理由が書かれてあった。
父の姉への愛情のあふれたものだった。
なんだか嬉しかった。
姉もこれを見つけた時は、どんなにか嬉しかったんじゃないかと思う。

姉がこれらのアルバムを出してくる時、
多分一緒に収納されていたものだろう、赤ん坊の写真を手に取って見ていた。
「お姉ちゃんの写真?」
「そう」
「私のはないの?」
「みなみの赤ちゃんの時の写真はないの」
「どうしてか、この前話したよね?」
「聞いてないよ」
「そうだった?じゃあ、また今度教えてあげるね」

「また今度」そう言ったのは、隣の部屋に私の夫がいたからだと思う。
それで聞きそびれた話。
一体何だろう?

私が産まれたのは、姉が3歳になる少し前。
姉は、母から父とのことは何も聞いていない様子だったけど。
私の赤ん坊の時の写真がないということは、
もうその時には、父と母はうまくいっていなかったということか?
写真が趣味だったと思われる父。
姉が産まれた時に、あれだけ愛情こめたアルバムを作った父が、
私の写真を撮らないはずがない。

父と母が離婚したのは、私が8カ月の時だ。
でもそれは、戸籍上の日付。
そうだな。
役所に届けを出す8カ月前に、もう夫婦が成り立っていなかったとしても何の不思議もない。
私の出生の届け人は、父の名前になっていたが、それは形式上のことなのかもしれない。
私の長子が産まれた時、役所に出生届を持って行ったのは母だった。
私は単純に、届け人というのは、役所に届けを持って行った人のことだと思って、
母の名前を書こうとして母に止められた。
「届け人に父親以外の名前を書くのは、父親のいない子の場合だ」と。

私は、3歳になる少し前、母と姉が帰って来た時のことを記憶している。
ちょうど同じ年頃の姉が、妹が産まれた時のこと、そして父親がいなくなった時のことを記憶していたということは、
充分有り得ることだと思う。

私は父に抱いてもらったことがあったのだろうか?
父と対面したことがあったのだろうか?
母が私を産んで帰ったのが、父と暮らした家ならば、
もう離婚を考えていた夫婦だとしても、父は私の写真くらい撮ったのではないのか?

でも、それならば、私が初めて父の家を見に行った時感じたあの懐かしさは何だろう?
ただの気のせい?
それとも、母のお腹の中にいた時の感覚なのか?

今度姉と会った時に、姉がこの話を始めるとは限らない。
私も、敢えてこの話を持ち出すとは限らない。