たまんないよ!

2016-06-30 10:12:14 | 日記
4月から、夫が週休3日になった。
土日が休みで、2日仕事に行くと、水曜日が休みで、
また2日仕事に行くと休みである。
まあ、それはいい。
いきなり毎日家にいられるより、いろいろと心の準備などできていいのかもしれない。
幸い、水曜日は私も朝、仕事に行く日である。

娘は、休みが不定休である。
毎月、休みの日をカレンダーに書いておいてと言うけれど、
なかなか書いてくれないときもある。
まあ、別に構わない。
娘の休みに私の予定を合わせる必要もそれほどはない。

夫はここのところ、体調が悪そうだった。
疲れがとれないと言って、いいサプリメントがあるなどと話していた。
そのくせ、いつも夜更かしをする。
疲れがとれるはずがない。
週末には喉が痛いという。風邪をひいたらしい。
日曜日には、結構しんどそうで、きっと月曜日は仕事を休むんだろうなと思っていた。
案の定、月曜日は家にいた。
私は集金が忙しい時期で、ほとんど家にいなかったが、
昼過ぎに、「医者行けばいいじゃん」と声をかける。
でも、医者には行かない。

そして火曜日も休む。
さすがにこの日は医者に行った。
そして、水曜日は元々の休み。
木曜日は、娘が休み。
私が一人になれるのは、金曜日までない。

専業主婦にとって、平日の昼間の我が家は聖域である。
自由気ままにのびのびなのである。
他の家族にはあまりいてほしくないのである。
と、まあそこまでは言わないが、
個室を持っているわけでもなく、一日中誰かがいたのでは、日記を書くこともできない。
別に見られて困ることを書くわけではないが、
日記を書くのは、できれば他の人がいないときにしたい。

なんてことを考えながら、自分で思う。
私は体調が悪いという夫のことを心配していないのか?
幼いころ、病気になっても母に心配してもらえなかったことを嘆いていたはずである。
結局、親と同じような人間にしかなれないのか?

決して心配していないわけではない。
本当に具合の悪そうなときには、心配する。
今回は、どちらかと言えば、
仕事を休むほど具合が悪いのなら、さっさと医者に行け!という感じ。

大体、夫は昔からすぐに仕事を休む。
有給はいくらでも余ってるからいいんだと言う。
母が仕事を休むのをほとんど見たことがない私には、違和感があった。
夫は、胃腸が弱いのか、すぐにお腹がおかしいと言って休んでいた。
私は、そんな夫を「山根くん」と呼んでいた。
『ちびまるこちゃん』の胃腸が弱いキャラの山根くんである。
仕事を休んで、おとなしく寝ていたりするのなら納得する。
ところが、仕事を休んで普通に家でごそごそしているのである。

こんなことがあった。
引っ越しした後で、前に住んでいた家の近所のお友達が2人来ることになっていた。
結構苦労して3人の予定を合わせた。
その日の朝、夫が変な顔をして起きてくる。
嫌な予感!
「お腹がおかしい」。
私の頭の中でいろいろな思いが交錯する。
友達に連絡して別の日にしてもらおうか?
でも、次に予定が合うのはいつのことかわからない。
夫におとなしく寝室で寝ていてもらおうか?
いや、隣で夫が寝ていると思ったら、楽しめない。
「今日、○○さんたちが来るんだけど…」。
「行けか?」
「うん」。
そうして夫には仕事に行ってもらった。
もちろん、よっぽど具合が悪そうならそんなことはしない。
私はひどい奥さんだろうか?

「亭主元気で留守がいい」。
そんな言葉が世に出たのは、もうずいぶん昔のこと。
本当にそのとおりだと思う。
「元気で」という前提があるのだ。
まあ、夫も60を過ぎて、これからは「元気で」という前提が無くなる可能性もある。
もう少し労わってさしあげるべきなのかもしれないなあとは思う。
何と言っても、私は、夫よりも先に死にたい。


追記:
夫の「山根くん病」については、
10年ほど前に、私が友人に奨められた水と塩を使うようになってから、治まってきた気がする。
そのころ、夫に、
「最近、お腹おかしいって言わないよね?水がいいのかな?」と言うと、
一言、「違うよ」と言われた。

色鮮やかな…

2016-06-25 15:39:53 | 戯言
恋をする前、世界は白黒だった。
恋をしたら、鮮やかな色のついた世界に変わった。

よく耳にする言葉に、
本当に誰かを好きになったなら、それがかなわぬ想いであっても、
自分の気持ちを相手に伝えるべきだとか、
それができなかったら、死ぬ時に後悔するとか、
そんなことがあるけれど。

1年前の今ごろ、私には間違っても私の想いをMくんに伝えることなんて考えられなかった。
できるなら、最後に一緒に写真を撮ってもらうとか、
そんなことができれば最高だと思ってはいたけれど、
そんなこと、夢のまた夢!という感じだった。

1年前の今ごろ、1年先に私がまだMくんに会っていられるだなんて思ってもいなかった。
Mくんに会えるのは期限つき。
それは最初からわかっていた。
その期限がいつになるのか、どんな風に訪れるのか、
それはわからなかったけれど。

会えなくなる日がくるのが怖かった。
ものすごく辛いだろうか?
それとも、案外それまでに気持ちが冷めて、自然にさよならできるのかもしれない。
でも、それはそれで、ときめきをなくした心は虚しいだろうな、なんて思っていた。
以前の白黒の世界に帰ってしまうということだから。

1年たった今、
1年前には想像もできなかった状況になっている。
私の想いを知ったら絶対に引く!!と思っていたMくんだけれど、
今では、そんな風には思わないだろうなと思える。
そんな様子を見せてくれたMくんに感謝である。

そして、私は、本当に、
死ぬ時に思い残すことがないように、
Mくんに想いを伝えようかと思っている。
多分、Mくんは私の想いに気がついているだろうと思うけれど、
私は、そうとわかる言葉を口にしたことがない。

自分でも不思議なくらい大胆になれそうな気がしている。
私にはもう後がない。
期限は迫っている。

不倫なんて望んでいない。
友達になれたらいい。
歳の離れた友達?
たまに「元気?」ってメールできたらいい。
それもだんだん間遠になっていって…、
そして、懐かしい人になっていくなら、それもいい。

絶対に交わることなんてないと思っていた私とMくんの人生。
そんな風に、ちょっとだけ、触れあえたなら…。

白黒だった私の世界に鮮やかな色をつけてくれたMくんに感謝。
こんなにも、こんなにも、好きにならせてくれたMくんに感謝。

ごめんね

2016-06-25 14:13:13 | 日記
朝、仕事でお客さんの家に出かける。
門の前で、足元で「グシャ!」という音。
何かを踏んづけたらしい。
見ると、殻のつぶれたカタツムリが…。

きゃ~~~~!!
殺生しちゃった。
でも、仕方ない。
その場で手を合わせてお客さんのところへ。

用を済ませてから、もう一度潰れたカタツムリさんを見る。
さっき見たときは、殻の下がどうなっているのかよくわからない状態だったけれど、
ちゃんと角をピンと立てた体が見える。
ゆっくりゆっくり動いている様子。

あ~、生きてた!!
とは思うものの。
カタツムリは、殻がなくても生きていけるのだろうか?
ヤドカリは、成長に合わせて、殻を取り替えると聞くけれど、
カタツムリの殻は、体の一部じゃなかっただろうか?
一命を取り留めたように見えるこのカタツムリさんだけど、
生き延びることができるのだろうか?
踏んづけられたのだから、殻だけじゃなく、体の方にも被害が及んでいる可能性は充分にある。

その場に座り込んで、何度も何度も、
「ごめんね、ごめんね」。と繰り返し、その場を離れてきた。

ナルシスト

2016-06-24 23:48:52 | あれこれ
去年の7月に『自意識過剰』という記事を書いた。
アルバムの中から、18年くらい前の自分のかわいい写真を見つけたと書いた。
今は、我が家にもっと若いころのアルバムがある。
自分でも記憶に残っている写りのいい写真。
結婚する1年くらい前に、友達と旅行した時の写真である。

今は便利な世の中だ。
そんな大昔の写真を、パソコンに取り込んで、好きなように加工できる。
私のスキルでは、そんな難しい加工はできないけれど、
トリミングして、表情がよくわかる程度のアップにするくらいはできる。

なかなかいいんじゃない?
なんだか嬉しくて、顔がにやついてくる。
(本当に我ながらバカだなあと思うけれど)。
携帯に送って、待ち受けにしてしまった。

これを読んでくださっている人がいたら、
私のことを何てやつだ!?と思われるかもしれないけれど、
私は、こんな自分が嫌いじゃない。
こんな私は、ACとは、かなり遠いところにいるんじゃないかと思う。

決断

2016-06-24 13:32:12 | あれこれ
1986年の春、私は多分、人生で最大の決断をした。
何年もずっと追いかけ続けていたIGUちゃんのことを諦める決心をしたのだ。
人生最大の決断が、「結婚」ではなく、「元カレとの別れ」だなんて、
ちょっと哀しい気もするけれど、あんな大きな決断をしたことは後にも先にもないと思う。

ここでちょっと考えてみる。
普通の人にとって、「結婚」とは大きな決断だろうか?
そうでもないような気がする。
たとえば親友のMちゃん。
彼女は、中学の時からずっと付き合ってきた人と結婚したのだから、
彼との結婚は、決断ではなく、自然な流れだっただろう。

彼女のようなケースに限らず、
大好きな人とうまくお付き合いが成り立っている人にとっては、
結婚は自然な流れじゃないだろうか?

もちろん、結婚が大きな決断になる人もいるだろう。
複雑な家庭の事情のある人とか、
複数の人の間で気持ちが揺れ動いている人とか。
病気のある人とか。

むしろ子供を産むことの方が大きな決断だという人も多いだろうな。
結婚はどうしても間違っていたと思う場合など、離婚という手段もある。
子供は何があっても、産まなかったことにはできない。

私の場合、結婚は、そのIGUちゃんとの別れという大きな決断の後にくる、
自然な流れの一部だったと思う。
あそこで、私には、IGUちゃん以上に好きになれる人が現れるのを待つという選択肢はなかった。

私が、その大きな決断をしたころに、Mくんは産まれたという。
Mくんが産まれたときに、私はそんなことをしていたんだなと思うと、
改めて25歳という歳の差を感じることではある。

私が、その大きな決断をしたころに、Mくんは産まれたという。
それは、たまたまそうであっただけのこと。
そんなことはわかりすぎるくらいわかっているのだけれど。
でも、そこに何かを感じることは、人生の遊び。楽しい。
私は、Mくんがこの世に生を受けるのをずっと待っていて、
やっとその時がきたから、IGUちゃんへの気持ちに区切りをつけようとしたのだと。
そんな風に、自分の人生に遊びの要素を取り入れることができる人を、
神様はきっと好きだと思う。