彼女の生き方 2

2017-03-21 15:36:04 | 生い立ち・家族
母が離婚したのは34歳の時。
私が初めて母の歳を知った時、母は38歳だったと思う。

母は、太っていた印象が強い。
晩年に病気になってからは痩せてしまったが。
小学校の教師をしていた母は、子供から「ちびデブサンタ」というあだ名をつけられていると言っていた。
母は、痩せている人より太っている人が好きだった。
姉や私に、「もう少し太っていた方がかわいいのに」と言っていた。
私は痩せているというほど痩せてもいないが。

34歳で離婚した母は、その後男性を好きになったことはなかったのだろうか?
再婚を考えたことはなかっただろう。
姉と私を育てることと、そしてそれ以上に仕事のことしか考えていなかったと思う。
それ以上に、と言ったが、母にしてみれば、それは姉と私を育てるための手段だったはずだ。
でも私にしてみれば、もう少し子供に興味を持ってほしかった。
でも、それが「仕事をして生きる」ということなのかなとは思う。

母は、恋愛することなんて考えていなかったと思う。
どちらかと言うと、もう男なんて懲り懲りという感じ?
母は、他人と暮らしていける人じゃないとも思っていた。
私だって、決して「大好き」とは言えない夫と結婚して、
その後30年近く恋愛とは無関係と思って生きてきた。
私だってそうなのだから、母にはもっと無関係だったろうと思ってしまう。
でも、自分が恋愛してからはちょっと思う。
もしかしたら、母にも好きな人がいたことがあったのかもしれないと。

38歳を過ぎれば、私は自分の歳に母が同じ歳だった頃のことを重ねることができたはずだ。
まあ、敢えてそんなことを考えたこともなかった。
ちょっと前、私の成人式の時の写真に、母と二人で並んで写っているのを見た時に、
この時の母は、今の私より若かったんだと思って、
その時に、初めて母はこの時どんなことを考えていたのだろうと思った。

つづき

2017-03-21 15:33:32 | 生い立ち・家族
母から結婚していた時のことを聞いたことが一度だけある。
私が長子を産んだ時のこと。

私が長子を産んだ時は、難産とは思っていないが、吸引分娩でそこそこ大変だった。
まあ、私は初めてのお産だったので、こんなものかなと思っていたのだが。
母は言った。ちゃんと生きて出してくれたのだからいいと。

母は、初めての子を死産している。
その話もその時初めて聞いた。
予定日を1ヶ月過ぎても産まれなかったのだという。
それで無理矢理大学病院に転院して、産ませてもらったのだが死産だったと。
最初に行っていた産科医院は、父の親から紹介されたところだった。
「それがケチのつき始め」
母はそう言った。
その経験から、姉の時も私の時も最初から大学病院で診てもらっていたと。

そんなこともあり、私は両親の離婚の原因は、家族関係にあるのかとなんとなく思っていた。
でも、母が離婚を考えたのが、私を妊娠中のことだとすれば、
よくあるあれだろうか?
妻の妊娠中に夫が浮気、というやつ。
まあ、それはどうでもいい。

私は、母が33歳の時の子である。
同級生の親の中で、母はかなり歳が多い方だった。
何年か前に知ったのだが、父は母より5歳年下だったようである。
私の上に姉がおり、更にその上に死産した兄がいたということは、
父はかなり若くして結婚したことになる。
父は今いくつだろう?

母が亡くなってから、母の歳が数えられなくなった。
「生きていたら何歳」というように。
私が○歳だから、33を足して…、とそう考えないとわからない。
母が生きていた頃は、すぐに母の歳を言えたと思う。
それが生きていることと、死んでしまったことの違いなのだろうか?

だから、父の歳を数えるのはもっと手間がかかる。
(まあ、どう転んでも大した手間ではない)
父は多分、今84歳。

父は、私たちが成長したら、会える日がくるとか思っていただろうか?
父は、姉や私に会いたいと思ったことがあっただろうか?

長男を母の墓参りに連れて行った時に、
これがお母さんのおじいちゃんとおばあちゃんのお墓で、これは、おじいちゃんのおかさあんのお墓で…、
と説明していたら聞かれた。
「あんたの親父のは?」
次男は、正月に帰郷した時に、「おじいちゃんてさあ…、死んだの?」と聞いてきた。
そう聞かれるまで、私は気づかないでいた。
子供たちに、父の話をする必要性に。
私自身がよく知らない話を、伝えなくてはならないだろうか?
でも、伝えないということは、母が私達にきちんと話さなかったというもやもやしたものを、
そのまま子供に引き継いでしまうということなのかなと、少し思った。

お彼岸

2017-03-21 12:12:22 | 生い立ち・家族
お彼岸で実家に行き、墓参りをしてきた。

姉が言う。母の結婚式の写真が出てきたと。
前に帰った時に、母の花嫁姿の写真は見せてもらった。
そう言うと、それでなくて、ちゃんとアルバムに貼られたものだと。

古いアルバムが3冊。
結婚式の集合写真。
母と、父の両親との3ショットも。
その後の、新婚時代に撮られたと思われるこちらの親戚と写した写真など。
その中に、父と母との2ショットが一枚。

2冊目には、若い頃の母がたくさん写っていた。
剥がされている写真もたくさんある。
細かくコメントが書かれている。
そのコメントの字は明らかに母の字ではない。
でも、最初の方には母が一人で写っているものがほとんどで、
他の誰かがこのアルバムを作ったとも思えない。
母は昔、こんな字を書いていて、その後で字を習ったのかなあとか思って見る。
(母は、なかなかの達筆であった)
途中空白のページが何枚かあったような気がするが、
その後ろの方に、「我が一族」と書かれたページがあった。
ほとんどの写真は剥がされていたが、明らかにそれは父方の家族だった。
そうか。これは父の字なんだ。
父がきっと母の写真をたくさん撮って、アルバムにしていたんだと思う。

そして3冊目。
それは、姉のアルバムだった。
姉の誕生を祝うアルバム。
1ページ目には、引き延ばした生後間もないと思われる姉のアップの写真に、
姉の命名の理由が書かれてあった。
父の姉への愛情のあふれたものだった。
なんだか嬉しかった。
姉もこれを見つけた時は、どんなにか嬉しかったんじゃないかと思う。

姉がこれらのアルバムを出してくる時、
多分一緒に収納されていたものだろう、赤ん坊の写真を手に取って見ていた。
「お姉ちゃんの写真?」
「そう」
「私のはないの?」
「みなみの赤ちゃんの時の写真はないの」
「どうしてか、この前話したよね?」
「聞いてないよ」
「そうだった?じゃあ、また今度教えてあげるね」

「また今度」そう言ったのは、隣の部屋に私の夫がいたからだと思う。
それで聞きそびれた話。
一体何だろう?

私が産まれたのは、姉が3歳になる少し前。
姉は、母から父とのことは何も聞いていない様子だったけど。
私の赤ん坊の時の写真がないということは、
もうその時には、父と母はうまくいっていなかったということか?
写真が趣味だったと思われる父。
姉が産まれた時に、あれだけ愛情こめたアルバムを作った父が、
私の写真を撮らないはずがない。

父と母が離婚したのは、私が8カ月の時だ。
でもそれは、戸籍上の日付。
そうだな。
役所に届けを出す8カ月前に、もう夫婦が成り立っていなかったとしても何の不思議もない。
私の出生の届け人は、父の名前になっていたが、それは形式上のことなのかもしれない。
私の長子が産まれた時、役所に出生届を持って行ったのは母だった。
私は単純に、届け人というのは、役所に届けを持って行った人のことだと思って、
母の名前を書こうとして母に止められた。
「届け人に父親以外の名前を書くのは、父親のいない子の場合だ」と。

私は、3歳になる少し前、母と姉が帰って来た時のことを記憶している。
ちょうど同じ年頃の姉が、妹が産まれた時のこと、そして父親がいなくなった時のことを記憶していたということは、
充分有り得ることだと思う。

私は父に抱いてもらったことがあったのだろうか?
父と対面したことがあったのだろうか?
母が私を産んで帰ったのが、父と暮らした家ならば、
もう離婚を考えていた夫婦だとしても、父は私の写真くらい撮ったのではないのか?

でも、それならば、私が初めて父の家を見に行った時感じたあの懐かしさは何だろう?
ただの気のせい?
それとも、母のお腹の中にいた時の感覚なのか?

今度姉と会った時に、姉がこの話を始めるとは限らない。
私も、敢えてこの話を持ち出すとは限らない。