光に還る

2016-10-31 10:20:28 | 日記
キツネ太ちゃんが光に還った。

昨日の朝、自転車で仕事に出かけようとすると、家から100メートルほど離れた歩道で、
猫が死んでいるのを見つける。
我が家によく遊びに来ていたキツネちゃん。

マダラちゃんと、オスとメスの2匹のキツネちゃん。
3匹は仲良しで、よく一緒にご飯をねだりにきた。
2匹のキツネちゃんはそっくりで、なかなか見分けがつかない。
最近、我が家の周りで、キツネちゃんと同じ柄の猫は見かけない。
死んでいる猫は、キツネ太ちゃんか、キツネ子ちゃんのどちらかに違いない。

頭の下に血だまりができていて、少しだけ体の毛がもげている。
車にぶつかったのだろうけど、どうしてこんな歩道で。
どうしたらいいかわからなくて、一度家に帰り、
休みで起きだしてきていた娘に伝える。

「そっとしておいてあげるしかないのかなあ?」
「埋めてあげられないの?」
「だったら、火葬場に連れて行く方が…」。
簡単にそんな話をして、とにかく仕事に行く。
小一時間ほどして帰ってくると、死骸があった場所には何もない。
夫が何とかしてくれたのだろうかと思って帰ると、
やはり、家の庭に段ボールに入れてタオルがかけられていた。
玄関先には、いつものようにマダラちゃんが座っている。
マダラちゃんには、わかっているのだろうか?
仲良しのキツネちゃんが死んでしまったこと。

映画にもなった漫画の『猫なんかよんでもこない。』の、クロが死んだときのシーンが蘇る。
クロが死んだ朝、兄弟猫のチンさんは、クロの匂いをちょっとかいでそっぽを向いて行ってしまう。
作者である飼い主は、それを見てクロがもうモノになってしまったと感じるのだ。

庭に咲き残っていた花を少し摘んで小さな花束を作った。
リボンも結んだ。
それを箱の中に入れて、夫と娘と3人で火葬場に行った。
9年前にチビコを連れて行ったのと同じ場所。
線香をあげてお別れをする。

死んでいたのが、キツネ太ちゃんなのかキツネ子ちゃんなのか確認はできなかった。
オスかメスかなので、しようと思えばできたのかもしれないが、
ちょっと見ただけではよくわからなかった。
でも、私たち3人ともキツネ太ちゃんのような気がした。
多分、車にぶつかった後で、歩道まで歩いてきたんだろうと夫が言う。

マダラちゃんは、ほぼ毎日やってくるが、あとの2匹はそうでもなかった。
その2日前に、私はキツネ太ちゃんを抱っこした。
嫌がってジタバタしたので、すぐに放してあげた。

連れてくることに迷ってしまった私だったけれど、
多分迷わずに、連れてきてくれた夫に感謝した。

飼い猫のクーちゃんと目が合う。
クーちゃんもかつて車と接触した。
あの時に、生き残ってくれて本当に良かったと、改めて感じた。

もしかしたら、死んでいたのは別の猫で、
そのうちにキツネ太ちゃんが、ふらりと顔を出してくれたら…、と少し思う。

夜になって、フェイスブックの越智さんの投稿の中に、
「○○さんが光に還りました」という言葉を見つける。
そうだ。死んだんじゃなくて、光に還ったんだ。
あちらの世界で、しばらく他の仲間たちと楽しく遊んだら、
また私たちを癒すために生まれ変わってきてくれることと思う。

ありがとう。さよなら。そして、またね!!

追体験

2016-10-29 08:20:34 | あれこれ
追体験をすると癒されるのだと言う。
あれ?そうだったかな?
過去世でのこととか、幼児体験とか。
思い出すだけで良かったんだっけ?
まあいいや。

普通の人は、何度も恋愛経験のある人は、そのたびに恋模様は違うのだろうか?
それとも、前の恋を追体験して、だから、前の恋を忘れることができるのだろうか?
だから、失恋を癒すのに一番いいのは、新しい恋をすることなのだろうか?

どっちも有りな気がするなあ。

大体、そんなに何度も何度も、大好きな人ができるんだろうか?
私も好きな人ならたくさんいたけど、
大好きな人は…。

何でもそうだった。
子供のころ、大好きだったアイドルさんがいた。
ものすごく大好きで、
芸能界から姿を消して、彼のことを思い出すこともあまりなくなっても、
彼ほど好きになれた芸能人はいなかった。
音楽ではみゆきさん。
他のミュージシャンも、いいなあと思ったり、単発でいい歌だなあと思うことはあっても、
みゆきさんのようには好きになれない。
将来の夢というやつも、子供のころ漫画家になりたかった。
その夢は自然と消えていったけれど、
それ以降、夢を持つことはなかった。

ただ私が執念深いだけのことなのかな?

自己肯定

2016-10-27 15:15:13 | 霊性
私は自分のことが大好きなんだろうなって思う。

昔、自分のことを「コンプレックスの塊」だと言っていたので、
なんとなく、私は自分のことが嫌いなのかという気がしていた。
でも、改めて自分のことを好きだと思うとした時、
自分の好きなところを見つけるのは結構たやすかった。
そして、私は自分のことがそんなに嫌いじゃないなと思った。

ちょっと考えるとわかった。
私はあまりにIGUちゃんの影響を受け過ぎて、
自分の中に、IGUちゃんとそっくりなところがたくさんあって、
そんな自分のことを嫌いになんてなれるはずがなかったのだ。

かつては、人を羨ましいと思っていた。
親友のMちゃんのことなど、羨ましくて羨ましくて、妬ましいほどだった。
でも、今はそんな風に思わない。
Mちゃんには素敵なところがたくさんある。
でも、Mちゃんのような考え方をしたくないなと思う部分もたくさんある。
自分の考え方の方が好きだなと思う。
私は、他の誰にもなりたくない。

それはそれでいいことなのだと思う。

でも、気をつけなければならないこともある。
自分のことがあまり好きでなかった人、自己肯定感の低かった人が、
自分のことを認められるようになった時に、陥り易い過ち。
自分のことを認めるあまりに、他の人のことを非難したくなること。

自分と違った考えの人も、その人なりに生きてきて、悩んだり苦しんだりして、
そしてできてきた考え方や性格。
どれもみな、間違ってなどいないのである。
ただの解釈の違いだったり、まだまだ気づけないことがあったり、
私を含め、みんなそうなのだ。
だから、人のことは非難してはいけない。
自分のことを認めるように、他のすべての人のことも認めなければいけないのだ。

それでも時々責めたくなる。
あなたとの、その考え方の違いは、私のことを傷つけるのだと。
そうではないとわかっている気持ちと、
どこかに燻っているすっきりしない気持ちと、
それらが絡まり合ってストレスになる気がする。

ストレス…。

ストレスは上手に解放していかないと心の中に溜まっていく。
そのうちに手がつけられなくなって爆発する。
難しいな。
まだまだ未熟だな。

ごまかすのではなくて、手放さなければならない。
その違いも曖昧で。
とにかく、今できることをしよう。
目の前にあるものに真剣に向き合って。

そして、時間というものが、少しでも早く流れていってくれれば…。

ニンニクの芽

2016-10-25 16:22:44 | あれこれ
溜まり場だった喫茶店は、高校の近く。
うちの高校の生徒だったら、誰でも一回は行ったことがあるんじゃないだろうか?
それは言い過ぎかなあ?
同じ高校に通っていた姉からもその喫茶店の話は聞いたことがあったから、
私はそんな印象を持っていたけれど。
実際はわからない。

1年生のクラスの男の子には、そこの常連さんが多かった。
私も、クラスの子と行ったこともあったし、部活の先輩たちと行ったこともあった。

私がそこの常連になったのは、大学の4年生の時だ。
溜まり場を持っている人が羨ましくて、ふらっと行ってみた。
べーちゃんたちが、当時もそこを溜まり場にしていることを知っていたから。

べーちゃんとは、それまでどの程度仲が良かったのか、正直言って覚えていない。
べーちゃんは、クラスのツートップという感じの男の子で、
私がそういう目立つ存在の人と、それほど仲が良かったとも思えないのだが。
卒業してからも、べーちゃんからIGUちゃん情報をもらったことなど覚えているので、
そこそこ親しかったのかなあ?
たまたまクラスのコンパで会った時に聞いただけだったのかな?

とにかく、べーちゃんを始め、何人もの知ってる人がいつもいて、
私はそこの常連として快く受け入れられた。

喫茶店は、マスターと奥さまのマリコさんがやっていた。
お二人は、多分私たちより一回りくらいは年上だったと思うが、
べーちゃんとマスターはかなり親しくしていた。
後に、マスターとマリコさんは離婚されるが、その相談にものっていたらしい。

一時、マスターとマリコさんは、名古屋の繁華街でスナックをやっていた。
風営法のあおりとやらで、1年くらいで閉めてしまわれたが、
その間に、何回もべーちゃんたちと一緒に行った。
私の友達を誘って行ったこともある。
クリスマス・パーティーでは、全然知らない男の子と、ポッキーゲームをしたのもいい思い出だ。

その帰りにべーちゃんとよく近所のラーメン屋で台湾ラーメンを食べた。
台湾ラーメンは名古屋が発祥の地らしいが、その頃できたのかなあ?
おいしかった。
そこで、初めて「ニンニクの芽炒め」というものも食べた。
おいしかった。
マスターのスナックで飲んで、台湾ラーメンとニンニク芽を食べて帰る。
あの頃が一番楽しかったかもしれない。

その後、マリコさんは名古屋の少し郊外の方で別の喫茶店を始める。
お二人は離婚される。
マスターは、市外の大型ショッピングセンターで喫茶店の経営権を得たと言って、
悩んだ末、そちらに店を移された。
溜まり場は、自然に郊外のマリコさんのお店の方に移る。

私は結婚して、溜まり場には行けなくなる。
マリコさんは、拠点を私が住む町に近い方に変えられたので、
何回かはそのお店にいった。
でも、子供の成長と共に、顔を出す回数が減り、すっかり行かなくなってしまった。

マリコさんの消息は知っていそうな人もいるけど、
マスターのことは全くわからない。
ちょっと前にべーちゃんに聞いても、「全然わからない」と言っていた。

あの頃の、台湾ラーメンやニンニク芽の味ももう覚えていない。
でも、私は今もニンニク芽が大好きである。
初めて自分でニンニク芽を料理した時は、上手にできなかった。
炒めると、黒い灰汁のようなものが出てくるのだ。
焦がさないように火を通すのも難しかった。
今も上手とは言えないけれど、さっと揚げるような感じで料理する。

冷蔵庫の野菜室に、先日買ったニンニク芽が残っているのを見つけて、
これだけのことを思い出した。

共感

2016-10-25 14:46:02 | 霊性
人間は、共感してほしい生き物なのかもしれない。
共感されるということは、癒しだろう。

若いころの私は、自分自身の考えがきちんと持てないで、
人の考えを聞くと、すごいなー、こんなこと考えてるんだー、なんて感心したものだ。
自分で思いもよらない価値観など聞いたときにもそうだ。
そういう考え方もできるんだって、素直に相手を尊敬していた。

でも、自分はそうは思わないということを伝えるのが苦手で、
そういう時は、曖昧に頷いたりしていた。
そんな自分が八方美人に思えてちょっと嫌だった。

いつ頃からか、ある程度自分の意見を言えるようになった。
自分は違うことを考えているのに頷くのは、嘘をついてるようで嫌だった。
まあ相手にもよるが。
自分が大切だと思う相手には、きちんと自分の思いを伝えたいと思うようになった。

ところが、自分の意見を伝えるということは、人によっては、してはいけないことらしい。
自分の心の闇と闘っている人には、その人が思っていることに反論してはいけない。
そういう人たちは、反論されると、自分を否定されたと思うという。

友達のえりかさんは、昔から自分の考えることが、人とは違うらしいということに悩んでいたようだ。
それは私も同じである。
私は、人と同じように考えたり、行動したりすることができない。
もちろん、何から何までというわけではない。
でも、私はどこか人とずれている。そんな風に感じていた。
確かに寂しかったし、孤独だったけれど、
私の心の闇は、えりかさんのものとはまた違う。

えりかさんは、いつも自分に共感してくれる人を探していたのだと思う。
探して、見つからなくて、諦めて…。
それもわかる。
えりかさんはそれでも探していたのだろうか?
諦めながらも、どこかで探していたのだろう。

私も確かに誰かにわかってもらいたいと思っていたと思う。
でも、私とえりかさんが違うのは、
私は、わかってもらいたいと思うのと同時に、
わかってたまるか!という思いも持っていたことじゃないだろうか。
安易に共感されるのは不愉快だったし、
後から、本当はそう思っていないのに、いい加減に頷かれたのだとわかるともっと不愉快だった。

斎藤一人さんの本に、
人の言うことには、自分がどう思っていようと何でも「うんうん」と頷いていればいいという意味のことが書いてあった。
私は、そのことにはどうしても納得いかなかった。
確かに、人の言うことなんてすぐに忘れてしまう人だっている。
自分の言いたいことを聞いてもらえさえすればいいと思っている人だっている。
でも、私は本当の気持ちを話した時に、
相手が好意的な反応を示したか、そうでなかったか、それは印象として残っている。

やっぱりここでも大切なのはバランスなんだろうなと思う。
相手の言うことに共感できない時、どういう反応を示すべきなのか。

ちょっと実感したことがある。
私が「コミュ障」だと言った時のこと。
ある人は、「そんなことないですよ!」と答えた。
私の左脳は、「そりゃあ、そう言うよなあ」と思ったけれど、
私の右脳は、「あんたに私の何がわかる!?」と思っていた。
別の人は、ちょっと考える風をしてから、「そうは思わないけどな…」と答えた。
2人とも同じことを言っているのだ。
でも、否定されないというのは、こういうことなのかなと思った。

ニール・ドナルド・ウォルシュ氏の『神との対話』によれば、
「存在のすべて」である神は、自分自身を体験して知るために、自分を分割して私たちの魂を創ったのだそうだ。
なんとなくわかった。
神が自分のあらゆる部分を知りたいのなら、たくさんの魂に様々な体験をして欲しいと思うだろう。
体験した内容が、どれも似たりよったりでは意味がないのである。
だから、私たちはみんな違うのだ。
同じことを考えている人なんて、どこにもいないのだ。
私は私。それでいい。