母に感情をぶつけたことは一度しかないと言ったけれど、
母を責めたことは何度かあった。
母は辛かっただろうなと思う。
(でもまあ、大抵はあちらさんがこちらを責めたことにたいして言い返したという成り行きだったと思うけれど)
幸いにも、私は子供たちからそんな風に責められたことはない。
何て倖せなんだろうと思う。
自分がしたマイナスの行為が、返ってこない。
有り難いことではあるが、それはそれでちょっと申し訳ないような、そんな気がする。
母は、何と言うか、妙に自分の生き方に自信のある人だった。
娘の私たちも、自分のように生きれば大丈夫!と思っていたようだ。
公務員である学校の先生が一番いい職業だと思っていたようだし。
離婚したことも、なかなか結婚しようとしない姉に向かって、
「一度結婚して、子ども連れて帰って来ればいい」というようなことを言っていた。
何でそんなに自信が持てるのか?
AC傾向のある私にはよくわからない。
子どものころ、漫画家になりたかった私だが、
「大人になったら何になりたい?」と聞かれて、
「うーん…、二つあってねぇ、漫画家か、学校の先生」と答えた。
明らかに、母に遠慮しての発言だった。
成長するにつれ、学校の先生にだけはなりたくないと思うようになった私だったが、
大学では、教職を取り、採用試験も受けた。
先生にはなりたくなかったので、もちろんろくに勉強もせずに受けたのだが。
それで、もちろん不合格だったのだが。
それは、この反抗的な娘のせめてもの母への恩返しだった。
ちなみに、姉が教員になったのは、単に母の意にそったわけではなく、
第一希望の薬学部に受からなかったので、第二希望の教育大に行ったからである。
結婚して、実家を出て、母と距離を置いた。
元々、べたべたした親子関係はなかったので、電話とかも本当に用のあるときにしかしなかった。
そのあたりは、母も同じで、本当に用のあるときにしか連絡してこない。
(まあ、退職後も別の仕事についていたせいもあるとは思うが)
電話してきても、用件がすめばさっさと電話を切る。
母はそんな人だった。
夫などは、別にマザコンではないけれど、暑くなった寒くなったで義母に電話している。
そんなだから、子育てで母を頼るということもまずなかった。
実家に帰ったときだけは世話になったと思っているけれど。
そうして年月を過ごすうちには、母へのわだかまりのようなものも次第に消えていった。
距離を置いたことが良かったと思っているけれど、
もう一つ、
私は、母に愛してほしいと思うやり方では愛してもらえなかったと思っていたのだが、
私の子どもたちには、
こんなおばあちゃんでいてほしいと思うようなおばあちゃんでいてくれたからだと思う。
私も、いい娘ではなかったかもしれないけれど、
孫を3人も見せてやったのだから、それだけでも親孝行はできたと思っている。
若いころには苦労もしただろうけど、母は倖せだったんじゃないかと思う。
何年か前には自分で言っていた。
「お金に困っているわけでもないし、
なんだかんだ言っても、実の娘と暮らすのは嫁さんと暮らすのとは違うし。
倖せだなあと思う」
母がそんな風に思っていることが、私も嬉しかった。
ああ、それと、
姉とは仲の悪かった私だけれど、
母の病床で、姉といろいろと昔話などをした晩があった。
そのときは、もう母は意識が戻らない状態だったけれど。
その様子に、母はきっと安心してくれただろうと思っている。
母を責めたことは何度かあった。
母は辛かっただろうなと思う。
(でもまあ、大抵はあちらさんがこちらを責めたことにたいして言い返したという成り行きだったと思うけれど)
幸いにも、私は子供たちからそんな風に責められたことはない。
何て倖せなんだろうと思う。
自分がしたマイナスの行為が、返ってこない。
有り難いことではあるが、それはそれでちょっと申し訳ないような、そんな気がする。
母は、何と言うか、妙に自分の生き方に自信のある人だった。
娘の私たちも、自分のように生きれば大丈夫!と思っていたようだ。
公務員である学校の先生が一番いい職業だと思っていたようだし。
離婚したことも、なかなか結婚しようとしない姉に向かって、
「一度結婚して、子ども連れて帰って来ればいい」というようなことを言っていた。
何でそんなに自信が持てるのか?
AC傾向のある私にはよくわからない。
子どものころ、漫画家になりたかった私だが、
「大人になったら何になりたい?」と聞かれて、
「うーん…、二つあってねぇ、漫画家か、学校の先生」と答えた。
明らかに、母に遠慮しての発言だった。
成長するにつれ、学校の先生にだけはなりたくないと思うようになった私だったが、
大学では、教職を取り、採用試験も受けた。
先生にはなりたくなかったので、もちろんろくに勉強もせずに受けたのだが。
それで、もちろん不合格だったのだが。
それは、この反抗的な娘のせめてもの母への恩返しだった。
ちなみに、姉が教員になったのは、単に母の意にそったわけではなく、
第一希望の薬学部に受からなかったので、第二希望の教育大に行ったからである。
結婚して、実家を出て、母と距離を置いた。
元々、べたべたした親子関係はなかったので、電話とかも本当に用のあるときにしかしなかった。
そのあたりは、母も同じで、本当に用のあるときにしか連絡してこない。
(まあ、退職後も別の仕事についていたせいもあるとは思うが)
電話してきても、用件がすめばさっさと電話を切る。
母はそんな人だった。
夫などは、別にマザコンではないけれど、暑くなった寒くなったで義母に電話している。
そんなだから、子育てで母を頼るということもまずなかった。
実家に帰ったときだけは世話になったと思っているけれど。
そうして年月を過ごすうちには、母へのわだかまりのようなものも次第に消えていった。
距離を置いたことが良かったと思っているけれど、
もう一つ、
私は、母に愛してほしいと思うやり方では愛してもらえなかったと思っていたのだが、
私の子どもたちには、
こんなおばあちゃんでいてほしいと思うようなおばあちゃんでいてくれたからだと思う。
私も、いい娘ではなかったかもしれないけれど、
孫を3人も見せてやったのだから、それだけでも親孝行はできたと思っている。
若いころには苦労もしただろうけど、母は倖せだったんじゃないかと思う。
何年か前には自分で言っていた。
「お金に困っているわけでもないし、
なんだかんだ言っても、実の娘と暮らすのは嫁さんと暮らすのとは違うし。
倖せだなあと思う」
母がそんな風に思っていることが、私も嬉しかった。
ああ、それと、
姉とは仲の悪かった私だけれど、
母の病床で、姉といろいろと昔話などをした晩があった。
そのときは、もう母は意識が戻らない状態だったけれど。
その様子に、母はきっと安心してくれただろうと思っている。