高坂正堯、藤本陽一ほか 『私の大学再建案』

2015-03-09 01:07:20 | 大学論

この本は、1960年代の後半に、当時の日本中の大学で吹き荒れていた紛争や大学への改革を迫る思想についての学者たちのコメントや論文を集めたものです。

60年代後半とはかなり古い本ですが、今の大学問題にも通底し参考になる事柄や考えが入っているので、この場で紹介したいなという衝動が起きましたので、この頁に紹介したいと思いました。

また、大学での勉強法に悩んでいる大学生の人がいたら、その先輩としてご提案が出来ればなと思い、私の考えも書きましたので、どうか参考にしてくださいませ。

日本の大学というところは、とにかく規律のないところで世界的にも有名です。

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講義中に、ゴニョゴニョ小さい声でしゃべっていてなにを言っているかわからない教授がたまにいました。

ドイツでは、高校卒業生に占める大学進学率の割合は日本ほど高くありませんから、大学の先生になれるのは日本のように論文だけで良いというパターンはなく、壇上に立ってはきはきとしゃべれる能力がないとなれないということを、西尾幹二氏が氏の本で書いていました。

その能力だけでなく、質疑応答の試験もあって、不況期には、他の大学教授志望の人間も参加して、受験者が答えにくいような意地悪な質問をわざと次々にしてくるようです。 それほど、ドイツの大学の先生になるのは難関なのです。

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私は、在学時代に、日本のこういう教授にまず憤りを感じました。

それと、講義をいい加減に考えて、その内容について整理することなく講義を進めるために、話す内容が支離滅裂で、講義終了後に書いたノートを見直すと、全然何を書いているのか自分でもわからないことになっていました。

その講義には、我慢できない人が多く、講義中次々に人が教室から出ていくのがわかりました。

私も訳が分からない講義だったので、非常にいらいらしました。

この講義は4年次の事でしたが、その単位を落としても差し支えないのがわかっていたので、その次から出席しないことに決めました。

今日ほどではありませんが、当時も海外からの留学生が少なからずいました。

日本人が聴いてもわからないのに、海外留学生はどうやってわかるんだろうと、その教授について怒りを覚えました。

それと、高校までの授業では、どの先生もきちんとすべて黒板に板書してくれますが、大学からはそうではなく、先生たちはマイクを握って喋っているだけ、あるいは書いてもちょこっとだけというのがほとんどです。

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そのことに、私は入学から最初の授業で失望したのです。

「私の親が高い授業料を払っているのにこんないいかげんな授業しかしないなんて…!」と憤りに似たものを感じました。

そこで私は、授業をボイコットして、きちんと板書してくれる先生のものだけ出席するようにしました。

同じ考えの人はたくさんいたようで、きちんと板書してくれる先生の授業は、多くの人が参加していました。

しかし、考えてみればそれでは大変なことになってしまいます。

といいますのは、板書してくれないからといってボイコットしていては、年末の試験の際に解答できなくなって留年してしまいます。

 そこで私は、ほとんど板書してくれない授業でも心を鬼にして出席しました。

そして授業が終わった際に、先生のところにいってわからなかったところを訊きにいきました。

 するとその教授が私に曰く、 「キミ、そんなノートの取り方では年末の試験に困るよ!大学の授業では高校までの授業とは違って板書はほとんどしないから、ノートをもってきて私の言ったことをすべてノートに書くんだ!」と言ってました。

 何故、高校までは板書してくれて、大学の授業ではほとんど板書しないのか? この問いに答えてくれたとはいえませんが(笑)、私なりに解釈すると、これからの人生では自分で主体的に情報等に接していかなくてはいけない。

であるからして、大学の講義では、板書に頼るのではなく、先生の言ったことについて自分で取捨選択をしてノートをとっていくという行為が必要とされます。

新聞や雑誌、本などに接する場合も、同じです。

自分に必要とあれば読んでチェックをしておく。

そしてそれを再度見直すなり、ワードなどの媒体にデータベース化しておく。

 しかし、自分には不必要と思われるのであれば、通りすぎればいいだけのことです。

大学の講義では、自分に必要と思われるものがあれば取れば(書けば)良いし、必要と思われないならば捨てれば(書かなければ)いい。

授業の最初から最後まで全部書ければいいですが、書けなければ取捨選択したものだけでいいということですね。

研究に一生懸命の一流の教授の講義では、さすがに「すべて書かなければ!」という衝動に駆られたために、最高で1つの授業でノート5ページ分になりました。

ここまでいくのは例外で、普通の授業ならばたいてい2ページ半くらいはいくのではないでしょうか?

高校までは全て板書、しかし大学からは板書はほとんど無し…このギャップに慣れるまでは時間がちょっと掛かりましたが(笑)、1年時にその取捨選択によるノート取りに一生懸命に取り組むことができるようになりました。

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しかし、私が進学した大学は一応難関大学のカテゴリーに入ってましたが、この「教授たちが板書をしない」ということに憤る人が周りに全くいなかったのは不思議ですね(笑)。

この本が出された当時は、授業のボイコットやネトライキ(大学に抗議するために寝泊まりまでしてしたストライキ)まであったようです。

 現在の平和ボケした日本の大学の時代には信じれませんが、当時はそんなこともあったようですね。

そのことについて、「学生の多くは、大学に入って見出した学問が期待に反し、また納得できないので、深い失望をもっている。それがネトライキになる。」と書いてあります。

 私は、大学の学問というものがどういうものかがほとんどわからなかったので、「期待に反し」ということではなく、板書してくれないのが理由でボイコットしました(笑)。

しかし、いろんな本を読むと、大学進学について高校から真剣に考えて、いろんな分野の本を読み、「これだ!」と思う学部を決めてそれだけに絞って受験勉強もしていた人が多くいることを知って「立派だなあ!」と思いました。

私は、どんな学部でもよく、社会科学系の学部ならどこでもいいと思って受けていただけでしたから(笑)。

そんな真剣に進学を考えて合格して入学してきた真面目な学生からしたら、日本の大学の教授によくある「研究などほとんどせず、毎年同じノートを講義中に読んでいるだけ」とか「教科書を読んでいるだけ」とか「遅れて教室に入ってきて規定よりも短い時間しかしない」というような講義には我慢がならないことでしょう。

それで大学に失望して、辞めてしまう人も少なくないと聞きました。

 確かに、野放しにはしておけない問題だと思います。

大学の先生とは、高校までの先生とは違って、教育者という面と研究者という2つの面をもっているのです。

というよりも、後者の面のほうが大きい。

であるからして、教育に関してはおざなりにする先生方が多い、などと言われます。

しかし、それは違うと思います。

 授業をいい加減にする教授がいい研究をしているか?といいますとそうではありませんね?

研究で成果をあげている教授は、やはり講義もきちんとこなしているのです。

また逆もしかりで、講義だけきちんとして、研究をおざなりにしている人がいるかといえばそんな人は知りません。

やはり、立派な教授は両方をきちんとしているのです。

何故、日本の大学では、そういった講義をいい加減にしている人がいるかといえば、教授になるのが簡単で、日本全体が学歴志向で高い授業料を払ってでも入学して卒業までありつけるだけでいいと思っている人が多く存在するからです。

そんないい加減な授業をしている教授は、年末の試験もいい加減で甘い試験であるのは明白です。

試験内容なここからここまでと教えてくれるパターン、試験場になんでも持ち込んでもいいというパターン、最初から最後まで講義の内容はほとんど同じだから試験の内容は予測が簡単というパターンがほとんどではないでしょうか?

真面目に大学で勉強をしたいと思って入学してきた人よりも、学んだ内容はどうあれ卒業にありつければそれでいいという人のほうが大半ですから、そういう試験に甘い教授のほうが人気が高く、登録する人が多いのが現実です。

真面目な学生からすれば、こんないいかげんな先生には辞めてもらいたい、と思うでしょうが、そうはいかないのが現実です(笑)。

私もいいかげんな教授には憤りを覚えましたが、そういう教授のほうが人気が高く登録する人が多いのが現実なのです。

登録する人が多ければ多いほど需要と供給の関係で、辞めさすことはできない。

辞めさすことが出来るのは、そのいいかげんな先生の授業を誰もがボイコットして講義にならない、という事態になれば辞めさすことが出来るでしょう。

 しかし、そんなことはできようはずはありません(笑)。

そうなるためには、もっと長い時間がかかるでしょうし、永遠に無理かもしれません。

そこで、そんな真面目な学生に提言したいのは、そんないいかげんな教授の講義はボイコットして、違う教授の講義に参加したらどうか、ということですね。

そんないいかげんな教授とは真逆に、研究が好きで好きでたまらなく思い、常に研究し、講義の際も、思わず耳を傾けざるを得ないほどの言葉の重みをもった先生は必ず存在するものです。

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たとえば、文化人類学を高校時代に感銘を受けて入学するも、その文化人類学の教授Aがいいかげんな授業しかしないので、大学に失望した。

では違う文化人類学の教授Bの講義に受講しに行ったらどうか、ということです。

そのように主体的に受けに来る学生に対しては、教授は喜んで受け入れてくれるはずですし、断る理由などありませんからね。

 教授Aの講義が必修ならば、その講義のノートは友人なりに借りて試験に備えればいいのです。

そういうことが出来る教授がいないならば、文化人類学で有名な他の大学に通っている友人と一緒にその講義を受けにいけばいいのです(笑)。

 いや、冗談でなくて学問におけるそういう武勇伝はよくあるのです。

 そのくらいの気概がなければ本当に学問を修めることはできないのです。

先に書いたように、情報というのは自ら主体的に接していかんくてはならないものなのです。

 こういった主体的な方法とは別に、自ら本を買って読むという行為も忘れずに!

私の尊敬する某教授は「週に1冊本を読まなくてはならない!」と言ってました。

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いいかげんな授業しかいない教授は確かに存在しますが、だからといって授業をボイコットしているだけ、というのは後ろ向きで人任せな勉強の態度で、評価できたものではありません。

高い授業料を払って通学しているわけです。

年間の授業料から割り出すと1つ1時間半の講義は2000から3000円くらいするのです。

親御さんが汗水たらして働いて出してくれた金額ですから、その元を取ってやろうという気概を出して臨んでもらいたいものです。

 この本に執筆している藤本陽一氏は以下のように書いています。

「大学で講義される内容は、創造的で生きた学問でなければならない。 知識の集積を講義され、それを理解し記憶することで彼らは満足しない。 彼らが望むのは、新しい学問が絶えず創られ、現実とぶつかって試され鍛えられていることだろう。」

渇望される学者像は、今も昔も新しいものを発見し創造する人であることは間違いありません。

 そこで、思い出されるのはアメリカの哲学者であったウィリアムジェイムズの以下の言葉でしょう。

「この世は2つのタイプの人間がいて、1つは、この世界を多元的に捉える人。

 この人は、リンゴもいいし、蜜柑もいいし、バナナもまずくはないし、パイナップルも結構だ。

その間に序列をつけるわけではないし関係をつけるのでもない。

いろんなものが並列状態にある、というふうに捉える立場の人。

もう1つは、この世界は最後は1つの絶対的な価値に収れんしていって、その体系の中に諸々のモノがちりばめられている、というふうに捉える立場の人。

この人は、自分の生活において、詳細な新しい情報など得るにはあたらないというのが基本的なモラルになっていると思っている。

この2パターンに分かれる。 後者の方が圧倒的に多い。」

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ウィリアムジェイムズ

大学の改革云々がされようがなされなかろうが、前者のタイプの学者や教授は自発的に研究し、成果を出すものです。

私が在学中に立派だなあと思った一流の某教授は、常に新しい情報を得て、自分の頭で練りに練り挙げて分析しつくした理論を1コマの1時間半をみっちり講義していたものです。

逆に、いいかげんな教授は、研究をろくにせず何年も同じノートを読んでいるだけ、というパターンも多く散見されました。

 私は大学教授ではありませんが、もし教授になったらそんな研究態度は、どうしてもできません。

絶対にしないでしょう。

 何故なら、常に新しい情報を得ていないと気が済まない性質ですから、そんないい加減な研究態度などすぐに止めたくなります。

そんな、研究をせず何年も同じノートを読んでいるだけの教授はウィリアムジェイムズのいう、後者の、「自分の生活において、詳細な新しい情報など得るにはあたらないというのが基本的なモラルになっていると思っている。」という気質の人なのでしょう。

 そういう人は本来、学者や教授という職には本来向いていないのです(苦笑)。

ですが大学教授になっているのは何か皮肉めいていますね。

こういう人は、大学での講義でも研究結果である本の出版でも、同じようなことを終始書いているだけのパターンがほとんどです(苦笑)。

そんな教授の本を読むと最初から最後まで同じようなことしか書いていないから感動することが出来ませんし、読み終わったら中古本屋さんに売ってしまいます。

しかもネタを新しく得ようという気概がないですから、出版する本も少ないか、1冊だけというパターンが多いです(笑)。

こういう人は、大学改革が叫ばれて一生懸命研究するも、研究結果を出すことができないまま淘汰されるでしょう。

 逆に、前者のパターンである「この世界を多元的に捉える人」はいろんなことを取捨していなくては気が済まない人ですから、いろんな領域に踏み込んだ本を、しかも多数出すものです。

そういう人こそが、大学教授になるにふさわしいものです。

アメリカの大学では、教授は契約制が主体であって、業績がなければ再契約はされません。

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大学に進学する人がそれほど多くないからですね。

 しかし、日本では大学に進学する人は多く、高校の卒業生の半分以上が今や大学に進学します。

ですから、日本の大学では、刑事事件でも起こさなければくびにはされないのです。

しかし、大学は日本が産業化を推進する上で、新しい知識を生み出される事を期待されているのはいうまでもありません。

そこで学んだ学生や卒業生は、それを現実社会の中で活かしていかなくてはいけないのはいうまでもありません。

 現代社会が、実に多くの異なった能力を要求しているのです。

それを高い授業料を払ってきているのであるから、「元を取ってやる!」というような気概をもって学ぶ必要があるのではないでしょうか?

 また、違う面では、学問の存在事由として、良き方向へ社会を向けるという側面も強調しておきたいと思います。

 この本で執筆している今は亡き高坂正堯氏(国際政治学者)は、大学は危険なことを考える場所である、と言っています。

「社会が健全に機能するためには、無用の思想、危険な思想、そして観念的な批判が必要なのである」 ということです。

社会をよき方向へ導くためには、いろんなテーゼを大量のいろんな考えや思想をくみ取り吟味した末に、補正をしてから取り出し、これと思われるものを決断するのです。

いろんな角度から考えていくことが必要なのは政府の政策のみならず、自分の属する家庭や仲間内やはては会社の決定事項でも同じです。

だからこそ、産業化が、高等教育を受けた人材と新しい知識とを大量に要求するのです。

 ですから、大学を修了したからとてその姿勢は終わるものではありません。 社会に出てもずっと継続していかなくてはいけないのです。

高校までの授業(大学受験)までは、与えられた問題を解く、というパターンでしたが、それ以降は自分の身の周りにある問題点をよき方向へもっていくという「市民」としての使命感が人間にはあるはずです。

その問題点を探すのは、人に指摘されるのを待っているのではなく、自ら主体的にさがしていこうという姿勢がなくてはいけません。

そのためにあるのが、巷に売られている新刊本であり、ニュースであり、新聞であり、その他幾多のメディアであり、そして大学の講義であるはずです。

ですから、こういったものをとことんまで有効に利用しない手はありません。

 問題点を探し、それをよき方向へ導くためには、頭で考えるだけでなく、そのための行動をしていかなくてはいけません。

環境問題について扱った大学での講義で、「…という成分が入った洗剤は環境を汚す」ということを知ったら、その成分が入った洗剤は買わない、使わない。

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また、「清掃工場で石油を使って生ごみを燃やすと、二酸化炭素が発生し環境を汚す」ということを知ったら、清掃工場に生ごみを出さずに、自分の家の庭の土に埋めてしまう。

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政治学で、「国民が自分の意思を主体的に表明しなくては、為政者の寡頭制を招く」ということを学んだら、主体的に表明する行動(選挙における投票やデモ行進など)をする。

「原子力による発電は、よからぬ方向(発電所に事故による被害など)へいってしまう。欧米では原発は廃止の方向へもっていっているのに、日本はいまだ原発を維持している。」ということを知ったら、その方向へいかないように、自分から今の電気を使わずに、太陽子発電に切り替えることをする。

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こういった社会に必要な市民としての知識を学べるのです。 それはなにも大学だけではなく巷に売っている本でも学べるのです。

 ここにあげたのはごく一部であって、どんどん講義にでて本をむさぼるように読むことによって次から次に、市民としてなすべきことは無数に学べるでしょう!

ですから大学の授業だけでなく、どんどんといろんな本を読んでいくことをお勧めします。

 そのことで、社会を良くしていくための知識がたくさん学べるということがわかります。

 知識を講義や本から学び、それを行動する。 その行動の総体が社会を良くしていくということです。

 先にも書いたように、「清掃工場で石油を使って生ごみを燃やすと、二酸化炭素が発生し環境を汚す」ということを知ったら、清掃工場に生ごみを出さずに、自分の家の庭の土に埋めてしまうということを日本国民全員がすれば、日本からは生ごみは一掃されるのです。

そうなれば、地球環境はものすごくきれいになることは絶対的に間違いはないのです。

 それに、いい加減な講義しかしない教授を辞めさせようとしたら、その講義を登録する人がゼロになればいいのです。

しかし実際はそうでなく、日本ではいい加減な講義で、しかも年末の試験が簡単な教授のほうが人気がありますね。

もちろん全部が全部そうであるとは言い切れませんが…。

このように、何をすればいいのかを知って行動する、ということが重要なのです。

そのことを学ぶのが大学の講義であり、巷にある科学的な本なのです。

 確かに、このようなことをしても、お金がもらえるわけでも、栄誉がつくわけでもありません。

でも、科学の理念がわかったのならば、そういうことを主体的にしていってほしいのが私の願いなのです。

そういう人が多く出てきてくれるのを願ってできたのが「科学」ということを実感できて欲しいものです。

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私の大学再建案 (1969年)