中島義道 『哲学者のいない国』

2015-03-06 12:35:25 | 哲学、思想

 

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この本の冒頭には、某外国の哲学者と思しき人の日本滞在記から始まっています。(その哲学者の名は明かされていません)。

その外国の哲学者が曰く、「日本には哲学者がいない」というのです。

日本の大学では、哲学科というものはあり、そこではインド哲学、中国哲学、イスラム哲学などがあります。

 しかし、その哲学者が日本の言論界について不思議に思うのは、何故、日本では西洋哲学ばかりが研究されるのか?

ということです。

そして、それぞれが自らの専門に閉じこもり、カント研究者とヘーゲル研究者が互いに論を交わすことはなく、議論をされることは皆無に近いといっています。

 それのみか、日本国の哲学研究者同士の論争もないことに疑問を感じるのだそうです。

その哲学者の定義によれば、 「哲学者とは、生活現場から遊離せず、自らの実感にもとづき、自らの「血の言葉」を駆使する者」であるそうです。

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確かに、私の通った大学でも、また最近読んでいる本でも、そういったことを追及している人はいなく、しかもたとえいても、そんなに物事を突き詰めて考えることをしている人は少ないように思います。

であるからこそ、その哲学者の以下の言葉が切実に迫ってくる気がします。

「ニーチェを日本人が研究する悩みを私に訴えてくる者はおらず、私の講演に関して意表をついた質問は出ず、紋切り型の賛辞のみが多く、おおよそ社交辞令的な話に終始していたのは残念である。」

要するに、日本には哲学研究者は山ほどいても、「哲学者」は不在ということでしょうか。

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確かに日本では、そういったもの事を深く考えて、人と議論するという文化が希薄であるのみか、先輩がいったことをそのまま踏襲するだけでいいというような風土があるのみならず、教育の現場をみても、多くの知識をそのまま詰め込むだけで良しとする風潮が非常に強いために、そのような哲学者がいないと言われたり、よしんばいてもかなりの少数ということになってしまうのでしょう。

そのような深く物事を考えていくような人間を形成するのも大学の役目であるはずですが、大学生のほとんどは講義に参加しないのが実情ですから非常に難しいですね(笑)。

哲学とは何か、という命題について非常に考えさせる本ではありますが、ことは大学や本屋にある難しい本の世界のことだけでなく、日常においてもやはり哲学というものは必要であると私は思います。

この本の著者である中島義道氏が言うに、「哲学の核心部分と信じるのは、固有のテーマをひたすら言葉のみを信頼して、厳密にこれでもかこれでもかと議論していく能力である」ということです。

これは非常にいろんな多岐の領域について求められる考えであると思いました。

 私が人生上一番尊敬する故大山倍達極真会館総裁は、空手において、拳の握り方について死の直前まで「この握り方でいいのか。どこに一番力を込めるべきなのか。」ということに追及していたようです。

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大山倍達 総裁の、125か国に極真空手が広まったという偉業はいうに及ばず、このような奥の深い人格があってこそ、多くの人を魅了する力があったのでしょうね。 まさに空手の哲学者であったのです。

 また、10数年前に放映されていた『マネーの虎』という大物社長の前で、志願者がプレゼンをおこない、その内容に共鳴できたなら、その社長たちが出資する番組がありましたが、その大物社長たちの著作をいくつか読んでみましたが、やはりどの社長たちにも言えるのが、既存の商売について疑問をもち、その方法をそのまま踏襲することなく、考えに考え、自らが真なりと信じる事を商売に取り入れて見事に成功した、ということですね。

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やはり、真理的なことを世間に伝える必要があるのですね。

既存のものを踏襲するだけでは、良き方向へ全体がいっている場合は良いですが、誤った方向へいっている場合は、全体が誤った方向へいってしまいますから。

しかし、そのようにそれについて疑問をもち、その軌道修正を加えれる人は、残念ながら少数派です。

 そして中島氏はいっています。

「人類永遠の問いなど難解に決まっている。 それをその難解さのままでいけどりし、しかも職業や研究と結びつけないで純粋に「哲学する」場はないものか?」 と。

 なるほど、単に目の前にあるものを通り過ぎるのではなく、その内奥を深く探求する、思索することが中島氏は好きなのでしょうね。

そのようなことをする楽しさは私も共感します。

しかし、これもまた少数派です(笑)。

 このような思索を永遠におこなっていると楽しいことはわかりますが、それではご飯が食べれなくなってしまいます(=お金が稼げなくなってしまいます)。

この本を読んで思ったのは、哲学的な思考法ですね。

どんな人にもお願いしたいのは、いつも「なぜ?」という疑問に引っかかってもらいたいのです。

物事をあっさりと片付けないでもらいたいということですね。

一見、それが正しいと思ったものでも、よくよく考えてみると違う場合が多々ありますし、私のこれまでの人生でそういうことをたくさん体験してきました。

あらゆる科学の分野でも一緒です。

実は先日私は叔父を肺癌で亡くしました。

その叔父は、肺がんが見つかり、入院しましたが、また肺にガンが見つかるも、そこは手術が出来ないところにできてしまったのです。

それで、叔父は諦めて好きだったタバコをやめる事をせずにいたので、その症状が悪化し、ついに還らぬ人になってしまいました。

 私はいろんなガンからの生還劇を知ってましたから、叔父にその方法について、また従姉にもその方法を教えましたが、2人ともそれを実行に移してはくれませんでした。

信じてなかったのか、あるいは「現代医学でダメなものはもう諦めるしかない。」という短絡的な思考に陥ってしまっていたのでしょうか?

死への崖っぷちに立てば、その方法を教えれば藁にもすがりつく思いでそれを行動してくれる、と私は踏んでいたのですが、2人はやはり短絡的な思考法しかなかったのです。

そんな思考法ではなかった私は、無理やりにでも行動させるべきであったと後悔の念が止みませんでした。

 確かに、その生還劇の方法でしても、叔父は健康な体に戻ることはできなかったかもしれません。

しかし、良き方向へ進むことはやはり重要であると思います。

 病院でダメなものは何をしたってだめだ、なんていうのは誤りです。

西洋医学が、今の日本では最重要になってますが、その命題を突き崩す必要があったのです。

 西洋医学だけがすべてではないのです。

私の知っているガンからの生還法以外にも、いろんな方法はいくらでもあるのです。

それは現代の医学会の弊で取り入れられていない、というだけなのです。

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ですから、中島氏が言うように、「あっさりと片付けないこと」が重要なのです。

こういったことは医学の分野だけでなく、いろんな科学の分野にも必要であると思います。

 要するに、人生の根本問題について思索し続けるということが大事なのです。

 そのためには、いろんな本を読み、情報を得て知識を蓄えなくてはいけません。

 その道の事しかわからない「専門家」ではいけないのです。

そしていろんな体験を得て感得しなくてはいけません。

宗教に入っている人にありがちなのは、その教義本や刊行紙、敢行誌だけ読んでいればそれでOKということですが、それではダメです(笑)!

そんな事の一面しか扱っていない文だけ読んでいればそれでOKなんていうのは論外です。

しかし、一個人の体験や知識だけで事の本質がわかるはずはありません。

人と語り、人に自分の意見を言うという行動をして、自分の道を矯正し、良いと思ったことは行動しなくてはいけません。

「吟味と実践」が必要なのです。

これは、バートランドラッセルに通じるものがあります。

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ラッセル

 

ですから、哲学的になろうとするならば、そういう態度を永遠に続けていくことが重要なのです。

しかし一個人で接することが出来る情報などは限りがあります。

いくら本を読めど、いくらことを体験すれど片手落ちにならざるを得ないのです。

完璧を目指せども目指せども片手落ちにならざるを得ません。

ですから人との交流は永遠に続けなくてはいけないのです。

この本を読んでそんなことを考えてしまいました。

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哲学者のいない国