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オヤジのひとり言

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修学院離宮

2012年04月08日 | オヤジのひとり言

4/8

千年の古都のタイムトンネル

京都の歴史 その410  

 

修学院離宮

 宮内庁京都事務所が管轄する京都市内の離宮・御所には、

桂離宮のほかに比叡山の麓にある修学院離宮、

京都御苑の中に一郭を占める仙洞御所がある。

修学院離宮は、後水尾上皇の山荘で、

万治二年 ( 1659 ) にほぼ完成したもので、

大きく上・中・下の茶屋に分かれて、主な殿舎は下の茶屋にある。

上の茶屋は大きな堰堤を築いて浴瀧池という広大な池を眺める場所にある。

 比叡山を含む範囲の山までそのまま取り込んだスケールの大きい庭園で、

様々な種類の潅木を丸ごと刈り込んだ山腹や堰堤の「 大刈込み 」が、

景色の広大さを一層際立たせています。

 

今回はここまで・・   

続きは次回に・・    

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原ジャイアンツ64年ぶりの屈辱…“寒風”負け

2012年04月07日 | オヤジのひとり言

原ジャイアンツ64年ぶりの屈辱…

看板倒れ打線で4度目の“寒風”負け

 あまりにも惨めだった。我タイガースは最大の宿敵のライバルとの

甲子園での今シーズン第1ラウンドで、ジャイアンツの強力?打線が無抵抗のままだった。

泥沼の4連敗。開幕7試合で4度目の完封負けは、球団史上1リーグ時代の1948年以来の屈辱。

大型補強で強力になったはずの打線は看板倒れだ。


 試合後の原監督はあえて表情を変えず、平静を装った。が・・

「この悔しさをあしたからのゲームの糧にするということ」と希望を7日の2戦目につなぐしかなかった。


 完封負けした前夜と1~8番まで全く同じオーダーを組んだ。

打線を組み替える選択肢もあったが、首脳陣は組み替えないことを決断した。

指揮官は試合前に打線について「兆候はある」と予告。

あえて動かずに打線の奮起を促した。

(ここにも原監督のおとなしさ?というか決断力の無さが露呈した感じ)

 だがジャイアンツキラー天敵の能見の前に手も足も出なかった。

見せ場は・・0‐0の五回無死一塁。

小笠原が初球にバントを試みたがファウルになった。

結局、ヒッティングに切り替えたが空振り三振。

一塁ランナーの高橋由も盗塁死と“三振ゲッツー”に終わった。

クリーンアップは無安打で、合計わずか2安打。

好調の能見の下三塁すら踏めず、2試合連続の完封負け。

村田打撃コーチは「情けないわな」と嘆いた。

 「こういう時こそ中心打者、クリーンアップが大いに爆発してもらわないといけない。

打線に関してはそれ以上もそれ以下もありません」と原監督指揮官は力んで見せたが・・。

主力打者の爆発を待つしかないが、開幕直後に借金5の事実は重い。

 

伝統の一戦に相応しい、強いジャイアンツになるのだろうか??

強いジャイアンツと競り合ってこそのリーグ戦・

あのDeNEと最下位争いをしているようではねぇ・・

 

愛すべきライバル・ジャイアンツの奮起を望む!!

 

7日の予告先発は 巨人は唯一勝っている杉内が登板

我阪神タイガースは・スタンリッジですよ。

 

弱いもの苛めの伝統の一戦なんて誰も望んでいない・

ガンバレ・読売ジャイアンツ・・・・虎キチオヤジ・・

 

 

 

 


数奇屋造り庭園

2012年04月07日 | オヤジのひとり言

4/7

千年の古都のタイムトンネル

京都の歴史 その409

 

智仁親王の没後、桂離宮は一時荒廃したが、

智仁親王の子智忠親王は徳川家や妻の実家前田家の援助を受けて、

中書院、笑意軒などを建て、庭園も整備。

寛文二年には後水尾上皇が御幸し、

このとき親御殿が増築された。

 桂離宮の園池は複雑に入り組んでいて、

庭園を回遊していくと、

景色があるときは大海に、

あるときは小島のたくさん浮かんだ沖合い、

また幽遠な入り江、

深い谷間といったふうに次々と表情を変えていく。

 そして気がつくのが、直線的な畳石や飛び石、

整然とした方形の船着き護岸、

反りの無い一本筋の石橋など、

意外なほどに自然の庭園の中に人工的な造形が含まれていることです。

茶室や亭も、田舎風を装いながら、

きわめて丁寧な意匠が施されている。

いわゆる数奇屋造りといわれるもので、

どこまでも計算された意図が感じられ、

そうした作者には、

古来より小堀遠州が想定されてきたが、

実際には彼の関与は無かったようです。

 

今回はここまで・・   

続きは次回に・・    

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天下の絶景・「 桂離宮 」

2012年04月06日 | オヤジのひとり言

4/6

千年の古都のタイムトンネル

京都の歴史 その408

 

天下の絶景・「 桂離宮 」

現在、西京区桂の旧西国街道沿いにある宮内庁管理の桂離宮は、

もと八条宮 ( のちの桂宮 ) の別荘でした。 

正親町 ( おおぎまち ) 天皇の皇子誠仁親王の第六皇子智仁親王は、

関白職を譲る約束で、豊臣秀吉に養子として迎えられたが、

秀吉に実子鶴松が誕生すると解消された。

そこで秀吉は天皇に奏請して八条宮家を立て、

家領を寄せて親王をその初代としたのです。 

親王は元和二年 ( 1616 ) ころから下桂辺にあった別荘を整備し始め、

親王はこの別荘を「 下桂瓜畑のかろき茶屋 」と呼んでいるが、

これが桂離宮のはじまりです。

寛永元年 ( 1624 )、相国寺塔頭の鹿苑院主・叔顕晫は、此処を訪ねて

「 庭中に山を築き池を穿つ、池中に船あり、橋あり、亭あり、亭上四面に山を見る、天下の絶景なり」と

庭園の美しさを絶賛しているので、この頃にはほぼ完成していたと思われる。

 

今回はここまで・・   

続きは次回に・・    

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「 八つ橋 」

2012年04月05日 | オヤジのひとり言

4/5

千年の古都のタイムトンネル

京都の歴史 その407

琳派の意匠やデザインは、それぞれがもとをただせば

『 古今和歌集 』や『 伊勢物語 』・『 源氏物語 』の古典的なイメージを踏まえ、

例えば、霞たなびく山の櫻といえば何所の櫻でも良いのではなく、「吉野の櫻」、

流れる水に散り浮かぶ紅葉といえば、この川はもう「 竜田川 」に決まっていた。

かきつばたの咲く岸辺に板橋といえば「 伊勢物語 」の在原業平の

東のくだりに出てくる「 八つ橋 」ということに、

そこには当然そうした背景にある古典が暗黙のうちに了解されているのですが、

こうした古典のイメージに意匠を重ねたのが京都人の美意識になった。

「 プライドの高い京都人 」というのも、そんなところから出た誤解なのかも・・

 

今回はここまで・・   

続きは次回に・・    

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本阿弥光悦は、絵は苦手だったらしい

2012年04月04日 | オヤジのひとり言

4/4

千年の古都のタイムトンネル

京都の歴史 その406

本阿弥光悦は、絵は苦手だったらしいが、

その漆作は大胆で簡潔な、

それでいて古典を踏まえた王朝風の意匠に富んでいる。

また、光悦と親交のあった絵師俵屋宗達は、

写実から離れた装飾性の強い創造性の豊かな絵を描いています。

 こうした装飾的な絵画の傾向は、

次代の尾形光琳の絵によってさらに徹底され、

ほとんど意匠 ( デザイン )ともいえるような絵画が完成された。

尾形光琳は、呉服商・雁金屋尾形宗謙の次男で、弟には陶芸の尾形乾山が、

彼らの曽祖父道柏の妻が本阿弥光悦の姉にあたる。

この画風は、その後京の画壇に大きな影響を与えたが、

この流れを光琳の名をとった琳派と呼んでいる。

琳派の影響は、

屏風や掛け軸などのほか扇子面や団扇、香包みの絵などにも、

また、粟田焼き、清水焼などの陶芸の絵付け、

硯箱などの漆工芸の意匠、

友禅などの着物の柄など、

その後の京都の文化に大きな影響を与えている。

あるいは、京料理や京菓子にまで琳派の影響を与えたと言わざるを得ない。

今回はここまで・・   

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「 嵯峨本 」

2012年04月03日 | オヤジのひとり言

4/3

千年の古都のタイムトンネル

京都の歴史 その405

 

現在でも、時々古本市で売られている「 嵯峨本 」、

優美な花鳥草木の文様を渋い銀色の雲母で刷り出した、

雲母刷りの料紙の上に流麗な文字で印刷した、

『 伊勢物語 』・『 方丈記 』・『 徒然草 』・『 観世流謡本 』などの

古典を中心とする出版物です。

その豪華な美しさに驚かされるのですが、

古書の余りにもの高額なのには驚かされてしまう。

 この「 嵯峨本 」は、嵯峨の土倉各倉として名高い角倉与一 ( 素庵 ) が、

江戸時代の初期に出版したもので、

父の角倉了以は、朱印貿易で莫大な利益を上げ、

保津川を開削して丹波の穀物・材木などを京に運ぶ船運を開いたり、

京の鴨川沿いに高瀬川を掘って高瀬舟を通し、

伏見から京に至る水上交通を開いたことで知られている。

息子の角倉与一 ( 素庵 ) も、家業を継いで事業を隆盛させる一方、

学問もよくし、この「 嵯峨本 」の出版事業を行った。

この嵯峨本の印刷に用いられた版木から刷り出す製版の文字を、

本阿弥光悦が版下に書いたものだという、

そのために「 光悦本 」とも呼ばれている。

 

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鷹が峰の光悦寺

2012年04月02日 | オヤジのひとり言

4/2

千年の古都のタイムトンネル

京都の歴史 その404

 

鷹が峰光悦の屋敷は、光悦町のほぼ中心にあったが、

これとは別に現在光悦寺のある場所に、

先祖の位牌所とともに「 太虚庵 」という庵を結んだという。

彼はこの鷹ヶ峰で書を認めたり、茶を嗜んだり、

或は土地の土を捏ねて楽焼を楽しんだり、

と悠々自適の生活を送っていたようで、

寛永7年 ( 1630 ) 板倉勝重と林羅山がこの地に光悦を訪ね、

羅山は「 鷹峰記 」を書いてその景勝を愛でている。

そして、

寛永14年2月、光悦は80歳の生涯をこの地で終えているのです。

 光悦は、徳川家康から裁判権や年貢徴収の権利まで与えられたが、

領主としての支配権には余り関心を持たなかったようで、

そのため光悦の死後、

領地を接する鹿苑寺 ( 金閣寺 )との間で境界紛争が起こったり、

百姓との間に領有権争いを引き起こすことになる。

その結果、

天和元年 ( 1681 )、光悦町は幕府の直轄領に収公され、

鷹ヶ峯村の一部となってしまった。

現在の鷹ヶ峰は、

かっての本阿弥家の位牌所のあった光悦寺、

岩戸妙見と呼ばれる円成寺、

六条三筋町の花魁吉野太夫の墓がある常照寺など、

かっての法華宗寺院が残るばかりで、

芸術村の面影はない。

しかし、

かってと同じ町筋が残されていて、

街道筋らしい風情を漂わせています。

 

今回はここまで・・   

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エイプリルフール

2012年04月01日 | オヤジのひとり言

4/1 

エイプリルフールですが・・

気の効いたジョークが見当たりません

・震災と政治の混乱とダメ虎の 所為でしょうか???

 

千年の古都のタイムトンネル

京都の歴史 その403

この鷹ヶ峰の地は、「 長坂越え 」といい、

京都から丹波山国へ抜ける街道筋にあたるところで、

京口から来る南北の通りが東西の通りとぶつかる

T字路状の街並みに、

光悦を中心に養子の光瑳、弟の宗知、

本阿弥本家の光栄、光益などの本阿弥一族をはじめ、

蒔絵師の土田了左衛門、土田宗沢、紙屋妙喜、

それに尾形光琳・乾山兄弟の祖父・尾形宗柏、

豪商の茶屋四郎次郎などの屋敷が55軒ほども建ち並んでいた。

当時一流の芸術家の屋敷が揃っていたので、町の人は芸術村とも、

しかし、彼らは同じ熱心な法華宗の門徒で、

幾つかの法華宗寺院を核とした宗教集団の町

と言うようなものだったようです。

 

今回はここまで・・   

続きは次回に・・    

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