波佐見の狆

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中浦ジュリアンのこと(郷土史再発見)

2014-09-10 14:42:02 | 平清盛ほか歴史関連

『軍師官兵衛』36回・・

遂に秀吉が「伴天連追放令」を出し、キリシタン迫害が進んでいきます。

キリシタン大名のリーダー的存在であった高山右近は、主君より信仰を選び、マニラに追放されてそこで死去。そして、官兵衛は、信仰より主君を選んで、心の奥底はともかくも公的には棄教・・平たく言えばそういうことになるかと思いますが、いろんな状況を考えた結果、入信後わずか7年で棄教せざるを得ず、「私は弱い人間です。」と自分を責める官兵衛。すると右近が「人にはそれぞれ、デウスから与えられた使命というものがあります。それを全うして下さい。」と励ましたのが、大変感動的でした。あなたはそれでいいのです、軍師として戦乱の世を終わらせるのが使命だから、その道を生き抜きなさい、という意味ですよね。

私自身は、クリスチャンでもないし、ブログ上で、宗教という極めてプライベートな問題を談じるのが目的ではないのですが、ただ、長崎は、苦難のキリシタン弾圧の歴史とともに歩んできましたから、長崎人として、そのあたりのことをちゃんと知っておきたいと思いまして、調べたり本を読んだりしているので、感じたことをお話ししたいと思います。

とりわけ、この本は衝撃でした。

西海の聖者 小説 中浦ジュリアン』 (濱口賢治 葦書房 1998年) 

 

中浦ジュリアン

16世紀半ば(戦国時代)に、肥前国中浦(現在の長崎県西海市西海町中浦南郷)の領主の子として生まれる。10歳頃にキリスト教に入信し、大村藩主で日本初のキリシタン大名であった大村純忠に仕えました。

14歳頃、「天正遣欧少年使節」の一人としてローマへ赴き教皇に謁見。22歳ころ帰国し、イエズス会員となり精力的に布教活動を行うのですが、帰国後の日本は急速にキリシタン弾圧へと向かっており、他の司祭や宣教師らが次々と死亡したり棄教したりするなか、一人潜伏しながら九州各地を20年にわたって回り、迫害下の貧しい信者たちの心の支えとなります。1633年に遂に小倉で捕らえられ、長崎の西坂にて「穴吊りの刑」に処せられ殉教。没年65歳。2007年に法王庁により福者に列せられる(こちらのニュース)。

天正遣欧少年使節団が長崎港を出港したのは、1582年2月。信長の全盛期で、本能寺の変の4か月前だったのです。

織田信長は、平清盛と同じように、進取の気性に富み、異国との交易に積極的だったため宣教師たちの布教活動も保護したので(注1)、天正遣欧少年使節というのは、そういうイケイケムードの中で、日本国の未来のため、大いなる希望を持って実行された一大プロジェクトだったわけです。8年以上もの途方もない年月を費やして苦しい航海をして立派に勤めを果たし、ようやく帰国してみれば、権力者が交代しており、悲劇の生涯が待っていたのです・・・。

私が、天正遣欧少年使節、とりわけ、中浦ジュリアンに思いを馳せてしまうのは、実は8月に帰省したおり、思いがけなく、ジュリアンゆかりの地を訪れたからです

義父の一周忌を無事終え、義兄の家族らと、近隣のリゾートホテルのカフェでお茶を飲もうということになり、車で出かけたのですが、道すがら「中浦記念公園」という標識がふと目に留まり、その瞬間、中浦とはあの少年使節の中浦ジュリアンのことでは?!という思いがよぎりました。それで、カフェから帰る途中に夫と一緒に立ち寄ってみたのです。そここそが、西海市西海町中浦南郷、すなわちジュリアン生誕の地であったのです。つまり、中浦ジュリアンは、夫の郷里(同じ市内の隣町になりますが)で生まれていたのですね・・・!

何の変哲もないのどかな田舎の畑の脇道に、「公園」と呼ぶには、あまりに小さいのですが、不思議な神々しい雰囲気の一画がありました。

無人の資料館の中に入ってみると・・・ジュリアン直筆のポルトガル語の手紙や、年表などが展示されており、壁にはジュリアンの生涯を描いた美しい壁画が。

殉教のシーンです。この「穴吊り」については後述します。

 

資料館の屋上からは、五島灘が一望できるのですが、そこにブロンズ像のジュリアン少年が立っています。手を挙げて指さしているのは、遥か彼方のローマの方角だそうです。まさにこの地から、彼の大きな志が起こったのだなと思うと、胸が熱くなりました。

こちらに、もっときれいな写真と説明があります)

そのリゾートホテルへの道は、今までだって、何度か通っていて、「中浦記念公園」の標識はその度に目にはいっていたはずですが・・・今までは全く気にも留めていなかったのです。なのに今回は、まるでジュリアン様から呼ばれたかのように、ぐいっと心引かれるものがありました。

帰省から戻って、「小説中浦ジュリアン」を入手して、一気に読みました

中浦ジュリアンという人の人物像が深く掘り下げられ、彼の心の奥底まで美しい文章で綴られているのはもちろんのこと、時代背景や当地の情勢についても大変詳しく、私にとっては、驚きの事実がいっぱいでした

ジュリアンは洗礼名ですので、もともとの名前は「小佐々甚五」といいました。

小佐々氏は、南蛮との交易で大変栄えた裕福な戦国領主で、強大な水軍を有して五島灘海域を広く統治していました。甚五は、城主の後継ぎとして大切に育てられていましたから、キリシタンにさえならなかったら・・・いえ、なったとしても、無難に跡継ぎとなりキリシタン大名として地元に君臨し続けていたなら、裕福で穏やかな一生だったでしょう。少なくとも、あそこまで過酷な茨の道を歩むことはなかっただろうと思うのです。

後継ぎとはならず、イエズス会の修道士、さらに司祭となって、彼が生涯の信念としたのは、貧しい民の心に寄り添うということでした。秀吉の理不尽な圧政下で苦しい生活を余儀なくされていた農民たち(注2)の声を聴き、そんな不平等、不公平に泣く哀れな民のためにこそ、神の愛、キリストの教えがあるのだと信じて、自らの身の危険も顧みず、九州各地の農村を精力的に回ったのでした。

また、日本の民の魂を救うには、通訳を通してポルトガル人宣教師の言葉を聞かせるのではなく、同じ日本の魂をもつ者が日本語で語らねば、神とキリストの真の教えを伝えることはできないと考えたからでもありました(農民たちの苦しみ悩みを聞いてあげるにしても、彼らの強い方言ゆえに、通訳がうまく機能しないという問題もあった模様です。)

ジュリアンとともにローマへ行った千々石ミゲルが、早々と棄教し、ポルトガルによるキリスト教の日本布教は宗教を掲げた侵略行為だと、公然と言ったときも、ジュリアンは反論しました。侵略なんて、棄教を正当化する詭弁だ。もし仮にポルトガルにそんな意図があったとしても、それならなおのこと、日本人宣教師らが、本来の真正で普遍的な神の愛・キリストの愛を説いて回らねばならないのではないか・・・と。そして日本人神父として自分がたった一人になってしまっても、命の限り闘い抜くと決意するのでした。

百姓や僧侶などの姿に変装するなどして、地に這うような潜伏活動、いわる隠れ布教を20年間も続けたジュリアンは、ついに小倉で捕えられるのですが(注3)、その場面はこうです。貧しい童子が、いじめられた挙句川で溺れそうになっているところを通りかかるのですが、そばに役人がいるのを察知して、一瞬草むらに隠れます。しかし、「目の前の童子一人の命を救えずして、何が神の愛か!何が義に生きることか!」と思って結局僧衣を脱ぎ捨てて川に飛び込み子供を助け、潔く連行される・・・。なんともジュリアンらしい終焉でした。

小説だからかなり脚色あり、といってしまえばそれまでですが、膨大な史料に基づき(注4)、優れた作家により生き生きと綴られているジュリアン像ですし、彼の生涯の軌跡を考えれば、おそらくこのようなことがあったのでは、と思わずにはいられません。

小倉からすぐに長崎に送られ、さらに1年も投獄されて執拗に棄教を迫られてもなお、穏やかに笑みを浮かべ拒否し続けたジュリアンは、望んでいた十字架による磔刑ではなく、「穴吊り」という、きわめて惨めな方法で処刑されることになりました。これは、体を縄できつく縛り、汚物などを入れて異臭をきつくした穴に宙吊りにして放置するのですが、その際できるだけ苦痛が長引いてなかなか死ねないように処置をします(頭部に溜まる全身の血が少しずつ体外に出るように、耳たぶなどに穴をあける。その方が死ににくい)。ジュリアンは、65歳の老体でこの酷い拷問に3日間も耐え抜いて、立派な殉教を遂げました。

冒頭にも書きましたように、この記事の目的は、特定の宗教指導者の生涯を讃えることではないのです。ただ・・・現代ではよくも悪くも長閑な田舎(ひなびた僻地!失礼!)にすぎない、私ら夫婦の故郷西海市が、450年も昔は、立派な戦国領主のもとで大変繁栄し、その由緒ある血筋の城主の子が、崇高な志をもって信仰と、義と、愛を貫き、日本人の魂救済のため命を捧げた・・・ということを初めて知り大変感動したので、語りたくなりました。郷土の歴史再発見、しかも大発見というところでしょうか。

さらに、遠藤周作の『沈黙』との関連など、もっと書きたいことはあるのですが、果てしなく長くなるので、本日はここまで。

お時間割いて読んでくださってありがとうございました。

注1)     いわゆる源平交代思想というやつで、織田は平家の流れをくむと言われています。真偽のほどは別として、信長に、清盛のような、異国への強い思いがあったのは確かなようですね。

注2)     秀吉の朝鮮の役のために、夫や兄弟が雑兵として駆り出され、年貢は苦しく、農民たちの生活はどん底だったのです。

注3)     当初、外国人宣教師らと一緒に回っていたのですが、彼らはその背丈や容貌ゆえに人目を引きやすいため、探索が厳しくなると、ジュリアンが一人で信徒のところを回らざるをえなくなりました。50代、60代で、徒歩でどこまでも出かけていき、大変強靭な体力だったようです。

注4)     小佐々一族に関する史料や系譜は、江戸幕府下で闇に葬られていたのですが、近年になって直系の子孫の方が発掘と調査研究を進められました。その成果と、ローマのイエズス会に保存されているジュリアンに関する宣教師たちの記録などをもとに、初めて解明されたジュリアン像が、この本なのです。著者の濱口賢治氏も、西海市出身の方です。素晴らしい本を書いてくださったことに感謝です。

追記) こちらの、「羊たちのためにいのちを差し出す」というカトリック新聞の記事にも、ジュリアンがなぜそうまでして潜伏活動を続けたのか、ということについて書かれています。