くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

バラク・オバマの政治指導者としての限界: マンデラの葬儀で露呈した人格的欠損

2013年12月11日 | Weblog
ジミー・カーター二の舞にならなければ良いがと思ってから、既に5年。

歴史は単純には繰り返すものではないが、オバマはカーターに類似の体たらくを演じつつある。

経験不足。2004年夏の民主党全国大会の冒頭に文字通り”彗星のごとく”登場し、衆目を引いたオバマは、その年の11月イリノイ州から上院に初当選した。そしてその後わずか4年でホワイトハウス入りを果たした。

さかのぼって1977年、ジョージア州知事の経験はあっても国政経験のないジミーカーターが民主党から大統領に当選した。

が、両者ともの、早晩国政における経験不足を露呈し、失策を演じることとなる。

大統領自身に経験が乏しくとも、周囲のスタッフや閣僚にしっかりと支えられればよいが、カーターはDCでの人脈作りと官僚群の掌握を欠き、それが内外政策に影響を与えたとの見方もある。

オバマがDCにおける諸勢力、人脈とどこまでつながり、自らの権力の糧となし得ているか、私は知るすべを持たないが、カーターと似たような状況にあるのではないかと推察する。

政治指導者は、政治家、政策決定者としての能力の有無を当然のことながら問わることになるが、同時にその人となり、人格もまた重要な資質の一つとなる。田中角栄が官僚をコントロールできた要因の一つに、彼の人としての魅力があったといわれるが、その魅力の源泉の一部は彼が見せる情味であった。苦労人だけあって、人情の機微に通じていたということであろう。一方、政策通と言われながら角栄の配下にあった橋本竜太郎は情味を欠いていたし、それを思わせる彼の物言い、立ち居振る舞いが、しばしば映像メディアを通して衆目に晒された。エリート官僚出の政治家が人情の機微に欠けるとしばしば指摘されるのと同様、育ちの良さ、エリートはエリートなりの常人には知る由もない苦労があるのであろうが、逆に庶民が味わう苦労に疎いということではないのか。「貴人情けを知らず」ともいう。池田隼人がしばしば放言して物議をかもしたのも、彼が乳母日傘で育ったがゆえではなかろうか。

オバマにも人間的な淡白さを感じるのは私だけであろうか。人種的な中途半端さゆえの疎外、家庭的には両親の離婚や父親との離別、なさぬ仲の父親との同居など、彼なりに人知れぬ苦労をしてきたに違いない。が、家庭的な不運、肉親との縁の薄さが彼の人格に何らかの欠損を生じたとしても不思議ではあるまい。
家庭経験ゆえに常人のもつ情を持ち合わせない人を一人ならず見たことがある。オバマは、ビジネスライクでドライな人だという。そして今回、彼はネルソン・マンデラの葬儀において失態を演じた。常識的にみて「あり得ない」失態だ。政治家として思慮を欠いたという以前に、人としてダメだ。葬儀・追悼の場で他の首脳と笑いながら自分たちの写真を撮る。まったくあり得ない話だ。

We can changeと高らかにうたいながら大統領の地位に上り詰めたオバマだが、今彼は問われねばなるまい

Can you change (yourself)?と。

そして、望むらくは我々はこう答えたいものだ、Yes, you can changeと。

もう政治家、大統領としては、二期目の中間選挙を待たずにレームダック化しつつあるとの指摘もあるくらいだから、changeできないかもしれないが、せめて、人として自らをchangeして欲しいものである。彼は、政治家、大統領であると同時に(以前に、か?)、夫であり二人の子の親なのだから。想像してみるといい、父親が人の葬儀で笑いながら写真を撮る”醜態”を見て、子供は何を感じるだろうかと? 蛙の子は蛙。そうかもしれない。が、親をわが子の反面教師にもなりえる。

オバマ大統領、大いに恥じてください。よもや帰国後見苦しい弁明を試みる、などということはありますまい?
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