くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

「文化勲章」に見る我が国の情けなさ

2010年11月05日 | Weblog
ノーベル賞やレジオンドヌール勲章をもらっておきながら文化勲章を拒否した大作家先生がいた。確か「民主主義以外の権威を認めず」とかほざいたはずである。

この御仁は、「あいまいな日本人」とか題して講演も行ったが、何事につけ「あいまいな言い回し」をすることを得意としている。沖縄集団自決の一件をめぐって明らかなように、言い逃れることもさすがノーベル文学賞受賞者だけあって巧みなことこのうえない。おそらく「あいまい」な言い回しをするのも、予想されうる批判をかわそうとのもくろみなのであろう。もしかしたら、同時に「あいまい」な言い回しを用いて他人の知恵の程を試すことに快感を覚える類の人間なのかもしれない。まあ、そういう輩はインテリと呼ばれる連中には決して少なくない。だが、うがってみれば、自分自身に何らかの権威性を認めているからこそ、人を試すような、人に理解してもらうために意を尽くさない傲慢な態度を取るのではとも思えてしまう。

文化勲章の拒否は、さすがに巷間「左巻き」文化人の一人と目され、保守層からは終生叩かれ、晩年にはその言行不一致で嘲笑の対象にすらなることもあった筑紫某ですらも、批判したほどで、確かに「国王」という権威手ずからノーベル賞を頂戴しておいて、「天皇」を通していただくことは忌避するとは、どう考えても「民主主義以外の・・」云々をそのまま真に受けるわけにはいかない。筑紫某の指摘の通り左翼体質は間違いなかろうが、それが他国の「君主」には向けられないということは、対日限定左翼なのかもしれない。

まあ、そんな胡散臭いのはさておき、ノーベル賞受賞者に対して後追いのように文化勲章を授与するのが、わが国の慣例であり、今回もその通りとなった。

が、なぜ、そうなのか?

我が国は国家として、ノーベル賞の文化勲章に対する優越した権威性を認めるということなのか。

もしそうだとしたら、実に情けないことであり、いまだ明治維新以来の欧米文化への優越者に対するような憧憬、翻って自己卑下のような感情が我が国の枢要に存在するということなのか?

それとも、「今更ノーベル賞の後追いは・・」と疑問を感じながらも、慣例、前例を重んじる「官」はそれを変えることができないということなのか。

そもそも、わが国はノーベル賞に騒ぎ過ぎではないのか。何もノーベル賞を真っ向から否定しようなんていうつもりはないが、所詮人が選ぶものだけあって、そこに人の「感情」が介入することは当然あり得るし、実際にあった、いや今でもあると指摘する声を個人的にも聞いたことがある。

湯川以前に日本人受賞者が複数出ていてもおかしくなかった。そのうちの一人については、ノーベル財団自身、選考しなかったことを誤りと認めていると、米国人のノーベル賞研究者から聞いたことがある。同研究者は、その背後に人種偏見があったとも。

では、今はないのか? もうないと言い切れるのか?

ノーベル賞の選考過程での推薦制度にも問題があるとの指摘もある。そこに情実が入り込み、その結果ハーバードコネクションが
有利になるとの指摘もある。

以前、もう20年近くあるいは以上前と記憶するがノーベル財団への取材をTVで見たことがあるが、同図書館が所蔵する日本語書籍に安部公房のものが多かったことを記憶している。安部が早世せずば、もしかしたら日本人二人目の文学賞受賞者になっていたのかもしれないが、安部の文学作品に関しては、我が国内では賛否両論あり、なぜ財団が安部を選択したのか、そこに財団の主観や好みが介在していたとしたら、それと賞の専攻が無関係とどうして言えるだろうか。

ノーベル賞受賞は確かに容易なことではない。これは間違いないと思う。

しかしながら、一つの国家が自国の勲章を事実上他国のものの「下位」に位置付けるような行為は、慎むべきではないかと思うが、そこに疑問を呈さない我が国の政治家、マスコミ、世論もこれまたなんともはや・・・。
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1 コメント

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大江健三郎については (箕輪伝蔵)
2010-11-06 00:20:12
 まったく同感です。息子をつれての授賞式も、その後の講演会に息子を連れていき、CDを売る行為も軽蔑すべき行為だと、私は思っています。
 ノーベル賞についての評価はもっと多様であるべきで、何人とったか、とるようにするか、なんて論争はいかがなものかと思いますし、理科離れを嘆く連中の底の浅さが見えると私は思えてなりません。
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