現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

どうかしてると思うけれど

2015-06-09 | Weblog

いろいろな思いが浮き上がるが、なんか一向に自分の中で盛り上がらな気分が続いている。

よく政治家は国会の場で論議を尽くすとか最初は言うけれど、いざ国会の答弁を聞くと、とくに与党サイドの回答の内容は、どんな質問が来ようが、法律で文書化した以外にほとんど目新しい回答の答弁は出てこない。それを論戦だとか、議論を尽くすだとか言うのだろうか?

武器の使用はあ、武力行使でない。武力の武という漢字の意味は、武器類を使ってのという総称じゃないの? 武器は使用するが、相手にも当たらないように傷を負わさないよう、もちろんこちらは上手く交わして、双方被害がでないようなことができるかのような、まるでスーパーマン自衛隊でないと応戦できない。応戦はしても、交戦ではない。戦闘状態でもない。平たく言うと、戦いではないという。相手も同じ気持ちを持ってくれていれば、それでいいのだろうが。スポーツの格闘技でも、けがは付き物。まして飛び道具を使えば、命を落とすこともあり得るだろう。米国で、犠牲者は出ないようになんて言ったら、逆に『おまえはアホか』となるであろう。危険な状態にあり、死者がでるという事態も覚悟しなければならないぐらいのことを、はっきりと言いたところで、誰もそれを否定することなどできやしないだろう。

はたまた、まだ言ってる。周辺とは近くとは限らないと。子供たちに東京の周辺として、北海度も沖縄も九州もと教える大人はいないだろう。周辺と言えば、せいぜい関東程度に収まるだろう。日本に影響を及ぼすであろう、せべての地域といえばいいものを、地理的概念でない周辺なるものを、わざわざ新しく創りだす必要もなかろうに。

こんな思いを抱きつつも、なんか、ほんまにええかげんにせんかい、というものが湧いてきて、それが自身の心を折れさせるぐらいに呆れかえっているのが実状だ。

ラジオの放送大学で、大阪のある小学校で、子供に協力の力を養成したり、問題解決能力を5年6年では、養う取り組みが行われて、ホットなんとかという、大学の先生と協力をしてカリキュラムをこさえたらしいが、確かに、今は放課後の遊び場もなく、みんな塾や習い事で、また例のメールやラインで、人間関係づくりがへたくそになっていることはわかるけれど、確かに先生がた熱心に、一生懸命取り組まれていることは認めますが、なんか面倒くさいというか、子供の喧嘩やいじめに対して、話をきいてあげることは大切なのだが、そんなきれいごとではアカンやろと思う反面もある。ようは、もっとぶつかりあって、そのまさに擦れによって、実際は力がいくのとちゃうんかいと、言いたいぐらいだった。その先生はすごく一生懸命な先生なんだろうけれど、なんか理屈くさいところを感じてしまったのも事実だ。