庄助さん

浮いた瓢箪流れのままに‥、日々流転。

鮨 素十 (9)

2008-03-14 22:59:18 | 小説
 親仁は、客のそんな様子を先刻承知していた。鮨を握ったり、お造りを調理したりと忙しい親仁であるが、どんなに忙しくても店に来た客の一人一人についてその時々の状況を確実に把握し、客が今求めているものは何なのか認識しているのである。そして、客の求めに応じた対応を親仁は何気なく、さらっと実行するのである。その意味で、親仁は料理人であるとともにギャルソンの役目も果たしているともいえる。今日もそのような対応で客を迎えていた。 
 親仁はこんな客が来ると、必要最低限の言葉以外余計な話しかけはしない。勿論それは客の気持ちを慮ってのことである。そして、客への対応はさりげなく、それでいて親仁の心遣いが伝わるものであった。
 暫くすると客が右手で徳利をちょっと持ち上げた。親仁はそれを見ると軽く頷き、別の徳利に酒を入れお燗した。
 新しい酒の燗がつくまでの僅かな間、客の口が開いた。
「旨い鯵だな--」
 その一言に親仁の顔がほころんだ。
「そうだな--」
「何処の鯵だ、これは」、客が尋ねると、
「相模湾のものだ。九州産のものと比べるとやや味はおちるけど、新鮮さは抜群だな」
親仁もそう言ってひとこと言葉を返すと、カウンターの上を台拭きで撫で,燗のついた新しい酒を置いた。
「忙しそうだなぁー」、親仁は客の手を見ながらそれとなく声をかけた。
「ああー」、客は自分の手を見て頷きながら応えた。
店には、隅のテーブルで上がりのお茶を飲んでいる客以外、もう誰もいなかった。
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