庄助さん

浮いた瓢箪流れのままに‥、日々流転。

鮨 素十 (8)

2008-03-07 18:42:06 | 小説
 あれは何時のことだったか忘れたが、閉店近くになって仕事帰りの中年の客が親仁の店にやって来たことがあった。時々この店に来る馴染みの客の一人である。
 残業を終え、作業着からすでに通勤の身なりに着替えているとはいえ、ついさっきまで工場の中で作業をしていた様子がよく見て取れる。とりわけこの日はひどく疲れた様子であった。客は店に入るなり、親仁に
「いつもの」、と一言いったきりカウンターの前の椅子にゆっくりと身を置いた。
 客は余程疲れていたとみえ、椅子に座るなり暫くはぼやーとしていて放心状態であった。そのうち親仁が差し出した手拭タオルを手に取ると、徐に顔を拭き手を入念に擦った。手拭タオルにははっきりとした汚れがついていた。
 客は顔を拭き終わって正気に戻ったのか、ほっとした表情に戻りお茶を口にした。まもなくすると親仁がお燗した日本酒を持ってきた。客の前に徳利を置くと、そそくさと鯵のお造りの調理に取りかかった。今日は活きのいい鯵が大量に水揚げされ、市場での卸し値も安かったという。こんなとき親仁はいつもより多くの魚を仕入れる。
 確かに魚の活きはよい。親仁は安くて活きのよい魚を客に出すのが仕事の遣り甲斐の一つだった。そんなときは、親仁の顔が何がしか得意そうな顔をしているようにも見えた。
 お造りを出すのに、さほど時間はかからなかった。
「へい、お待ち」、と一言いって鯵のお造りを客の前に出した。
 鯵の背の部分の青色が鮮やかであった。腹の部分の銀色に輝く様は、また見事であった。それに、何よりも、お造りであるにもかかわらず盛りがいい。
 客は、醤油を小皿に注ぐと、生姜おろしをたっぷりと入れ、箸でしっかりと挟んだ鯵を無造作に醤油につけ、一気に口に運んだ。しばらく口の中で味を確かめた後、首を二、三回たてに振り頷くと笑みを浮かべた。新鮮な鯵のお造りに満足したのか、その後お猪口の酒を一気に飲み干した。客は飲み干した杯を左手に持ったままカウンターの上にひじを突くと、静かに目を閉じた。
 酒好きの人間でなくともその光景から感じ取れるものが何か分かるような気がした。
コメント
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