和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

小説「新・人間革命」

2015年09月18日 07時54分40秒 | 今日の俳句


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月17日(木)より転載】

【勝利島49】

 小笠原の同志の活躍は、東京に戻った離島本部の幹部から、詳細に、会長の山本伸一に伝えられた。伸一は、その様子を深く心に刻み、小笠原をはじめ、離島で奮闘する同志のために、ひたすら題目を送り続けた。
 大ブロック結成の翌一九七五年(昭和五十年)夏、伸一の三男で高校生の弘高が、星の観察などのために、友人と一緒に小笠原を訪れた。
 彼は、父島の学会員と交流し、以来、数年にわたって、小笠原へ足を運んだ。
 伸一は、弘高に言った。
 「小笠原は遠く離れているが、そこにも広宣流布のために必死になって活動している学会員がいる。尊いことだ。島の方々に、『くれぐれもよろしく』と、お伝えしてほしい」
 弘高は、伸一から託された記念の色紙などを携えて海を渡り、島の同志に届けたこともあった。大ブロック長・担当員の浅池隆夫・栄美夫妻の家で行われた座談会にも出席した。
 小笠原には、第一回離島本部総会直前の七八年(同五十三年)八月、支部が誕生する。
 また、後年、小笠原を含めた「伊豆諸島兄弟会」(当初は伊豆七島兄弟会)が結成される。弘高は、その名誉委員長として各島々の同志を励まし続けていくことになる。
  
 一九七四年(昭和四十九年)の離島本部の結成後、各島の学会員は、島の繁栄と人びとの幸福を願って広布の活動に励むとともに、地域貢献に一段と力を注いだ。
 伸一は、島での活動の在り方について、常々、こう訴えてきた。
 「学会員は、島の人びとと、どこまでも仲良く協力し合って進んでいくんです。また、島にとって何が必要かを考え、率先して島のために行動していくことが大事です。それぞれの島で、皆さんが人びとに心から信頼され、尊敬されていくことが、そのまま広宣流布の広がりになるんです」
 “わが島に広布のモデルを”“この島こそ常寂光土なり”と、同志は誓い合った。






   

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