【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月15日(火)より転載】
【勝利島46】
一九六八年(昭和四十三年)六月、小笠原諸島は日本に返還される。しかし、翌年の春、勝田喜郎の父親は他界した。
勝田は、大阪で会社勤めをしていたが、〝自分だけでも母島に帰って農業をし、父との約束を果たすべきではないか〟との思いが、日を追うごとに強くなっていった。
勝田の先祖は一八七九年(明治十二年)に小笠原の母島に定住した最初期の一家であった。彼は、亡き父親が大事に持っていた、勝田家の「総括録」と題した綴りを目にしてきた。移住二代目にあたる祖父が記していたものだ。そこには、想像を絶する開拓の苦闘と気概が綴られていた。
自分の体に、その開拓者の血が流れていることに、彼は誇りを感じた。
〝よし、帰ろう! 先祖が心血を注いで開いた母島の土地を守ろう! そして、島の広宣流布に生き抜こう!〟
彼には、農業の経験は全くなかった。しかし、〝信心で、どんな苦労も乗り越えてみせるぞ!〟という意気込みがあった。
勝田は、一年間、横浜で農業研修を受け、一九七一年(昭和四十六年)秋、農業移住者六世帯のうちの一人として母島に渡った。一般の人たちの本格的な母島帰還よりも、二年ほど早かった。
二十七年間、無人島状態であった母島は、島全体がジャングルさながらであった。勝田は父島で材木を調達し、自分で家を建てることから始めた。出来上がった家は、六畳一間で、ランプ生活である。
畑作りのため、開墾作業に励んだ。慣れぬ労作業に体は悲鳴をあげた。しかし、飢えに苛まれ、密林を切り開いてきた先祖の、厳しい開拓生活を思い起こしながら唱題した。
〝これを乗り越えてこそ、母島広布の道が一歩開かれる! 負けるものか!〟
勇気が湧いた。
広宣流布の使命に立つ時、わが生命の大地から無限の力が湧き起こる。地涌の菩薩の大生命がほとばしるのだ。
学会員のなかには、日本最南端の漁業無線局の局長もおり、多彩な人材がいた。
島には、次第に観光客も増えていった。それにともない、ゴミが無造作に捨てられるなど、自然環境の破壊も進み始めた。
島の未来を憂慮した学会員の有志が中心となって、「小笠原の自然を守る会」を結成。ゴミ拾いや自然保護のための運動を開始した。
また、母島の広宣流布を担ってきた一人に勝田喜郎がいた。母島生まれの彼は、二歳の時、家族と共に強制疎開の船に乗る。移り住んだ八丈島で一家は入会。彼の父親は、母島に帰ることを夢見て生きてきた。喜郎は父と、「小笠原が返還されたら一緒に母島へ帰り、農業をしよう」と約束していた。
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