和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

小説「新・人間革命」

2015年08月29日 20時18分14秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月29日(土)より転載】

【勝利島34】

 多かれ少なかれ、どの島でも、村八分などの厳しい迫害の歴史があった。そのなかで、学会員は、御本尊を根本に、御書、機関紙誌と、同志の励ましを支えに耐え抜き、試練を勝ち越え、幸の花々を咲かせてきたのだ。
 山本伸一は、島の広布開拓にいそしむ人たちの激励には、ことのほか力を注いできた。
 一九五八年(昭和三十三年)四月、第二代会長・戸田城聖が世を去り、六月末に総務として、事実上、学会の一切を担うことになった伸一は、七月には佐渡島を訪問している。
 恩師亡きあと、悲しみに沈む島の同志を励ましたかったのだ。発迹顕本された日蓮大聖人が、御本仏として新しき闘争を起こされた佐渡で戦う勇者と共に、新しき希望の前進を開始しようと、心に決めていたのである。
 六〇年(同三十五年)五月三日、彼は第三代会長に就任すると、七月には、沖縄支部を結成し、琉球諸島の同志を励ますために、沖縄を訪れた。また、世界への平和旅の第一歩を印し、海外初の地区を結成したのは、ハワイ・オアフ島のホノルルであった。東洋広布への起点としたのも、香港である。
 国内では、徳之島、奄美大島も訪れた。この時、奄美総支部が結成されたのである。
 各方面を訪問した折には、離島から来た友がいると聞けば、会って懇談し、和歌などを揮毫した書籍を贈るなど、渾身の激励を心がけてきた。離島で広宣流布の道を切り開いていくことが、いかに大変であるかを、彼は、よく知っていたからである。
 常に、最も苦闘している人たちの幸せを願い、心を砕き、光を当て、最大の励ましを送る。それが創価のリーダーの生き方であり、そこにこそ仏法の人間主義の実践がある。
 六四年(同三十九年)九月下旬、台風二十号が日本列島を襲い、各地で猛威を振るった。なかでも、鹿児島県の種子島、屋久島に甚大な被害をもたらしたのである。
 種子島では、いたるところで家屋が倒壊するなどの事態となった。また、屋久島では、最大瞬間風速六八・五メートルを記録している。

     



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