◇冴返る/今日の俳句◇
◇※第1187号※◇
2013年(平成25年)2月7日(木)
■
※今日の記念日※
■ 2月7日
北方領土の日。
日本政府が1981(昭和56)年に制定。
1854(安政元)年12月21日(新暦1855年2月7日)、日露和親条約が締結され、北方領土が日本の領土として認められた。
北方領土は択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島からなり、面積は4996平方kmで沖縄の2倍強ある。
江戸時代から日本は北方領土の開発・経営をしていた。
「日露通好条約」により、ロシアとの国境が択捉島とウルップ島との間に確定された。
その後、1875(明治8)年の「樺太千島交換条約」によって樺太全島を放棄する代わりに千島列島全てが日本領となり、1905(明治38)年の日露戦争の勝利により、「ポーツマス条約」で南樺太も日本領となった。
第2次大戦の敗戦により、1951(昭和26年)の「サンフランシスコ平和条約」で、日本が戦争によって奪った土地の権利・権原等は放棄することとなり、千島列島もその中に含まれた。
しかし、北方領土は戦争によって獲得した土地ではなく、権限を放棄する千島列島には含まれないが、ソ連は千島列島の一部であるとして北方領土を占領し、その状態が現在まで続いている。
■ フナの日
茨城県古河市の古河鮒甘露煮組合が2001(平成13)年に制定。
「ふ(2)な(7)」の語呂合せ。
2000(平成12)年に11月27日に「いい鮒の日」として制定したが、翌年から2月7日に変更された。
■ 瓜人忌。
俳人・相生垣瓜人 の1985(昭和60)年の忌日。
※ 兵庫県高砂町(現、高砂市)生まれ。
1920年、東京美術学校の製版科を卒業する。
その同年に、浜松工業学校(現在の静岡県立浜松工業高等学校)に赴任し、その図案科教員となる。
その傍ら、俳句活動に熱を入れ、1928年には「ホトトギス」に、1930年には「馬酔木」に投句活動を行う。
1933年には水原秋桜子に従って、「馬酔木」の同人となるも秋桜子の脱退に伴い、それを共にす。
戦時中は投句活動を中断していたが、戦後の1947年には俳誌「あやめ」に投稿、またその翌年の1948年に再び「馬酔木」へ投句を行う。
1950年には「あやめ」を「海坂」に改題し、百合山羽公と共に撰者として活躍する。
1949年には浜松放送局聴取者文芸俳句撰者に抜擢される。
1976年には句集『明治草』などが評価され、第十回蛇笏賞を受賞する。
1985年、風邪から心筋梗塞を併発し、意識を失ったまま永眠する。享年86。
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
■
■※今日の俳句※■
冴返る午前三時の梁の音
長谷川通子
壁を貼る手さばき密に冴返る
相沢有理子
冴返るひときわ白いねこの耳
わたなべじゅんこ
【季語・解説】
※ 冴返る・凍(いて)返る・寒戻る。
春になって一度ゆるんだ寒気が、ふたたびぶり返すことをいう。
春の初めは寒暖を繰り返しつつ徐々に暖かくなってゆく。
「冴ゆ」は冬の季語で、「冴返る」は冬と春の季節の鬩ぎ合いを表わしている。
しかし冴返った日のあとの暖かさはまた格別で、春の歓びが実感できる。
【「新版・俳句歳時記/第四版/監修・桂信子ほか」(雄山閣)より転載】
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
※わが友に贈る/寸鉄※
【「聖教新聞」2013年(平成25年)2月7日(木)より転載】
■
※わが友に贈る※
■
躍進の未来部大会へ
壮婦男女が一体となって
宝の友を励まそう!
受験生への激励・配慮も。
全員が使命の大人材だ。
◇※2月7日※◇
■
◇※寸 鉄※◇
■
SGIは平和と共生を目指す善の心を拡大ー識者(ロシア)。人間が輝く新時代へ邁進
◇
統監部の皆様の功労に感謝!正確・緻密な推進ありて地域広布は更に伸展
◇
誓願とはなすべき事柄を何が何でも遂行することー偉人(ガンジー)。自他共の勝利へ
◇
注意一つで多くの事故は防げる。リーダーは祈り、会合での声掛け絶やすな
◇
花粉の飛散量、昨年の倍以上。早めの対策が効果的。マスク・服薬等賢く
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◇※第1187号※◇
2013年(平成25年)2月7日(木)
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※今日の記念日※
■ 2月7日
北方領土の日。
日本政府が1981(昭和56)年に制定。
1854(安政元)年12月21日(新暦1855年2月7日)、日露和親条約が締結され、北方領土が日本の領土として認められた。
北方領土は択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島からなり、面積は4996平方kmで沖縄の2倍強ある。
江戸時代から日本は北方領土の開発・経営をしていた。
「日露通好条約」により、ロシアとの国境が択捉島とウルップ島との間に確定された。
その後、1875(明治8)年の「樺太千島交換条約」によって樺太全島を放棄する代わりに千島列島全てが日本領となり、1905(明治38)年の日露戦争の勝利により、「ポーツマス条約」で南樺太も日本領となった。
第2次大戦の敗戦により、1951(昭和26年)の「サンフランシスコ平和条約」で、日本が戦争によって奪った土地の権利・権原等は放棄することとなり、千島列島もその中に含まれた。
しかし、北方領土は戦争によって獲得した土地ではなく、権限を放棄する千島列島には含まれないが、ソ連は千島列島の一部であるとして北方領土を占領し、その状態が現在まで続いている。
■ フナの日
茨城県古河市の古河鮒甘露煮組合が2001(平成13)年に制定。
「ふ(2)な(7)」の語呂合せ。
2000(平成12)年に11月27日に「いい鮒の日」として制定したが、翌年から2月7日に変更された。
■ 瓜人忌。
俳人・相生垣瓜人 の1985(昭和60)年の忌日。
※ 兵庫県高砂町(現、高砂市)生まれ。
1920年、東京美術学校の製版科を卒業する。
その同年に、浜松工業学校(現在の静岡県立浜松工業高等学校)に赴任し、その図案科教員となる。
その傍ら、俳句活動に熱を入れ、1928年には「ホトトギス」に、1930年には「馬酔木」に投句活動を行う。
1933年には水原秋桜子に従って、「馬酔木」の同人となるも秋桜子の脱退に伴い、それを共にす。
戦時中は投句活動を中断していたが、戦後の1947年には俳誌「あやめ」に投稿、またその翌年の1948年に再び「馬酔木」へ投句を行う。
1950年には「あやめ」を「海坂」に改題し、百合山羽公と共に撰者として活躍する。
1949年には浜松放送局聴取者文芸俳句撰者に抜擢される。
1976年には句集『明治草』などが評価され、第十回蛇笏賞を受賞する。
1985年、風邪から心筋梗塞を併発し、意識を失ったまま永眠する。享年86。
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
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■※今日の俳句※■
冴返る午前三時の梁の音
長谷川通子
壁を貼る手さばき密に冴返る
相沢有理子
冴返るひときわ白いねこの耳
わたなべじゅんこ
【季語・解説】
※ 冴返る・凍(いて)返る・寒戻る。
春になって一度ゆるんだ寒気が、ふたたびぶり返すことをいう。
春の初めは寒暖を繰り返しつつ徐々に暖かくなってゆく。
「冴ゆ」は冬の季語で、「冴返る」は冬と春の季節の鬩ぎ合いを表わしている。
しかし冴返った日のあとの暖かさはまた格別で、春の歓びが実感できる。
【「新版・俳句歳時記/第四版/監修・桂信子ほか」(雄山閣)より転載】
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※わが友に贈る/寸鉄※
【「聖教新聞」2013年(平成25年)2月7日(木)より転載】
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※わが友に贈る※
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躍進の未来部大会へ
壮婦男女が一体となって
宝の友を励まそう!
受験生への激励・配慮も。
全員が使命の大人材だ。
◇※2月7日※◇
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◇※寸 鉄※◇
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SGIは平和と共生を目指す善の心を拡大ー識者(ロシア)。人間が輝く新時代へ邁進
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統監部の皆様の功労に感謝!正確・緻密な推進ありて地域広布は更に伸展
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誓願とはなすべき事柄を何が何でも遂行することー偉人(ガンジー)。自他共の勝利へ
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注意一つで多くの事故は防げる。リーダーは祈り、会合での声掛け絶やすな
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花粉の飛散量、昨年の倍以上。早めの対策が効果的。マスク・服薬等賢く
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