和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

広宣譜49/小説「新・人間革命」

2015年01月19日 20時01分48秒 | 今日の俳句
「聖教新聞」 2015年(平成27年) 1月19日(月)より転載


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【広宣譜49】

 米子までの車中で、「四国の歌」の歌詞は出来上がった。山本伸一の一行が、米子文化会館に到着したのは午後四時半であった。

 伸一は峯子と共に、県幹部の案内で文化会館の構内を視察していった。数本の楠の前まで来た時、木にそれぞれ名前をつけてほしいと頼まれた。

 彼は、「右近楠」「左近楠」「牧口楠」「戸田楠」などと命名し、最後の一本の前に立つと、県幹部の顔を見て語った。

 「これは、『無名楠』とします。無名無冠の王者という意味ですが、次の会長が来た時に、名前をつけてもらうためでもあります」

 皆にとって、予期せぬ言葉ではあったが、誰も深くは考えなかった。“会長は、山本先生しかいない”と思っていたし、そうではない学会など、考えられなかったからである。

 伸一には、“広布の未来を展望し、しかるべき人材の流れができたならば、日本の創価学会の会長職は委ねて、自分は世界の広宣流布と平和のために、自由に、全力で走り回りたい”という強い思いがあった。

 伸一の胸には、恩師・戸田城聖が故郷・厚田村の海を見ながら、語った言葉がこだましていた。

 「君は、世界の広宣流布の道を開くんだ。構想だけは、ぼくが、つくっておこう。君が、それをすべて実現していくんだよ」「東洋に、そして、世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって……」

 御聖訓には、「日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」(御書五八九ページ)、「日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」(同)とある。

 伸一は、自身のその胸のうちを、何度か学会の首脳に打ち明けてきた。自分が会長を退いても、皆で責任を担い、日本の広宣流布の総仕上げをしてほしいとの思いからであった。彼は、世界広布の大空へ大きく飛翔する日を心に描きつつ、日本の組織を盤石なものとするために、全精魂を注いで各地を回っていたのである。


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