和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

革心35/小説「新・人間革命」

2015年06月09日 18時56分54秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月9日(火)より転載】

【革心35】

 南京に到着した翌日の九月十六日は、朝から美しい青空が広がっていた。山本伸一をはじめとする訪中団一行は、午前十時過ぎ、市内にある雨花台烈士陵園へ向かった。雨花台には、こんな言い伝えがある。

 ――六世紀初頭、この丘で法師が経を読誦したところ、天から花が雨のように降ってきたことから、雨花台と呼ばれるようになったというのである。

 燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びた、木々の緑がまばゆかった。雨花台という、美しい名とは反対に、ここは、南京の国民党政府に抗して、新中国の建設に命を懸けた多くの烈士たちが、処刑された地である。

 陵園の責任者は、凄惨な雨花台の歴史を一行に説明した。

 「一九四九年(昭和二十四年)の新中国建国までに、処刑されていった烈士は、十万人以上になります。

 さらに三七年(同十二年)には、日本軍が南京に侵攻し、たくさんの犠牲者を出すという、凄惨な出来事が起こりました。街も焼かれました。中国人民にとって雨花台は、人びとの血で染まった、忘れ得ぬ地なんです。

 しかし、これは、一部の軍国主義者たちのやったことであり、日本人民には関係ありません。また、中国は確かに多大な犠牲を払いましたが、この戦争は、日本人民にも多くの悲劇をもたらしました。

 中日両国の間には、戦争という不幸な時期がありましたが、中日二千年の文化交流の歴史から見ると、それは、短い一瞬の期間にすぎません。両国は、平和友好条約の調印後、さらに信頼を深める努力を重ねていくならば、必ずや世々代々、友好的におつき合いしていけるものと確信しています」

 彼は、淡々とした口調で語った。

 伸一は、心深く思った。

 “こうした歴史から絶対に目を背けず、今こそ、万代の日中の平和と友好の道を開くことだ。それが、この痛ましい犠牲者への追悼である。それが、その殉難に報いる道である”







☆彡------☆★☆★☆*------彡☆o☆:*:.♪☆★☆*------☆彡


最新の画像もっと見る

コメントを投稿